『「旦那」』 佐助が幸村への呼び方を変えた。 わか、と呼んでいたのがだんな、になった。特に幸村に不満はない。呼び方が変わったからと言って、佐助と幸村の関係になんらか の変化が生じるわけではないし、幸村のしのびは気紛れだから、そういうこともあるのだろうと思う。 ただ、どうして突然呼び名を変えたのかが気になった。 「そりゃあ、旦那が一人前になったと思うからですよ」 と、佐助は言う。 幸村はすこし浮かれた。 「まことか!?御館様もそう思ってくださるだろうか!」 「あー・・・っと、たぶん大将もそう思ってますって」 「そうかあ」 笑うと、佐助もちらりと笑みをこぼした。 あれ、と思う。幸村は笑みを引っ込めた。いつもの佐助の人懐こい笑顔と、今のはすこし違うような気がした。 さらさら、と、縁側から見える庭には雪が降っている。佐助が来てはじめての冬である。不思議なことに、去年は佐助が居なかった のだと幸村は理解はしても感触としてわからない。飄々と、どこか冷たい言葉しか吐かぬくせにひどくやわらかく笑うしのびは、ま るで幸村の体の一部のようによく馴染んだ。 佐助、と幸村はしのびの名を呼ぶ。 「なにを変な顔をしておるのだ」 佐助がぱちくりと丸い目を瞬かせ、笑う。 失礼な、と言うその顔はいつもの笑顔と同じである。幸村は首を傾げた。 「ううむ」 「なにさ、どうしたの旦那。あー・・・まーさか、まぁた腹出して寝て下したんじゃないだろうねえ」 「そ、そんなことはしないでござる!」 「ならいいけどさあ」 旦那が悩むなんて雪が降るねえおやもう降っていた。けらけらと佐助が笑う。 冬に雪が降ってなにがおかしいと言い返しながら、幸村はやはり首を傾げる。佐助はふつうだ。いつもと変わらぬ。では先ほど感じ たかすかな違和はなんであろうか。火鉢に手をかざしながら、幸村はじいと佐助のしのび装束を見つめる。 そこでふいに気づいた。 あ、と思わず声が漏れる。 「どうしたの」 佐助がその声に首を傾げた。 幸村は顔を上げ、佐助の顔に視線を合わせる。 それから嘘であろう、と言った。 佐助は黙った。黙って、しかし表情は変えぬままに幸村の目を見ている。まるで逸らしたら負けだとでも言うようにだ。 なにが、と幸村に問う声は平素と変わらず、だからこそ幸村はそれは平素ではないのだと思う。佐助はしのびであり、感情を隠すこ とに長けたこの男は動揺すれば動揺するほどに声は落ち着き表情も変わらず、平気で偽りを誠実さに混じらせ吐くのだ。 そんなことは幸村だって知っている。一体どれだけ佐助にからかわれ、騙されたかなど数えきれぬ。 それでも何故だか、それは嘘だと思った。 理由などない。 幸村はそういう男だ。じぶんの触ったものの感触がすべてで、それ以外は知らぬ。 「さっき言ったことだ」 「だからなにさ」 「其への呼び名を変えたその訳よ」 「・・・やだなあ」 嘘じゃありませんよ、と佐助は笑う。 幸村は今度は笑わなかった。その佐助の笑みはやはりどこかに違和があり、それは指に刺さった棘のようにちくちくと、幸村の胸の あたりを苛立たせる。べつに呼び方を変えられたのが苛立つのではない。それになんらかの意味を持たせ、そしてそれを隠すしのび がひどく幸村にとってはかなしかった。 佐助、と呼ぶとしのびは困ったように笑う。 「・・・旦那にゃ、敵わないなあ」 佐助はそう笑う。 幸村はすこしも納得などしなかったが、その場はそこで物語りは終わってしまったので、そのちいさな違和のことなどそのあとは思 い出すこともなかった。それは正しく棘ではあったけれど、気にしなければあることも解らぬ程度にちいさかったのだ。 幸村にとってはそれは棘だった。 ちいさなちいさな、ただの棘でしかなかった。 佐助は幸村への呼び方を変えた。 幸村は城内で若、と呼ばれている。傳役や家臣や雑兵にいたるまで、みな慕うきもちを隠しもせずに幸村を呼ぶ。若、と呼ぶ。佐助 はそれが耐えられない。そういう呼び名をじぶんが使っていることがひどく危ういような気がした。 試しに、他の相手にもよく使うふうに旦那、と呼んでみたらそれはひどく馴染んだ。 なのでそれで通すことにする。 とてもいい。 そう呼ぶことで、ようやく幸村がなんでもないただの主であると思える。幸村は馬鹿で煩くて暑苦しい、戦になれば人が変わったよ うになる、そういう主だ。それ以上の感情を幸村に対して抱くのは佐助にとってなんの益ももたらさない。 そんなものはいらない。 抱きそうなら抱く前に放り捨てるだけだ。 武田に来てはじめての冬は幸村が幾度も幾度も佐助を呼びつけ、暖められた座敷に止めるので、吐き気がするほど暖かい。 ぱたん、と佐助は襖を閉じた。廊下を渡り、誰も居ないと見定めてからひょいと天井裏へ飛び移る。 暗くて黴と埃のにおいがするこの場所は、寒々しくてとても落ち着く。そこまで来てようやっと佐助は息を吐いた。ほおを触ればか すかにこの季節だというのに汗が出ている。 ほんとうなら幸村に嘘だと言われたときに崩れ落ちたいほど佐助は動揺していた。 (なんで) 手をすりあわせる。寒い。 おのれはなにか、不自然なことをしただろうか。 幸村はいつもなら笑えるほどに騙しやすく、佐助がたわむれに仕掛ける繰り言に律儀にひっかかる。どうでもいいことはかけらも気 づかないくせに、どうしてあの男は肝心なことにはあんなにも聡いのだろう。 いやになるな、と佐助はぽつりとつぶやいた。 もうこれ以上、余計なおもいを抱えたくない。 たとえば明日幸村が死ぬ。 そうしたら佐助は武田を見限り、すぐにでも里に帰る。 そうして次に仕えるべき主をゆっくりと待つ。 そうしなければ、佐助はしのびではない。 「だんな」 だからそれは楔だ。 もうこれ以上は踏み込まぬという、自戒の楔だ。 佐助はつぶやきながら手を擦り合わせる。指先がつめたかった。ぬるまったいあの場所に居ることにすこし慣れただけで、本来佐助 が居るべき場所はこんなにも佐助につめくなっている。 その事実がふるえるほどに恐ろしい。 佐助は屋根裏で、いずれ来てしまうだろうその時を思って、泣きたいようなきもちになった。 太陽のようなあの主は、きっとそう遠くない日に佐助のこともどろどろに溶かして、そうしたらきっともう元の形は無くなる。 だからその他大勢のひとりとして、真田幸村を呼ぶ。 それは猿飛佐助の、最後の砦だった。 |