『愛別離苦』 片倉小十郎が深手を負ったという話を、佐助は無表情のまま聞いた。 主の真田幸村は不満げにその話をする。まさに宿敵伊達政宗との決着が着かんというそのときに、豊臣の軍師に邪魔に入られたとな ればその不満も仕方あるまいが、それは佐助にとってはどうでもいいことであった。 (あの男が) 死んではいないという。 豊臣の軍師が直々に甲斐くんだりまで、伊達の家老を狙って来るはずもない。どう考えても政宗、もしくは幸村を狙っての襲撃であ ろう。そして小十郎が庇うならばそれは政宗以外ありえぬ。 「・・・あとちょっとで其の勝ちであったのだ」 「はいはい」 「それをあの竹中半兵衛と申す男のせいでまた引き分けでござる!返す返すも、なにゆえにあの気配に気づかなかんだか・・・ うううう、不覚でござる!!精進が足らん!!親方様ああああああ!!」 「いや、今の流れ大将関係ねーからね」 幸村のことばを聞き流しながら、佐助はふたたび体中に波立つような寒気を感じた。 主を庇って傷を負ったあの男の満足げな顔が目に浮かぶようだった。嬉しかっただろうという想像がほとんど憎悪すら佐助に抱かせ る。雄叫びをあげて座敷をごろごろと転げ回っている幸村を足蹴にしながら、佐助は静かに、かたくらこじゅうろう、とかの男の名 を呼んだ。 死んではいない。 残念だったな、と佐助は笑い飛ばしたいようなきもちになった。 (迷いがないってのは、死ぬのを急ぐってことかよ) とんだお笑い草だ。 佐助には手に取るように小十郎の考えていることがわかる。あの男の望みは主の目の前で死ぬことだ。そしてそれを隠している。政 宗はきっと知るまい。あの男が死ぬまで知るまい。 それを知るのはきっと佐助だけだ。 「ねえ旦那」 足下の幸村に呼びかける。 「しばらく休みもらってもいーい?護衛は他の奴らにやらせっからさ」 「うん?構わんが」 「さっすが旦那。話がわかるぜ」 にっこりと笑う。幸村は不思議そうに珍しいな、と言う。 どうしたのだと問われて、佐助はあいまいに笑った。 忍隊に幸村の護衛を指示したあと、佐助はひとり奥州へと向かった。 行ってどうする、という声が聞こえる。 が、佐助はそれを無視した。周りは初夏である。じいじいと蝉の叫び声が佐助の耳を貫いていく。奥州への道すがら目に飛び込んで くる風景は青々とした緑が目にいたいほどに鮮やかで、空の青さは濃すぎて吐き気すら催させた。米沢の城に近づくと、佐助はすこ し歩みの速度を下げる。城下町の近く、林のなかに身を潜ませながらさてまずは変装して、と考えていた佐助の目の前を、一頭の馬 が駆け抜けていく。 「あ」 目を見開く。 栗毛の馬が鬣をなびかせて駆けていく。そのうえに跨るのは藍色に肩裾模様のしろい燕が鮮やかな小袖をまとった侍だった。しばし 呆然としてから、佐助は迷わずにその後を追う。 侍は片倉小十郎であった。 傷を負ってからいまだ一月も経っていない。馬に乗っていい体調とは思えぬ。しかし目の前を通り過ぎていった男が探し人であるこ とは疑う由もなく、佐助は頭のなかで米沢の地形を組み立てる。馬で行けるような場所は限られている。まともに追っても追いつけ るわけもなく、ならば先回りをするしか法はない。 (怪我してんだから、仕事ってこともあるまい) ならば遠駆けである。 奥州には平原はすくなく、恐らく小十郎が行くのは比較的緩やかな山であろう。行く先を決めた佐助は其処への近路を走る。奥州の 夏は甲斐のそれよりはやさしかった。時折涼やかな風が吹いて、したたる汗をひんやりと冷めさせる。目的の場所へとたどり着き、 小十郎が来るのを佐助は木の上で待った。 木々から漏れる木漏れ日が佐助のほおを照らす。 (なにしてんだ、俺は) ぼんやりと思った。 奥州くんだりまで来て、けれど特に佐助に目的があったわけではなかった。ただ、以前の邂逅で言われたことばがずっと佐助の中心 部分を波立たせている。永遠の孤独、ということばが、なにを示すのかなど知らない。知らないし知りたくない。けれどどうしよう もなく片倉小十郎という男の存在が佐助を苛立たせ、そうしたら居ても立っても居られなくなった。 いっそ殺してしまおうかとも思う。 そうしたら心の平安は戻ってくるだろうか。 木の上で愚にも付かぬことを延々と考えていたら、急に日差しが閉ざされた。見上げれば太陽が雲で隠されている。佐助は眉を寄せ た。嫌な空模様である。おそらく近く雨が降る。 佐助が舌打ちをするのとおなじくして、蹄の音が近づいてきた。 木の上から下を見る。下は崖に面したそれほど広くはない道が長く延びている。馬はその道をしばらく駆け抜け、途中で止まった。 小十郎は馬から下りると、近くの木にそれを括り付けて腰の刀を抜く。そして稽古を始めた。佐助はそれを上から眺めて呆れる。 馬鹿か、と思わずつぶやいた。まだ怪我も治らぬのに、稽古。こんなところまで来たのは他の者に見られては咎められるからであろ う。愚かしい。 そうする間にも空が黒に染まっていく。 佐助は延々と刀を振るい続ける小十郎を見ながら、目を細めて息を吐いた。 すでに二刻が経過している。 もう帰ろうか、と佐助は思った。帰ったからといってどうすることも出来ぬ。思い切って姿を現してしまおうかとも思うが、それも 躊躇われた。理由がない。来たことにも理由などないが、会う理由は尚更になかった。 ぽつん、と。 滴が佐助のほおを打った。 (雨だ) 滴は一粒では終わらなかった。 次々に大きな粒が大地を濡らし、葉に弾かれる。佐助はそれを無感動に見つめた。初夏だ。雨に濡れてもどうということもあるまい と思った。いっそ火照った肌が冷えるだろうとも思ったが、熱を含んだ水は生ぬるく、ただ不愉快なきもちしか佐助に与えない。 小十郎はまだ其処から動かない。 佐助は呆れるを通り越して、苛立った。 木から下りて、鴉を呼び寄せる。腕に降り立った鴉は雨の中呼ばれてひどく機嫌が悪かったが、構わずその足に捕まって体を浮かび あがらせた。小十郎の前に、すたんと降り立つ。 雨を切っていた刀の動きが止まる。 「傷、開くんじゃない」 佐助が笑うと、小十郎は刀を収めた。武田のしのびか、と低い声が言う。 佐助は黙ったまま小十郎に近づいた。かすかに身構えるのを無視して、その小袖の腹の部分に手を当てる。ちらりと小十郎の顔が歪 んだ。手を開くと、かすかに黒ずんだ色が滲んでいる。当然であろう。 「言わんこっちゃない。どうしてこんな馬鹿をするかな」 「・・・てめェには関係ない」 「ないよ。ないともさ。でもねえ、見ちまった手前放っておくのも寝覚めが悪いんでこっち来てもらうよ」 「こっち?」 「この近くに、薪小屋がある」 雨は酷くなる一方のようだった。 差し出された佐助の手に、小十郎はすこし躊躇ってからひとりで歩ける、と返す。佐助は笑いながら手を引っ込めた。 薪小屋はすぐ傍の竹林にあり、小十郎をそこに押し込んでから佐助は小十郎の馬をその近くまで導く。それから小屋に入ろうとして すこし足を止めた。このなかには小十郎が居て、おそらくはこの朝まで降り続けるであろう雨のためにふたりだけで一夜を過ごすこ とになる。ぞっとした。あの目とそんなに長い時対峙することが可能なのだろうか。 しかし今更帰るのも馬鹿馬鹿しい。 意を決して佐助は戸を引いた。 「どう、ここは」 「小汚ェ小屋だな」 「そりゃあ、伊達家の御家老殿には相応しくねーでしょうがねえ。雨風防げるだけでも感謝していただきたいもんだよ」 「・・・違いない」 笑うと、小十郎もかすかに口元を歪ませる。 余計なお世話だ、と言い、しかしそのあとにかすかに頭を下げる。それなりに感謝はされているらしい。 佐助は小十郎からなるべく離れた場所に腰を下ろす。明かり取りの窓がすぐ傍にあって、激しく振り付けてくる雨の飛沫が時折顔に 降りかかってきた。小十郎は濡れてしまった小袖を脱いで、晒しを取り替えている。佐助も忍装束を脱いで、帷子だけの姿になった。 しゅるしゅると晒しが巻かれているのを見ながら、佐助はぽつりと問う。 「あんたさ」 「あァ?」 「なんであんなことしてたの」 「体が鈍る」 「それで傷開いてりや世話ねぇや。ばかばかしいと思わない」 「俺の傷がどうなろうと、おまえさんには関係あるまい」 「・・・そりゃあそうだ」 へらりと笑うと小十郎が嫌そうな顔をする。 「あらなんか嫌そうな顔」 「その腑抜け面をするな。ぞっとしねェ」 「ひでーな。地顔ですよ」 「嘘だな」 小十郎のことばに、佐助はすうと体温が下がるのを感じた。 かつて幸村に全くおなじことを言われた。笑って、そうしたら嘘だと言われた。おのれではなにが不自然なのか解らぬ。けれどなに かが間違っているのだ。だから見抜かれる。なにが嘘だって、と問う声にも動揺の色などどこにもないというのに。 嘘だろう、と小十郎がまた言う。佐助はまた聞いた。だから、なにが。 「おまえ、此処になにしに来た」 「・・・は」 「偶然たァ、言わせねェぞ。そんな御託は余所で言え」 「どういう意味」 「俺に会いに来たのか」 佐助はすこし黙った。 黙ってから、自意識過剰じゃないの、と吐き捨てる。 「なんで、俺様が、わざわざ、あんたに」 「知るか」 「何処にも理由なんざありゃあしないじゃないか。なんでそう思うのさ」 「別に、理由なんざねェ」 「じゃあ」 「ただ」 小十郎が晒しを巻き終える。 そして佐助を見た。その黒い眼に見据えられて、佐助は逸らしたくなる衝動に必死に耐える。小十郎は言った。 ただおまえはおれとおなじだろう。 そう言われて、佐助は笑った。 「なにそれ」 「さぁな。俺も解らん」 ただ、そうおもった。 佐助は息をするのを思わず忘れそうになる。小十郎は更に言った。きしょくわりぃな。 「出来りゃあ消えて欲しいくれェだ」 「・・・そりゃあ」 熱烈だね、と言う声がかすれる。 小十郎はかすかに笑った。その笑みが余裕をたたえていて佐助を苛つかせる。思わず口から音が出た。 「ーーーーーーーー俺が言いてェよ」 小十郎が目をすこし見開く。 佐助は髪をぐしゃぐしゃと掻きむしりながらことばを続けた。 「あんた気持ち悪い」 「ほう」 「他から見りゃあ、忠義の士ってことになるんだろうけどな。俺にはそうは見えないね。 あんたはあの伊達政宗のことを必死で守ってるふりをして、全部献げたふりをして、その実あの男の全部を自分のもんにしようと してるだけじゃねぇか。迷いがないって言うのは死ぬ迷いのことなわけ。笑うしかないね。 俺はあんたとは違うよ。一緒になんかしないで。まっぴらごめんだ」 俺は旦那のことをそんなふうに見ちゃいない。 佐助がそう言うと小十郎は目を細めて、ふうんと鼻を鳴らした。興味がなさそうに視線を逸らし、指を伸ばしたり縮めたりしている。 佐助は尚更苛立ちながら、あんたになにがわかるのさ、と吐き捨てる。小十郎は視線を上げ、なにもしらねぇよ、と言う。 「真田幸村のこともてめェのことも俺は知りゃあしねェ」 必要ないからな、と続ける。 「俺には政宗様以外のことは、必要ない」 「随分だねえ」 「おまえも」 「は」 「そうだろう」 あの男以外どうでもいいだろう、と言われて佐助は目を細める。 細めた目をそのまま閉じる。そして言った。あんたと違って俺はあのひとに全てを献げているわけじゃあない。小十郎はなにも言わ ずに佐助を見ている。なのに夜色の目が、佐助を責め立てるように貫いてくる。 堪らなくなって佐助は更にことばを続けた。 むしろきらいなくらいだ。 「嫌になる。だってさ、あんた言われてごらんよ。真顔で大事だとか、付いてこいとか、信じるとかさあ。 別に疑えってんじゃねぇよ。俺はしのびで、あのひとは主で、だったら信じてもらわなけりゃ一歩も進まないし、元々裏切るつも りなんてないしさ。でも馬鹿じゃないかと思うね。俺は、しのびだ。仕えるのは仕事。それ以上もそれ以下もありゃあしない」 なのに。 なのに幸村は、当然のように「佐助」を信じる。 きらきらとひかる主の顔を思い出して佐助はおのれの体を抱いた。寒気がする。 「嫌なんだよ」 ほんとうは泣くたくなるほどに、幸村の信頼が尊い。 幸村は疑わぬ。疑いもせず、佐助がそこに在ることに対してひとつの疑問も感じず、あの主は戦場を駆ける。振り返ることもしない で、走って走って走って、そして平気な顔をして佐助の名前を呼ぶ。そこに佐助が居ることを信じ切った声で、佐助の名前を幸村は 口にする。 どうしたらいい、と佐助は呻く。 「俺が死んでたらどーすんのさ、って思うよ。 振り返って、俺の名前を呼んで、でも俺はどっかでおっ死んでてさ。 そしたらあのひとどうすんだろうね。 泣くかな。叫ぶかな。でも存外あのひとも冷酷なひとだから、俺のことくらい駒のひとつとして処理するかもしれないな。とか。 ・・・・・でもねえ、もし、さ」 幸村が、佐助の死を嘆いたら。 「俺はどう思うのかな」 なにをその事実は産むのだろう。 喜びだろうか悲しみだろうかそれとも他の全く違う感情だろうか。どちらにせよ、佐助はそれを感ずることはない。そのときには既 に佐助の心の臓は止まっていて、幸村が泣いても笑っても何も感じていなくても、それを知りうる術もなくただその場で朽ちていく ことしか出来ぬ。それでも、と佐助は思った。 それでも佐助は確信する。 幸村は、佐助の死を悼むだろう。 泣くだろう。 時に触れ思い出すだろう。 真田幸村はそして、猿飛佐助を決して忘れぬだろう。 それはぞっとするほど、甘美な未来だった。 外の雨は一向に降り止まず、しかしそれでも時は確実に過ぎていき、気づけば小屋のなかは真っ暗闇だった。互いの顔も覚束ない。 夜目の利く佐助はかろうじて其処に小十郎が居ることだけは判別できた。小十郎はぴくりとも動かずに、ただ佐助の居る方へと顔を 向けている。 佐助が黙ると、音が小屋の屋根を叩く水音だけになった。 ざああああ。 雨の音が佐助と小十郎を包み込む。 佐助はへらりと笑った。 「ごめん」 小十郎は何も言わない。 佐助は笑いながらまた言った。ごめん。 「すごい、つまんねーこと、言ったわ」 笑って、そうしながら佐助は泣きたいようなきもちになる。 どうしておのれは小十郎に向かってこんなことを吐露しているのだろう。救いかなにかを、あのいっしゅんの邂逅で得られるような 気にでもなったのだろうか。だとしたら滑稽だ。とてもとても滑稽だ。小十郎は佐助を救わない。佐助にも何が救いかなどかけらも 解っていない。おなじいろの目をしていても、否、だからこそ、片倉小十郎は猿飛佐助の救いにはなりえない。 佐助にはかなしいくらいに解った。 目の前のこの男も、すこしだって救われてなどいない。 時折雷の音が遠い場所で響いた。音が鳴るだけで、ひかりは降ってこない。雨音と腹の底に響いてくるような雷の音を、佐助はひど く有り難く思った。小十郎は黙ったままで、そういう沈黙は苦痛だった。音が鳴るので、まだなにか許されるような気になる。 ふいに小十郎が何かを口にした。 佐助は顔を上げ、え、と呟く。 相変わらず闇の中に居る小十郎の顔はおぼろにしか見えぬけれど、佐助の声に小十郎はまた唇を開いた。 雷の音がごろごろと鳴る。煩い。佐助は耳を澄ませた。小十郎がゆっくりとことばを紡ぐ。 「いいから」 その声は、とてもちいさい。 それでも初めて会ったあのときのように、不思議なくらい真っ直ぐに佐助の鼓膜を震わせた。 「いいから、続けろ」 雨音が強くなる。 それでも佐助は、はっきりとそれを聞いた。 小十郎はそれ以上なにも言わない。ただ、不動の姿勢で佐助に向かっている。佐助は口を開いた。喉がからからに渇いて、出そうと 思った声が思うように出ない。こくんと唾液を飲み込んで、それからすこし笑った。そうすると小十郎がまた静かに、そういう顔を するのは止めろ、と言う。見えてない筈だった。おそらくは見えていないけれど、小十郎は空気で佐助がかすかに笑い声をたてたの が解って、それでそれを止めろと言う。 「所詮、同じ穴の狢だ」 今度はくつり、と小十郎が笑った。 なんの意味もありゃあしねェが、それでも壁に話すよりは救われるぜ、と言われて佐助はどうしていいか解らなくなる。おのれのき もちの吐露など、意味がない。さっきそう思ったばかりだ。それでも、ぽつりぽつりと、まるで零れていくように佐助の口からはこ とばが発せられる。小十郎はやはり何も言わず、それをただ聞いている。 いろんなことがぽろぽろと零れた。 幸村のことも、里のことも、すべてが断片で、だから小十郎はなにを言っているのか解らなかったやもしれぬ。それでも小十郎は口 を挟むようなことはいちどもしなかった。佐助も、もはや小十郎に話しているというきもちは途中から捨てて、まるでなにかの確認 をするようにことばを紡いだ。 紡ぐたび、発するたび、体のなかの澱んだなにかが固まって明確な形を作っていくような感触がした。 気づくと小屋のなかの闇が薄れて、明かり取りの窓から細く朝日が差し込んできている。 佐助は話すのをやめて、顔をあげた。小十郎はやはり佐助を見ていた。明るくなってはっきりと見えるようになった小十郎の目は、 先ほどまでの闇とおなじ色をしている。 それは佐助とおなじいろで、それでもちがういろだった。 (ああ) 佐助は思う。 目の前のこの男はもうずいぶん前にいろいろなことを知って、認めて、そして諦めたのだ。佐助は胸に手を当てた。とくんとくんと 其処が揺れる音がする。すこし視線をあげると小十郎と目があった。ぞわりと全身に寒気がはしるのに、佐助の鼓動はすこしだって 乱れることはない。しのびの体はそういうふうに造られる。ああ。佐助は思わず呟いた。 なんて不格好なんだろうか、おのれの体は。 感情の動きを一切表出することのない肉体は、まるで出来損ないのがらくたのようだとさえ感じられた。幸村ならば違うだろう。そ の感情のままに彼の鼓動は高鳴り、乱れ、速くなり、うつくしい旋律を刻むのだ。佐助の鼓動が旋律を刻むことはない。ただ一定の 間隔で壊れるまでそれを打ち続ける。 幸村を見ていると、おのれが如何に不自然で不完全で不格好かがよく見える。 それは気が狂うほどに恐ろしくおぞましく、そして孤独だ。佐助はしのびだ。しのび以外にはなれぬ。なるつもりもない。しのびで あることで佐助は幸村の傍に在ることが許され、幸村の物であることが許され、幸村の為にいつか死ぬことも約束されている。それ を厭うつもりなど毛頭ない。けれどしのびでありながら幸村の傍らにいるのは、あんまり辛かった。 一緒にいると、それだけひとりだと思い知らされる。 あの男への感情だけひとり抱いて、何処かの荒れ地に放り出されたような感触がする。佐助はそれがいやだった。しのびはある意味 で、里という絶対的な括りのなかで生きる集団的な生き物である。なのに幸村はそういう括りを全部取っ払って、ただの「猿飛佐助」 という男を見ようとのぞき込んでくる。それに慣れて、佐助は時折しのびであることを忘れかけてしまう。「佐助」が幸村をどうし ようもなく醜い感情で見る。あの男がおのれの死で泣けばいいと思う。あの男の感情のどこかに、おのれが凝りを残せたらどんなに しあわせだろうと「佐助」が言う。 それを隠して、しのびとして幸村と対峙するのはひどい痛みだった。 「どうしたらいいんだよ」 佐助は呟いた。 「あのひとがいやで仕様がない。 見る度どんだけ俺がうすぎたねーかよく解る。あのひとのせいでどんどん馬鹿みたいなことを考える。薄汚くて阿呆らしくてどう しようもねーことばっかりだよ。 でもいやなんだ。 離れられないんだ。 だってあのひとは俺の名前を何度も呼んで、しのびなんざいらねーような場所でも俺を呼んで、それが」 嬉しいのだ。たぶん。 泣きたいほど、佐助は幸村がすきなのだ。 それは慕情だとか恋情だとか劣情だとか、そういう明確な名前をもつ感情ではない。ただ、真田幸村がすきなのだ。猿飛佐助を真っ 直ぐに見据えるあの男がどうしようもないほどにいとおしいのだ。知られたくない、と佐助は言った。幸村に、こんな醜い感情を抱 いている事実を知られたくない。 小十郎は佐助が堰を切ったようにことばを漏らすのを黙って聞いている。 佐助がかすれた声で、知られたくない、と言うのを聞いたあと、ゆっくりと小十郎は口を開いた。 「一生、隠すしか仕様がねェ」 そうして墓の下までそれを持っていけ。 小十郎のことばに佐助は息を飲んだ。小十郎は相変わらず、すこしも動かずに佐助を見ている。ぴちゃん、と小屋の外から水音がす る。止んでしまった雨が堪ったのが、落ちたのだろうと佐助は遠く思った。 小十郎はもう何も言わない。 佐助も何も言わなかった。 太陽がはっきりと小屋の中を照らし出して、夜が小十郎の目の色にだけ残されている。佐助はそれを見据えながら、戻りましょうか と言った。小十郎は頷く。佐助はすこし笑った。 小十郎の目を見ても、もう心はざわめかない。 (俺とこのひとは、おんなじくらい薄汚い) 認めてしまえば、怖くはなかった。 代わりにひどいかなしみが佐助の体を巡った。 永遠の孤独とはこれをいうのだと知った。 |