『泣く程の事じゃない、苦しむ程の事でもない』 ねこが居なくなった。 それはある日、縁の下で震えていた小汚い猫だった。ぼろぼろで痩せこけて、放っておけばすぐにでも死んでしまうような 猫だった。真田幸村はそれを拾って育てようと思った。が、幸村のしのびはそれに嫌そうな顔をして、 「だってあんたすぐ俺に世話任せんだろ」 と言う。 幸村は決してそのようなことはせぬと約束した。 しのびは、猿飛佐助はしぶしぶそれを承諾した。幸村は世話を忘れたり間違えたりするので、佐助が結局その猫の世話をす ることになったのは、仕方のないことだ。おのれは約束を違えてはいないと幸村は思っている。猫の名前はねこだった。名 前をつけないで、ねこ、ねこ、と呼んでいるうちにそれ以外の名で呼ぶのに違和が出てきてしまってそのままとなっている。 真田の館で暮らすうちに、すっかりたぷたぷと太ったそれはいつも縁側で寝ころんでいた。 それが居なくなった。 幸村は必死でそれを探す。 家臣にも、小姓にも、護衛のしのびにも女房にも聞いた。が、誰も知らぬ。館中を探し、城下にも行ってみたがどこにもね こは居なかった。食事のときにも出てこない。一体何処に行ったのかと首を傾げていたら、暇をもらっていた佐助がその日 の夜に帰城したので幸村は問うてみた。 「佐助、ねこがおらん」 しのびは首を傾げる。 「探したの」 「探した。だが何処にもおらん」 「ふうん。あの食い意地の張った野郎が、この時間にも出てこないなんて珍しいこともあるもんだねえ」 佐助はすこし愉快げに笑う。 幸村は不愉快げに顔を歪める。佐助はすこしも心配してないように見えた。気紛れなねこは、世話をする佐助にもすこしも 懐かなかったので、その度に文句は言っていたけれどそれでも短くはない時期共にいたのだ。もうすこし心痛めてもよいだ ろうと幸村は思う。そう言ってやると、佐助はけらけらと笑う。 「いつか猫鍋にでもして食ってやろーと思ってたのに」 「佐助!」 「じょーだんだって。やれやれ、睨まないでよ真田の旦那」 「笑えぬ冗談は申すでない」 「はいはい、こりゃ失敬」 笑いながら佐助は幸村の頭を撫でる。 撫でながら、そのうち帰ってくるって、とやさしく言ったので幸村も頷いた。 三月経った。 ねこはまだ帰ってこない。 縁側にねこが居ないのももう日常になった。幸村は時折そこを見て、ねこが居ないことを確認しては息を吐くけれど、それ でも、ねこが居なくても日常は驚くほどそのまま進んでいく。武田信玄と手合わせをすれば心震え、戦に出れば胸が躍る。 民の惨状を知れば憤るし、何も出来ぬおのれを恥もする。幸村はほどんどねこのことを忘れた。思い出さずとも、幸村の日 々はなんら変わることなくくるくると回転していく。 ある日、膳に鯖が乗った。 「おお、そんな時期か」 「うん。旦那すきでしょう」 「うむ!」 好物に顔がほころぶ。 佐助はそんな幸村を笑いながら、膳を幸村の前に置いた。 幸村は鯖の身に箸を入れながら、ふとそういえばねこも鯖がすきであったなあと呟いた。目の前の佐助の体がぴくりと強ば る。幸村はそれを、鯖に夢中で見ていなかった。佐助は、そういう幸村を痛いものを見るようにじいと見据える。 ねえ旦那、としのびが静かに言う。 「ねこさ」 「うむ」 「俺様、こないだ見つけちゃったよ」 「なんと!」 かちゃん、と箸を置く。 「何処でだ!?なにゆえ、連れて帰らなかったのだ」 睨み付けると、佐助は困ったように笑う。 それからその顔をいやらしい笑みに歪め、それがさ、と続ける。それがさあ旦那、あいつってば思いの外隅に置けないんだ。 「奥さんと、子供居たよ」 「・・・は?」 「だーから、城下で見つけたんだけど、あいつガキ作ってやがんのよ」 「な、なんと・・・」 「それで出てったんだねえ」 「は、破廉恥でござるよっ」 「ばーか、相手は獣だっつーの。破廉恥になるのがお・し・ご・と」 けらけら笑う佐助に、幸村は顔を赤らめる。 あの痩せこけた猫が、つがいを見つけて子を作っている。想像もつかなかったけれど、それは不幸な光景であるはずもなく、 だから幸村はどもりながらもよかったな、と言った。佐助もうっすらと笑みながら、ねえ、と頷く。 つがいになったから、新しい落ち着き場を求めて出て行ったのだろうか。幸村は眉を下げた。ならば夫婦ともどもこの館に 居ればよかったのだと言うと、佐助が照れくさかったんじゃないの、と笑う。 「ガキ孕ませてさー、旦那に破廉恥である!って言われると思ったから逃げたんじゃねーの」 「其のせいか・・・?」 「ばか、冗談ですよ」 佐助のことばは冷たい。 けれど幸村は、それを発する男が誰よりやさしい顔をしていることを知っている。佐助はやさしい。時折に、幸村がもどか しくて泣きたくなるほどに、佐助はやさしい男だ。護衛をするとか、身の回りの世話をするとか、そういうことではなくて もっと奥底のほうで佐助は幸村を思っている。 佐助は常に、どこか一歩引いて幸村と接している。 それはこのしのびの最大のやさしさなのだと、幸村はどこかで知っていた。 箸を取らないまま、幸村は佐助の名を呼ぶ。 なんですか旦那、と低い声がやさしく応える。 「そなたは」 「うん」 「そなたは、何処ぞでややを孕ませてしまっても、此処に居るのだぞ」 「ぶ」 佐助は飲んでいた茶を吹いた。 幸村の顔に飛沫がかかる。それはすでに温かったが、佐助はあわてて手拭いを持って主の傍に駆け寄った。幸村は表情ひと つ変えず、おのれの顔を拭う佐助をじいと見ながら、ことばを繋げた。 「そなたの妻も、子も、其が養ってやろう。 だからそなたは此処に居るのだ。何処かに行くことは許さぬ」 「ごめん、なんの話か俺よく解ってないんだけど」 「破廉恥とは、言わぬように努力しよう!」 「・・・もしかして、俺がどっかでガキ作ってねこみたいに消えるとかそういうはなし?」 「うむ」 「俺は猫じゃねーですよ」 「知っておる」 困り切った佐助の顔を、幸村は楽しげに見る。 佐助に子供が出来たら、それは真田が引き取ってもいい。しのびになるやもしれぬけれど、そうでないなら真田の家臣とし てよい働きをする者となるだろう。佐助の妻ならやさしい女に違いない。傍に寄るのは苦労するであろうが、幸村のしのび が愛した女ならばきっと平気だ。 それは思い描くだけで、しあわせな夢だった。 だから、と幸村は言う。だからそなたはねこのように何処かへ行ってはいけない。そう言うと佐助は目を閉じ頭を振って、 俺の前にまずあんたの嫁さん探しなさいよと呆れて息を吐いた。それからくしゃりと笑みに顔を歪ませて、それはめいれい かな、と問うた。幸村は首を傾げる。 しのびにとって主の命は絶対で、 佐助は誰より優秀なしのびで、 幸村は佐助の主である。 幸村は口を開く。 「違う」 「へえ」 「頼むのだ」 「頼む?」 「真田幸村が、猿飛佐助に、此処に居れと、頼むのだ」 元々丸い佐助の目が、更にまんまるに開かれる。 幸村は笑った。縁日の面ようだぞと言うと佐助はむくれる。むくれたしのびは更に滑稽な顔になっていた。居てやんねーぞ と佐助が言うので、幸村はその腕を掴む。しのびの腕は見た印象よりひとまわり太かった。 鬼のような赤い目が、幸村のきらきらひかる黒い目に見据えられて細められる。 佐助の腕を握りしめ、幸村は真っ直ぐに言う。そなたはここにおるな。佐助は何も言わずに、主の目を見ている。それから にこりと笑って、さあねえ、と言う。 「俺様ってば慎み深いからさあ、そんなふうになったら照れくさくて出てこれないよ」 「なにを申すか。そなたが慎み深いなどはじめて知ったわ」 「ひでーな。俺はいつだって慎み深いですよ」 大和撫子ですよと言う佐助に、幸村は不満げに唇を尖らせる。 幸村の問いに応えぬ佐助が不満だった。不安だったと言い換えてもいい。こうやって誤魔化す術を佐助は心得ていて、幸村 はそれに対してどうやっても太刀打ちできぬ。煙に巻かれたら迷う他ない。不満げな主に、しのびは困ったように頭を掻き つつまたことばを零す。でもね。幸村は顔をあげた。でもねだんな。 「俺は、此処に、居るでしょう」 「・・・うむ」 「そうだな・・・恥ずかしいからさ、すぐには出てこれねーかもしんないけどさ。 何処に行っても、なにがあっても、俺は絶対に此処に戻ってくるよ。それでいいでしょ」 「・・・ぜったいか」 「ぜーったい」 へらりと佐助は笑う。 そしてうっとりと、歌うようにことばを紡ぐ。 「たとえばさあ、俺が消えたとするじゃない。 まあそれはたぶんそれこそねこみたいに俺がどっかでガキなんか作っちゃったりしたんだと思うんだけどね。 俺様ってば優秀だから。いろいろね。なにって聞かないでよ。 うん。だからさ、それは全然泣くようなことでもないし、旦那が苦しく思うことでもないんだよ。 でさ、ガキが出来たらさそしたら、そいつを立派な・・・うーん、俺よりすげーってことはないだろうけど、まーそれな りに立派なしのびにしてさ、旦那のところに送り込んでやるよ。 そんでさ、旦那の前に行って、『どうよ俺の自慢の息子』って自慢しに行ってあげる。だからね」 探しちゃだめだよ、と言う。 絶対に戻ってくるから、どこかにおのれが消えたとしても決して探すなと佐助は言う。何故だと問うと、恥ずかしいじゃな いかとしのびは笑う。俺はね、大和撫子なんだよとまたおどける。そして更に言う。そう、だから、それまであんたは生き てなきゃいけない。 「いざ帰らんとしたら、肝心のあんたが死んでたなんてのは御免だぜ」 「もっと早く帰ってくればよいではないか」 「やだよ。照れるから」 「其は何も言わん」 「俺がやーなの」 けらけら笑いながら、佐助は幸村の頭を撫でる。 絶対に帰ってくるよ、と言う佐助の手はあたたかかった。 「猿飛佐助は、真田幸村のもとに必ず帰ってくる」 約束する、と言う。 まことだな、と幸村は念を押した。もし偽りであれば、永劫に許さぬぞ、と言う。佐助はやはり笑いながら、恐いなあと言 いながら、強くひとつ頷いた。 ちかうよ。 俺の帰る場所は旦那の居るところだ、と言う佐助の顔は泣きそうな笑顔だった。 |