夏だ!夫婦だ!ばかっぷるだ!


     


 
 















                         い つ も と い っ し ょ



 
 
 
 
 
 







長期の任務があって、随分長い間猿飛佐助は上田城へ戻ることができなかった。
もちろん奥州などには行けるはずもなく、気付けば一年近く片倉小十郎にも自分のこどもらにも会って
いない。寂しいと思うほどの余裕もなかったので、佐助は普段は彼等のことなど思い出しもしなかった
けれども、ようよう任務が終わって人心地着いたところで、途端に自分でも驚くほど会いたくなってし
まってぎょっとした。
上田城でおろおろしていたら、感付いたのか何も考えていないのか、主の真田幸村が奥州へ書状を届け
るように言いつけてきたので、言い訳を手に入れた佐助はこれ幸いにと奥州へと出立した。
前に見た奥州はまだ冬の入り口だった。
今はすでに夏である。
奥州に着くと頃合いよく日が暮れていて、忍び込むにはちょうどよい時間帯である。こどもらに会うの
は明日でもいい。長期任務明けということもあって、幸村はしばらくの休暇をくれていたし、久々にゆ
っくりできる。佐助は片倉の武家屋敷を屋根の上から見下ろしてにんまりと笑みを浮かべた。夏だ。小
十郎は佐助の顔を見たらいかにも嫌な顔をして突き放してくるだろう。
でもそのうち諦めたふりをしてちゃんと抱き寄せてくれるにちがいない。

「会いたいねえ」

なにしろ一年ぶりなのだ。
したいことも話したいことも山のようにある。
なんにせよ話すのは後だ。佐助は屋根から飛び降りて、天井裏に忍び込みながらそう考えた。夜なのだ。
することはひとつしかない。話すのはこどもらを交えて昼にいくらでもすればいいのだ。
佐助は浮き立つ気分を抑えながら、天板をかたりと外し、

「―――あれ、」

目を瞬かせた。
小十郎の寝所には誰も居なかった。
妻の寝所かと思って見てみるがそこにも居ない。こどもらの寝所を見てみるとまだ三人とも起きていた
が矢張りそこにも小十郎は居なかった。城だろうかと首を傾げつつ、佐助はとりあえずこどもたちの寝
所に降り立つことにした。

「父上」

最初に幸が立ち上がって近寄ってくる。
佐助はへらりと笑って、近寄ってきた長女の赤毛を撫でてやった。また大きくなったんじゃないの、と
言うと、ほとんど普段動かないほおの筋がすこし和らいだような気がした。

「それ似合うね。寝間着。凄くかわいい」

桃色の寝間着の裾を軽く持ち上げると、幸のほおがすこし赤らんだ。
笑みを垂れ流しながらそれを見下ろしていると、背中を思い切り蹴りつけられた。もちろんそんなに大
した衝撃はない。振り返ってみると弁天丸が睨み付けてきている。佐助はにっこりと笑って、そちらの
赤毛も撫でてやった。

「あれ、おまえはあんまり大きくなってないね」
「うるせェッ、触ンな、不審者ッ」
「怒ンな、怒ンな。おまえも小十郎さんの血を継いでンならいつかどうにかなるよ―――あれ、」

佐助は殴りかかってくる弁天丸をいなしながら、辺りを見回した。
いつもなら真っ先に飛びついてくる末っ子が居ない。寝所を見渡してみると見覚えのあるつんつんと尖
った黒髪の頭が、箪笥の隣にちょこんと隠れるようにして座り込んでいた。もちろんこちらの騒ぎは聞
こえているはずなのに、膝を抱え込んでぴくりとも動かない。

「十助?」

声をかけてみると、頭がすこしひくりと動いた。
けれども一向に返事がない。佐助は左右の赤毛の双子の顔を交互に見やった。弁天丸は目を細めている。
幸は何も言わずに佐助の忍装束の裾を引っ張っている。佐助は言いなりにしゃがみ込んだ。幸は腰を屈
めている佐助の耳元に口を寄せた。
十助は頑張ってる、と幸は言う。

「いつも一緒じゃ新鮮味がなくなるから」
「新鮮味?」
「そう」

それは大事。
幸は深く頷いている。
佐助は改めて十助へ視線を向けた。ちいさな体を益々ちいさく丸めている末っ子は、よく見てみると今
すぐにでも飛び上がりそうに体をうずうずとさせているのが解った。なんでまた、と佐助は今度は幸の
耳元で問うてみた。
すると聞いていたらしい弁天丸が舌打ちをした。

「政宗様だよ」
「龍の旦那」
「京に用事があってついこの間まで行ってたンだけど、あの野郎嘘吐いて母上のこと呼び出しやがって」

ほぼ一月、宮廷の所用で政宗は城を空けていたのだという。
その間、代理として小十郎が城を預かることになった。政宗の所用は滞りなく終わり、その間米沢も特
に何事も問題はなかったのだけれども、つい先日京からの帰り道にあるはずの政宗から書状が届き、小
十郎はそれを読んだ途端取る物も取り敢えずひとり馬に飛び乗って城を出てしまった。
何かと思えば、帰り途中の宿で政宗が病で倒れたのだという。
それは大変だとみなで心配していたら、小十郎が城を発ってから二日ほどして書状が届いた。

「嘘だったんだぜ」
「はあ」
「嘘。あの野郎、嘘吐いて母上のこと呼び出しやがったんだよ」
「うわあ、龍の旦那ひでぇ―――で、それのどこが新鮮味?」
「俺が居なくて退屈してんじゃねェのかってのが、理由らしいぜ」

あの馬鹿殿。
弁天丸は忌々しげに吐き捨てた。幸は何も言わない。母親に似て主を愛する賢い娘は言葉を発するべき時
とそうでない時との区分をしっかりと弁えている。

「でも小十郎さん怒っただろ、そりゃ」
「怒るだろうけど、でも母上、政宗様に困らされるの嫌いじゃないから」

ほんとうはちょっと、嬉しいんだと思う。
幸が言う。弁天丸が舌打ちをする。佐助は呆れた。

「それで十助はその真似っこですか」
「そう」
「やれやれ」

佐助はひょいと首を竦めた。
変な男だと思う。がちがちに堅苦しい男かと思えば、そういえばあの奇天烈な主を盲信しているのだから
矢張り小十郎も多かれ少なかれ奇天烈なのだ。困らされるのがすきとか、それはちょっと変態だよなと佐
助は目を細めた。でもそうでなくては政宗と十年以上付き合うことなど到底できないだろう。
そういうのがすきなのか、あのおひとは。
佐助はちらりと目を細めた。

「で、まだ小十郎さんは馬鹿殿と?」
「ついでに一緒に温泉だってよ。明日には帰ってくんだろうけど―――ほんとうにむかつくよな」
「ふうん」
「父上、明日までは居られるの」

幸が見上げてくるのに頷いてやって、佐助はほうと息を吐いた。
背中を伸ばし、十助の隣に寄って腰を下ろす。黒くて短い髪をぽんぽんと撫でると、十助の顔がはっと上
がった。佐助はへらりと笑いかけ、十助の脇に手を差し込んでひょいと持ち上げ、膝に乗せた。
自分とおんなじ赤い目を覗きこみ、首を傾げる。

「久しぶり、十助。会えて嬉しいよ」

十助の目がくるりと丸くなる。
佐助は眉を態とらしく下げた。

「十助は俺様に会えて嬉しくないの?」
「―――、」

言った途端、十助の体がふるっと震えて、次の瞬間には首にちいさな腕が巻き付いてきた。夏には少々過
剰なこどものぬるまったさがぴったりと張り付いてくる。
佐助は笑いながら十助を抱き上げた。

「ちちうえ、ちちうえ」

十助は泣きながら抱きついてくる。
佐助はごめんね、と言いながら頭を撫でてやる。

「最近お仕事忙しくてさ、怒ってる?」
「とすけ、おこってないよ」
「うん」
「でもさみしかったよ」
「うん、ごめんね」
「―――ちちうえ、あきちゃったのかとおもって」

首から離れた十助が、目元を赤くしながらそう言う。
佐助は首を傾げた。十助はひくひくとしゃくり上げながら、ちいさな手できゅっと佐助の胸元を握り締め、
とすけいつもといっしょだから、と言葉を続ける。
ちちうえいやになっちゃったかとおもって。

「だからね、とすけもまさむねさまみたいに、さぷらいずすればね、ちちうえあきないかなって」

佐助は顔を歪めた。
あの馬鹿殿のおかげで息子がおかしな心配をしている。

「おばかさんだねえ」

佐助は殊更に大きな声を出して、十助を抱きかかえたまま座り込んだ。

「俺が十助に飽きるわけないっしょ」
「―――ほんと?」
「ほんとほんと」
「いつもといっしょのとすけでも?」
「いつもといっしょの十助が一番いいに決まってるじゃない」

へらりと笑いかけると、おんなじように十助もへらりと笑った。
しばらくは一緒に居られるよと続けて言ってやると、十助は満面に笑みを浮かべてきゃっきゃっと騒ぎ回
った。幸も嬉しそうに珍しい笑顔を浮かべている。弁天丸は仏頂面をしているけれども、それでも存外自
分がこの長男に嫌われていないことを佐助はよく知っていた。
十助が布団を敷きながら、佐助の袴を引く。

「じゃあね、じゃあね、ちちうえ、きょうはとすけたちといっしょにねんねしてくれる?」
「ん、いいよ。どうせ小十郎さん居ないしね」
「他の座敷行けよな」
「なんだよ丸ったら。俺様にそんなに添い寝してほしいわけ?」
「死ねっ」
「だめなの、ちちうえのとなりはとすけなのっ」
「誰がこいつの隣になんか寝るかッ」
「じゃあ、私がもう片方の隣に寝る」
「おい、そうしたら俺の場所はどうなんだよ」
「ええ、とすけそんなのしらないよ?」
「父上と一緒に寝たくないなら他の座敷に行ったらどうだ?」
「まあまあ、ふたりとも。そんなこと言ったら丸がかわいそうじゃないの。いいんだよ、丸。なんなら俺
 様がだっこして寝てあげようか?」
「―――ッ、帰れッ」

弁天丸が真っ赤な顔で怒鳴ったので、残りの三人はけらけらと笑い合った。
佐助はけれども、笑いながら、すこし小十郎のことを考えてしまって、そうしたら途端にあまりたのしく
なくなってしまってこっそりと慌てた。







































小十郎が奥州に着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
強い日差しに汗が滴る。畑は大丈夫だろうかと小十郎は目を細め眉を寄せた。何も言いつけずに出てきて
しまった。出来た家人たちであるので平気だとは思うけれども、矢張りすこし不安になる。
すこし前で馬を走らせている政宗がけらけらと笑った。

「Hey,小十郎。おまえ今、畑のこと考えてなかったか?」

振り返ってそう言われ、小十郎はすこし目を丸めた。

「よくお解りになりましたね」
「解らいでか。つうか、おまえが今までそれ言い出さなかったのが不思議なくらいだ」
「何処ぞの誰か様の御陰で、とんとそんな余裕がありませんでしたので」

皮肉げに言ってやるけれども、政宗は意に介したふうもなく上機嫌で馬の腹を蹴っている。
数日前、病になったという書状を受け取って小十郎が宿に駆けつけると、政宗はけろりといつもの顔をし
て座敷で酒を飲んでいるところだった。小十郎は怒りよりも前に安堵して、呆れるより先に笑ってしまっ
た。政宗はにんまりと悪童のように笑って、驚いただろ、と悪戯めいた仕草で小十郎の小袖の裾を引いた
のだ。

「俺が居なくて退屈したんじゃねェかと思ってよ」

そう言って笑う主に、一応は説教もしてやったが、小十郎は矢張り最後には一緒に笑ってしまった。
一日その宿に滞在して、それから奥州へと向かう帰路に改めて就いた。政宗は始終上機嫌であったし、す
っかり騙された小十郎も、ここまでいくと逆に愉快で悪い心地はしなかった。なにより一月振りに政宗に
会えたのは、小十郎にとって何よりも愉快の源だった。

「できればごく普通に再会したかったものです」
「Ha!そんなんじゃァ、つまんねェだろうが。久々だからこそ、Surpriseが必要なんだよ。
 おまえだって、久しくしていた女が積極的に出て来たら嬉しいだろう?」
「それとこれとは話がまるで違います。たまには小十郎にも退屈させていただきたい」
「そりゃ無理な注文だぜ」

政宗は笑っている。
小十郎は政宗の背中を見ながら矢張り笑った。
奥州に戻った後、帰着の祝いは明日にすることにして、一旦小十郎は政宗と別れて屋敷へ戻った。汗が全
身を覆っているようでひどく不愉快だ。しかし畑も気になる。さて行水とどちらを先にするかと思案しな
がら門を潜ると、そこには作務衣に着替えたこども三人が並んで待ち構えていた。
幸がさっと前に出て、頭を下げる。

「お帰りなさいませ、母上」
「おう」
「私たち、これから畑に行って参ります」
「ほう、そうか―――じゃァ、俺も、」
「いいえ」

幸はきっぱりと首を振る。
母上は、ごゆっくり休んでください。
それだけ短く告げると、幸は弁天丸と十助と、それから幾人かの家人を連れて門から出て行った。小十郎
はそれを見送り、首を傾げつつ自分の座敷へ向かった。
蝉が鳴いていて、いかにも夏日だった。
座敷に戻り、用意させた着替えを見下ろして、小十郎はすこし考えてから矢張り行水をすることにした。
とてもではないがこれでは新しい物を纏っても、おんなじようにべったりとした感触に眉をひそめること
になりそうである。中庭に出て、襟をひろげて袖を抜き、半裸になってくみ上げた井戸水を頭から被る。
つめたい水に背筋が震えたがそれがとても心地良い。
犬のように首を振って髪の滴を飛ばしていると、ぱさりと頭に手拭いが落ちてきた。

「どうも」

顔を上げると、そこに久々に見る赤毛のしのびが居た。
小十郎は手拭いを頭から首に落としながら、幾度か目を瞬かせる。常とはちがう町人のような形で、佐助
は廊下の柱に背を預け、仏頂面でこちらを見ている。
来ていたのか、と言うと、昨夜から、と矢張りどことなく不機嫌な声が返ってきた。

「ふうん。あいつらとは会ったか」
「あんたが居ないからね、昨夜はあいつらと寝たよ」
「そうか。そりゃ喜んだろう」
「約一名を除いてね。今仲良く畑に行ってるよ」
「あァ、先刻会った」
「そう」

佐助はそれで黙り込んだ。
小十郎は体を滴る水を拭いながら、いつもなら止める間もないほど喋り続ける男の似合わぬ寡黙さに首を
傾げた。佐助は矢張り不機嫌そうに、つまらなそうに目を細めている。
庭から廊下に上がり、座敷に戻ってもそれは変わらなかった。
小十郎はなんとなく不満な面持ちでそれを眺めた。常ならへらへらとだらしない顔をして、どうでもいい
ようなことをぺらぺらと喋る男が真顔で黙り込んで何も言わない。まとわりついてくることもないので、
突き放してやることもできないし、出て行けと今更言うのも間が抜けている。
それに小十郎は、決して佐助に出て行ってほしいとは思っていなかった。
思えばほとんど一年ぶりに会うのだ。

「久しいな」

そういった心持ちが、自然と小十郎の口を普段よりは軽くした。
佐助はちらりと視線を上げた。久々に見るとはっとするほど鮮やかな赤い目に、小十郎は軽く笑みを浮か
べそうになり、咄嗟に口元を手の甲で覆った。
佐助は首を傾げ、そうだったかな、と態とらしく手を振る。

「あんまり忙しくてさ。前に来たのがいつだったかも覚えてねえや」
「そいつはご苦労なことだ」
「あんたこそ」

佐助はすこし間を置いて、それから口角を上げた。

「相変わらずの我が儘な殿様に、随分と困らされてるみたいじゃないか」
「あァ」

小十郎は苦い笑みを浮かべた。
隠す必要がなかったので、もちろん隠さなかった。
手拭いで髪の水滴を吸いながら、壁に背を預けてくつくつと喉を鳴らす。まったく困った御方だと言う。
佐助は自分で切り出したくせにつまらなさげに、ふうん、と鼻を鳴らしている。小十郎はけれども、思い
出したら主の悪戯めいた行為がますますいとおしくなって、笑みを消すことなく言葉を続けた。

「まるで退屈する暇がねェ」
「―――そらあ」

よかったねと佐助が返した。

「じゃ、思い出しもしなかったろうね」

続けられた言葉に、小十郎はすこし眉を上げた。
主語がないので意味が通っていない。

「何の話だ」
「たのしそうだねってこと。相変わらず、あんたは」
「何がたのしいんだ。散々だ。放っておいたあれこれを思い出すと頭が痛ェ」
「でもたのしそうじゃない」
「どこがだ、阿呆」
「だって、あんたあの殿様に困らされンのすきなんだろ」

幸が言ってた、と佐助が首を竦める。
小十郎は顔をしかめて舌打ちをした。それからすこし自棄気味に、かもな、と吐き捨てる。確かにそうい
った傾向が自分にあることは否定できない。
佐助はしかし、それにも大した反応を返さなかった。
いつもなら存分にからかってきそうだが、鼻を鳴らすだけで言葉すらかけてこない。

「おい」

とうとう焦れて、小十郎はすこし苛立たしげに佐助の肩に手をかけた。

「随分としみったれてるじゃあねェか」
「べつに、」
「嘘吐け」

小十郎は眉をひそめ、佐助の髪を引っ張って顔を上げさせる。
上がった顔は矢張り仏頂面である。小十郎はますます嫌な心地になった。いつもなら溶けるような顔で始
終笑ってばかりいる男が、どうしてよりによって一年ぶりに会ってこんなつまらなそうにしているのか、
まるで解らないし、なによりそれはひどく不愉快だった。
佐助が表面に表れるものほどは、簡単な男でないことくらいは小十郎にも解っている。
面倒な男だし、存外複雑である。読み取れるようで、まったくちがう反応を示すこともすくなくない。そ
れでも佐助は結局は奥州に通ってきたし、顔を合わせればなんだかんだと笑顔を見せてきたはずなのだ。
そして小十郎は、佐助のだらしなく崩れた笑顔を見るのが決して嫌いではなかった。
まったく嫌いではなかった。

「なんなんだ、おまえは」

そういえば今日はまだ一度も笑った顔を見ていない。
小十郎はそれに気付いてまたむっつりと不機嫌になった。

「今日に限って、なんだってそんなにケチの付いた顔してやがる」

久々に会って、どうしてこんなに嫌な気分にならなければいけないのか。
佐助は黙り込んだまま返事をしない。黙ったままで小十郎の手を振り払う。小十郎は思い切り正面に座り
込んだ男を睨み付けた。じいじいと背後では油蝉が鳴いている。風がないので室内はじっとりと蒸せるよ
うに不快に熱がこもっている。先刻水を頭から被ったというのに、すでに襦袢と肌とが汗でじっとりと粘
着いている。
しばらく互いに睨み合ったまま、蝉の声だけが座敷に満ちた。

「あんたは」

急に佐助が口を開いた。
小十郎は目を細めたまま眉を上げた。佐助は相変わらず顔を歪めたまま、赤毛を掻き上げ、あんたは、と
また言う。
あんたはさあ、

「あの馬鹿殿に毎日困らされて、それでなんだかんだって毎日たのしいんでしょ」
「それがなんだってェんだ」
「べつに。だから、ああそうなんだなって。そりゃなによりですねって」

それだけ。
佐助はそう結んだ。
小十郎としてはもちろんそれで結ばせるわけにはいかなかった。肩にかけていた手拭いを苛立たしげに板
間へと振り落とし、ぱん、と音を立てて叩き付ける。

「それだけってなァなんなんだ。ふざけんじゃねェぞ。そんなつまんねェ顔を態々見せにおまえさんは遠
 路遙々このクソみてェに暑苦しいなか奥州まで来やがったのか」

捲し立ててやっても佐助は言い返してこない。
小十郎は苛立ちを通り越してほとんど憤りを覚えた。とっとと叩き出してやろうかとすら思った。佐助が
来たのが常のように一月ぶりや、三月ぶりであれば、あるいは小十郎はそれを思うだけでなく実行するこ
とができるかもしれなかった。けれども佐助が来たのは一年ぶりだったので、小十郎は出て行けとももう
来るなとも言えないで、口を噤んで相手とおんなじように黙り込むしかない。
会わないでいた間に、会いたかったというような、そこまではっきりとした感情を抱いたことはなかった。
それでも小十郎はしっかりと佐助が来なかった間の季節を数えていたし、久方ぶりに見た赤い目に、常よ
りは深く感じ入ったのだ。
けれども、と小十郎は矢張り憤りながら思った。
けれども、どうやら佐助のほうはちがうのだ。

「些っと会わんうちに、随分とつまらん野郎になったものだな」

小十郎はそう吐き捨てた。
はっと弾かれたように佐助の顔が上がり、目が丸まった。それからすぐに細い眉が寄せられて、ひどく不
愉快げな表情が浮かび上がる。いい気味だと小十郎は思った。
俺に嫌な思いをさせた報いだ、猿飛のくせに。阿呆め。
佐助は顔を歪めて、小十郎を睨み付けている。

「そう」

しばらくしてから佐助が口を開いた。
小十郎は片眉だけ上げてそれに応える。佐助は目を細め、赤い目にどことなくつめたいいろを含ませなが
ら、小十郎が床に叩き付けたきりにしていた手拭いを強引に引ったくった。
そのせいで体勢が崩れて、小十郎は板間に肘を突くかたちになる。

「なんだ、急に」

睨み上げると、佐助は薄い笑みを浮かべている。

「そんなにつまンねえなら、今から俺様とたのしいことしようか」
「なんだって?」

問い返すが返事はない。
代わりに佐助の腕が伸びてきて、崩れた腕をぐいと取られた。目を見開く暇もなく、もう片方の腕も取ら
れ、あっという間に二本の腕が首の後ろでひとくくりにされる。それから、きゅ、と耳元で何かが縛られ
る音がした。
見ると手拭いが消えている。

「何してんだ、阿呆かッ」

怒鳴りつけて腕を前に回そうとするが、その前にちょうどくくられている部分をぐっと佐助に押されて、
そのまま板間にしこたま背中を打ち付けられた。肺が引っ繰り返るような奇妙な感触に、息の塊が口から
強制的に吐き出される。
佐助は仏頂面のまま上に覆い被さっている。

「つまんねえんだろ」

なんだかやけに抑えた声でそうつぶやき、佐助は小十郎の袷に空いたほうの手をかけた。

「ならたのしいことしようぜ。いつもとちがうふうにさ―――新鮮味があるでしょ。そのほうが」
「―――おい、つまんねェ冗談は止せ。熱で頭がおかしくなったんじゃねェか」
「まさか。俺はいたってまともですよ」

佐助は薄く笑って、袷に手を突っ込んでするりと鎖骨を撫でた。
小十郎は久方ぶりの佐助の指の感触にすこし目を細め、けれども舌打ちをしてうっとうしげに腰を捩る。

「この真っ昼間から、とても正気の沙汰とは思えんな」
「嫌なの?」
「俺は御免だ」
「そう。ならあんたは見なけりゃいいや」

佐助がそう言うのとおんなじに、目の前が暗くなった。
小十郎は咄嗟に息を飲んだ。かさつく布の感触が目元を覆っている。また耳元でそれが結ばれる不愉快な
音がした。小十郎は今度は本気で体を捩らせ、くくられてはいるものの、一応は動く腕で思い切り佐助を
殴りつけようとした。けれども利かない視界で佐助相手にそんなものが意味を生じさせるわけもなく、難
なく片手で腕は封じられ、下半身のほうも足と体で押しつけられて上手く動かすことができない。
なんなんだ、これは。
小十郎は怒りよりも前に困惑した。
もちろん直接見ることはできないが、佐助はとても手際よく、半ば義務的な手つきでするするとこちらの
襦袢を脱がせて、肌に指を這わせている。顔が見えないので佐助がどういった感情の元こんなことをして
いるのかは、小十郎にはまるで解らなかった。随分長い付き合いになるが、こんなことをされたことは一
度もない。それにこんなに触れてくる佐助の指に熱がこもっていないことも一度もなかった。
なんなんだ、これは。
小十郎はおんなじことを二度腹のなかでつぶやいた。

「たのしいのか、これは」

佐助の指が脇腹を撫でるのをそのままに、小十郎は今度は口に出してつぶやいた。
一旦佐助の指の動きが止まる。けれどもそれはすぐにまた再開された。極めて的確に、そして義務的に。
そしてそれに続いて、佐助の低くて温度のこもらない声が降ってくる。

「飽きるでしょ。まるきりいつもといっしょじゃあね」

たのしもうよ。
佐助はまったくたのしくなさそうにそう言って、小十郎の腰から帯を引き抜いた。








 

 
 
 
 
 
 




ページタイトル通りのばか夫婦話です。
エロを期待するとべつにエロくないのでがっかりします。




空天

2009/07/19


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