ああ、どうしよう。 佐助は考えていた。より正確に言えば悩んでいた―――苦悶していったといっても、それほど大袈裟では ないかもしれない。ともかく佐助は、目の前にある現状をどう取り扱っていいか、まったく途方に暮れて いたのである。 目の前には小十郎が居る。 ほぼ一年ぶりの情人との対面である。 そして自分はその情人を組み敷いている。真っ昼間で、蝉が大層煩く、触れている肌は常よりもいくらか 熱を孕んでいて、先刻水を被ったせいか手に吸い付くような感触がある。佐助は懸命に、そういったもの たちに意識を集中させようと努めた。襟を開いて褐色の肌に指を這わせ、引き締まった腿をてのひらで撫 でる。それらは常なら、気恥ずかしくなるくらい簡単に佐助を高揚させてしかるべきものたちだった。 でも佐助は小十郎に聞こえないように、こっそりと息を吐く。 ああどうしようと思う。 ああどうしよう。 ・・・・・・ ぜんぜん―――これっぽっちもたのしくない。 たのしいどころか苦痛だ。 なんだって俺はこんなことしちゃったんだろう? 佐助は下がりそうになる眉を必死で常の場所に維持し、また義務的に手を動かし出した。でもそれがどう したって熱の入らないものになってしまうのは、どうしようもないことだった。元々佐助は男をどうこう する趣向は持っていない。やわかい体と、曲線と、しろい肌を、佐助はごく一般的な成人男性として矢張 りこよなく尊び好んでいる。それは小十郎と体を重ねるようになってからも、まったく変わらない佐助の 性的趣向である。佐助は目を細め、それから視線を板間の木目に落とした。 つまるところ、腕をくくって目元を隠してしまえば、片倉小十郎という生き物の総体は、佐助の性欲をか き立てるどころか、積極的に削ぎ落とすようなものなのである。 小十郎は元々声を出す質ではないので、彼が佐助の指や舌で悦を感じているかどうかを知るのは、多くは 彼の目元の表情であったり、指先のかすかな動きであったり、腕に食い込んでくる爪先であったりする。 それが一切解らなくなってしまえば、小十郎はなんだか巨大な木偶のようですらあった。しかも木偶は木 偶でも阿修羅やら閻魔やら、そちらの類である。決して男雛なんかではない。人形遊びにするには些か隆 々としすぎている。どこかに飾って、そのままなかったことにして逃げてしまいたい。 佐助は今度はこぼれる吐息を噛み殺し損なった。 大体、と思う。大体このおひとが、こんな馬鹿らしいことを承知するのがいけないんじゃない? 自分でやり出したことだということくらいは佐助にも解っているけれども、正直半ばは小十郎に一蹴され ることを望んでの暴挙だったのである。今まで無理に体を繋げたことは一度もないし、そうでなくても気 が乗らなければ指一本触れることを許さない男が、まさかこんなことを承知するなんて思ってもみない。 それがなぜだか承知されて、佐助は行為を続行せざるをえなくなっている。 「成程な」 小十郎はそう言った。 佐助が腕を手拭いで括って、目元を自分の小袖の帯で覆ったあとのことである。佐助は思わず目を丸めた。 すぐにでも足で背中を蹴りつけられ、怯んだところを目隠しをしてるくせに的確に殴りつけられ、手拭い くらいなら平気で引き千切る腕力を存分に発揮され、こどもらに会う頃には別人のように全身隈無く傷だ らけにされるだろうと予測していたのが、すっかり当てが外れてしまった。 小十郎は腕を括られて目隠しをされているくせに、まったく抵抗しなかった。 どころか、罵倒の言葉すらほとんど投げてこなかった。 「やりてェならやりゃァいい」 「―――へえ、素直ですこと。随分」 「たのしくさせてくれるんだろう。ならとっととしやがれ」 小十郎は自棄気味に聞こえる声でそう言った。 佐助はとても戸惑ってしまった。 最後までする気なんてぜんぜんなかったのだ。 けれども小十郎がさせてくれると言うのだから、しないわけにもいかない。引っ込みがまったくつかなく なって、そして佐助はたのしくもなんともない情交を、嫌々続けて溜息を吐いている。 大変に身勝手だけれども、拒否しなかった小十郎のことを恨めしいとすら佐助は思った。 小十郎の切れ長で黒目がちの目が見たい、と思う。あの夜色の目が、まるで何も映さないようなまるきり 黒い眼が、佐助の姿を映し込むのが見たい。そしてそれが欲を宿す刹那の瞬きを見たい。長い指がひくつ いて、堪え切れないように反り返る仕草をうっとりと眺めて、それに自分の指を絡めたい。 佐助は堪え切れずに眉をひそめた。 動かない小十郎なんて、見ていてもぜんぜんたのしくない。 ああでも、と佐助は首を振って、熱の籠りようのない指をそれでも必死で動かした。つまらないけれども、 ぜんぜんたのしくないけれども、それでも小十郎がたのしくしろと言うのであれば、自分はそれをしなく てはならないだろう。 独眼龍のようにこの男を常に驚かしていることなんて、佐助には到底不可能である。 元来佐助は、自分はとても退屈な男であると考えている。囚われているものが多すぎるし、乗り越せない ―――あるいは乗り越そうとしない―――ものが在りすぎる。それはきっと小十郎にしてみれば大層もど かしく、そして決定的に物足りないにちがいないのだ。 べつに佐助は小十郎に崇拝してもらいたいわけではない。 けれども、矢張り出来る限り共に過ごす時間が長ければいいとは思う。 佐助は息を吐いた。 こんなことでどうにかなるなんて、真剣に考えているわけではない。 それでも何か彼に自分が影響を与えることができるとすれば、こんなことくらいしか佐助には思い付けな いのだ。 なんなんだ。 小十郎は考えていた。はっきりと言ってしまえば、とてつもなく腹を立てていた。 先刻から目の前は真っ暗で、まるで状況の把握はできない。感覚はただ佐助の触れてくる感触だけしか存 在せず、あとは蝉のけたたましい叫び声がするばかりである。佐助は指を動かして体中を撫でているが、 まったくやる気が感じられない。 それどころか、何度か溜息すら聞こえる。 小十郎は信じがたいものを耳にするようにしてそれを聞いた。 溜息。 ひとを括って、目隠しまでしておいて溜息。 ―――なんなんだ! 小十郎ははっきりと憤っていた。 折角こんな茶番に態々こちらが協力してやっているというのに、当の本人がまるで乗り気ではないという のはどういうことだ。死ね、と小十郎は何度も腹のなかで怒鳴った。 死ね、死んでしまえ、阿呆しのび。 けれども口には出さなかった。 先刻別れたばかりの政宗の言葉がふいに頭を過ぎったのである。 佐助は会ってからずっと、やたらに退屈だなんだと言っていた。 そこまで年齢の開きはないけれども、それでも矢張り佐助のほうが小十郎より幾らか若い。毎回毎回、通 う度におんなじことの繰り返しが、とうとう煩わしくなったとしてもまったく不思議はなかった。元来飽 き易い質の男であるように見えるし、そもそもどうしてこの男が延々とここに通ってきているのかは、小 十郎にとってもやや理解不能であるくらいなのだ。 佐助は気紛れで、不安定で、正体が掴めず、我が儘なくせに何も欲しがらない。考えてもどうしようもな いのだ。そういう男なのだ。理屈や思考で掴めるようなものではない。 まァそういうものだろうと小十郎は理解していた。 ただ理解と現実の感触とは、すこしだけ矢張りずれを孕んでいる。 どうせいつかは、佐助が此処に通わなくなった途端にこの関わりは切れるのである。なんだかよく解らな いあのこどもたちが居ようが居まいが、そういう瞬間は来るかもしれない。それはまったく小十郎の関与 するところではなく、佐助の意志と決定でしかない。癪だけれども、そうなのだから仕様がない。べつに 追いすがるつもりも、引き留めるつもりもない。いざ佐助が永遠に来なくなっても、来ない間にそうであ るように、矢張り小十郎は佐助のことをほとんど思い出さないだろう。そしてそのうち忘れるだろう。 でもだからといって、来なくなってほしいわけでもないのだ。 小十郎は唸り声のようなものを噛み殺して、すこし腰を捩った。 「―――、いやなの?」 佐助の指が一旦止まり、声が降ってくる。 小十郎は舌打ちをしそうになった。まったくやる気がなさそうなので、すこしは協力してやろうかと思っ てみればほんとうに手を止めている。普段なら喜々としていらないことばかり喋りかけてくるくせに、今 日はそれすらない。 ちがう、と小十郎は言ってやった。 すると佐助の指はまた動き出した―――緩慢に、義務的に。 なんなんだ。 もう何度目になるか解らないそれを腹に吐き捨てる。 生憎こんなことで興奮するような趣向は持っていない。それを望んでいるのだとしたら流石に無理がある。 そもそも小十郎は男で、本来ならば抱かれる側ではないのだ。こんなふうに肌を弄られるのが悦に繋がる のは、まったく自然に反している。 それを引っ繰り返してしまったのは、相手が猿飛佐助で、猿飛佐助が赤い目と赤い髪を持っていて、猿飛 佐助が馬鹿馬鹿しくなるほど溶けた笑顔で笑うからである。 だから目の前がこうも暗いと、触れられててもなんだか気色悪いばかりだ。 ぬるい指の温度が、粘着くような周りの空気と相まってひどく不愉快である。小十郎は今度は堪え切れな い呻き声をかすかに唇からこぼした。 佐助の指がまた止まって、一旦肌から離れた。 そのうちにまた触れてくる。けれども小十郎は、それを先刻までのように、不快ながらも諾々と受け入れ ることができなかった。 目の前は真っ暗である。 佐助はにおいがない。 何も言わないので何も聞こえない。 小十郎はすっと体温が下がるのを感じないわけにはいかなかった。相変わらず指は今までのようにやる気 がなさそうに動いている。離れていく前の指と、今小十郎に触れている指は、もちろん佐助のものである にちがいなかった。そうである以外の可能性などありようがないのだ。 小十郎は目隠しをされた下の眉をきつく寄せる。 馬鹿馬鹿しい話だ。しかしおかしな妄想は頭にこびり付いている。 「猿飛」 小十郎は佐助を呼んだ。 佐助は返事をしない。ただ指だけが義務的に動いている。蝉の声ばかりが耳に入ってくる。 「猿飛、おい」 ぞっとした。 今ここに居るのは佐助のはずだ。でも返事がない。もし、――― もし。 小十郎は息を飲んだ。 ぬるい指は、なんだか別の生き物のようだ。 「ッ、―――どけッ」 小十郎は全身を粟立たせて、勢いよく跳ね起きて、体の上に乗っていた重みに向けて、括られていた腕を 二本まとめて肘からふり落とした。 がっ、と音がして、それから目の前が一瞬だけまっしろになった。 ぐらりと体が傾ぐ。咄嗟に板間に手を突いて、佐助はぐらんぐらんと揺れる頭をもう片方の手で支えた。 耳に何かを切り裂くような不快な音が飛び込んできて、眩暈を抑えながら振り返ると仁王立ちをした小十 郎が手首を括っていた手拭いを引き裂いて、目元を覆っていた帯も力任せに剥ぎ取っているところだった。 「こ、」 「死ね、阿呆が」 声をかける前に、おそろしく低い声が降ってくる。 佐助はそれではっと覚醒した。小十郎は乱れた髪を掻き上げて、仁王も般若も閻魔も揃って逃げ出しそう な面構えで佐助を睨んでいる。舌打ちと一緒に左手が振り上げられるのが解ったが、佐助はその場から動 かなかった。 反省していたわけではない。 単に見とれていたのだ。 「―――ッ、痛ぁ、」 先刻の後頭部への衝撃に勝るとも劣らない拳が、一切の容赦なくほおにめり込む。 佐助は今度は体を支えることもできず、そのまま板間にころりと倒れた。そこを小十郎は顔色ひとつ変え ずに横腹を蹴りつけ、そのまま重みをかけてくる。ぐっと肺が萎縮するのが解った。息の塊が強制的に口 から吐き出される。それでも小十郎は、もちろん重みを和らげるようなことは一切しなかった。 生理的な涙を滲ませながら、佐助は小十郎を見上げた。 怒りに頭の天辺から足の爪先まで染めた小十郎は、とても見覚えのある小十郎だった。髪は乱れて、襟元 も先ほどまで佐助が乱したままになっている。帯も取れているので下帯が下からよく見えた。吊上がった まなじりは、蒸れたのか怒りでなのかほんのりと赤い。 いろいろなところが痛むのに、それを見ていたらうっすらと欲が煽られた。 「こ、うげ、―――こじゅ、ろ、さん」 「あァ、なんだ。蛆虫が生意気に口利いてんじゃねェよ」 「ごめ、ごめんなさい。ちょ、ほんっとに、死ぬ。死ぬから、足、」 「おまえが生きている価値なんぞ、堆肥にも劣る。肥溜めに突っ込んでやるから大人しく死んでろ。明日 一番に畑に埋めてやるぜ」 更に足が腹に食い込んでくる。 佐助はとうとう堪え切れず、さっと身を隠して逃げた。 がつん、と小十郎の踵が板間に当たる鈍い音が響く。小十郎は思い切り舌打ちをした。佐助は腹をさすり ながら座敷の隅にしゃがみ込んだ。それを聞きつけた小十郎が振り返り、もの凄い足音を立ててこちらに 駆け寄ってくる。地獄の獄卒だって泣き出しそうな顔をしている。 佐助はそれを見ながら、場違いにへらりと笑ってしまった。 「―――何を笑ってやがる」 小十郎がひどく不愉快げに口元を歪めた。 佐助はまだ笑ったまま、後ろに手を突いて、足を投げ出す。 「や、小十郎さんだなあって」 うっとりと目を細めると、小十郎が変な顔をした。呆気に取られたように目を丸めている。でも相変わら ず眉は寄って口元は歪んでいるので、とんでもなく間抜け面である。佐助はけらけらと笑って、両手を伸 ばして小十郎の腰にしがみついた。 「小十郎さん」 毒気を抜かれたのか小十郎は何も言わない。 佐助はそれをいいことに、ぐい、と小十郎を引き寄せて座り込ませた。そして肩に顔を埋めて、唇を首に 寄せる。小十郎がうっとうしげに佐助の髪を引っ張った。その痛みが途方もなく心地良い。 顔を強制的に上げさせられると、そこに小十郎の顔がある。相変わらず小十郎は変な顔をしている。佐助 は何も考えないで、その変な顔に唇を寄せた。曲がった唇に自分のそれを重ねる。小十郎は今度は佐助を 突き倒したりはしなかった。代わりに髪に手が差し込まれる。長い指が佐助の赤毛をねじるようにくすぐ って、佐助は先刻までちらりとも顔を出さなかった欲が、背筋をすうっと駆け上がっていくのを、まるで 触れるようにはっきりと感じた。温度の低いてのひらが佐助の首をまるきり包み込んでいる。絡んだ舌は もうどちらがどちらの物なのかまるで解らない。 蝉がけたたましく、絶叫のように殊更大きく鳴いたのを合図に佐助はすっと身を引いた。 「小十郎さん」 ひっそりと名前を呼んで、小十郎の手を取って指を絡める。 小十郎はすこし息を荒げて、それでもまだ不満げな顔をしている。佐助は喉の奥でくっと笑いを噛み殺し、 それから眉を下げてごめんねとまた謝った。 「あんたはつまンねえかもしれないけど、俺様矢っ張り、いつもといっしょがいいな」 小十郎の唇にまたちいさく口付けてつぶやく。 「いつもみたいに布団の上で、いつもしてるようなことをしたい」 佐助がそう言うと、小十郎は二三度目を瞬かせてから、また思い切り顔を歪めた。そして佐助のほおを ぐっと力任せに引っ張り、ぱん、と勢いよく叩く。 佐助は痛みよりもその音に驚いて目を丸めた。 小十郎はそれを見て、口角をあげてひとの悪い顔で笑う。 「最初からそうしてりゃァいいんだよ。十助か、おまえは」 阿呆。 小十郎は佐助を罵ってから、睫毛を摘むように瞼に口付けた。佐助が目を瞬かせていると、その間に背中 が板間に押しつけられ、また唇が重なってくる。それが離れると、すぐに唇は佐助の首筋に押しつけられ、 そのままするすると鎖骨へ落ちて行く。 佐助はぼう、と小十郎の肩越しに天井を見上げた。 その間にも小十郎の指は佐助の襟を開いて、胸元を探っている。 「え」 「あんまりおまえが阿呆だからよ」 小十郎が顔を上げた。 そしてにんまりと目を細め、片側のほおだけを笑みに歪める。 「盛ッちまった。責任、取ってもらおうか」 「―――、あんたさあ」 「うん」 「今悪代官みたいな顔してるぜ」 「ほう」 「ちょう怖い」 「不満か?」 小十郎の指が佐助の髪の生え際をなぞる。 佐助はうっとりと目を細め、自分も手を伸ばして小十郎の耳の後ろを軽く指で押してやった。それから両 方の口角を持ち上げ、指を耳の後ろから後頭部へ伸ばして引き寄せる。 「まさか。凄いそそる」 そう言うと、小十郎が低い声でくつくつと笑った。 おかしな奴だ、と耳に掠れた声を注がれて、佐助はあんたほどじゃねえよと言い返しながらも、なんだか それだけですっかりきもちがよくなってしまった。 「ちちうえ、ははうえ、ただいまかえりましたあっ」 門を潜った途端に、大声をあげて十助が小十郎の寝所へ駆けていこうとする。 幸は黙ってちいさな体をひょいと持ち上げてそれを阻止した。 「駄目」 「ええ、なんで?」 十助は眉を下げて、赤い目を丸める。それを幸の黒い目が無言で見返す。 十助は怯んだが、怖ず怖ずと姉から視線を外して口を開いた。 「とすけ、おっきいおなすとったから、ははうえにみせたいの。ほめてもらうの」 「それは後でもできるだろう。今は駄目」 「どうして?」 「父上と母上の邪魔だから」 幸はそう言って十助を土に下ろし、空を見上げた。 すこし傾き始めた日は、それでもまだ天辺近くに居る。幸は手で日差しを避けながら目を細め、それ から右手の指で何かを勘定し、後ろで野菜を抱えている弁天丸を振り返った。 「夕餉の支度をしよう」 「―――早くねえか?」 「丁度良いと思う」 「でも今から作ったら、あと一刻くらいで出来ちまうぜ」 「だから」 幸は弁天丸の背負った籠を覗き込みながら、だからちょうど、と言う。弁天丸は首を傾げて、十助を 見下ろした。十助もおんなじように兄を見上げて首を傾げる。 籠から茄子と胡瓜を取り出した幸は、首を傾げたふたりを一瞥し、とっとと台所へ行ってしまう。 「おい、幸」 弁天丸は慌てて赤毛の妹に声をかけた。 幸は振り返り、首をちいさく傾げる。 「なに」 「なんでおまえ、そんなに自信満々なんだよ」 「だって」 幸は首を竦めて、視線だけ小十郎の寝所のほうへやった。 庭に面したその座敷は、今はぴったりと障子が閉じられている。弁天丸は幸の視線を追ったが、一向 に意味が解らずまた首を傾げた。 ほう、と幸が息を吐く。 それから十助の髪を撫でて、ちいさく笑みを浮かべ、 「どうせいつもといっしょだから」 さあ夕餉の準備をしよう。 そう言ってくるりと背中を向けてしまった幸を、弁天丸は相変わらず首を傾げながらも、それでも慌 てて追いかけた。 おわり |