・・・ 天火 ・・・
嘘だろう、と思った。 いつも飄々として、癇に障る笑みを貼り付けているような男だ。力仕事はしないんだと言いながら、ほんとうに口先 だけでひとを動かして指一本動かさずに場を作り替えるような、そういう男なのだ猿飛佐助は。死ぬ。海千山千の小 股潜りが死ぬ。 ―――猿飛佐助が死ぬ。 そんな笑い話が何処に在るだろう。 「嘘だ」 片倉小十郎はそうつぶやいた。 目の前の男は苦しげに首を振る。ほんまですわ。そう言う。たしかに見たんや。あれは天行坊様や。見間違えるなん てありえへんわ。 ―――ああ、なんて勿体ねえ。 「首だけが」 全て聞く前に小十郎はその場から去った。 首が在るという陣屋を目指す。村人たちの流れがあったので、場所は容易に知れた。人形か何かだろうと思った。そ ういう仕掛けをする男だ。連中に不可能は無い。見れば知れるだろう。まるでおのれに暗示でもかけるように小十郎 はつぶやきながら駆けた。暑い夏の日であるというのに、汗ひとつ滴らなかった。ひやりと背筋がつめたい。 陣屋の大屋根に舞い上がったという声を頼りに、小十郎は空を仰いだ。 そこには。 「ああ、なんてことやァ」 傍らで村人のひとりが崩れ落ちた。 小十郎は声を失って、立ちすくむ。 そこには。 そこには佐助のしろい首が在った。 赤い髪も青い程にしろい肌も全て佐助だった。 小十郎は足から力がすうと抜けるのを感じる。が、必死で堪えた。ここで膝をつくことは目の前の光景を肯定するこ とだ。ついてたまるか。歯を噛みしめて、首を上げる。間違いだあの男がそんな簡単に死ぬタマか――― けれどどうしても目の前の光景が変わることなくて、 「猿飛」 つぶやくと、力が抜けた。 すとん、と膝が大地につく。 ひとはあんまり大きな傷を負うと、涙すら出ぬのだと初めて知った。 多少の好奇心と、それから悪意があった。 大部分は便宜上の由である。小十郎に仕掛けの種を教える意味がない。教えれば逆に不利になることもありえた。教 えるのか、と問われて教えないよと佐助は笑った。なンで教えるのさ。あのひとはね、他人だぜ。 「真っ当なおひとだ。俺たちとはちがうのさ」 それは真実で、それから皮肉でもあった。 そういう立場を理解せずに、佐助の深くにまで入り込んでくる小十郎がひどく煩わしかった。来るなと全身で表して も、まるで気付かぬかのように不躾に土足で入り込んでくる。鬱陶しかった。それでも、あの夜のような温い黒さで 見据えられるとどうしても切り捨てられぬ。 ならば離れていってくれ、と佐助は叫びだしたいような心地で思った。 「どうすんだろうね、あの先生はさ」 佐助は作り物の首を晒した後で、そうやって笑った。 傍らに坐る元就がひどく馬鹿にした顔で鼻を鳴らした。くだらない、と言う。 「それで、おまえはどうされたいのだ」 「俺かい」 「大方」 怜悧な顔を笑みに歪めて、元就は吐き捨てる。大方、あの男に泣いて貰えばおまえは満足なのだろう、くだらない。 佐助は目を丸めて首を振った。 「まさか」 そんなことを望むわけがない。 佐助は小十郎に離れていって欲しいだけだ。しつこい程におのれから目を逸らさぬ夜色が鬱陶しく、それを手放さぬ おのれが厭わしい。此処まで虚仮にすれば、いくらあの男でも佐助を見限るだろう。気高い男だ。今の今まで、佐助 のような卑賤の者と居るのが不思議なほどに、産まれながらに尊い。 泣くわけがない。だって、あれは片倉小十郎なのだ。 佐助がそう言うと、元就はまた馬鹿にしたように口角を上げた。そうして、精々おのれに言い訳をするがいい、と言 う。小股潜りなど、偽りを吐くしか能が無いのだからな。 「そうしておのれを偽って、そしてあの男を貶めた後でひとり歓喜に震えておれ」 佐助は目の前の男の整った顔を殴りつけたくなった。 が、笑って堪える。そんなことはしないさ、と言う。俺はね、あのひとにうんざりしてるんだ。離れていってほしい んだ。それにあの男が俺の死くらいで泣くものかよ。 全ての仕掛けが終わって、小十郎と対面するという時になってもそう思っていた。 一枚障子を隔てた先に小十郎が居る。そう思うと心の臓がらしくもなく震えた。元就から事の次第を聞いてる小十郎 の返答は至極まともで、ああ矢張り強いおひとだと佐助はうっすらと笑う。多少複雑ではあった。 そう思うと眉が寄る。まるでこれでは元就の言ったとおりではないか。 元就がいつまで隠れておるのだ、と笑いを含んだ声をかけてきて、迷いを断ち切るように勢い良く障子を開いた。小 十郎の切れ長の目が見開かれるのが解った。にい、と口角をあげて佐助はひょいと頭を下げる。 「お久しぶりだねェ、片倉の旦那」 ご心配おかけしました、と笑う。 小十郎はかける言葉を知らぬように黙り込んで、ただじいと佐助を凝視していた。 元就が立ち上がり、佐助の肩を叩く。 「積る話もあろう。我は、失礼する」 にいと笑われた。 肩に掛かった手を振り払って、佐助は畳に胡座をかく。かたんと障子の閉まる音がした。小十郎にちらりと目をやる と、まだ若隠居はかちこちに固まっていた。くつくつと笑いながら、佐助はだんな、と呼びかける。 小十郎の目にいろが戻ってきた。 「あ―――」 猿飛か、と問われる。 佐助は目を細めて、そうだよ、と笑う。 小十郎はしばらくは能面のような顔で佐助を眺めていたが、それからすくりと立ち上がってぐいと佐助の襟元を掴み 上げた。痛みに歪んだような顔で、巫山戯るな、と低い声が悲痛に絞り出される。 佐助はそれを淡々と眺めた。 「悪かったよ。でも仕掛けだから」 笑う。 襟元にかかった力が強くなった。 佐助はくつくつと笑いながら、可笑しな話だね、と首を傾げる。なんであんたがそんな顔すんのさ。可笑しいね。 「あんたがそんな顔する理由なんざ、何処にもありゃあしない。 困ッたねえ―――そんな恨みがましい顔で見られちまってもさぁ」 迷惑だ、とまでは言わなかった。 それでも小十郎は聡い男であるから、佐助の言いたいことは解ったであろう。手の力が緩くなる。眉が寄って、口元 が歪んでいた。さあ、と思う。さあ、とっとと俺のことなんて見限っちまえよ片倉の旦那。立ち上がり、佐助を押し のけ、なにも言わずに去っていく小十郎を思い描いて佐助は目を閉じた。ひどく痛い光景だ。 泣いてしまうかもしれない。 それでも、それしかもう、道は残っていないのだ。 「俺は」 小十郎の声はひどく痛々しい。 佐助は眉を寄せた。目を閉じたままに、おのれの襟を放す小十郎を待つ。 が、小十郎はそのまま佐助を強く柱に叩きつけた。 「―――ッ」 衝撃に息が止まる。 思わず目を見開くと、小十郎の目が怒りで濡れていた。涙か、と思ったがちがう。 ただ純粋に、憤っている。 巫山戯るな。小十郎はまた言った。 「俺が邪魔か」 声は静かだった。 相変わらず痛々しいことには変わりはない。佐助は問いには答えず目を逸らした。小十郎は続けて、邪魔ならそう言 え、と言った。それなら離れてやる。こんなのは御免だ。まどろっこしい上に嫌らしい。 「煩わしいなら、どうして退けねェ」 佐助はくつりと笑った。 それが出来るならこんな阿呆のような痛みに耐えたりせずとも良い。だからだよ、と言ってやりたかった。退けたく ないンんだよ。だから困るんだよ。小十郎をこれ以上傍らに置いていたら、きっと佐助はこの男を手放せなくなる。 またいつかのように、ひとではない世界へと手を引いて連れ込んでしまう。 「―――片倉の旦那が煩わしいだなんて、そんな」 佐助はにこりと笑って、襟にかかった手をそっと外した。 悪かったよ、とまた言った。でも時間が無くてさ、あんたに言えなかったんだ。小十郎は唇を噛みしめて、舌打ちを する。佐助は衣服を調えて立ち上がり、見上げてくる小十郎に矢張り笑いかけた。 「旦那、長旅でお疲れのようだ。 幸いここは良い飯を出すんだよ。それでゆッくり、お休みくださいな」 小十郎は黙った。 それから諦めたようにひとつ息を吐いて、そうだな―――と言った。どうも可笑しい、と皮肉げに笑うその横顔に佐 助はぞくりと背筋にふるえが走るのを感じたが、笑みを貼り付けたままにやり過ごした。小十郎は佐助を残して、障 子を開き廊下へと出る。最後にすこしだけ振り返った小十郎に、佐助はちいさく笑んでやった。 残された佐助は、すとんと膝を畳につく。 「―――どうしようもないなぁ」 そして笑う。 手が震えていた。 震えるほどに、小十郎のあの怒りに佐助は歓喜している。 小十郎は佐助が知るなかでも、いっとう上等な部類の男だ。 書物に精通しながらも、ひとの情を知っている。育ちが良いから体の奥からその尊さがにじみ出ている。それでいて、 旅慣れているので世間知らずではない。何処の世に出ても、あの男は不便などなく渡世していける。 その男が、おのれのことであんなにも感情を乱している。 知らず佐助は笑んでいた。 口元に手を運んで、それを必死で押しとどめる。ああ、と思う。ああ、元就の言ってたことを些ッとも笑えやしねえ じゃないか。泣かなくて良かったな、と佐助は思った。 もし小十郎の、あの黒い目が涙などをこぼしていたとしたら。 きっとおのれは迷うことなく、あの男を絡み取った。 座敷でひとり笑いながら、佐助はおのれの薄汚さに絶望した。 2007/07/22 プラウザバックよりお戻りください。 |