各 
                           駅 
                           停 
                           車 
                           車 
                           両 
                           の 
                           長 
                           い 
                           言 
                           い 
                           訳
                           
















快速急行と各駅停車のちがいだと思うんだよねと猿飛佐助は言った。
片倉小十郎は腕を組んだまま、ひどく馬鹿にした顔をすこし上向きにして、椅子に座っているくせに佐助を見下ろしな
がらはァん、とうっすらと笑った。小十郎の前にはエスプレッソが置いてあって、佐助の前にはカフェラテが置いてあ
る。薄暗い喫茶店の、いっとう端のトイレ近くのその席は水のにおいがした。カフェラテはほとんどがミルクの泡でな
りたっていて、カップを相当傾けないと液体は口のなかに入ってきてくれない。
唇の端についた泡をナプキンで拭き取って、佐助は言う。

「あんたは要するにさ、終点しかない快速急行なわけじゃない。始発から終点まで脇目もふらずに突っ走ってくひとだ
 けど、俺はちがうんだよね。人生色々たのしみたいし、色んな所に行ってみたいわけ。一箇所しか止まれない人生な
 んてごめんだね。俺はもう道具じゃないし、武器でもないし―――つまりしのびじゃあないんだ」

一息に言って、佐助は足を組み替えた。
小十郎はエスプレッソを一口飲んで、眉を寄せた。きっと酸っぱかったのだと思う。皿ごとそれをテーブルの脇に寄せ
てから、小十郎は半身になって右の肘を突いた。

「だったら何だ」
「何だってのもおかしいな。俺はもう答えを言ったんですがね」
「俺が聞いたのは」

ぴらり、と小十郎はテーブルの上に置いてあったメモ用紙を掴み上げる。
そこにはひとつの住所と、学校名が書いてあった。そして名前だ。佐助はそれをちらりと見て、それから視線をテーブ
ルに落とした。木目に埃が溜まっているのがやけに気になった。埃が溜まってるよと佐助は言った。
小十郎は佐助を無視して、俺が聞いてるのはこれを使うのか使わないかだけだ、と言った。

「今日の用件はそれだけだ。終わったら俺は帰る。だからとっとと結論を出せ」
「愛想がねえな。いいじゃないか、この後は日曜の午後を俺と一緒にたのしむってのも悪くないと思わない」
「誰が」
「あんたが」
「誰と」
「俺と」

にこりと佐助は笑った。

「おまえと」

小十郎も笑った。
ものすごく馬鹿にした笑い方だった。

「ごめんだ」
「いいじゃん。ほら見て、あそこには観覧車があるよ」
「乗ればいい。そして落ちろ」

きらきらひかっている青空にへばり付いているような観覧車を指さすと、小十郎は殆ど佐助を憎んでいるのではないか
というくらいの低音でそう言った。佐助は外を指さしていた指をこきんと折って、小十郎の持っているメモ用紙を取り
あげて、くしゃりと丸めた。

「いらない」

へらりと笑ってそれを手の中で放る。
ひょいと上がったそれは、ぽすんと手の中に帰ってきた。小十郎はふうん、と鼻を鳴らす。ごめんね。佐助は申し訳な
さそうに眉を下げた。手の中でくしゃくしゃになっているメモの内容は、きっと目の前の男が相当苦労して手に入れた
ものにちがいないのだ。佐助は手の中のメモ用紙をころりとテーブルに転がし、丁寧に伸ばした。
いらないのか。
小十郎が聞く。
うんいらない。
佐助は答えた。

「何故」
「だって会いに行かないもの。必要ねえじゃん」

最初からそういう話だったろ、と佐助はうんざりと言った。
小十郎は首を傾げている。覚えていないのだろう。片倉小十郎は必要のないことはすぐに忘れる。そして小十郎に必要
なことというのは、言うまでもなく彼の主のこと以外ではありえない。もっとも彼の主が『主』たりえたのはもう四百
年は昔のことで、今の民主主義の世の中ではそんなものはとっくに死滅している。
けれどなにを間違ったのか、片倉小十郎は片倉小十郎だった。

「会いたくないわけじゃあ、あるまい」

そして佐助は猿飛佐助だった。
佐助はカフェラテをスプーンで掻き混ぜながら、困ったように笑う。各駅なんだ、とまた言った。

「誰も彼もが自分とおんなじだと思わないでほしいねえ。俺はさ、案外今の生活をたのしんでんだよ。
 人を殺したら犯罪で、夜道で気配を殺さなくてもよくてさ、そいでもってなんと俺の人生は俺のものなんだぜ。凄い
 よなあ、想像もできない。今でもなんだか、夢でも見てるみたいだとたまに思うね」
「それが」
「うん」
「各駅か」
「そうだよ」

ひょいと肩をすくめる。
小十郎はしばらく黙って、それからまァいい、と言った。もう渡したからな。がたんと椅子を引いて立ち上がる小十郎
を見上げて、ごめんねとまた言った。小十郎はちらりと笑い、べつに、と返す。お互い様だと続ける。

「しかし」
「なんだい」
「各駅ってのは面白い。おまえ、解ってるか」

電車ってのは遅かれ早かれ、終着駅にしか着かねェんだぜ。
佐助は目を瞬かせた。小十郎は椅子の背もたれに手をついて、口角をあげる。佐助は目を細めた。この男のこういう顔
は、はるか昔にもよく見たことがある。大抵が佐助を追い詰めるときに、片倉小十郎はこういう顔をする。
伝票を持ち上げて、まァのろのろ行けばいい、と小十郎は言った。

「どうせ、行く場所は決まってる」

佐助はずるずると椅子を動かして、上半身をテーブルにへばりつけた。
どうしてよりによって、小十郎と会ってしまったのだろう。小十郎でなければ、こんなに佐助を追い詰めて、どうしよ
うもない気分にさせたりはしなかった。あんたは快速なんかじゃねえな新幹線だひかりだ。そう言うと小十郎は笑い、
当たり前だと言う。そしてこうも言った。それもちがうな。

「電車じゃァ、終点に着いたらまた逆戻りしちまう」

俺は戻るつもりはない。
佐助は息を吐いた。おそろしい男だ、と思った。

「じゃあ零戦だな。片道燃料で突っ込んでくんだよ。そんでもう二度と戻ってこない」
「成る程」

小十郎はにいと笑った。
悪くないな、と言う。佐助は呆れた。あんた主を爆破するつもりかよと言うと、阿呆があの方はそんな柔じゃねェよと
言う。そういう問題だろうか、と思ったけれど、小十郎がそう言うのだからそうなのだろう。小十郎は片道燃料で政宗
に突っ込んでいって、そして政宗はそれを受け止める。

各駅停車車両の佐助にはとうてい理解できない世界だと思った。































違和感があった。
三歳くらいだっただろうか。母親がなにか、音を出している。それは解る。けれど、それは音でしかなくて、それ以上
の意味を持たなかった。ずっと持たなかった。母親も父親も、周りのすべての人間がその音を発したけれど、それは相
変わらず音でしかなかった。
五歳だったと思う。これは自分を識別するための音なのだとようやく知った。その音が鳴ると、振り返って応えなけれ
ばいけないのだ。そう解ってからも、相変わらずそれは音だった。あなたの名前なのよと母親は繰り返し繰り返し言う
けれど、意味が分からない、としか思わなかった。
理由は非常にシンプルだ。

・・・
ちがうのだ。


それだけは解っていた。それは音で、名前ではない。
そしてまるで鳥が飛ぶように魚が泳ぐように花が咲くように、誰かに会いたいと思った。誰かだ。誰かはわからない。
けれどずうっと自分はその誰かを探していて、自分が今ここに居るのはそれ以外の意味はないのだと息をするよりも自
然に知っていた。もどかしくて時折涙が出た。どうしてその誰かが今ここに居ないのだろうと思うとかなしくてしょう
がなかった。たしかにその誰かは自分の傍に居て、そしてそれはこの世のなによりもいっとう大切なことだったのだと
こんなに知っているのに、居ないなんてまるで悪夢のようだ。
そう思いながら十五年が過ぎた。
どうでもいい十五年だった。
十五歳のときに、クラスメイトのひとりから本を預かった。図書室に返しておいてくれ、と言われて、今まで一度も入
ったことがないその部屋に初めて足を踏み入れた。埃っぽくて差し込んでくる西日に部屋のなかのすべては色が薄れて
いて、時々教科書で見る戦前の写真のように見えた。カウンターで本を返し、それからきっともう二度とここには来な
いからとぐるりと一周回ってみることにした。カウンターの前で、くるりと回る。右手に小説の文庫本が並んでいて、
左手には分厚い伝記シリーズが並んでいる。すこし考えてから右足を前に出した。
書店でもよく名前を目にする小説がしばらく並んでいて、それから見たこともない古い文庫本にグラデェションのよう
に移り変わっていく。棚は二段で、五メートルほど続いていた。
四メートルのところで、足が止まった。

本があった。

古くさい本だった。
元々は赤かったのに、長く放置されていたから背表紙がうっすらとしろくなっている。手を伸ばしてそれを本の間から
抜き取った。それはすい、と抜き取られ、そして手の中に収まった。しろくなっている表紙は、西日に照らされて橙に
なっていた。タイトルが縦に書かれていた。四文字だった。

「こんなところにあったんだ」

思わず声が漏れた。
それは名前だった。さるとびさすけ、という文字はすとんと胸のなかに落ちてきて、思わず笑ってしまうほどじんわり
と体のなかに染み渡る。これ以外であるはずがないというほどに、それは自分の名前だった。
図書室には佐助以外には図書委員の少女がひとり居るだけだった。その本を持って、佐助は植物図鑑の棚のかげに隠れ
た。座り込んで、床に尻をついて、本を抱えながらひっそりと泣いた。
自分の名前がわかったからではない。

会いたいと思った。







真田幸村に、死んでしまうほど会いたかった。







だんな、と声が漏れた。そうだ、自分はそうやって幸村を呼んでいた。
思い切り振ったコーラの栓を抜いたように、記憶が溢れてきて途中ですこし心配になる。このまま溢れて無くなってし
まうのではないだろうか。けれどそれは杞憂だった。記憶は三日三晩溢れ続け、三日目の夕食を食べているときに、佐
助は完璧に猿飛佐助になった。そして次の日から佐助は幸村を探し始めた。居るのだ、ということはもうずうっと前か
ら解っていた。どこかに、真田幸村は居る。
残念ながら、それ以上は解らなかったのでその探索はひどく不毛で宛がないものだった。それでも佐助は探して探して
気付いたら十七になっていた。そこで気付いた。探して、どうするんだろう。空まで伸びた壁があるなら、そういうも
のに近いほどの高さの絶望が目の前にあることを佐助は知った。

佐助はもうしのびではなく、幸村は主ではないのだ。

ぞっとした。
その日から佐助は探すのを止めた。
周りを見てみると、驚くほどたくさんかつて「なにか」であった人間は居る。きっと魂はそんなに量産できるものでは
ないので、途中からはすべて使い回しにされているのだろうと佐助は思った。けれど大抵の人間はそれには気付かず、
「なにか」であったことなど何も知らずに生きていき、そして死ぬ。それはまたリサイクルされるのだろう。魂という
ものはひどく地球にやさしいのだ。
幸村は、真田幸村であったことなど覚えていないかもしれない。
理由が無くなってしまった。会いに行く理由が無く、そして会ったところで傍に居る理由が無い。思い出させる理由も
無かった。かつて「なにか」であったことなど、今生きている人間に一体どうして必要だと言うのだろう。
どう考えても必要なかった。
そんなものは、溝に捨てて流してしまっても一向に構わない。
佐助はそれから七年間、幸村を探すことなくそれでも猿飛佐助として生きた。もしかしたらこんな記憶なんて無ければ
いいと思うかもしれない、と思ったけれど、佐助はどうしても猿飛佐助だったのでそんなことを思うわけもなかった。
佐助が佐助であるということと、幸村を思って生きるということとは一ミリのずれもない。
時々、月があんまり丸かったり風があんまり柔らかかったり雨があんまり優しかったりすると、横に誰かが居るような
気がして、そして勿論そこには誰も居ないので泣きたくなったが、その頃には佐助は二十歳を過ぎていたので泣くこと
はなかった。二十四歳になった。そこで佐助はある日誰かに腕を掴まれた。
振り返ると片倉小十郎が居た。

奇跡のようだった。

小十郎は腕を掴んだまま、猿飛かと言った。佐助は二十四歳だったが、泣いてもいいんじゃないだろうかとすこしだけ
思ってそれでも笑った。久し振りだねえ、と言った。
小十郎も笑って、四百年と少し振りだ、と言った。
小十郎は当然のように伊達政宗を探していた。佐助は嬉しくてしょうがなかった。世界の端っこで、ひとりだけ「なに
か」であったことを覚えているのは時々ぞっとするほど冷たい感触がする。手伝うよ、と佐助はすぐに言った。小十郎
は助かると言って、

「俺も手伝おう」

と言った。
佐助はよく解らなかった。

「何を」
「探すのを」
「何を」
「真田幸村だ」

血液が跳ねた。
血管を破って出てきそうなそれをてのひらで押さえる。
小十郎は不思議そうな顔をした。探してんだろう、おまえも。当然のようにそう言った。佐助は答える代わりに聞いた。
あんたのご主人はもうあんたのご主人じゃないんだぜ。小十郎は首を傾げた。それがなんだ、と言う。佐助はてのひら
で腕を血管を押さえたまま、大問題だよと返す。だってもう家臣じゃなくて、ただのひとなんだ。一緒に居る理由なん
てどこにもないじゃねえか。
小十郎はまた首を傾げて、理由、と短くつぶやき、

「俺が、そうしてェ」

とだけ言った。
短かった。

「政宗様は、居る」
「知ってるよ」
「居て、俺もここに居て、そうしてどうしてお傍に行かない理由がある」
「でももしかしたら、伊達政宗は伊達政宗じゃないかもしれない。あんたのことなんて覚えていなくて、きっと両目が
 揃って家族ともしあわせに暮らしていて、もちろん戦になんざ出ない。要するにさ、あんたの守らなけりゃならない
 背中はもうどこにも無いんだぜってこと」

幾度も自分に言った言葉を言う。
そうしたら、それは驚くほどに真実だった。かなしくてしょうがない。もうこの世のどこを探しても、佐助が幸村の傍
に居る理由は落っこちてはいない。
小十郎は笑った。
だからそれがなんだ。

「ただ、俺が、お傍に在りてェんだよ」

ひどくきれいな笑顔だった。
佐助は呆然として、それからくしゃりと笑った。あんたはすごいな、と言うと小十郎は正直なだけだと言う。産まれて
このかたずっと息が苦しくてしょうがねえ、と言う。佐助は頷いた。とてもよく解った。
それでも佐助は、もう一度小十郎がおまえも会いたいだろうと聞いてきたときに、

「俺は」

すこし考える。
それから、


「いいですよ」


と言った。



























印を作ってみる。
何も起こらない。佐助はベッドの上で息を吐いた。
腕を持ち上げてみた。細い腕だ。鍛えていないので、きっと平均的な同い年の男より余程力は弱いだろう。もう佐助は
何の術も使えないし、風のように駆けることもできない。佐助はあらゆる意味でもうしのびではなくなってしまった。
けれどそれはひどくどうでもいいことだった。
仮に術を使えても、それを使う場所はどこを探しても無いのだ。
てのひらを、一本一本指をぱらぱらと順番に開いた。メモ用紙がきちんと八つに畳まれて収まっている。そこには真っ
直ぐな字で、幸村の今の名前と学校名が書いてある。明日にでも会いに行くことはできる。仕事はあるけれど、そんな
ことはどうだっていいことだ。佐助はなぜだか佐助で、生きていくときに真田幸村より大切なものなど残念ながら今ま
での二十四年では、ひとつもなかった。

会いたいと思う。

もっとただしく言えば、会っていないことが不思議でしょうがなかった。
どうして自分は幸村の横に居ないのだろう。二十四年が幸村無しで終わって、そのあまりの無意味さに愕然とする。そ
れでも佐助は会いに行く気にはなれなかった。だってもう意味がないのだ。
どこにも、なんにも、もうないのだ。

「―――こえェじゃん」

つぶやく。
小十郎は強い。
佐助は弱かった。手の中からかつてあった技術が全部転げ落ちてしまうと、驚くほどに猿飛佐助は弱い生き物だという
事実だけが残る。真田幸村に会いたいのとおなじくらいに、幸村のあの目が真っ直ぐにこちらを見据えて、

「誰だ」

と言われるのが怖かった。
どうしたら傍に居続けることができるだろうと、ほんとうにずっと考えていたけれど、かなしくなるほどに佐助が幸村
の傍に居る理由はなにひとつとしてない。笑ってしまった。涙は出なかった。
しょうがないことなのだと諦めてずっと生きてきたのだ。佐助は寝返りをうった。眉をひそめて、メモ用紙を凝視する。
片倉小十郎が憎らしくてしょうがなかった。零戦どころではない。小十郎はきっと核爆弾を背負ったエノラ・ゲイだ。
あの男は気軽に、なにも考えることなく、佐助の逃げ場所に核爆弾を落として壊滅状態にしてしまった。


会いたくても会いに行けないという逃げ場所と、
会いに行く理由がないという逃げ場所は、

小十郎のせいで焼け野原だ。


復興には時間が掛かるだろう。佐助はうんざりした。
会いたいから会うのだと小十郎は言う。会いたいだろうと聞いてくる。会いたいか。会いたいだろう。

―――会いに行けばいいんじゃねェのか

あの男は佐助のことなどどうだっていいのだと思う。
佐助は小十郎と会ったとき、嬉しくてしょうがなかった。おんなじだ、と思って泣きたくなった。おなじように誰かに
会いたくてしょうがない人間が居る。そしてなにより、小十郎は佐助が幸村に死んでしまうほど会いたいということを
誰よりもよく知っていた。それだけでいいような気がした。こんなに一生懸命誰かをいとおしく思うのに、それを誰に
も解ってもらえないのはあんまりさみしすぎたのだ。
けれど片倉小十郎は相変わらず泣きたくなるほどに強くて、会うよと平然と言う。俺は会う。あのかたが俺を覚えてら
っしゃらなくとも、今のあの方に俺が必要でなかったとしても、そんなことはどうだっていい。四百年前だって、あの
方が俺を求めるから俺はあの方のお傍に居たわけじゃあねェ。

―――俺が居たかったから、居ただけだ

何も変わらない、と小十郎は言う。
佐助は呻いた。呻いてメモ用紙を破ろうとして、止めた。
もごもごと口の中でつぶやく。一度つぶやいた。それから五秒だけ黙って、またつぶやいた。そうしたらその言葉は止
まらなくなって、滝のように物凄い勢いで零れだしてきた。

「あいたい」

とうとう耳に聞こえるようになった。
それでもそれは止まらなかった。

「会いたいよ。会いたい。会いたい、会いたい」

もう途中から、それがどういう意味の単語なのかもよく解らなくなった。
まるで意味のない音の羅列のようだった。それでいて、これ以外に意味のある音などどこにもないような気がした。会
いたいに決まってるじゃねえかよと佐助は怒鳴るように言う。








「真田の旦那に会いてえよ」








気付いたらほおが濡れていた。
佐助はそれを袖で拭って、メモ用紙に視線を落とす。
小十郎の真っ直ぐな字は佐助を吸い込んでしまうような力を持っていた。迷いのない字だ。その真っ直ぐな字が、佐助
に真っ直ぐに真田幸村への道を指し示している。くしゃりと強く握りしめた。

それから泣いた。
泣くのは名前を知った日以来はじめてだった。

あの日佐助は何度も何度も幸村の名前を呼びながら泣いた。
今日は代わりに会いたいと言いながら泣いた。そうしたら途中で眠ってしまった。夢は見なかったので次の瞬間には朝
が来ていた。ひとつ伸びをして、枕元の携帯を開く。
三コール目で小十郎が出た。

「会いに行きますよ」

佐助はそれだけ言った。
小十郎はそうかとだけ言った。
携帯を切る。カーテンを開くと細かい雨が降っていた。あまりいい天気ではないなと思ったけれど、佐助はちいさく笑
ってまあいいや、とつぶやいた。
お似合いだと思った。

「各駅停車ですからねえ」

晴れた青空のなかで胸躍らせて会いに行くよりも、余程自分らしいような気がした。
メモ用紙を握りしめて外に出た。傘は持っていない。アパートの階段を下りながら、佐助は憂鬱なきもちになった。そ
れがまた自分にとても似合っていて、要するにこういうことなのだと納得した。

猿飛佐助はこんな鬱陶しい日に、真田幸村に会いに行く。

そういうことだ。
それだけのことだった。




佐助はバイクのキイを差し込みながら、鼻歌の代わりに深い溜め息をついてすこしだけ笑った。







 





転生物です。 もし本格的にやるんなら小十郎サイドがメインになるのですが、「創聖のアクエリオン」の主題歌があんまりイメージ
に合ったので佐助のほうを先に書いてしまいました。べつに続きません。



空天
2007/05/19

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