とことんついてない日というのはあるものだ。 がっちゃん、という音と物凄い激痛が額にはしるのでキョンは目を覚ました。 おのれ古泉このノーコンめ、とつぶやく。さっきまでクラスメイトの古泉一樹と谷口と一緒に野球をしている夢を見て いたので、それを引きずっている。傍らでけらけらと高い声があがった。 妹が指を差して笑っている。 おばかさん、それはボールじゃなくって時計。 「キョン君、もう起きなよう」 「あぁ―――っておい!」 デジタル時計は既に八時を指していた。 朝食もなにもほったらかしにして、髪を整える時間もなく玄関へと走ると、途中で母親に止められた。大量の桃を渡さ れる。親戚に渡せと言う。そういうのはもっと時間がある朝に言って欲しい。 玄関を出た時に携帯で時間を確認すると既に半を過ぎていた。これは一瞬でも気を抜くと遅刻だ。 全速力で年代物の自転車を走らせる。夏の朝はそこらかしこが無意味にきらきらしている。特に太陽は無意味に、不必 要に、迷惑極まりないほど熱いひかりを撒き散らす。それに目を細めながら、キョンはああ夏だなと思った。 立ち漕ぎで自転車を走らせていると、前方に見慣れた真っ直ぐな背中を見つけたのでスピードを落とす。 「おい、谷口」 「おーキョン。遅刻かァ」 「馬鹿、おまえもだ」 ひとつ小突いて、またスピードを上げた。 門が閉まるぎりぎりで走り抜ける。後ろを振り返ると、きちんと谷口も滑り込んでいた。ピースをされたので、苦く笑 いながらおら行くぞ、とキョンは言った。門が閉まるのに間に合っても遅刻しないとは限らない。担任の岡部はありが たくないことになかなか朝のホームルームに遅刻してくれないのだ。 谷口と連れ添って走って教室に滑り込むと、窓際に坐って教科書を開いている古泉一樹がにこりと笑いかけてきた。 「おはようございます」 「おーう」 「早いな」 「あなたがたよりはね」 ひょいと肩を竦める古泉に、うるせーと言い返しながら席に着く。 岡部は珍しくまだ来ていないようだった。谷口がよっしゃァ、とガッツポーズをする。キョンはほう、と息を吐いてか らへたりと机に顔をひっつけた。ひんやりと冷たい木の感触が、全力疾走で火照った肌をじんわりとひやしていく。 運が良かったですね、という古泉の声に、キョンはまぁな、と返す。自分は運が悪いほうではない。宝くじを当てたこ とはないが、偶然上から植木鉢が落ちてきたのにぶつかるなどというお約束なギャグを多用するギャグマンガの主人公 になれるほどのひどい星の下に産まれてきたわけではない。横で爽やかに笑っている古泉とちがい、頭も良い方ではな いが、斜め後ろでエロ本を広げている谷口ほど悪くもない。 我ながら、潔いほどの一般人ぶりだと思う。 がらりとドアが開いた。 「席に着けー」 岡部の間延びした声が響く。 がたがたという机と椅子が床と擦れる音が教室にしばらくの間満ちて、それから引いた。たん、と岡部は教卓のうえで プリントの束を整える。それなんですか、と誰かが聞いた。 にい、と岡部の口角があがる。 「これか、これはな」 「げ、まさか」 谷口が顔を歪める。 勘が良いな、と岡部は笑った。そうだ、抜き打ちテストだ。 えええええ、というブーイングが教室から溢れた。もちろんキョンもそれに倣ったが、そんな些細な抵抗が教室の絶対 権力者である教師に通じるわけもなく、夏の暑い一時間目から細かい数字と向き合う羽目になった。 かりかり、とシャープペンが紙を走り回る音を聞きながら、キョンはひたすらに紙面を見つめる。見つめることでなに かが浮かび上がってくるのではないかと信じているように見つめる。後ろでがーがー谷口の鼾が聞こえるが、俺は惑わ されたりしねえぞと意識を集中させた。 させたが、わからないものはわからない。 「あと五分だぞ」 岡部が笑いを含んだ声で言う。 畜生わかってるよ。横を見たら既に問題を解き終えていたらしい古泉が同情するように笑いかけてきた。キョンは目を 細めてまたプリントに視線を落とす。 それと同時に非情にも岡部の回収の声がかかった。 ついてない。 調理実習でキャベツを油に突っ込んだ。 ごお、と火柱が上がった。キョンは火柱というものを初めて見た。おかげで前髪が焦げた。畜生俺の前髪。そうぼやい たら谷口にいいじゃねえか元から短いんだからよ、と笑われる。小突いておいた。そうしたら横から古泉が、あなたの 前髪は絶妙なバランスで成り立っていますから、例え一ミリだろうとそれは大事件ですよねと言った。同意されたのに ちっとも嬉しくない。古泉の笑顔は不思議とひとをいやなきもちにさせる。 「それは大変だったね」 昼休みに、同じ部活の先輩の朝比奈みくるに愚痴ったらひどく心配そうな顔をされた。 これだよ俺の望んでいた反応は。キョンは顔を緩ませて、へらりと笑う。夏のひかりの下で、みくるの薄い茶色のロン グヘアーはまるで入れ立てのカフェラテのように見えた。きらきらしている。 中庭を歩きながら、キョンは焦げて短くなった前髪を弄る。 「いえ、まあ、俺が悪いんですけど」 「キョン君、怪我はなかったの」 「ありませんよ」 「よかったぁ」 大きな胸に手を当てて、みくるがふわりと笑う。 まるで天使のようなその笑顔に、キョンがふにゃりと気の抜けた笑顔を浮かべた瞬間だった。 「う、わっ」 どごっと鈍い音がして、体が吹っ飛ばされる。 だん、背中が地面に叩きつけられた。それで呼吸が一瞬止まる。それから息の仕方を思い出した肺がその機能を正常化 させようとしたが、それは体の上にのし掛かっている体重でかなわなかった。 視界が暗い。 誰かがキョンの体の上に乗っかっていた。 みくるが心配そうに駆け寄ってくる。 安心させようと笑いかけたかったが、そろそろ酸素が足りなくなっていた。 ―――俺が何したってんだ、ちくしょー。 放課後の教室で、キョンは頬杖をついてつぶやく。 日直なので生物のノート回収があって、一応下校時刻までは待っていなければならない。面倒臭い。ついてねえな、と またつぶやいた。きっと今日は仏滅なのだ。キョン限定で。 痛む腰を押さえながら、息を吐く。 からりとドアが開く音がして、キョンはそちらに目をやった。 「キョン君」 「朝比奈さん」 みくるがちょこんとドアから顔を覗かせていた。 下級生のクラスに入っていいのかどうか迷うようにきょろきょろと辺りを見回すみくるに、キョンは苦く笑っていいで すよ、と言った。おずおずと足を踏み入れたみくるに、どうしたのかと聞く。 「腰、大丈夫かなって思って」 みくるはちいさく笑ってそう言った。 キョンは目を何度か瞬かせてから、ああ、と笑う。 「大丈夫ですよ。わざわざ来てくれたんすか」 「あの、だって、キョン君の上に乗っかったひと大きかったから」 「まァかなり重かったです」 「大丈夫?」 「大丈夫です」 心配そうなみくるの視線に、また笑いかけてやる。 安堵したようにほうと息を吐くみくるの可憐さに和んでいると、窓の外からキョンの名前を呼ぶ声がした。窓を開いて 下を見下ろすと、古泉と谷口が校門に続く道でキョンを見上げている。 「おっせーよ!」 谷口が怒鳴った。 「悪い、俺日直」 「いいじゃんそんなの、早く野球しにいこーぜ」 「生物のノート回収しなきゃならんのだ。つーか谷口、おまえ待ってたんだぞ俺は!」 まだ生物のノートを提出していないのは谷口だけだ。 谷口はそうだっけ、と首を傾げている。横で古泉がくすくすと笑った。 「では待っていますから」 「悪い、すぐ行く」 「ごゆっくりどうぞ。お疲れ様です」 古泉の声は、離れているのによく通った。 それでいてすこしも張り上げているという印象がない。相変わらず静かで、響きがあって、なんだか高尚なクラシック の楽器のどれかのように聞いていると落ち着かないきもちになる。 窓を閉めて振り返ると、まだみくるはそこに居た。 「あの、俺今から理科室行かなきゃいけなくて―――」 「今の」 「え」 「今の、古泉君だよね」 みくるの視線は床に落ちていた。 キョンは首を傾げながら教卓に寄って、生物のノートを持ち上げながらはあ、と答える。 「古泉君って、今年の春に転校してきた古泉君だよね」 「はあ、そうですけど。ていうか、なんで朝比奈さん古泉のこと知ってるんですか」 「え、あ、ええっと、うん」 ぱ、と顔をあげたみくるは真っ赤だった。 「あのね、クラスで、格好いいって噂になってて」 「ああ―――まぁ、顔はいいです、ね」 キョンは目を細めて眉を寄せる。 古泉は春に転校してきた。顔がそこらの雑誌のモデルより余程いいのと、転校生の常で多少周囲と壁があったのが逆に 作用したのとで、すこし異様なほどに女子受けがいい。腹立たしいことだ。 それを阻止するという訳の分からない名目で始まった谷口の古泉アプローチに付き合わされているうちに、なんだかん だで連む仲になっている。人間関係とはわからないものだとキョンは老人のように思った。 みくるは邪魔してごめんね、と笑って教室から出て行った。 「さて、理科室だ」 重いノートを抱えて階段を下りる。 理科室のドアは足で開け、不気味なホルマリンたちを抜けて教卓にどすんとノートを置いた。指の先が血液が通らなく なっていたので白くなっている。ひらひらと手を振りながら、キョンはふと理科準備室のほうへ視線をやった。 がたがた、となにか音がする。 誰かが居るのだと思って、キョンはがらりとドアを開いた。 「―――あれ」 誰も居なかった。 おかしいな、と思ってきょろきょろと教室を見回す。やはり誰も居ない。 気のせいだったかな、と踵を返したら、かたん、と音がしたのでまた振り返る。 床でなにかがきらりと光った。 近寄って屈み込んでみると、それは真っ赤な玉だった。昔縁日でぐるぐると流れていたスーパーボールに似ている。大 きさはてのひらに乗る程度で、鉄かなにかのような鈍い光沢があった。 上にしたり下にしたり振ったりしながらその赤い玉を眺めていたら、がらりとドアが開く音がした。キョンは咄嗟に立 ち上がろうとして、机に手をかける。 手をかけたのは、机のはずだった。 「げ」 がさがさ、と音がした。 机の上に乗っていたノートが一斉に宙に浮く。スロゥモーションのようだった。 キョンはそれを避けようとして体を引いたが、その拍子にすり減った上履きがずるりと音を立てて床を滑り、ノートと おなじように体が宙を浮く。やべえ、と思った。やべえ、これは背中にぶつかる。 せめて受け身を取ろうと腕を後ろにやった。 目を閉じる。 かちり がさがさっ 顔にノートが乗っかっている。 キョンは口を開いて、それから目を開けた。蛙の卵子が見える。ノートだ。 腰を押さえながら立ち上がる。きょろきょろと辺りを見回すが、やはり誰も居なかった。首を傾げる。さっきはたしか に誰かが居たような音がしたのだが、と思いながら散乱したノートを見下ろす。 すこし考えてから、無かったことにした。 ドアを引きながら、それにしても、とキョンは思う。 なにかさっき、床で転んだときすごいものを見たような気がした。 言葉では説明しにくい。 イメージのようなものだ。体の中から溢れてくるような、逆に包まれているような、不思議な感触がしばらく続いた。 白昼夢ってやつかな、とつぶやきながらキョンは準備室のドアを閉めた。 次 |