「さるとび」 小十郎は擦れた声を絞り出し、佐助を呼んだ。 「その手甲で、腕でも何処でもいい、何処か、抉ってくれ」 腹の痛みで段々に意識が薄れている。 痛みを何処かに散らさなくてはすぐにでも事切れてしまいそうだった。佐助はしばらくためらうよ うに黙っていたが、そのうちに右手を小十郎の背中に回した。ぐっと強く引き寄せられる。それか ら佐助の手は、なだめるように背筋を上から下へと撫で下ろした。 小十郎は不満の唸り声をあげた。 そんなやわい刺激ではとても痛みを散らせない。 「おい、さるとび、」 「―――あんたさ」 今までも、ずっとこんなふうにしてたの? 何処か苦しげに佐助が問うてくる。小十郎は苛立たしげに眉を寄せた。苦しいのはこちらのほうで、 佐助は傷ひとつ負ってはいないはずである。だったらどうしたと言うと、佐助はまた苦しげに唸った。 「こんなふうに、―――傷を焼いて?」 「だから、だったらどうした」 「嗚呼、そんなんじゃ」 死んでしまうよ。 小十郎は獣のように唸った。もう聞き飽きた台詞である。 同情しているのだろうか。 佐助が、小十郎に? だとしたらとっととあの鋭い鈎爪で、小十郎の肌を抉るべきだ。佐助の腕は背中に押し当てられた まま動かない。しばらくしてから左手も添えられたが、そちらも矢張り添えられるだけだった。何 がしたいのか解らない。気力さえあれば怒鳴ってやりたいほどの憤りが腹を巡ったが、小十郎は舌 打ちをひとつするだけでその熱を押し殺した。 そのうちに、刃の熱が冷めてしまう。 血はすでに止まっていたが、いまだ焼き切れていない部分が生臭いにおいを放っている。小十郎は 佐助を押しのけて、のろのろと立ち上がって障子を開こうとした。 「何処へ行く気ですか」 「まだ、―――においが、残る」 それでは宴に出られない。 そう言うと、佐助にぐいと腰を掴まれ、そのまま床に叩き付けられた。だん、と音が鳴る。傷口に そのまま痛みが伝わる。背が反り返り、ひゅ、とおかしな息が口から漏れた。 「薬師を、呼ぶよ」 低くてつめたい声が落ちてくる。 飛びそうになる意識は、その言葉で辛うじてつなぎ止められた。小十郎は脇腹の傷口を押さえなが ら、奥歯を噛み、空いた右手で佐助の首元を捻った。 「止せ、と、言ってる」 「あんたの言うことなんて聞けますか。頭がおかしいンじゃないの、そんな傷で、これから宴に出 るなんて、とても正気とは思えませんよ。熱が頭まで行っちまって、どうかしてるんだきっと」 吐き捨てるように言い切ると、佐助はふと目元をやわらげた。 「ねえ、大丈夫だよ」 小十郎は眉をひそめた。佐助が何を言いたいのかが解らない。佐助は額に張り付いた前髪を払って、 労るようにそれを後ろへ撫で上げる。 「あんたが女だと解ったって、あんたの主殿はべつにあんたを戦場から遠ざけやしませんよ。それ こそ死んだらどうにもならないでしょう。そりゃよく聞く話ってわけじゃありませんけど、昔っ から戦場に出る女が居ないわけじゃあないンだから、―――ほら」 巴御前だって。 小十郎は、静かに息を飲んだ。 とおん、と、軽く背を押されたような浮遊感が背筋を駆け登る。佐助は小十郎の様子には気付かず、 安堵させるためなのか、笑みすら浮かべて言葉を続けた。 「義仲に最期まで添ったじゃないか。あんたもきっと、平気だよ」 ね、と念押しをするように首を傾げ、佐助はゆっくりと身を起こす。そして薬師を呼んでくるよと 言う。もう気を失っていてもいいよ、目が覚めたら、きっともうぜんぶ済んでいるから。 目が覚めたら、 きっともうぜんぶ済んでいる。 「―――よ、せ。よせ、止せ!」 考えるよりも先に、言葉が口から迸っていた。 驚いた佐助の顔にも構わず、小十郎は無理矢理体を起こし、起こしたところで前のめりに倒れた。 佐助が庇う暇もなかった。べったりと蚯蚓のように這いつくばった小十郎は、それでも首だけ亀の ようにもたげて、佐助の顔をきつく睨んだ。佐助は困惑のいろを顔に浮かべ、半端に手をこまねい ている。差し伸べようとしたところを、咄嗟に引いたようなかたちだった。 小十郎はほとんど力のない左手を、それでも佐助の足に向けて伸ばした。足首を掴むと、かすかに それが強張るのが解る。顔を見るほどにはもう、小十郎の気力がないので彼の表情は解らない。 「さるとび」 口から辛うじてこぼれた声は、ほどんと息に近かった。 「猿飛、頼む、誰も呼ぶな。頼む」 巴御前だって、という佐助の言葉が耳の奥で騒いでいる。 巴御前だって、―――巴御前だって? 冗談じゃない。 小十郎はほおの内側を噛み締めた。 あんな目にあって堪るものか。 「前に誓ったろう。誰にも、誰にも言わねェと誓ったじゃねェか!」 這いつくばって、敵国のしのびに縋り付く。 端から見ればどれほど滑稽な格好であったかは想像に難くないけれども、もちろんそんなことに構 っていられる余裕などなかった。小十郎は震える右手も懸命に伸ばし、佐助の足へ添えた。 もし、と思う。 政宗に知られたら、 背筋が震えた。 「猿飛、お願いだ」 擦れた声は、どこか媚びさえ含んでいる。 小十郎はそのことを自覚したが、恥じようとは思わなかった。 相手が下郎でも親の敵でも、たとえ鬼でも、構わない。自分がどれだけ惨めであったとしてもそん なことはどうだってよかった。 政宗に知られたくない。 知られたら、 知られたら知られたら、知られたら。 「頼む、―――頼む、頼む。頼む」 佐助は黙ったまま答えない。 かといって立ち去るということもなかった。 小十郎の縋っている足はぴたりとその場で静止して、まったく動かなくなってしまった。それが自 分にとって都合のいいことなのか悪いことなのか、血が多分に漏れた鈍い頭ではまったく判断しか ねた。随分長い刻が経ったようだった。あるいはほんのすこしの刻が流れただけであったやもしれ なかった。ともかく小十郎の頭は段々に霞みがかっていって、次第に縋る腕にも力がこもらなくな り、声はか細くなり、最後にはとうとうどちらもまるきり消え失せてしまった。 |