かさとも物音を立てずに忍び寄ることなど、赤児の首を捻るよりも簡単に出来る。 佐助は息を潜めて屋根裏の天板を外し、座敷を見下ろす。小十郎は既に寝入っていた。横を向いて、寝ているという のに顔は厳しい。喉の奥でだけひそりと笑い、佐助はするりと畳の上に降り立った。 小十郎の布団に近寄り、顔を覗き込む。眉間に寄った皺にまた笑って、それからほうと息を吐いた。 飾り窓から、ひかりが差し込んできている。 それ以外にはひかりは無い。 雪は降っていない。代わりに星からもれるひかりがさんさと降っている。 風が無いので音もしない。小十郎の寝息だけ聞こえる。佐助はしばらく、ころんと小十郎の布団の横に寝転がって、 ちいさな寝息を立てる男の顔をじいと眺めた。気配は消したまま、小十郎の顔を延々と眺める。知らず笑みがこぼれ てきてしまって、変態くせえなあ、と佐助は呆れて眉を寄せた。まったく、参ってる。 髪に手を置いて、軽く撫ぜてみる。 「、ん」 身じろぎにもれる声は低い。 その低い声に、じん、と身体に痺れが行った。 「こりゃどうも、相当だな」 苦く笑って吐き捨て、佐助は起き上がった。 そしてするりと帯を解き、寝間着の袷を緩めてから布団を捲り、こそりと潜り込んだ。小十郎の身体を跨ぎ、身体を 押しつける。とくとくと、左の胸が鼓動を刻んでいるのを聞いてうっとりと佐助は目を閉じた。 「――――――――ッ、誰だッ」 「あ」 そこでようよう小十郎が目を覚ました。 驚いて飛び退こうとするのを、佐助は襟を引き寄せて「俺だよ」と留める。 小十郎は片腕を突いて、おのれの身体の上に乗っている佐助をしばらくまじまじと凝視して、それから呆れたような 長い息を吐き出した。ぱしん、と額を軽く叩かれ佐助は目を閉じる。 「なにしてんだ、おまえ」 小十郎は髪を掻き上げて吐き捨てた。 佐助はそれには答えず、布団をぱさりと落として半身を起こした。小十郎が目を見開く。 佐助はにいと口角を上げて、前が開いている寝間着を見せつけるようにはらりと肩から滑り落とした。そして、小十 郎の肩に腕を掛け、首を傾げて「お礼をしにね」と笑ってやる。 随分あんたにゃ、世話になったからさ。 「でもま、生憎俺様にゃあ御家老様に献げるようなもんが“これ”以外にありませんでね」 肩を竦めて、足を小十郎の腰に絡ませる。 既に腰巻きは取り払ってあって、下には何も履いていない。それを小十郎の腿に擦りつけるようにすると、それまで ぼうとまだ半ば眠りの中に居た小十郎がようよう目を瞬いて、正気付いた顔に戻った。 切れ長の、背後の夜より尚濃い黒の目が佐助の赤い目を見据える。 佐助はそれに、こくりと喉を鳴らして目を細めた。肩に置いた手を首に回し、首の後ろを撫でると小十郎の眉が寄っ て、口元が歪む。それから諦めたように息を吐き、突いているのとは逆の腕を小十郎は佐助の首に回した。 それに笑みを浮かべ、口付ける為に佐助はゆるゆると顔を近づけようとして、 「――――――――いってぇッ」 「阿呆か」 「だだだだだッ、ちょ、待って、離せってッ」 思い切り髪を引っ張られた。 小十郎が、佐助の後ろ毛を引っ張っている。 ぶちぶちと何本かが頭皮から剥がれる感触がした。佐助は悲鳴を上げて、頭を抱えて小十郎の身体から飛び退く。 目を見開いて小十郎を睨み付けると、涼しい顔をした男ははらはらと佐助の髪をてのひらからこぼし、舌打ちをして から何時の間にか落ちていた寝間着をぱさりと頭から佐助に被せ、 「阿呆」 と頭をぽんと叩いた。 佐助は目を瞬かせて、へ、と声をこぼす。 がしがしと乱暴に髪を掻きむしる音が続いた。 「阿呆なこと考えてんじゃねェよ。今が何時だと思ってんだ。もうすぐ夜が明けるぜ」 「――――――――あ、ほなことって、なぁッ」 「阿呆だろ。阿呆」 あほあほ、と繰り返して小十郎は佐助の寝間着をひょいと頭から肩に落とす。 しかめ面になった佐助にくつりと笑い、襟を合わせながら「変な気を使ってんじゃねェよ」と息を吐く。 「それに第一」 「なんだよ」 「なんだ、こりゃ」 きゅ、と襟を絞られる。 帯を手渡され、佐助はむうとほおを膨らませた。このほうがいいだろ、と帯を放って顔を背けると、小十郎はまた 阿呆と吐き捨てて拾い上げた帯で佐助のほおをぱしぱしと軽く打った。 背中に腕を回し、ぐい、と腰を帯で締める。 「俺は偽物の胸揉んで喜ぶ趣味は無ェ」 小十郎の言葉に佐助はおのれの胸を見下ろした。 普段は真っ平らに近い胸板に、柔らかな膨らみがふたつ備わっている――――――――正確に言えば、さっき備えた。 偽物じゃねえ、と佐助は帯を締めながら呻いた。 「ちゃんと感触もありますよ」 「そういう問題じゃあねェ」 「じゃあどういう問題なんだよ。触ってむにむにしてりゃあいいじゃねえかよ」 「黙れ阿呆」 「なんだよ唐変木」 悔しいやら情けないやらで涙が出そうになるのを堪え、小十郎を睨む。 小十郎はそれに肩を竦め、佐助の頭をぽんと叩いた。そのままさらさらと固い髪を撫で、困ったような顔でちいさ く笑みの出来損ないのようなものを浮かべる。 阿呆なことするな、と言う。 「そんなつもりで、おまえの世話をしてたわけじゃねェんだよ」 するりと手が頭から落ちる。 佐助は眉を寄せて、歪んだ笑みを浮かべた。 「お優しいことだな、御家老様は」 立ち上がり、布団を小十郎の顔に投げつける。 小十郎は眉ひとつ動かさずそれをどけ、佐助を見上げてとっとと寝な、と手をひらひらと振った。かあ、と頭に血が 昇る。殴ってやろうかと戦慄く手を抑えつけ、無理矢理に笑みを浮かべて「おやすみ」と怒鳴るように吐き出した。 小十郎はそれに、おう、と返す。 それから佐助の名を呼んだ。 「猿飛」 「――――――――なんだよ」 「明日だな」 「明日、ああ」 佐助の足はもう治ったので、明日、幸村が迎えに来る。 「主に情けねェ顔を見せるわけにもいかんだろう。早く、寝ることだ」 ちらりと小十郎が笑った。 佐助はそれで、怒る気も失せてしまった。 くしゃりと笑って、どうも、と頭を下げる。邪魔したねと言えば、べつに、と小十郎はほんとうに「べつに」何も思っ ていないという顔で首を振る。胸の辺りがぎゅうと締めつけられて、息が出来ないような感触がするのを佐助は必死で 振り切って、おやすみと再び被せて座敷を出た。 からりと障子が閉まった後で、佐助は深く息を吐き出そうとして止めた。 「――――――――、ぁ、ちくしょう」 代わりに飲み込んで、上を向く。 赤い月が空の端っこに浮かんでいる。それを睨み付け、佐助はすんと鼻をすすった。 いっそ「気色悪い」と振り払われたほうが幾らかはかなしくなかったのではないか、と佐助は思った。阿呆なことか、 とつぶやいて蹲る。雪国の冬が、身体に雪崩れてひどく寒い。 べつに想って欲しいと思ったわけでもない。 一回抱いて貰えれば、 「あぁ、あっと」 佐助は無意味な声を吐き出して、立ち上がった。 既に夜は白み始めていて、朝が押し寄せている。ふるりと震える肩を抱いて、佐助はおのれの寝所に戻る為に小十郎の 寝所の前からひたひたと歩き出した。 久方ぶりに会った幸村は、見合った瞬間に佐助に縋ってきた。 伊達政宗も片倉小十郎も居る場で、駆け寄って飛び込むように佐助にしがみつく。 「佐助、無事であったかッ」 「ちょ、と、旦那、痛ぇよ、痛いってッ」 力任せに抱き締められて、軋む骨に佐助は悲鳴をあげる。 さすけさすけと幸村は構わずに佐助を抱き締める。大地色の髪から、日の匂いがふわりと浮かんで佐助は思わず目を 細めた。ごめんよ、心配かけてと笑いながらその髪にほおを擦り寄せる。 ようよう身体を離した幸村が、にこりと顔を笑みで満たす。 「御館様もご心配しておる。早う帰るでござる」 「はいはい。畏まりました」 「片倉殿」 佐助の後ろに居る小十郎に、幸村は頭を下げた。 「お世話をお掛け申した。忝のうござる」 「なに、元は俺のせいだ」 「このお礼は、いずれ必ずや」 「HA!随分だなァ、真田幸村」 小十郎の傍らで脇息にもたれている政宗が愉しげに笑う。 たかがしのびに入れ込んでやがる、と言う政宗にかすかに幸村の顔が不快で染まった。が、小十郎が「政宗様」と窘 め、ひょいと政宗が首を竦めるのでそのいろはすぐに失せた。 佐助はくすぐったさに、痒くもない首もとをてのひらで擦る。 「こちらこそ、おまえの大事な部下に傷を付けた。謝るのは俺のほうだ」 小十郎は頭を下げる。 幸村は慌てて首を振って、頭を上げてくだされ、と小十郎の肩を掴んだ。 それにすいと小十郎の視線が上がる。黒い目が二揃い、ひたと合わせられる。小十郎はかすかに口を動かした。それ に幸村の肩がひくりと蠢くのが佐助から見えたが、家老が何を言ったのかまでは読めなかった。 幸村はすこし考えるように黙ってから、政宗を見た。 「政宗殿」 「おう、なんだ」 「暫し、時を頂いてもよろしいか」 「AH?なんでだ?」 「片倉殿と、お話ししたい旨がござる」 「小十郎と」 政宗はふいと小十郎を見た。 主の視線に小十郎は視線で頷く。 しばし間を置いて、政宗は仕様がねェなと首を竦めて扇子で襖を指した。外で話して来いということだろう。佐助は ぽかんと目を見開いて主と小十郎を交互に見上げ、最後に政宗を見た。 切れ上がった独つ目が、おまえは行くなと細められる。 佐助は仕様がなく襖の向こうに消えていくふたりの背中を見送った。 「なんなのさ、あれ」 「俺が知るか。あいつらが話してェってんだからそうさせる他ねェだろう」 「――――――――ふう、ん」 釈然としないまま佐助は鼻を鳴らす。 政宗も退屈そうに襖を眺めている。独つきりの目はいかにも性格が悪そうに釣り上がっていて、唇は薄く情が薄そう に見えた。佐助は眉を寄せ、これがなあ、とこそりと胸のうちで首を傾げる。 これが小十郎があんなふうに笑って「しあわせだ」と言う主か、と思う。そう大した男にも見えない。これならうち の旦那のほうが全然良いよな、と思ってから気まずげに佐助は視線を畳に降ろした。政宗が不思議そうに「どうかし たか」と問うのにへらりと笑って誤魔化す。 耳が熱くて、おまけに首まで熱い。 まるきり嫉妬じゃねえかと佐助はうんざりした。 幸村と小十郎の話は、そう長くは掛からなかった。 四半刻も無い。すぐに襖はからりと開かれた。終わったのか、と問う政宗に小十郎は頷いて、それでは、と幸村に頭 を下げる。それに幸村も頷いた。 ちらりと、小十郎の視線が佐助に向いた。 「ぁ、ああ、世話になりましたね、右眼の旦那」 佐助は笑みを張り付け、頭を下げる。 ああ、と小十郎は空返事をして、すぐに視線を政宗に戻した。 お互い従者なので、主が居る前でそう長々と話すわけにもいかない。結局佐助が小十郎と言葉を交わすことが出来た のはその一言だけで、そのまま幸村と佐助は米沢城を後にした。 内々のことであるので、城主や家老が見送りに来るわけもない。 振り返っても、誰も居ない。 そんなもんだとは思っても、矢張りすこしだけかなしいのはどうしようもない。 一応は大事をと煩い幸村の言葉の為に、佐助は騎乗したままこそりと息を吐いた。 横をおんなじように騎乗して進む幸村が、どうかしたかと問いかける。佐助は首を振ってなんでもない、と笑った。 「いろいろ世話になったからね。些ッと名残惜しかっただけですよ」 「そう、か」 珍しく語尾を濁して幸村が答えた。 佐助は首を傾げ、どうかしましたか、と逆に問うた。 幸村はそれに驚いたように背筋を伸ばして、なんで、とまた問い返してくる。佐助は笑い声を立てて、そんないかに も何かあるって顔されちゃ解りますよと言ってやる。 幸村はすこし黙ってから、またそうか、と言った。 それから佐助に視線を合わせる。 「佐助」 「なんですか」 「其は、しあわせ者だな」 「は」 ぱちぱちと瞬きをする。 照れくさそうに幸村が笑みで顔を崩した。 「おまえが居ない間に、なんとなく解ったでござる。 其は随分、佐助に甘えておったのだな。御館様にも叱られてしまった」 おまえには過ぎたしのびと言われた、と幸村はすこしさみしそうな顔で言う。 佐助は慌てて首を振って、まさか、と大仰に両手を広げた。幸村が驚いて手綱を握れと窘めるのにも構わずに、佐助 はまた首を振って「そんなことねえよ」と呻く。 「そんな、それは、俺のほう、だし」 「いや、其のほうでござる」 「違うって、俺こそ、いや、その」 口から危うく恥ずかしい言葉が出てきそうで佐助は一旦息を吸い込んだ。 幸村はひとり納得したように頷き、「片倉殿にも言われたでござる」と続ける。 「――――――――へ」 佐助は目を丸めた。 片倉殿。 「それって」 「うん」 「かたくら、こじゅうろう、のこと?」 「それ以外に居るでござるか」 「居ないけど」 「先程」 襖の向こうで言われた、と幸村は前を見据えて言う。 ――――――――あれは、大したしのびだ。大事にしてやれ。 佐助は口を開いたまま、閉じることを忘れてしまった。 幸村は目を閉じて、俺は誇らしいぞ、と口だけ笑みの形を象る。あれほどの方にそう言われる者は、そう多くはな かろう。それからすこし悔しげに顔を歪ませる。 「ひとに言われるまで気付かぬとは、其も未熟でござる」 佐助に顔を向け、困ったように眉を下げる。 佐助はそれにようやく我に返って、また首を振ってやった。 お侍がそんな顔をするもんじゃないよと笑ってやれば、幸村はそうだな、と眉を上げた。一層精進いたそうと、意 気込んでいる。佐助はそれを眺めてちいさく笑んで、それから目を伏せた。 胸の上辺りが、やたらにざわざわと騒がしい。 喉に何か詰まったようで、息が上手く吐き出されない。 「――――――――困ったな、こりゃ」 幸村に聞こえないようにつぶやく。 些っとも報われいないのに、歓びが体中から溢れて、溶けてしまいそうな感触がする。 それともう離れてしまって、会うことも希になって、疎遠になっていく確信から来るかなしみが複雑に絡んで名前 を付けようのない感情がくるくると佐助の中で旋回する。くるくる、くるくると、廻れば廻るほどそれはいろんな ものを付け加えて坂から転がる雪玉のように大きくなっていく。 想いが大きすぎると息すら出来なくなるのだと、詰まった息を吐き出すために佐助は強く喉をさすった。 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