月に似た人。
月が出ていた。
満月だ。やわらかな乳白色のひかりがてらてらと降り注ぐなか又市は大木に身を寄せ、体を丸めて眠ろうとしている。宿
場町まではまだ大分距離がある。まだ春先で、風も暖かいとは言えぬが野宿をするしかないだろうと又市は早々に判断し
たのだ。
ひゅおぅ、と。
風がおおきく鳴いた。
かさかさと枝が擦れて、はらはらと緑が散って又市の御行包みにふりかかる。それを鬱陶しげに振り払おうと目を開いて、
又市はそのまま動きを止めた。
月が出ていた。
それが木々に光を投げかけ、まるで道のようにその光が葉の間からこぼれ落ちている。点々と続く光の道は、道から大分
離れたところにある、小さな炭焼小屋のようなものまで繋がっていた。
(狐かなんかか)
とは小股潜りは思わぬ。
立ち上がりそのまま光を辿った。風は強く、そして冷たい。それを凌げるだけでもありがたい。
御行振りの小股潜りは狐も狸も神も仏も信じていなかった。躊躇いもせずに掘っ建て小屋の扉を開く。
なかでがさりと音がした。
なにか、がいる。
「先客ですかィ」
内心舌打ちでもしたいところを、又市は穏やかな声で問いかけた。
どうせ一夜の雨風凌ぎ、命を取られなければなにが相方でも構わぬ。狐か狸なら食ってしまおうと又市は思い、
「又市さん、ですか」
その声に、常になく呆けた。
暗がりでその声の主の姿を見ることは叶わない。が、どこか間の抜けたほそい音に聞き覚えはいやというほどにあった。
今にも取れてしまいそうな扉を閉め、又市はなんだか自分でもよく解らない溜め息と一緒に、先生ですかい、と問うた。
暗がりの影が、嬉しそうに腰をあげる。
「すごい偶然ですね」
ほんとうに。
神も仏も信じてはいないが、それでも人との縁というのはあるのだろう。百介らしき影が、かちかちと石で火をおこして
いる。やわらかな赤が、蝋燭に点されて小屋の中が橙で満ちた。
蝋燭問屋の若旦那は、それをもってにこにことしている。
つられて又市もすこし笑った。
「どうしたンでさァ、こんなとこに」
「いえね、平八さんに信濃のほうで幽霊騒ぎがあるって聞いたもんだから、居てもたってもいられなくなりまして。
二月ほどまえに出たんですが生憎空振りで。それでもまぁ、伝承やらなんやらは聞けましたから満足はしてますがね。
それで今帰るところなんですが、どうも宿場町に着く前に暗くなってしまいましてねぇ。
野宿でもと思ったら此処を見つけまして」
「なら奴とおンなじだ。春先たァいってもまだ寒うございやすからね。
しかし先生は相変わらず物好きでございやすねェ。信濃くんだりまでおひとりで」
「ええ、善は急げと申しますし」
手に持った蝋燭は店の物だろうか。百介はそれを地面に立てて、筵らしきものの敷いてあるところを示して又市に勧める。
すこしそれはしけっていたが、無いよりはましだろう。
百介は、又市が何故此処にいるのかとは聞かなかった。
「今宵は月が見事ですね」
代わりにそう言った。
「野宿をするつもりでいたのですが。―――月明かりがね、こう、ね。
木漏れ日のようにぽつんぽつん、と零れてきて道のようになっていました。なんだか導かれてるような気がしてそれを
辿ったら此処に着いて。なんだか、狐にでも騙されているンじゃないかと思ったくらいです」
又市の居た場所からは小屋ははっきりと見えた。
反対側から来たのかも知れない。又市はいつも、表街道とはすこし逸れた道を通る。小悪党どもと道連れの時ならいざし
らず、一人旅で其処を通る理由は百介にはあるまい。
「こんなふうに又市さんに会えるなんて、月に感謝しなくてはいけません」
こうこうと蝋燭が燃えるなか、百介はゆったりと微笑んだ。
又市は。
又市は動揺していた。
百介と又市の接触は、つねに又市からの行動によっておこるものだったからこれは不測の事態である。海千山千、口から
先に産まれた小股潜りと異名をとるのは口先だけのことではなく、又市が先を読む能力に長けているからである。
だからだろうか。又市は予測不可能なことがきらいだ。仕掛けに賭じみたことがあってはならぬ、と又市は思う。
同じくらい自分のことに関しても、矢張りそう思う。金なら賭けても良い。物でも良い。
ただ、なにかしら己の一部をそれに委ねるのは嫌だった。
百介は誰より先が読みやすく操りやすく、それと同じくらい誰より何をしでかすか解らぬ相手だ。
「余程縁があるようで御座いやすね」
「そうでしょうか」
「狭くねェですぜ、日の本は。こんな小さな小屋で知古に出くわすなんざァ、針の穴みてェな偶然だ。
まァ、先生は物好きだからなぁ、ちっと違ェかもしれねェですがね」
「ひどいな」
くすくすと百介は笑い、
「でもそれなら、私はちゃんとその針の穴を見つけられたというわけだ」
と言った。
又市は一瞬黙って、それから先生は流石だねェ、と意味もなく笑った。
てのひらを握りしめると、うっすらと汗が滲んでいた。
おのれは。又市は思う。
おのれはもしかしたら百介が苦手なのかもしれなかった。
どうでもいいことを話した。百介が信濃で聞いた妖怪の話を聞いた。旅先で聞いた怪奇談などを話した。どうでもいい、
上っ面だけの会話で時間を潰すのは得意だったからそれは簡単なことだった。又市は己の内側に食い込んでくる会話を好
まぬ。道ばたの石ころやなにかの様に放って置かれるのは慣れているから、そういう風に扱って欲しかった。
だから百介が又市を見る目や、語り口や、身振りは、とても己に不釣り合いで体が震えた。
百介が己に投げかけるひかりは、分不相応なのにやわらかくて、じくじくと内側から溶かされていくようだ。
小屋の窓とも言えぬ柵の間から、昇りきった月が、蝋燭だけの室内につめたいうっすらとした光を投げかけている。百介
の頬がしろく浮き彫りになる。又市は言葉を止めた。
ふいに百介は月のようだ、と思った。
真っ暗闇にぽっかりと浮かんで白々とひかりをまき散らす。そのくせそのひかりは焼き尽くすような熱はなく、照らすの
だ。ただ空っぽの闇を、煌々と染みいるように照らすのだ。又市に百介が笑いかけるように其処に意味はなくて、ただ又
市はそれになにかを見出してる。
見出してしまう。
其処にいるだけで、百介が百介であるというだけで又市はなにかしらの意味をそこに見るのだ。
「又市さん」
百介の声にふと我に返り、又市はぎこちなく笑った。すると百介も安心したように笑った。
矢張りおのれは百介が苦手だと又市は思った。
夜が明けて、小屋を出ると、当然のように空には日が昇っていた。
百介は又市に同行を申し入れた。又市に否はない。
表通りも真っ当な宿もとれぬが構わないか問うと、何を今更と笑われた。
「又市さんたちとの付き合いも、もう短くはありますまいに」
それもそうだった。
何故今になってそんなことを考えたのだろうと、百介のほそい背を見ながら又市は思う。空を仰ぐ。春先特有の、薄染め
の藍の反物を広げたような空に、ぽっかりとうすい月が浮かんでいた。
うつくしいと、柄にもなく小股潜りは思う。
百介はべつに美童でも役者顔でもないただの青瓢箪だが、矢張りうつくしいと又市は思った。
「つきが」
前を進んでいた百介が振り返る。
「月が出ておりますねぇ」
「へェ」
「今日のように空が澄んでいると見えるのですな。
普段はあまり見えないですけれど、だから見えるととても嬉しいんです。今日はついてるなと思いますよ」
「物好きなこって」
うすい月を、敢えて昼の月を探すなんていかにも百介らしい。
月は、ちいさな雲かと思うほどにうすい。青い空に溶けていってしまいそうだ。溶けるほどに、それは昼と一体化してい
て、月というのは、むしろ夜において異質なものなのかもしれない。
だからこそ、映えるのだろう。
「又市さんも」
「・・・は」
「又市さんも、思います。夜に―――この場合は、仕掛けの時というか、お呼び頂いた時って意味ですけれど。
夜に会えるのは、それはまあそうなんですけど、特にそんなことが無いときに、ふと出会えたりするとそれはまた、い
っそうに嬉しいものです―――ああ、そうですねェ」
わたしは。
わたしはあなたをつきのようだとおもっているのやもしれませぬ。
又市は呆けた。
空を仰ぐ。相変わらずうすい月が浮かんでいる。
「つき、でごぜェやすか」
「はい」
「奴は、そんな綺麗ェなもんじゃありやせんよ」
「昨日も思ったんです。暗闇で、右も左も解らないなかで、零れる月のひかりが私を導いてくれました」
百介は笑う。
又市も無理矢理に笑みを作った。
「先生は夢ェ、見てらッしゃるようだ」
「そうでしょうか」
不満げに百介が言った。
又市は笑った。笑うしかなかった。
そんな綺麗なものに例えられても、一層己の醜さが際だつだけだと、ああ恐らくはこの青年は永遠に気付かないのだろう
けれど。じくじくと痛むのだ。なにかが。置いてきたはずのなにかがうねるように痛んだ。
百介は気分を害したように頬を膨らませて、いいですよべつに、と又市を一瞥し、
「昼の月でも、私は探しますから」
又市は黙って、それからまた笑った。
そうですかィ。百介は又市のほうを見ずに、ええ、と頷く。
ええわたしはさがします。
朝方の空に。
それはひかりなどは持たず、ただ太陽に圧倒されて今にも消え入りそうではあったが。
月が出ていた。
おわり
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わりと出会ったばっかりの頃とかで。
又市さんは百介さんにちょっと苦手意識持ってたりしたらちょう楽しいです。
空天
2007/04/30
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