冷 え た 熱 に 溶 か さ れ る 「あぁ、又市さん」 ふんわり、と頬にかすかな冷気がかかる。 「雪ですよ」 そう言って空をさす百介の指はあかい。又市はその指を追うように空をあおいだ。はらりはらりと落ちてくる雪は綿埃の ようにこまかく、重さを感じさせずに降り積もる。 まるで羽根のようですねぇと百介が言う。 その言葉になんとも無粋なおのれの思考に又市はくすりと笑った。 「流石先生は言うことが違ェなあ」 埃と羽根。品格の違いだろうか。 江戸でも指折りの大店の若隠居は、しかし御行の言葉の意味をくみきれずにこくんとかすかに首を傾げる。はらりと総髪 の頭に積もっていた雪がこぼれた。 「ヤァ、せんせぇ―――」 「はぁ」 「積もってますぜ」 ちょいと失礼、と百介の頭をはらう。凍ってしまったかのようにきれいに撫でつけられた鬢は堅かった。 冷えてやすね、と言うと、冬ですから、と返ってくる。どこか嬉しげな声であった。酔狂な若隠居は、よく、こういう顔 をぽん、と投げかけてくるので又市としてはたまに落ち着かない。老けているとは言わぬまでもどこか若さを感じさせな いちいさな顔が、ぎょっとするほど幼く見えることがある。 頬を寒さに赤く染めながら、若隠居はにこにこと空を仰ぐ。 「旅にはあまり、ねぇ・・よろしくはないが、しかし私は冬が好きですよ」 「そうですかい。奴ぁ、ちっと遠慮してぇですがねこの寒さは」 「そりゃ、又市さんその格好じゃ寒いですよ。 私など、寒がりですのでこの季節はまるで雪だるまのようだとよく言われます」 そう言って両腕を開く。綿の入った厚手の半纏は百介のほそみの体にひどく不釣り合いで又市は笑った。 百介はしかし気にもせずににこにことしている。 「そんな格好してちゃァ、商売上がったりでさァ」 雪だるまの売る札など、霊験もなにもあったものではない。 それはそうだ、と百介も笑う。 辺りは田園風景である。空は刷毛で塗りたくったように平面に白い。江戸を出たときは未だ秋の気配を感じるほどであっ たが―――思うより時の掛かった仕掛けのおかげですっかり冬である。朱引きまでは直であるが、こまかい雪は溶けずに 積もる。ならば明日には一面雪景色であろう。 「困りやしたねェ・・・どんなに早くとも江戸まであと三日はかからァ」 「積もりましょうか」 「この分だと、そうなりやしょう」 武蔵に入ったばかりだ。 しばらくは山間の道を行くことになる。雲が途切れれば良いが、雪の中山中を行くのはあまりに無謀であろう。が、かと 言って徒に長く滞在して雪に埋もれてしまっても本末転倒である。 しかし―――。 楽しげに空を見上げて水路に落ちかけてる百介を拾い上げながら又市は思う。 正直な話、又市に不都合はない。帰りを待つ人がいるわけでもない無宿人にとって、旅の期間が一週間やそこら伸びたと ころでどうということもない。しかし百介はちがう。ただでさえ予定より延びた旅である。 家の者も心配しているだろう。いかに物好きの若隠居とはいえ、百介とてこの年の瀬に足止めされるのは望むところでは あるまい。ぼんやりとそんなことを思いながら又市は百介を見た。 百介も又市を見ていたので、自然目が合う。 丸い目がどこか不安げに揺れている。 「又市さん」 「へェ」 「もし、ですよ。もし又市さんに不都合がなければなのですが」 しばし此処に滞在しては如何でしょうか―――。 又市は驚いた。 それは百介にも伝わったらしい。 無理ならいいのです、と見当違いに焦っている。 「違ェますよ、先生。それこそ、こっちがお願いしようかと思ってたくれェで」 「では」 「奴は構いやせんがね。先生んとこは拙いンじゃねェんですかい」 「べつに私が居ようが居まいが店にはなんら影響はありませんよ。逆に大掃除には丁度良いかも知れません」 あっさりと百介は言う。そこに卑屈の色はない。 又市は苦笑しながら、そこまではかからねェと思いやすがね、と言った。 「まァ・・・長くッても年は越えねェでしょうや。 いくら寒いっても、そんなに雪の多いとこじゃねェですしね。五日もすりゃァ、出立出来やすよ」 安心させようとそう笑えば、若隠居の顔色はなぜかすぐれない。 どうしたのかと尋ねるとイエなにもと誤魔化される。あの手この手で聞き出そうとするも、のらりくらりとかわされて、 結局その日又市は宿に着いても百介の真意を知ることは出来なかった。 宿に着くと、百介はいそいそとその日集めた巷説を書き記した帳面の整理を始める。 毎度のことだがなんとも楽しそうで、このときばかりは傍らの又市の存在など無いかのように一心不乱に文机に百介は向 かう。江戸の百介の店の離れに通された時に見える、考え物など捻りだしている姿もそうだが又市はそういう百介を見る のを楽しいと思う。普段穏やかに細められている丸っこい目がおどろくほどに強く真っ直ぐに紙を見据え、男にしては長 い指がさらさらと白い其処になにかをうみだす様が、どこか儀式めいていてなんとも清廉なのだ。 邪魔をせぬよう、又市はひとり風呂へと向かうことにした。 こぢんまりとした清潔な宿にはちいさいが温泉までついていて、其処から見える月夜は寒さにきんと張りつめてなかなか の絶景である。宿がすこし小高いところにあるせいで、眼下には銀世界がひろがっている。百介は喜ぶであろう、と又市 はすこし笑んだ。 そろそろ帳面の整理も終わったかという頃合いを見計らって、部屋の襖を開く。 「いいお湯で御座ィやしたよ」 「ああ、又市さん。どこかと思えば風呂でしたか」 「へぇ、すいやせん。お邪魔しちゃァいけねぇと思いやしてね・・・って先生」 帳面はすでに閉じられ、矢立とともに文机の上にある。 百介は部屋のすみもすみ、火鉢の熱も届かぬ場所で、障子を開け放ち外の猛吹雪を浴衣一枚で眺めていた。慌てて又市は 部屋に備え付けの半纏を持って百介にかぶせる。 「ぶ」 「・・・・風邪ェ、もらいてェんですかい」 呆れ果てて又市が溜め息をついた。 百介が苦笑いしながらもぞもぞと半纏を羽織る。 「雪が、すごいですね。思わず魅入ってしまいましたよ」 「魅入るのはいいでやすがね、そのまンま攫われちまわねェで下せぇよ。先生はどうも危なっかしくッていけねェや」 「攫われる、などと」 又市さんらしくもない、と百介は笑う。 又市は大分伸びた坊主頭をこりこりと掻いた。たしかに百介はいい大人であるし、どの角度から見ても男である。幾分ほ そみではあるが、どう贔屓目に見ても女には見えぬ。はかないわけでも、本人が思っているほど頼りない訳ないでもない。 けれど危うい。 「・・・雪女でも出たら、ひょいひょいついてっちまうんじゃねェかと思いやしてね」 苦し紛れにそう言う。 あやうい、などと言っても百介は理解せぬだろうし、それを言葉としておのれの舌に乗せることを又市は躊躇った。 否、より正確に言うならば、恐れた。言葉として、おのれの体の外に出した途端にそれは力を持つ。それは自分とそして 世界を支配し、拘束する。又市は、生来口数の多い男である。小股潜りなどという誉められた物ではない二つ名まで貰っ ている。言葉を操る男は、だからこそ言葉に操られることをなによりも恐れる。 「雪女、ですか」 百介はほわほわとしたまま、夢を見るように呟いた。 楽しそうだ。 「雪女と言ってもいろいろ居りますが」 「オヤ、こいつァ仕舞った。先生ときたら直ぐそっち行っちまう」 「ふふふ。でもね、ほんとなんですよ。第一江戸の戯作なんぞですと、雪女は恐ろしい物なことが多いですけど、民話な どですとね存外そうでもない。 私の兄のいる八王子などでは雪女郎というのが伝わっておりまして、これなんかは子どもを遊ばすんです」 「へェ、子どもをですかい」 「ええ。正月に雪が積もっておりましょう?そこにですね、自分の子どもを。 なにやら微笑ましいではないですか。ただ、まあ出会うとやはり害はあるようですが。だから八王子では子どもは外で 遊んではならぬと言うそうですねェ、松が取れるまでは―――」 ふと。 今の今まで楽しげに話していた百介が、すう、と笑みを引いた。 「・・・どうか、しやしたか」 「あ、え、いえ、なんでもないです。すいません、あぁ、眠いんでしょうかね」 百介は誤魔化すように笑って、又市から顔を逸らすように窓の外に目をやった。 雪が、すごいですねとさっき言ったことを繰り返す。嘘をつくのが下手な同伴者を、又市は呆れたように眺めた。その視 線に耐えきれなくなったのか、百介ははぁ、と白い息を吐き、 「・・・すいません、どうも。さっきから不自然ですねぇ私は」 と笑った。 「はぁ、なんぞ御座いやしたか」 「いえいえ、これといって何もないんですけど」 ただ、と百介は手を擦り合わせる。 寒いのだろう。 「ただ、そうですね。お恥ずかしい話―――というより差し出がましい話なので、お気を悪くしたら申し訳ないのですが さっき、此処にしばらく滞在ということになった時、私は正直嬉しかったんですよ。 そりゃぁ、冷静に考えればそんなに長い間閉じこめられる訳でもないんだから、晦日までには帰れましょう。 ですがね、私はすこしね・・・ああそうだ、期待したんです」 「なにを・・・で」 「あなたと」 はぁ、と白い息が宙に舞う。気付けば又市の体もすっかりと冷え切っていた。 百介の黒目がちな丸い目が、つい、と上がって又市を見据えてそれからすこし不安げに笑みの形にゆれた。 「又市さんは、いつも。松が取れるまでは来てくださらないでしょう。 だから―――ほんとうは、いつも、又市さんたちと正月を過ごしたいと思っていたんです。なにをご用意できるわけで もありませんが、ただ、単純に、あなたがたと」 「先生」 「仰らないでください。わかっております」 酒もないのに酔ったかな、と百介は笑って、また外へと体を向けようとしたので又市はその腕をとった。 見開かれた目を見ないように、そのまま火鉢のところまで百介を運ぶ。呆然としている百介の掌を、そっとおのれのそれ と重ねた。氷のように、その長い指はつめたい。 「ほら、言わんこっちゃねェ。すッかり冷えてんじゃねぇですか」 百介の白く長い指を、又市の角張った指がつうとなぜるように辿る。 ぱちぱちと火鉢がはぜた。中指に筆のたこが出来て、堅くなっている以外まるで女のそれのように百介の指はすべらかで やわらかい。労働を知らぬ手である。 又市とは違う手である。 「先生は物好きな御方だ」 ぽつりと又市は言った。 小股潜りとも思えぬ、どこか途方にくれたような声であった。 「なにが楽しくてわざわざ先生のような御方が、奴らのことなんぞをそんなに信用なすッてるんだか見当もつかねェ。 奴がただあんたを利用してるだけとは、思わねぇんですか」 御行の言葉に、若隠居はふいをつかれたような顔になってそれから、 ふう、と。 笑った。 又市は思わず口を開いてひどく間の抜けた顔をさらした。 またそれを見て、百介がわらう。やわらかい笑みだった。自然とこぼれおちるからこその、静かな。 「又市さんの手は、あたたかいですねぇ」 されるがままになっていた百介が、そう言って視線を掌におとした。 「お人柄でしょうか」 「世間じゃ、手のつめてぇ人間の方が性根は温いと言いやすよ」 「迷信でしょう。そんなの信じてらっしゃらないでしょうに」 「でも先生はそういうのお好きでやしょう」 「私のことはいいじゃないですか」 拗ねたように眉をひそめて、百介は又市の手に注いでいた視線をまた窓の外にうつす。 おっと逃がしやせんよと又市が言うと、もう行きませんよ寒いですから、と百介が首をすくめた。 「迷信は好きですけど、まるごと信じちゃいませんよ。 妖怪の話を自分で歩いて集めるのも、自分で見て確かめたいからというのもあります。 私が信じてるのはね、又市さん」 百介の目が、まっすぐ又市に注がれた。 黒い目は透明で、夜を切り取ったように静かな色をしている。百介の手に重ねられた又市の手の甲に、百介の手がまた重 なった。ひんやりとそれは湿気を感じさせた。 「自分が見て、感じて、思ったことです。それが私にとっての真実です。 私にとって又市さんはたいせつな方です。 あなたがどう思おうと、たとえ利用されているだけでも、それでもあなたの手はあたたかいですから」 私にはそれで十分です。 重ねられた部分から、又市の熱が百介の指先を溶かすようにつたわっていく。外の雪はすでにやんでいた。部屋にはなん の音もない。ただ火鉢の灰だけが煌々とあかい。 又市は。 「危うい御方だ、先生は」 そうやって笑った。 そうでもしなければ、この場から逃げ出してしまいそうだと思った。 ひんやりと湿気を含んだ百介の指に、ちいさく力が込められる。 顔をあげると、ひどく必死な顔をした百介のそれとぶつかった。 又市は。 低温の指先におのれが溶かされるような気が、した。 おわり |