・・・ 或る雨の日 ・・・









「ひっでェ雨だこと」

猿飛佐助はするりと御行包みを解いてそう言った。掘っ立て小屋の屋根を突き破ってこようかと思われるほどに雨は 強く、まだ酉の刻にも達していないというのにその小屋の桟から見えるのはただ闇である。
降られちまったな、と片倉小十郎が言った。

「運が無ェ。もちっとで宿場だってのによ」
「仕様がねえさ。さすがの俺様も、お天道さまは騙せねえや」

筵に座り込んで息を吐くと、壁にもたれかかっていた小十郎がくつりと笑った。そらァ無理だ、と言いながら小十郎 は濡れて一房こぼれてきた前髪を掻き上げる。
普段はきっちりと結われている髪が、激しい雨で崩れて首筋や額に張り付いていた。手拭いで水を拭いながら、小十 郎はそれをなんとかまとめようとしている。が、難しいらしく少しずつ眉が寄っていく。佐助はおのれの髪を手拭い でまとめてからちいさく笑った。

「乱れちまッたね」
「あァ―――まあ、明日宿場で髪結い呼べばそれで済むんだがな。鬱陶しくてかなわねェ」
「まあ我慢なさいな。あんたは俺らとちがうんだからきちんとしてなけりゃ」

佐助は笑いながら立ち上がる。
それから小十郎の後ろに座り込んで、するりと古風に銀杏頭に結ってある元結いを解いた。驚いて小十郎が振り返る が、ぐい、と手で押し戻して完全に首に垂れ下がった黒髪をすくう。

「俺様に任せてよ。ちゃんと結ったげる」
「おまえが」
「なんだい、こう見えても俺ァ器用なんだぜ」
「―――ちゃんとやらねェと承知せんぞ」
「おお怖い」

佐助は大仰に震えてから、じゃあちょっと首下げて、と言った。
小十郎は言われた通りに首をかくんと前に倒した。佐助は元結いを口に咥えながら、首筋に張り付いた髪の束を丁寧 にすくっていく。ざああああ、と絶え間なく水の滴が小屋を叩いて、その音だけが体中に染みこんでいくようだった。 佐助は髪をまとめながら、ごめんね、と言う。

「表通りを通れりゃあ、今頃次の宿場にも着けてたんだけど」
「今更何言ってやがる」

呆れたように小十郎が返す。

「解っててついてってんのは、俺だ」

佐助は顔を歪ませて、くしゃりとそれを無理矢理笑みに変えた。片倉の旦那にゃかなわねえや。そう言う。
適当に髪を集めて、とりあえず上にまとめる。佐助は小十郎に、悪いけどこれ抑えておいてくれる、と言った。すい、 と小十郎の腕が伸びてきて、髷の部分を長い骨張った指が抑えつける。
佐助は項から後頭部にかけてのほつれ毛を手櫛で丁寧に拾い上げて、

ふとそこで指の動きを止めた。

「猿飛」

小十郎が不思議そうな声で名を呼んだ。
佐助はそれには応えずにただじいと小十郎の項を見下ろした。普段顕わにされているそこは、初夏の日差しに照らさ れてうすく赤くなっている。拾い上げた髪を片手で押さえながら、佐助はもう片方の手でつう、とその赤い項を撫でた。 ひく、と小十郎の肩が揺れる。

「おい、猿飛」
「あんたの髪はえらい根性してるね。些ッともまとまりゃしねえ」

不満げな声を一蹴して、佐助はけらけらと笑う。
小十郎は舌打ちをしたけれども、佐助の動きが髪結いの一環であると判断したのかそれ以上なにかを言うことはなか った。佐助はまた指を小十郎の肌に這わせる。首の骨が浮き出ているのをなぞって、それから耳の後ろを軽く指の腹 で押した。耳の後ろは日に照らされなかったのか、そこだけいやにしろかった。
ぐるりと耳の後ろを指で撫で回していると、痺れを切らしたように小十郎が唸る。

「随分と悠長だな」

もういい、と小十郎は鬢を抑えていた手を離そうとした。佐助はその手におのれの手を重ねて止めさせる。

「駄目だよ」
「だったら早くしやがれ」
「おいおい、ひとにやってもらってその言い方はねえや。
 こちとら出来るだけ丁寧にやろうとしてるだけですぜ。なんたって」

佐助は体をすこし倒して、小十郎の耳元につぶやいた。
なんたって、他ならぬ先生の髪結いだものね。

「力も入ろうというものだろ。
 さあさあ、客は黙って髪結いに任せておけばいいんだよ」

佐助は笑いながら体を離した。
小十郎はしばらく黙っていたが、そのうち諦めたように息を吐いてとっととしろ、と言う。承知仕って御座い、と佐 助は戯けるように言ってから、また視線を小十郎の晒された項に落とす。
小十郎の両手は乱れた髪を抑えるために後頭部に添えられている。それがまるで自らその首筋を差し出しているよう に見えて、佐助は苦く笑ってそれからこくりと喉を鳴らした。指でゆるゆると項を撫でる。そのうちそれではつまな らくなってきたので、指を離して唇を押し当てた。
小十郎の首が驚いたように跳ね上がる。

「おい、さると―――ッ」
「煩いおひとだ。お黙りよ。そんなに動いちゃまとまるものもまとまらないぜ」
「てめェ、どの口で」
「俺ァ髪をまとめてるだけだよ、先生」

生え際の辺りに殆ど口づけるほどまで近寄って、そこでくつくつと笑う。
そうすると吐息がかかるのか、小十郎の体がふるりと震えた。佐助はにいと口角をあげてからまたそこに唇を当てる。 指でなぞったところをそのまま唇でなぞって、耳の後ろの滴をぺろりと舐める。はらりと黒い髪が一房落ちてきた。 視線をあげると、小十郎の手がかすかに震えている。

「駄目じゃない、ちゃんと抑えてなけりゃあ」

佐助は落ちてきた髪ごと舐め上げて、それを小十郎の手のなかに収めるように押し込んだ。それで終いにしようかと も思ったが、かすかに震えている指を見ていたらどうしてもそこにも口づけたくなってしまう。
佐助はすこしだけ考えてから、矢張りその指の先にも舌で触れた。

「指だよ旦那。ね、濡れてるから」

何かを言われる前にそう言って、小十郎の指をぴちゃぴちゃと舐める。
まるで犬のようだ、と佐助はおのれでおのれを嗤った。先ほどまで泥土のなかを歩いてきていたので、小十郎の指はかすかに土の味がした。爪のなかには茶色い固まりがこびり付いている。佐助はそれを丁寧に舐めとって、手首に浮き出た血管をかるく噛んだ。 耐えかねたような声で小十郎が、さるとび、と佐助を呼んだ。
その声にふと我に返る。

「―――あァ、ごめんよ片倉の旦那。
 すぐ仕上げるから、もうちょっと待って」

佐助は手早く髪をまとめあげ、もう離していいよ、と小十郎の手を外させた。
は、と小十郎が息を吐く。その音を聞きながら佐助は鬢を手櫛で流して、後頭部のやや上方で元結いで結い上げた。 出っ張っている部分やほつれた髪を直すと、殆ど元と変わらぬ形に小十郎の髪は結い上がる。
さあ終いだ、と佐助は掠れた声で言った。

「我ながら良い出来だよ」
「―――そらァ良かったな、おい」

恨みがましい目で小十郎が振り返る。
丁度今佐助たちを覆っている夜を切り取って嵌め込んだような目が、先ほどまでの行為でかすかに水を含んできらき らとひかっていた。佐助はこくりと息を飲む。それから困ったようにへらりと笑った。
さっきのは―――と小十郎が口を開くのと同時に、佐助は立ち上がって小屋の引き戸のところまで駆け寄り、雨の具 合はどうだろうかねえ、と言う。
相変わらずざあざあと激しく雨音は鳴り響いている。聞けば解るだろうよ、と小十郎は言った。そうだねえ、と佐助 は返し、しかし随分良い音だ、と笑う。

「なんだか此処は暑苦しいね。
 俺、ちょっと涼みがてら雨に打たれてくるよ」

へらりと笑いかけて、佐助は引き戸を引いた。
小十郎がおい、と静止する声を背中が聞いたが、なかったことにして外に出る。外は闇だった。一寸先も覚束ぬよう な、完全な闇であった。それを切り裂くように、雨の滴が斜めに大地を叩いている。
佐助は大粒のそれに打たれながら、ほう、と息を吐いた。

「―――なにしてンだ、俺」

髪を掻き上げて笑う。
真っ暗な空を仰いで目を閉じる。すると、先刻まで見ていた小十郎の項だとかこぼれおちてきた髪だとか指の味だと かが蘇ってきてしまって―――あわてて佐助は目を開いた。
そうしたら今度はあの男の目とおなじ色が飛び込んでくる。




どうしていいか解らなくなって、佐助はとりあえず口を開いて雨の滴を飲み込んだ。








2007/07/22



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