疑いは決定的な場面で産まれるものではない。 それは往往にしてふとした日常の隙間にこそ産まれ出でてしまうものなのだ。疑いがそのような性質のも のでなければ、つたはおそらく生涯幸せに生きることができただろう。夢に見た、また誰もが夢に見るに ちがいない生活がつたの前には延々と続いていた。やさしく前途洋々とした良人に、良人を愛する主、そ してこれから自らの手で築いていくべき新しい一門。 女として望むべきものはすべてがそこにあった。 小十郎と祝言を挙げ、二度目の春が来た頃だった。屋敷に大きな鉢が届けられた。見たこともないいろの 芍薬がそこには植わっていた。しろい地に、紅がところどころに散っている。鉢に遅れること一刻ほどで 良人も屋敷に帰ってきた。小十郎はとても上機嫌でその鉢をつたに見せた。 「政宗様からの賜り物だ」 「まあ、政宗様から」 「あァ、大切に庭に植えさせるよう、庭師に伝えてくれ。政宗様が直々にお選びくださったものだ。でき うる限り、うつくしく咲かせて御覧に入れなけりゃならん」 「そうですわね」 たのしそうに芍薬を眺める小十郎に、ふと、つたは奇妙な感触を覚えた。 つたは形の良い細い眉を寄せ、胸に手をやった。鼓動が不規則に大きく揺れているのが解った。つたは混 乱した。どうして急にこんな心地になるのか理解ができなかった。 小十郎はいとおしげに芍薬を眺めていて、つたの様子には気付かない。 そこではたとつたは思い当たった。 思い当たった瞬間に、全身が水を掛けられたようにさあっとつめたくなった。肌が粟立ち、頭ががんがん とおかしな音で満ちた。つたはよろよろと立ち上がり、その場を辞した。小十郎はすこし不審げにつたを 見やった。良人の視線につたは必死で笑みを浮かべ、庭師を呼んで参ります、とだけ告げて座敷を出た。 廊下を小走りに渡って、つたは出来うる限り小十郎から離れるようにと台所へ向かった。 夕餉も済んだ台所には女房も居らず、人気はなかった。つたは荒いだ息を整えながら、額にてのひらを押 し当て、柱に背を預けた。それから目を閉じた。先刻の良人の嬉しげな笑みが瞼の裏に浮かんだ。 つたはずるずると柱に寄りかかり、体を床へと落とした。 おんなじだ、とつたは思った。 おんなじなのだ。 小十郎が語る芍薬は、彼がかつて語ったつたとまったくおんなじだ。 つたはそのことをどう考えていいのかよく解らなかった。 揺れる胸を必死で押さえつけ、息を深く吐き出し、また深く飲み込む。どういうことだろう、とつたは考 えた。小十郎はつたと会った時に、政宗様が選んだつたを幸せにすると言った。小十郎は政宗から賜った 芍薬をうつくしく咲かせると言った。 そのことにどうしてこんなに自分は動揺しているのか。 つうっと汗がこめかみを伝うのにつたはぎょっとした。しかとそのふたつの事実の間にあるものにつたは 思い当たってはいなかった。けれども、知ってしまった、という奇妙な絶望がそこにあることは確かだっ た。知ってしまったのだ、とつたは思った。 知ってしまった。 途端、それまでの幸福感はぱちんと弾けた。 「つた」 がらりと引き戸が開く音につたは慌てて体を起こした。 引き戸の先には小十郎が立っていた。つたは目を見開き、矢張り慌てて立ち上がった。小十郎はそれを手 で制して、どうした、とつたに近寄ってくる。前まで来たところで、良人はつたの額にその大きなてのひ らを当てた。 「具合でも悪いのか。顔色が随分悪い」 小十郎の声は相変わらずやさしかった。 つたは知らず涙を流しそうになった。それを咄嗟に堪え、必死でほほえむ。 「いいえ、おまえさま。なんでもありませんの。ただすこし、眩暈がしただけ」 「なら、いいんだが。無理はしねェようにな。春先で忙しいんだろうが、もし何だったら姉上を呼べ」 「大丈夫ですわ。ご心配おかけして申し訳ありません」 つたは頭を下げた。頭を上げた後は、にこりと笑って、酒は如何ですか、と小十郎に問うた。そうすると 小十郎はそれで安堵したようで、解りにくいかすかな笑みを口元にだけ浮かべ、あァ貰おう、と言った。 つたは良人の背中を見ながら、良人はやさしい、とちいさく口のなかでつぶやいた。 良人はやさしい。 けれどもそれは誰にやさしいんだろうか? 小十郎はつたにやさしい。つたを大事にしてくれる。けれども小十郎は矢張りおんなじように芍薬を大事 にするだろう。あの大輪の花が庭に根付き、季節毎にうつくしく咲くことを精一杯に目指すだろう。 そして咲いた芍薬を彼は誰に見せるのかと言えば、無論その贈り主である政宗に見せるのだ。 つたを政宗に見せるように。 ぱたんと引き戸が引かれて閉じた。 それを見計らい、つたは嗚呼と再び床に崩れ落ちた。泣けはしなかった。泣くような要素は何処にもなか った。かなしいわけではなかった。悔しいのともまた違った。小十郎は最初から何もつたを偽ってなどい なかったのだし、政宗の言葉もまったく本当だった。 ただつたが勘違いをしただけだ。 中心点は自分ではなく政宗だったのだ。 小十郎は政宗の選んだ女だから自分を大事にしているだけなのだ。 そのことは矢張り、つたを絶望させた。かなしくも悔しくもなかったが絶望させた。愛されていないわけ ではない。小十郎はつたを愛しているには違いなかった。おんなじように政宗から賜った芍薬や笛やなに もかもを愛するように、小十郎はつたを愛している。これからもきっと誰よりも大事にしてくれるだろう。 つたは誰でもなく政宗によって選ばれたのだから。 嗚呼でも、それはひととして愛されていると言えるだろうか? 良人にとっての自分は装飾品のひとつと変わらぬのだ。そんな酷い話があるだろうか。 つたは絶望した。幸福感などすでにひとかけらもなかった。すでにつたは小十郎を愛してしまっていた。 それは今更どうしようもなかった。小十郎と離れることなど考えようもなかった。片倉の家はすでにつた の作品でもあった。それは小十郎と共に作ったいとおしいこどもですらあった。だからこその絶望である。 小十郎はこれからも今までとおなじく、つたをいとおしむだろう。 つたはこれからも今までとおなじく、小十郎の傍に居るだろう。 そんな苦しい幸福があるだろうか? それは幸福だろうか? けれどもつたはその道を選ぶしかなかった。つたは息を吐いた。そして立ち上がった。それから女房を呼 び、小十郎の座敷へ酒を運ぶように手配した。そして庭師に芍薬を取りに行くように命じた。それから庭 で顔を洗い、一旦寝所へ行ってから軽く白粉を叩いて紅を引いた。 そしてつたは小十郎の待つ座敷へ向かった。 それから二月ほどしてから、子を孕んでいることが解った。 薬師はにこにこと笑って、お目出度うございます、とつたに告げた。矢内の家から共に連れてきた乳母は 泣きながら喜んだ。つたはしばらく弛緩してから、薬師に告げた。 「このこと、小十郎様には内密にせよ」 夏の盛りで庭では頻りに蝉が鳴いていたので、薬師は一瞬つたの言葉が聞き取れなかったようだった。つ たは再びおんなじ言葉を薬師に告げてやった。ようよう聞き取れたらしい薬師はひどく戸惑った様子だっ た。しかし、だの、ですが、だのという半端な逆説詞を口にしては黙り込んだ。 つたは首を振って、腹をさすった。 「後生だから、言わないでおくれ」 つたにはもう解っている。 ややが出来たと告げれば、顔色ひとつ変えずにそれは流せと良人は命じるだろう。 政宗の正室には未だ子が居ない。他に多く居る側室にも兆しはない。そんな状況で家臣に子ができること を小十郎が良しとしないことは考えなくても解ることである。良しとしないどころか、良人は誰にも知ら せず腹の子を無かったことにするに違いない。政宗と比べてしまえば、片倉の家ですら小十郎のなかでは 取るに足らない些末な事象に過ぎない。 でもつたにとってはそうではない。 つたにとってはそれが全部だ。 つたは両手でまだ平らな腹を撫でた。そしてにこりと薬師と乳母にほほえんだ。 「折を見て私から話すから、案じずともよい」 ここに小十郎との子が居るのだ、とつたは腹を撫でながら思った。 それは私の物だとつたは強く思った。それは私の物だ。私が作った片倉の家を継ぐ大事な子なのだ。小十 郎にとっていかに不要であっても、つたにとっては何よりも重要な物だ。渡すものかとつたは思った。彼 はきっと事も無げにそれを捨てることができる。腹から出た子は政宗とは関わらない。小十郎が大事にす る由がない。そう考えると目の前が水で揺らぎそうになった。たまらなくなった。 つたは天井を向いて、立ち上がり、浮かんだ水をぐっと飲み込んだ。 障子を開き、庭を眺める。庭には春に植えた芍薬が大きく花開いていた。良人が庭師に命じて誂えさせた 庭は京風にできあがり、典雅である。つたはくるりと振り返り、乳母に向かって笑みを浮かべた。 「政宗様からの賜り物があんなにうつくしく咲いている。一度、来て貰いたいものだとは思わない?」 乳母はさようで、とまだ戸惑った様子のまま頷いた。 つたは乳母を放って、政務を取り仕切っている良人の座敷へと向かった。そして芍薬がひどくうつくしく 咲いていることを告げた。小十郎はそうかと満足げに頷いた。つたは艶然と笑い、首を傾げた。 「おまえさま。一度政宗様をお呼びして、見て頂いたら如何でしょう」 そうだなと小十郎もそれに賛同した。 ではそのように。つたは再びほほえんで、小十郎の座敷を後にした。登城した良人は帰ってから、三日の 後に政宗が屋敷を訪れるということを告げた。つたは満面の笑みを浮かべ、それはようございました、と 言った。そして宴席の用意にそれからの三日はかかりきりになった。 三日の後、政宗は片倉の屋敷を訪れた。 政宗は芍薬を愛で、家主の奏でる笛を愛で、上機嫌で杯を重ねた。小十郎もひどく穏やかにそれに対した。 ふたりの様子を見ながら沸き上がる感情がなんなのか、つたは判じかねた。その光景は矢張りかつてのよ うにとても貴いものだった。つたはふたりの仲睦まじい様子を、小十郎に嫁ぐ前のようにただ眺められた らどれだけよいだろうと思った。しかしその時期はもう過ぎてしまった。つたは片倉の家を取り仕切る女 主人であり、なにより小十郎の妻だった。 宴がしばらく続いた後に、つたは政宗に呼ばれた。 「久しいな。また別嬪になったんじゃねェか」 政宗は笑いを含めた声でそう声を掛けた。 つたは此方も笑みを浮かべながら、勿体ないお言葉です、と頭を下げた。 「どうだ、片倉の家は。慣れたか」 「お陰様で、不束ではありますが、良人共々なんとかやっておりまする」 「小十郎は好い旦那をちゃんとやってるか?こんな堅物と一緒ってなァ、なかなか骨が折れそうだが」 「酷い事を仰いますな」 小十郎が苦い顔をしたので、つたと政宗は一緒に笑い声をあげた。 ふと笑い声を止めて、政宗は目を細めて問うた。 「幸せか、つた」 「はい」 つたはきっぱりと頷いた。 「誰よりも」 「そうか、そりゃァいい」 「政宗様の御陰でございます。お陰様でようやっと―――先頃、」 つたは笑みを浮かべたまま、腹を撫でた。 小十郎の眉がちらりと寄るのが視界に入った。正面の政宗は不思議そうに目を丸めている。つたは悠然と 笑みを深くして、頭を下げて言葉を続けた。 「ややが出来ましてございます」 がたんと膳が揺れる音がしたのでつたは顔を上げた。 小十郎が気色ばんだ顔をでつたを睨んでいる。そこには驚愕と嫌悪のいろが確かに浮かんでいた。しかし つたはそれに怯むことなく、笑みをますます深くした。政宗はしばらくぼうと弛緩していたが、そのうち に事態を飲み込んだのか、手を叩いて破顔した。 「Great!凄ェ話だ。小十郎、おまえ親父になるんだってよ、信じられねェな。 つた、―――おまえもしかしてこのSurprise newsの為に俺を呼んだのか?」 「恐れながら」 「さすが小十郎の嫁だ。油断ならねェ」 政宗は嬉しそうに立ち上がった。 「こいつは一遍軍を上げてPartyを開かねェといけねェな。みんなひっくり返るぜ、おまえにガキが 出来たなんて知ったらよ。今からその顔を見るのが愉しみだ。つた」 「はい」 「でかしたぜ」 政宗はにこりと笑った。 つたもにこりと笑い返した。 その間小十郎はむっつりと黙り込んだままだった。その視線はつたに向かうことはなかった。そうしたら 視線でつたを殺してしまいそうなのを必死で堪えているようだった。代わりに小十郎は板間の筋をただひ たすらに睨み付けていた。 つたは良人のその姿を見て、腹を抱えて笑ってやりたくなった。 政宗は上機嫌のまま帰った。家の者たちはてんでに小十郎とつたを祝福した。つたは笑みを絶やさずに宴 の後始末を終え、それから小十郎の寝所へ向かった。襖の前で跪き、入室の許可を得る。 しばらくしてから、低い声で小十郎が「入れ」と告げた。襖を開け、すり足で進み、後ろ手で襖を閉じる。 すとん、と音がした。 振り返ると、顔の横を通って刀が真っ直ぐに襖に突き刺さっている。 「何のつもりだ」 平坦な低い声が降ってきた。 つたは銀色にひかる刀をしばらく眺めてから、刀を自分に向ける良人の顔を見上げた。 「何の話でございますか」 「先刻の話だ。何故俺に先に話さなかった」 「話せばおまえさまは、流せと仰ったのではなくって?」 小十郎の眉がひょいと上がった。 つたは口元に笑みを湛え、それから裾を払って立ち上がった。 「そういきませんわ。この子は私の子です。片倉の家を継ぐ子です。つたには政宗様よりもこの子が大事 です。おまえさまにとはいえ、渡すわけには参りませぬ」 「―――図ったのか」 「守ったのです」 私は母ですもの。 そう言い放つと、小十郎の目に憎悪がぼうっと火付くのが見えた。つたはぞっと背筋を氷らせた。刀が襖 から引き抜かれる。つたは逃げを打とうとする自分の足を必死で律した。そしてきっと前を向いた。 小十郎は真っ直ぐにつたを睨んでいる。 つたはそれにしばし陶然とした。会ってから今に至るまでのなかで初めて、片倉小十郎、というものの核 にようやっと触れているのだという確かな感触があった。それは憎悪であったが、なまぬるいやさしさに 比べてどれだけ真実に近いか知れない。 刀の切っ先がつたに突きつけられる。 つたは笑いながらそれを手で払った。 「おまえさまは私を殺せぬでしょう。私、よおッく知ってますのよ」 小十郎は口元を歪め、それから刀を鞘に戻した。 しゃらりと金属が触れ合う音がした。その音を聞いた途端つたの腰は砕け、すとんと尻が板間に着いた。 今更のようにかたかたと体が震え始める。つたはそれを抑えようと肩を必死で抱いた。妻のその様子を今 までに見たことがないような冷ややかな表情で小十郎は見下ろしている。 つたはそれを見上げ、ゆったりと笑みを浮かべてやった。 小十郎はそれを見て、ひとの悪い笑みを口元にだけ浮かべた。 「おそろしい女だな」 と小十郎は吐き捨てて、つたの横を通り過ぎて襖を開けた。 つたは弾かれたように身を翻し、襖を閉じようとしている良人の袴の裾を掴んで声を上げた。 「当然ですわ、これくらいのことができなくてどうしましょう」 「ほう」 「私は、」 つたは飛び切りの笑顔で言った。 「私は片倉小十郎の妻ですのよ」 小十郎はすこし目を見開いた。 それから低く笑い声をあげて、つたの手を足だけで振り払った。 「道理だ」 そう言って小十郎は襖を閉じた。 つたは目の前でぴしゃりと閉じた襖を見て、そうしてそこに額を押しつけた。それから息を吐いた。そ して吐いた。体が震えた。けれども口元からは笑みがこぼれた。つたは襖に爪を立てて体を震わせながら 高い笑い声をあげた。すると長い間流さないようにしていた涙がようよう目からほろほろとこぼれた。 つたは其れも構わず延々と笑い続けた。 おわり |