ひょい、と障子と障子の隙間から顔を覗かせる。 世界がまさに今終わったような顔をした兄が、打ち拉がれて畳と接吻しようとしていた。 たわごと ゆめごと あしたのこと 「にいに、大丈夫?」 十助はからりと障子を開き、弁天丸の座敷に足を踏み入れる。弾かれたように赤い髪が兄の顔にすり替わる。それはく しゃりと不愉快げに歪んだ。 気配を消すんじゃねェ、と言う。 「消えてた?」 「消えてた」 「ごめん、ついつい」 十助は髪を掻いて、へらりと笑った。 「父上の血かなあ、だったら嬉しいなあ」 「不愉快な名前を出すんじゃねェ。ただでさえ不愉快だってのに益々不愉快になるじゃねェかよ」 「なんかあったの?」 「なんか」 ぎろりと睨み付けられて、十助はひょいと肩を竦める。伊達政宗になぜか生き写しの弁天丸の睨み顔はそれなりに迫力 があるが、兄の機嫌を損ねることに慣れている十助にとってはどうということもない日常である。反応が顕著な兄は正 直面白いので、解っていてやっている部分もある。 弁天丸は黙ったまま未だ身体を屈めている。十助は障子を閉めて、兄の横に座り込んだ。顔を覗き込むと、いろのしろ い顔が益々しろく蒼白になっている。これはからかうのはかわいそうかもしれない、と十助は思い直した。 ごめんね、と言う。 「ねえねのことだよね」 ひくりと肩が揺れる。 ほんとうに解りやすい。 十助はこっそりと息を吐いた。 「来月だっけ」 ねえねが、お嫁に行っちゃうの。 弁天丸は黙っている。顔は益々そのいろを失っていく。十助はしばらく黙って兄の顔を眺めていたが、そのうちにそれ にも飽きたので、弁天丸の小袖の裾をひょいひょいと引いて、しょうがないじゃん、と言ってやった。 「ねえねは女の子なんだもん。いつかはお嫁にいかなきゃ」 十助の姉の幸が、嫁ぐことになった。 今は伊達と敵対している国と、今度誼を繋ぐ為の一環の婚儀である。家老の娘ならば丁度良いと小十郎が決めたらしい。 十助はまだおさないので詳しいことは知らぬけれども、家の者たちが噂をしていることを総合すると大体そうなる。未 だ婚儀のことも同盟のことも内々で公表はされていないけれども、そのうち公表されるだろうとのことだ。よくある話 だ、と思う。相手は十五は年上だという。それもまたよくある話である。 弁天丸は、納得していないらしい。 「べつにねえねも嫌がってないのに」 「幸は母上と政宗様の言うことなら逆らったりしねェ」 「じゃ、よくない?」 「いいとか悪いとかそういう問題じゃねェんだよっ」 弁天丸は真っ青な顔で、畳を睨んでいる。 そこを睨んでもどうにもならない。十助はそう思ったが、黙っていた。 兄と姉は双子で、それはまた普通の兄妹とはちがった感触の関係なんだろうと思う。弁天丸が幸を大切にしていること は十助から見てもよく解る。片割れなんだろう。十助にとっての鴉の建角みたいなものかもしれない。 傍に居るのが当然で、それ以外を考えたことがないのだ。 幸は、と弁天丸は言う。 「俺が、守るはすだったんだ」 「ええ」 「――――なんだよ」 「でもねえねのほうがにいによりつよい、って痛っ」 「おまえ五月蠅い。どっか行けっ」 思い切り頭を叩かれる。 弁天丸はこれ以上ないくらい凶悪な顔で十助を睨んでいる。からかい過ぎた。十助は顔を伏せて上目に兄を見上げた。 いつもやめておこうと思っているのについついやりすぎてしまう。どうしてにいにはこんなに面白いんだろう、と十助 は思った。俺が悪いんじゃなくて、にいにが悪いんじゃないかしら? そう思いながら、十助は眉を下げた。 「ごめんね、にいに怒んないで」 両手を合わせて、弁天丸を見上げる。弁天丸はしばらく黙り込んで十助を睨んでいたが、そのうち釣り上がった目を細 くして、ほんとうに反省してるか、と問うてくる。十助はこくこくと頷いた。 してるしてる、と言う。 すっごくしてる。 「じゃ、おまえ俺の言うこと聞け」 「聞く聞く、なんでも聞く」 「甲斐行ってこい」 「甲斐」 「そんで、しのび連れてこい」 「父上?」 目を瞬かせると、弁天丸は頷いて立ち上がった。 「あいつが来て止めれば、幸も思い直すかもしれねェ」 拳を握りしめ、弁天丸は遠く彼方を――――とりあえず視線の先には壁があったがおそらく兄はその先を見ているに ちがいないと十助は思った。遙か遠い、どこか、確実に頓珍漢な何かを見てしまっている。 とりあえず十助は一応、弟の義務として頷いてやった。 「でもね、にいに」 「なんだ」 「無駄だと思うよ」 「どうして」 「だって母上に父上、すっごく、弱いもん」 あらゆる意味で。 弁天丸の顔がくしゃりと歪む。 しばらく間を置いてから、そうだったな、とちいさくつぶやく。そうでしょ、と十助は返した。よわいでしょ。 「父上呼んでも、なあんも解決しないと思うけどなあ」 「で、でも、幸は思い直すかもしんねェだろッ」 「どうかなあ。ねえねだからなあ」 姉の幸は、そこら辺の男より余程男らしい。 一度決めたことは絶対に譲らないし、決めたことを実現させるためには手段を選ばない。政宗がよく幸が男なら城を やってもよかった、と言うほどである。確かに幸は佐助のことがとてもすきだけれども、だからと言って佐助が何か 言って、それで彼女の心情が変わるとも十助には思えない。 弁天丸はそれでも、犬のように唸って、「五月蠅い」と言う。 「とっとと行って来いッ」 「ううん、俺はべつにいいけど。父上に会いに行けるのは嬉しいし」 「じゃ、早く行け。そんで連れてこい」 「来るかなあ」 「来させろ」 「にいにあんまり無理言っちゃ駄目だよ」 佐助にも都合があるだろう。 けれどももう弁天丸は聞いていない。聞く気がないと言いたいのだろう、立ち上がって何処かへ行ってしまった。 十助は仕様がないので、自分も外に出て、口笛を吹いて鴉を呼んだ。 秋晴れの薄い青の先から、真っ黒い巨大な鴉が腕の上に降り立ってくる。 「建角、わがままな兄上のために、ちょっとお手伝いしてね」 首を傾げている鴉の背をいとおしげに撫でてやって、困ったようにそうつぶやいた。 空は高い。来月ならまだ雪は降らないうちに輿入れができるだろう。父上困っちゃうかなあ、と十助はつぶやいて、 それからほうと息を吐いた。佐助が来るかどうか、実際のところは半々だろう。 それに、と思う。 「――――こんなことする必要、ないと思うんだけどなあ」 つぶやいたが、建角が首を傾げるだけだった。 上田城に着いたのは、もう夜半も大分過ぎた頃だった。 真田幸村の寝所がある場所を見計らい、わざと音を立てて建角から降り立つ。からりと障子が開いた。目を丸めた 佐助が此方を見ているので、十助はへらりと笑って手を振った。 「父上、こんばんはっ」 「――――なあにしてんの、おまえ」 「えへへ、来ちゃった」 「来ちゃったっておまえなあ、」 「おお、十助殿」 佐助の背後から、幸村が顔を出す。 十助は頭を下げて、それからまた思い切り幸村に笑いかける。幸村もそれにつられるように笑った。佐助だけ困っ たような顔をしている。十助は構わず縁側まで寄って、佐助を見上げる。久々に見た佐助の困った顔がひどく懐か しくて、自然とほおがゆるゆると笑みに崩れていく。 大きな手にするりと自分の手を絡めて、笑みを口のなかで転がす。 「父上だあ」 嬉しくて仕様がない、というように笑うと、ようやく佐助もちらりと笑った。頭をくしゃりと撫でられる。大きな てのひらの感触に目を閉じてうっとりとしていると、それで、という問いが落ちてきた。 「どうしたの、こんな時間に。なんかあったわけ?」 「あ、うん。なんかあった」 「奥州になにかござったか?」 「うん。大事件。特に、にいに的に」 「丸?」 佐助が訝しげに顔を歪める。 幸村がとりあえず中に入れと言うので、遠慮なく寝所へ上がり込む。幸の婚儀のことを説明すると、佐助よりも幸 村のほうが驚いてしまった。佐助は一応は驚いたのだろうけれども、割合に平然としている。 やっぱりなあ、と十助は思った。 佐助も、そう思うのだ。 「来月、でござるか」 「はい」 「それはまた急な――――佐助、おまえ驚かぬのか」 「はあ、まあそれなりに驚いてますけど」 困ったように髪を掻いて佐助は眉を下げている。 「でもなんていうか、そこまで騒ぐほどのことでもねえかと」 「――――ッ、なんということを言うのだおまえッ、それでも幸殿の親御でござるかッ」 「いや、そうじゃなくてさ」 ちらりと佐助の視線が十助を向く。 十助はひょいと首を傾げ、それからこくりと頷いた。 幸だろ、と言う。ねえねです、と十助は返した。幸村だけ解っていない顔をしている。佐助は苦く笑って、旦那は もう寝てなよと立ち上がった。十助も続いて立ち上がり、礼をして座敷を退がる。 幸村はしばらく納得しかねるように呻いていたが、佐助があとで教えてあげるから、と言って納得したようだった。 縁側で待っていると、程なくして佐助も障子を開いて出てくる。 おんなじいろの赤い目が、困ったように夜の中でくるりと回った。 「十助は、解ってるってわけね」 声をかけられ、十助は頷いた。 「だって、ねえねだもん」 「だろうねえ――――うん、それで俺は、行ったほうがいいわけ、そっちに」 「にいには来いって言ってるよ」 「丸はおばかさんだなあ」 「にいにはそこがいいんだよ」 「そんなもんかい」 「そんなもん」 「うんまあ、――――じゃ、今は暇だし、明日にでも一遍行きますか」 「やったあ」 十助はへらりと笑って、それから佐助の腰にしがみついた。 驚いたように佐助の目が丸くなる。それを見上げ、えへへ、と十助は笑った。 「父上」 「なに?」 「今夜、父上と寝ても良い?」 首を傾げると、佐助は深く息を吐いた。 ぐい、と引き離され、いくつになったの十助は、と咎めるように問われる。自分を引き離した腕に逆にぶらさが るようにしがみつきながら、十、と言ってやる。そうすると、あまったれ、と呆れるように佐助が笑った。眉の 下がった、くすぐったそうな、十助がいっとうすきな顔で佐助は笑う。 ひょい、と佐助が十助を抱き上げた。 「まさかおねしょはしないだろうね?」 そう問われたので、十助は思い切り笑ってから佐助に抱きついた。 次 |