嫁から電話が来なくなった。 ホテルの部屋で、政宗がたこ焼きを口に含みながら寝転がっている。小十郎はたこ焼きのトレイを取り上げて、下品です よとたしなめてから携帯を閉じた。政宗がにやにやと見上げてくる。 「来ねェのか」 「来ませんな」 「Ha!ほら言ったとおりじゃねェか」 浮気だ浮気。 政宗はひょいと身を起こし、勝ち誇ったように言う。 小十郎は苦く笑いながら、はいはいと上司をベッドにまた座らせた。明日もはやいですからとっとと寝てください。政宗 はつまらなそうに唇を尖らせ、おまえ腹立たないのか新妻が浮気だぞ、と決めつけた。政宗と小十郎の嫁はあまり仲がよ ろしくない。出張が決まったときから政宗は延々とそれを言い続けている。 「浮気ですか」 「Of Course!Husbandの出張中にWifeがすることなんざ、それしかねェだろ」 「はぁ」 「小十郎は甘いぜ」 やれやれ、と政宗は首を振る。 嫁から電話が来なくなったのは三日前のことになる。 それまでの二週間、あの怠惰な嫁にしては不思議なほど毎日続けて電話が来ていたが三日前のそれを最後に来なくなった。 おや、とは思った。思ったけれど、新婚だからといってべつに毎日電話をしなくてはいけないという法律があるわけでも ないし、大体一日疲れてベッドに沈み込みたい時間にあの嫁の脳天気な声を聞くのは多少の苛立ちを小十郎に与える。 目の前に現物があれば殴ってストレス解消もできるが電話ではそうもいかない。 小十郎は淡々と言った。 「飽きたんでしょう」 佐助は飽きっぽい。 そのうえ気紛れだ。 大方最初は「これも新妻の勤めだよねえ」とかなんとか思っていたんだろうが、途中で面倒になったにちがいない。自分 で言うのもなんだが小十郎は話していてたのしい男ではないし、用件のない電話を続けるのは苦痛ですらある。 浮気だを連呼する上司のワイシャツを剥いて、バスルームに放り込む。鳴らない携帯のめざましをセットしてベッドサイ ドに置いた。ベッドに腰掛けて、胸元の手帳を取り出し明日の予定をチェックする。 大阪に来てからもう二週間と三日だ。 (長いな) ぼんやりとそう思った。 長い、と思ったのはここに来てからの時間ではなくて、これからここに居なくてはならない時間についてだった。あと一 週間と四日、小十郎は大阪に居なくてはいけない。新しい事業発表のセレモニーがあるのは一週間後で、その後処理にか かる時間が四日間。スケジュールを組み立てたのは小十郎だが、慣れない場所で一月過ごすというのは思った以上に体に 負担がかかる。 バスルームにちらりと視線をやる。 一見大丈夫そうに見えるけれど、おそらくは政宗も疲れているだろう。 (一日、きっちり休ませねェと) 小十郎に負けず劣らず政宗はワーカホリックだ。 それをたのしげにこなしてしまうところが、小十郎が政宗に心酔する所以でもあるけれど、倒れてしまっては元も子もな い。そういえば観光もしていないし、近々ふたりで市内を回るのもいいかもしれない。 そういえば。 小十郎はふと思った。 ―――おみやげは四つ以上ね 嫁の言葉がふいに浮かんできた。 すっかり忘れていた。忘れていたままでもべつに構わなかったが、思い出したのだからやはりちゃんと買って帰るべきだ ろうか。しかし大阪の土産ってなんだタイガースグッズか、と小十郎が眉を寄せていたら政宗がバスローブを羽織って出 てきた。毎晩毎晩飽きもせずに押し倒そうとしてくる上司を軽くいなして、着替えを抱えてバスルームに向かう。 枕を窓に投げつけている政宗に、今度休みをつくって市内観光でもいたしましょうと声をかけたら、ふたつめの枕は窓で はなくて天井に投げられた。機嫌が治ったらしい。 ふたりの泊まっているホテルの部屋はスイートルームで、バスルームもそれなりに広い。お湯に浸かって天井を見上げる と、毎晩のことだというのにどこか違和感を感じる。ホテルのバスルームの天井はうすいベージュで、自宅のまっしろな 天井とはあきらかにちがう。それからここのバスタブは向かって右側で、自宅とは逆だ。 自宅でお湯に浸かると、左側の壁に嫁がとりつけたちいさな棚が視界に入る。佐助は長風呂で、そこに飲み物を置いたり 本を置いたりしているらしい。小十郎は使ったことがないので単なる邪魔なものでしかない。 たしか一週間前の電話で、そこに置いておいた本が落下してさんざんだったと佐助がぼやいていた。 まったくさあ。おそらくドライヤーを使いながら話していたのだろう。ごおごおと音がした。 まったくさあ有り得ねーよな。なんで落ちんの。買ったばっかりだったのに。濡らしたくないなら風呂で本なんぞ読むな と小十郎が言うと、だってきもちいーんだよ、とむくれたような声が返ってきた。 (世間はああいう会話を延々と続けるものか) どうでもいいことしか佐助は話さない。 小十郎は今まで付き合った相手と長電話などしたことがないのでよくわからないが、あれを続ける意義がまったく掴めな い。来なくなった電話も、来なくなったことそのこと自体でなにかあったのかとは思うものの、残念だとは思わないのが 正直なところだ。用件がないのに電話をする意味がわからない。 嫁もそう思ったから電話をしなくなったのだろう。 そう考えると、これが一月だからいいようなもののそれ以上なら確実に関係は断絶するな、思った。小十郎は政宗に対し ては誰よりもまめな自信があるが、それ以外には必要を一切感じないのでおそらく冷淡にさえ感じられるだろうと思う。 佐助はどうだろう。気紛れだから飽きてしまえばそれでおわりかもしれない。 そんなものだ。 (まァ) ぴちゃん、とお湯を揺らしながら思う。 幸い自分たちは結婚していて、戸籍上家族なのでそう簡単に関係の断絶はしたくてもできない。嫁が明日居なくなっても べつに小十郎は普通に生きていけるだろうが、家に帰ったときにあれが居ないよりは居たほうがいい。 佐助は小柄で、体温がたかい。冬の夜におなじベッドで寝る相手としてはわるくない。 これからは夏で、暑くなるばかりだ。 それでも小十郎は、体温の低い他の誰かがほしいとは特に思わなかった。 明日にでもこちらから電話をしようか、という考えがちらりと頭に浮かんだが、そのまえにのぼせそうになったのでバス タブからあがって、洗い場に出た。 髪を洗ってシャワーで流したら、嫁のことも一緒に排水溝に流れていってしまった。 結局電話は六日間来なかった。 七日目、小十郎と政宗は仕事を一日休んで甲子園の球場に行ってそのあと市内を見回った。 はしゃぐ政宗を見ていると、ちいさい頃を思い出してほおが緩む。昼から風俗街に行こうとするのはさすがに止めたが。 とりあえず名物らしきものを粗方腹に収めた頃には、すっかり空は暗くなっていた。 明日はセレモニーの本番がある。 「そろそろ戻りますか、政宗様」 「Ah?おいおい、俺たちは修学旅行に来た中学生かァ?」 「明日もはやい、という意味では同じですな」 不満げな上司に笑ってさとす。 政宗はしばらく安っぽいネオンがきらめく周りを名残惜しげに眺めていたが、そのうち息を吐いて両手をあげた。了解だ、 とすこし笑いを含んだ声が言う。 「明日が終わったら夜通し付き合え、All Right?」 「お気に召すまでお付き合い致します」 そう笑うと、政宗も笑った。 ホテルに帰るともう十時を過ぎていた。 政宗はさっさと眠ってしまった。こういう切り換えの早いところがこの上司の優れたところのひとつだと小十郎はなんと なく誇らしい気持ちになった。明日のスケジュールを確認しながら、ふとジャケットのポケットに携帯を入れっぱなしだ ったことに気付いた。ソファから立ち上がってクローゼットに向かう。 ジャケットから携帯を取り出した。 「・・・ん」 着信がある。 ぱちん、と携帯を開いた。着信ひとつ。九時ジャスト。三十秒。 佐助からだった。 腕時計に目を落とす。 短針は十一をすこし上にずれたところを指していた。しばらく小十郎はそれを眺め、それから携帯を閉じてソファに戻っ た。テーブルに携帯を置いて、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出して蓋を捻る。一口それを口に含 んで、ソファに沈み込んでペットボトルを置いて代わりに携帯を手に取った。 着信履歴から通話ボタンを押す。 しばらく待つと、ぴ、と電波が繋がった。 「遅くに悪い」 そう言う。 携帯の向こう側の相手は何も言わなかった。 しばらくして、返事の代わりに大きなため息が返ってきた。 『・・・遅いっつーの』 「ああ、悪ィ。さっきまで政宗様と観光してたんでな」 『しかも仕事じゃねーのかよ。え、なにそれ。嫌がらせ? 出張に行ってはじめてのあんたからの電話が社長とのデート報告とか笑えねえんだけど』 「べつに笑わせるつもりで言ってねェからな」 真夜中だというのに嫁は元気だった。 久々に聞くと、低音の声が耳にひどく心地良い。 「それで、何かあったのか」 『えー?』 「ここ一週間かけてこなかったろう」 『おや、意外だこと』 一応それくらいはわかってるんだね。 嫁の言葉に小十郎は眉をしかめる。佐助の言うことにはいちいち棘がある。 『べつになんもありゃしませんがね』 佐助はそう言って、それからちいさく笑った。 まったくさあ、と呆れたような声がする。あんたときたらこっちからかけなけりゃ電話全然しないつもりなんだからたま んないよな。小十郎は首を傾げる。電話をしなくなったのは佐助だというのに、どうしてこんなに恨み言を言われなけれ ばいけないのだろう。 用があるならかけてくりゃあいいだろう、と言う。 佐助が馬鹿にしきった声でああこれだから、と返す。 『そんなん言われたら、用が無けりゃかけらんねーだろ』 「そうは言ってねェだろう」 『言ってるもおんなじだね。実際あんたは用が無いと俺に電話一本入れやしねーんだもの』 「・・・おい」 怒ってんのか。 そう聞いたら、怒ってねえよと怒った声が答える。 怒ってんじゃねえかとまた返したら電話の向こうが静かになった。そうだよ。しばらくしてから低い声が答える。そうだ よ機嫌わりーよ、つーか当然じゃね。何故嫁がこうも機嫌が悪いのか、小十郎にはすこしも理解できなかったけれど、そ りゃ悪かったな、と一応返しておいた。 いやだな、と佐助がうんざりした声で言う。 『俺ばっかりだよ』 「あァ?」 『待ってた俺がどんだけ馬鹿なんだって話だな、これ』 「待ってた?」 なにを、と聞こうとして止めた。 さすがにそれを聞いたら佐助も怒るような気がした。 『まあいいさ。あんたにそういうことを期待するのは無駄だってことがわかっただけでも、収穫ってことにしとく』 佐助の言い様ではまるで小十郎が悪者だ。 抗議しようとしたが、思い浮かばなかったので小十郎は黙った。事実電話をする気はなかったし、着信が無ければあとの 五日間も電話をせずに済ませただろうことは自分が一番自覚している。 いいんだ。佐助はまた言う。 いいんだべつに俺もあんたが帰ってきたらちゃんと呪っとくから。 「呪う?」 おだやかではない。 佐助は淡々と、だって俺だけってのは不公平でしょ、と言う。 『今日さ』 「おう」 『浮気しようと思って』 「・・・・あァ?」 『指輪外してひとりで遊び行ったんですよ、ナンパしよーと思って』 とんでもないことを嫁は笑いもしないで続ける。 小十郎はどうしようか、と思った。怒るべきなのだろうか。浮気だと、とでも言えばいいのだろうか。しかし佐助は一切 隠していないし、こうも堂々と言われると怒る気にもなれない。そうか。小十郎は十秒ほど黙ってからそう言った。 そうか、それで首尾はどうだった。 『それが最悪』 うんざりと佐助は言う。 雨が降ってきてさ。からん、と氷がグラスと当たるような音がした。ひとりで晩酌でもしているのかもしれない。予報 じゃ全然言ってなかったのに、通り雨ってやつ、ほんと参っちゃうおろしたてのジャケットがびしょぬれ。ミネラルウォ ーターをあおりながら、ふうん、と鼻を鳴らす。それで。 『財布にカード入れるの忘れててさあ』 「阿呆」 『あと昨日夜更かししたらから駅一個乗り過ごした』 でも逆ナンされたんだぜ、と誇らしげに嫁は言う。 「そらよかったな」 『びっしょびしょの水も滴るいい男の俺を、美容院に誘ってくれたよ』 「・・・勧誘じゃねェのかそれ」 『タダだった』 「ほう」 『カットまでしてもらっちゃったよ』 「ふうん。短くしたのか」 『結構ね。さっぱりしたわ』 もうすぐ夏だろう、と言う。 そうだな、と小十郎は答えた。もうすぐ五月が終わる。そうすれば梅雨がきて、それが終わればもう夏だ。あんたが行っ てすぐくらいに近くの公園で、躑躅がきれいなところがあったんだ。 佐助はほう、と息を吐いた。 『でももう、枯れちまってんだろうけど』 ほんとこわいよな、と言う。 『指輪までなんか呪われてんじゃねーのって思ったわ』 「・・・あァ?」 『あんたなんかしたでしょ』 「濡れ衣だな」 『怨念でもかかってなけりゃ、こんなに俺今日ひどい目に合わなかったと思うわけですよ』 「そらてめェが運が悪ィだけだろう」 『ちがうとおもうなー』 結婚って怖いね、と佐助は呻く。 小十郎は首を傾げた。そうか、と聞くと、そうだよ、と返ってくる。 あんたが居ないだろう、そうすると部屋がただっ広くて、時間がゆっくりで、どうやって今まで一日過ごしてたか忘れち まってて夜がなかなか来なくてさあ。 『まいっちまうね』 佐助がそう、困ったような声で言うのを聞きながら、そんなものかと小十郎は思った。 大変だな、と言う。大変だよ、と返ってくる。 やはりうんざりと佐助は言った。 『あんたが居ないと、俺駄目な体になっちゃったみたい』 おみやげいいや、と嫁は言う。 小十郎はしばらく黙ってから、そうか、と短く答えた。 (こいつ今言ったこと解ってんのか) 小十郎の聞き間違えでなければ、かなり際どい台詞だったと思う。 が、佐助はへらへら笑ってから、かわりにとっとと帰ってこいよ、と言っている。 言いたいことを言いたいだけ言ったので満足したのか、佐助はそれじゃあおやすみ、と言って電話を切ろうとしたが、そ のまえにああ、と声を漏らして、 『あんたは浮気してないだろうね?』 と言った。 呆れてしてねェよ、と返すと、そうそりゃなにより。嫁は笑った。 ぷつん、と通話が切れる。小十郎は携帯を閉じて、机に置いてからソファにもたれた。 (馬鹿だ) 前から思っていたけれど、どうやら小十郎の嫁は相当に頭がわるい。 賢い男だとは思うのだがどこかおかしいのは何故だろう。なんとなく噛み合わない。それは多分に小十郎のほうにも責任 はあるのだけれど、もちろん当人にわかるはずもなく、ただ旦那は嫁の脳天気振りに呆れかえった。 ふつう、浮気をしようと思ったなどと言うだろうか。 しかもそのあとで、平気な声であんたが居ないと駄目な体になった、などと言う。 怖いね、とも言った。結婚って怖いね。どうだろう。小十郎は天井を見上げながら思った。まだ自分の体は、佐助が居な くても駄目な体にはなっていないように思える。 左手の薬指に視線を落とす。銀色の輪っかが、骨張った指に引っかかっている。 呪いをかけてやるからな、と物騒なことを嫁は言った。 帰ったらかけられるのだろうか。 小十郎は想像して、それはすこし怖いかもしれないと思った。 「・・・・電話するか」 ぽつりとつぶやく。 エアコンの音がそれに被さるように、ごお、と鳴った。 東京に戻った日は、雨がひどかった。 あやうく飛行機が着陸できないほどだったが、何度かぐるぐると旋回してからようやく空港にたどり着いた頃には、予定 到着時刻を二時間ほどオーバーしており、それからすぐに家に帰ったというのに嫁はなんとドアに鍵を閉めていた。 もちろん小十郎も鍵を持っているので一切意味はなかったことは言うまでもない。 「つまんね」 やはりノリで鍵を閉めたらしい佐助は詰まらなそうに言った。 指輪はちゃんと嵌めていた。だって呪いかかってるんだぜ、と性懲りもなく佐助は言う。 次の日は休みを取っていたので、佐助が電話で言っていた公園にふたりで行ってみた。やはり躑躅はすでに枯れていたが、 かわりに雨に濡れた紫陽花があざやかに色づいていた。 おお、と佐助が傘をくるりと回して言う。雨の滴が飛んできたので小十郎は顔をしかめた。 「五月は躑躅で、六月は紫陽花か」 こりゃ七月も見に来ないとな。 そうやって、やけにたのしそうに笑う嫁を見つつ、七月に花は咲かないんじゃないだろうかと旦那はすこし思ったけれど、 何も言わずにただコンビニで買った缶コーヒーを飲みながら傘をちらりとどかして空を見上げる。 灰色の厚い雲のあいだから、きらきらと太陽がのぞいていた。 「八月はどうしよう」 「あァ?」 「さすがに八月に花は咲かねーよ」 「・・・だろうな」 どうしようか。 小十郎はすこし黙ってから、 「蝉を聞きに来るとかでいいんじゃねェか」 と言った。 なるほど、と佐助が笑う。 それを見ていたらなんとなく小十郎も笑いたくなった。 すこしぞっとした。 春が夏に変わっていくように、ゆっくりと、すこしずつだから気付かぬうちに。 きっと隣のこの男は、自分の体を変えていくんだろうと思ったら確かにそれは恐怖に似ていた。 おわり |