奉行所に赴いた頃には、既に夜半を過ぎていた。
既に片輪唐須―――――――――片倉小十郎は、自らの長屋に戻っている、と言う。
佐助は笠を脱いで奉行所の門番に頭を下げ、踵を返す。すこし前とはちがって生温くなってきたとはいえ、未だ熱を含
まない夜の風は肌に突き刺さってくる。佐助は肩を一瞬だけ抱いて、すぐにだらりと腕を垂らした。
門番に言われた道を歩きながら、佐助はかすがはどうしただろうと思った。かすがはもう小十郎と会っただろうか。会
って何を話すのだろうか。ともすれば諦観を含んだ息がこぼれてきそうで、佐助は口をきつく結ぶ。
かすがの言葉がくるくると渦のように頭のなかで旋回している。
―――――――――会いたかったんだろう
どうなのだろう。
佐助にはよく解らなかった。
すり減った草履は、地面と触れてぺたぺたと間抜けた音を立てる。人通りの消えた道に、その間抜けた音だけが響く。
会いたかったんだろう。会いたかった。会いたかったのだろうか。かすがは小十郎に会いたかったのだろう。あの女に
は肉親が居ない。肉親にひどく近かった男もとうに死んだ。そういうなかでも未だかすがはおのれをひとと呼ぶ。
それはどれだけの痛みを伴う道だろう。
「いや」
つぶやいて、佐助は空を仰いだ。
空が近い。冬から春に変わるこの季節には、空は此方を押しつぶさんとするように迫ってくる。星がやたらと瞬いてい
る。明日も風が強いのだろう、と佐助は思った。
それから更に思った。
俺もひとだ。
ひと以外になど、所詮どれだけ足掻いてもなれぬのだ。
佐助は大通りから路地に曲がる前に、足を止めた。
小十郎の長屋は、ちいさな棟割長屋の一画にあるようだった。意外だな、と思う。以前の大店の若隠居のときと同じと
はいかぬにしても、片輪唐須はそれなりに名を馳せた戯作者である。ならばもうすこし良い場所に住んでいても良さそ
うなものだ。佐助の根城にしている長屋ほどではないが、小十郎の長屋もそれに近い小汚さだった。
戸に手を掛けようとして、すこし迷ってから一歩退く。手を伸ばせばすぐそこに決別があると思うと、何故だか手が動
こうとしなかった。震える手を佐助はもう片方の手で掴む。かたかたと擦れ合う爪を折り曲げんばかりにてのひらに押
しつけた。痛みに震えが止まる。佐助はゆるゆると息を吐き出した。
手を持ち上げて、戸を叩いた。
「誰だ」
低い声がする。
佐助は息を飲み込んでから、
「八咫烏だけど、開けてくれるかい、片輪唐須」
と笑いを含んだ声で言った。
しばらく沈黙が落ちる。佐助は袷をきつく握った。
どれほどの時が過ぎてからか、なかからまた声がした。よく聞こえなかったので佐助は聞こえないよと答えた。また、
沈黙が落ちる。そして、
「てめェで開けて、てめェで入ってこい」
と返ってきた。
佐助は黙り込む。
それから意を決して戸に手をかけて、がらりと開いた。
途端に、紙と墨のにおいがふわりと体を包み込んでくる。狭い長屋のなかは所狭しと本が積み上げてあって、小十郎は
本のなかに埋もれるようにして文机の前に座り込んでいる。
邪魔するよ、と言うと、くるりと真っ直ぐな背中が振り返った。
「どうかしたか」
と小十郎は言って、すこし笑う。
佐助も笑った。
「舞い戻ってきちまいましたよ」
「本当にな。早過ぎだぜ」
「言い忘れたことがあってね」
「ほう」
小十郎はすくりと立ち上がり、本に埋もれていた座布団を佐助の前に放った。
座れ、と言われて佐助は草履を脱いで板間に足をぺたりと置く。小十郎は囲炉裏を挟んでその正面に座った。佐助はそ
れにちらりと一瞥をやって、それから何を言っていいのか解らぬままにただ胡座をかいたおのれの足の指を眺める。
先に口を開いたのは小十郎だった。
「かすががな」
来たぜ、と言う。
相も変わらぬ好い女だ。小十郎はそう言ってすこし笑う。
「八年経ったとは思えねェな。些っとも年を取っていねェように見えた」
「あいつはある意味、化け物だからねえ」
「違いねェ」
小十郎は口角をあげて、囲炉裏に掛かった鉄鍋を持ち上げる。
「大した物は出せんが、何か食っていくか」
佐助は首を振る。
いいよ、と言う。いいよすぐ帰るから。
そうだ。早く帰らなければいけぬのだ。佐助は笑みをほおに貼り付けたまま、背筋に汗がつうと流れるのを見て見ぬふ
りをして、立ち上がろうとする小十郎の腕を掴む。つめたい皮膚の感触がした。八年前と変わらぬそれを、佐助は今よ
うやっと実感するような気がしてすこし驚く。
先刻散々触れたときには、頭に血が昇っていて何も気付けなかった。
小十郎の体温は低い。夏でも皮膚はひやりとつめたく、冬のそれは空気と一体になってしまったように凍り付く。佐助
は掴んだそれを、ゆっくりと離した。つめたい筈のその感触が、ひどくぬるまったいような気がして戸惑った。
相変わらずあんたの腕はつめてえな、と笑う。
「話があるんだろう」
小十郎は静かな声で言う。
聞かせろ、と言う。聞いてやるよ。
「そうかい」
ありがたいな。
佐助はへらりと笑って、天井を仰いだ。
かたかたと長屋が揺れる。風が強いのだ。狭い長屋は、ともすれば壊れてしまいそうな程に音を立てる。いつだったか
もうあんまり遠すぎて覚束ないけれども、小十郎の離れに行ったときにこんなことを感じることはなかった。小十郎の
住居はひどくちいさな離れではあったけれども、それでもしっかりとした造りで、そこに居て不安になるようなことは
欠片もなかった。あの場所が佐助はすきだった。小十郎がひとりで作り上げた、小十郎ひとりだけの場所という閉鎖感
がひどく心地よかった。
外から其処に居る小十郎を眺めているのが佐助はすきだった。
「あんたはもう」
あそこに帰る気はないんだね。
確認する為だけに佐助は聞いた。小十郎もそれを知っているのか、躊躇わずに頷いた。
そうか。佐助はそう言って、ひとつ息を吐いた。
「どうしてだろうなぁ」
困ったように笑って、笠を脱ぐ。
小十郎の顔の前に手を突き出して、親指と人差し指を触れあわす寸前まで近づける。
「あんたはこれッぽっちも俺のことなんざ知らないじゃあないか」
「知らねェな」
「それじゃあ、あんたは俺の何が欲しいのさ」
「欲しい訳じゃねェよ」
「へえ」
「俺は」
小十郎は瞬きもしない。
眉をちらりと動かすこともしない。
佐助は動かぬその能面のような顔に心臓が引き千切られそうになる。小十郎は俺は、と言ってからすこし間を置いて、
それから矢張りそのままの姿勢で言葉を繋ぐ。
俺はおまえらと同じ土を踏みたかった。
「そうしたら、解ることもあるかと思ってね」
「解ること、ね」
「あァ」
「なにが解りたかったってぇのさ」
「さあな」
「曖昧だね」
「そんなものだろう」
ひとが何かをするときに、そんなに多くの由はねェよ。
成る程ね、と佐助は言って体を退く。小十郎はひょいと肩を竦めて、それで、と今度は佐助を促した。おまえは一体こ
こに何をしにきた。佐助は小十郎の夜色の目を見ながら、ちいさく笑う。
「俺はね」
「あァ」
「あんたとちがって、曖昧じゃないんだよ」
「なにが」
「したいことがさ」
立ち上がって、小十郎の横に跪く。
小十郎の顔が訝しげに歪む。佐助は目を細めて唇を下弦に歪める。体中が震えてしかたがない。佐助は黙ってその顔の
まま、目の前の男の頭の先から胡座を掻いている指の先までを順繰りに目で追った。きっちりと結われた銀杏頭、広い
肩幅、仕立ての良い羽織、長い足、骨張った手と足、浮き出る踝。
視線をあげると、闇ではなく、夜に似た目がある。
焼き付けておこう、と思う。
今からこの男を、おのれは永劫に失うのだ。
手を伸ばして、左ほおに付いた傷を撫でる。
切れ長の目が見開かれる。佐助はいとおしげに傷を撫で下ろし、耳の下に指を添えた。戸惑ったように小十郎は眉を寄
せ、そしてくすぐったげに首を竦める。佐助は肩を揺らしてすこし笑った。
「ねえ、あんたは考えたことがあるかな」
指をするすると首の筋に添って下ろしていく。
袷の部分でひたりと指を止める。小十郎の目が訝しげに細められる。佐助は夜色の目におのれの目を合わせて、もう片
方の手も同じ場所に持っていく。指を差し込んで、ぐい、と袷を開いた。
小十郎の目が見開かれる。
「おまえ、何を――――――」
「ねえ、考えたことある。俺がずうっと、何を考えてあんたと一緒に居たか」
唄うように佐助は言う。
顕わになった肌にてのひらを押しつける。低い体温がじわりとてのひらに伝わってくる。とくとくと胸が動いている。
鼻先が痛くなるのを感じながら、佐助は顔を近づけて俺はねえ、とできるだけ軽薄に聞こえるように笑った。
俺はねえ、ずうっと考えてたよ。
「どうしたらあんたが俺の場所まで墜ちてくるか」
てのひらを滑らせて、脇腹を探る。
小十郎が息を飲む。佐助は笑った。笑いながら指で薄い皮膚を撫で回す。かさついた皮膚に、思い切り爪を抉り込ませ
る。痛みに堪える吐息が薄い唇からこぼれるのを眺めながら、佐助は抉り込ませた爪をそのまま切り裂くように縦に下
ろした。濡れた感触がする。血だろう。
広く開かれた襟をそのまま肩から引きずり下ろして、真新しい傷口に舌を這わせた。
口の中一杯に鉄の味が拡がった。小十郎が呻く。
「ッぁ、く」
「ほんとうはずうっとこうしたかった」
「さ、ると」
「こうやってさ」
佐助はにいと笑って、滲む血をてのひらで肌に伸ばす。
「俺はあんたが大嫌いだったよ。
近寄るなってずうっと思ってたのに、あんたは構わず俺に近寄ってくる。どんだけ鬱陶しかったか、あんたは解ンね
えだろうけど、もうほんとうに嫌で嫌で堪らなかった。だからずうっとずうっと思ってた。
あんたが何処までも汚れてくれたら、どれだけ素敵かってね」
ねえ、小十郎さん。
佐助は顔をあげて、鎖骨に噛みつきながら言う。
小十郎がまた低く呻く。耳を浸食するようなその声にくらくらと酩酊するような感触に耐えながら鎖骨から口を離す。
くっきりと浮き出た噛み痕を満足げに眺めてから、佐助は小十郎の肩を強く押して板間に押し倒した。
その上に覆い被さりながら、あんた知らなかったでしょう、と佐助は首を傾げる。
「俺がこんなことしたがってたなんて」
くつくつと肩を揺らすと、普段は後ろに撫でつけている髪がはらはらと落ちてきた。
佐助の赤い髪が小十郎の顔にかかる。小十郎の閉じた瞼を、佐助の髪がくすぐった。ゆるゆると瞼が開かれて、鬱陶し
げに小十郎が佐助の髪を振り払う。佐助は目を細めて笑いを引っ込めた。
小十郎の黒い目は、先刻と変わらずただ真っ直ぐに佐助を見据えている。
「どうした」
もう終いか。
小十郎は静かに問うた。
佐助は目を丸めて、それから笑う。
「なんだい、もっとして欲しいの」
「冗談じゃねェ。終いならとっとと退け」
「それこそ冗談じゃないね。ようやく叶った念願ですぜ」
堪能するさ。
佐助は笑みを顔に必死で貼り付けて、帯に手をかけた。息を吐いて、それを解こうとする。
途端、小十郎が急にくつくつと笑い出した。
「念願、なァ」
顔をぺしりと軽く叩かれる。
「随分詰まらなそうに、おまえはその念願とやらを堪能するんだな」
どん、と胸を押される。
それほどの力ではない。が、佐助はされるがままに小十郎の体から退いた。
小十郎は乱れた着物を正し、解れた髪を掻き上げ、それから体を起こした。噛みつかれた鎖骨を撫でてひとつ舌打ちを
して、犬じゃあるめェし、と忌々しげに吐き捨てる。
どうしてくれる、と足先で蹴られた。
「こんなところ政宗様に見つかってみろ。散々問いただされるだろうが」
面倒くせェ。
痕は見えねェ位ェの気は使え。
小十郎はそう言って立ち上がり、呆然とする佐助の胸ぐらをぐいと掴み上げて、呆れたように息を吐いた。さるとび、
と名が呼ばれる。ひくりと体が揺れた。小十郎はひどく愉快そうに笑う。
吐くならもう些っと出来の良い嘘を吐け、と言う。
佐助は奥歯を強く噛んで、それから嘘なものかと吐き捨てた。
「そうかい」
「嘘じゃねえよ」
「もうすこし、簡単な話をしないか」
小十郎は静かに言う。
後のことも、今までのことも、おまえの真意も、正直俺にはどうだって良い。ほんとうにこれがしてェならしてもべつ
にいいが、したくねェならとっとと退け。
小十郎は一息に言って、
「俺は」
すこし間を置く。
それから口を開く。
「俺はずっと、おまえに会いたかった」
佐助の背に、腕が回る。
ゆるく引き寄せられた。広い胸のなかに佐助の体が収まる。
「二年」
待った、と言う。
佐助は目を見開いたまま、ひどく近くで聞こえる小十郎の声に耳を澄ませた。小十郎は静かな声で、おまえが良いなら
別れるのも良いかと思った、と言う。俺と居るのが辛いなら、そのほうが良いかと思った。
くつりと小十郎は笑う。
「だが無理だったらしい。手前勝手と言うならその通りだが」
「やめろ、よ」
「おまえは」
どうだ、と問われる。
「厭われているのは承知の上だ」
いやなら振り払え。
背に回っていた腕に力が込もる。
佐助は肩を持ち上げて、小十郎の腕を振り払おうとした。小十郎の腕に込められた力は強くはない。振り払おうとすれ
ばすぐにでも振り払える程度のものでしかない。佐助は肩をあげようとして、首を反らせる。
その拍子に、紙のにおいがふわりと鼻先を掠った。
「―――――――――あ」
口が自然と開いた。
喉が掠れて、出た声はひどく間抜けたものだった。
「あ」
「あァ」
「あ、い」
「聞こえねェよ」
「あいたか、った」
体が退かれる。
小十郎の指がぽろぽろとこぼれる水を拭う。つめたい指の感触がひどく懐かしく、瞼が自然と下りた。
あいたかった、と佐助は小十郎の腕を掴んでまた言った。あいたかったよ。あいたかったにきまってるだろ。あんまり
きつく握りすぎて、また爪が小十郎の腕に食い込む。小十郎はそれでも眉ひとつ動かさずに、代わりにほうと深い息を
吐いた。そして佐助の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「阿呆、遅ェよ」
それからちらりと笑う。
髪を撫でながら、ようやっと、と小十郎は言った。
ようやっと。
「ようやっと捕まえた」
佐助は目を閉じたまま、小十郎の腕に縋った。
つめたい温度がひどくぬくい。涙がはらはらと切りもなく流れた。大きなてのひらの感触が懐かしく、紙と墨のにおい
が途方もなくやさしく、会いたかったと告げる言葉は幾度繰り返しても足らぬような気がした。
こんなことは何の意味もない、と佐助は言いながら思う。
いずれいつかは、この男も離れていくに決まっている。死ぬか、呆れて見限るか、どちらの最期が訪れるかは知らぬけ
れども―――――――――佐助は爪を小十郎の腕に食い込ませながら薄く笑った。
佐助はひっそりと絶望した。
「俺の業を、どれだけあんたは背負えるかな」
小十郎の血がこびり付いた手で、小十郎のほおを包み込む。
いつか小十郎は消える。去れば心の臓が止まる程に切ないだろう。死ねば目が枯れ果てる程に涙が出るだろう。小十郎
は佐助の泣き笑いの顔を不思議そうに眺めている。この男は何も解っていない。佐助は思った。おのれの言葉ひとつで
どれだけ佐助が惑い苦しみ悩み叫ぶほどにかなしむかすこしも小十郎は解っていない。
そうして平気な顔で会いたかったと言う。
残酷だ、と思った。
こんな残酷な男が、他に何処に居るだろう。
佐助は笑いながら小十郎の首に額を押し当てた。
いつかおのれはこの男の為に狂う、と思う。てのひらの中にまた戻ってきてしまったこの男を失えば耐えられない。失
わない先など想像も出来ない。それでも滴る小十郎の血はぬくく、包み込んだほおの感触はかさついてそこに在るもの
の確かな手触りがあった。
どうして泣く、と小十郎は訝しげに問うた。
なんでもないよ、と佐助は言いながらちらりと笑う。
「嬉しいんだよ、凄く。それだけ」
小十郎の背に腕を回し、おのれのほうに引き寄せて、その肩に顔を埋める。
止め処もなくこぼれる涙を小十郎の着物に吸い込ませながら、佐助は必死で今此処に小十郎が居ることだけでどうにか
おのれがしあわせを感じれるように努めた。いつか来る幕ではなく、今此処の刹那ではあっても在る欠片のようなしあ
わせをかき集めるように小十郎の背を引き寄せた。
それでもどうしても、瞼の裏に浮かぶのはいつか来る幕だけだった。
「ああ、また会えてほんとうに嬉しいよ」
かなしみのままに佐助は泣いて、それでもこの背を抱き寄せずにはいられないおのれの哀れさにすこしだけ笑った。
おわり
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おしまいです。
終わってるのにちっともハッピーエンドじゃないというあれな話ですいません。
趣味丸出しなのでやってる私は凄くたのしかった・・・。笑。お付き合いくださったみさま、ありがとうございますw
空天
2007/09/16
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