おやすみなさい。またあした。


     





七日。しのびは何も問わなかった。
十日目。寺の近くの炭焼き小屋にしのびを移した時に初めて一体何がしたいんだと問われた。小十郎は何も応えなかっ
た。応える言葉を知らなかった、というのがただしい。しのびは一度しか問わなかった。
寺に移って五日が経ち、それでも小十郎は眠れず、そうしてしのびはまた問うた。
なあ、あんたどうしたいのさ。






















            






 
                 夜 を 飼 い 慣 ら す  三 
































強い日のひかりに眩暈がした。
ぱしんと音が鳴って手に痛みがはしる。梵天丸の木刀が小十郎の右手甲を打ち、その衝撃に手が痺れて握っていた木刀
がからんと地面に落ちた。ぴょんと梵天丸は飛び上がり、駆け寄ってくる。

「こじゅうろうっ、おれのかちだなっ」

笑いながら裾を掴んでくる主に、小十郎は笑おうとした。
しかし眼下の梵天丸の顔が訝しげに歪められたので、それが失敗したのだと知る。口元に手をやった。触ったところで
歪んでいるかどうかなど解るはずもないが、そうすることですこしでもそれが治ると信じるように小十郎はかさついた
唇を指でなぞる。梵天丸が不安げに、どうした、と問う。

「かおいろ、わるいぜ」
「―――暑うございますからな」
「ねれねえのか」
「昨夜だけです」

小十郎は梵天丸の頭に手を置いて目を細めた。
ご心配なされるな。そう言うと、梵天丸は安堵したようにほうと息を吐き、そして破顔した。ようやく小十郎も膝を突
いて笑う。梵天丸は寺に来てからあかるくなった。親しい者と自然しかない世界は、ちいさな主を抑えつける要素がた
だのひとつも存在しない。
伊達成実の声がした。

「剣の稽古はここまでと致しましょう」
「いいのか」
「成実と遊んできてよろしいですよ。ただし、危険な場所にはお行きにならぬよう」
「わかったっ」

駆けていくちいさな背中を見ながら、小十郎は息を吐く。
それから立ち上がろうとして膝に力を入れ、そのまま前のめりに倒れそうになった。地面に手を付いて舌打ちをする。
ろくに寝れなくなってからもう一月近い。限界だな、と小十郎は思った。
思ったところでどうすることが出来るわけでもなかった。
膝に手を突き、立ち上がる。額に浮き出たつめたい汗を拭いながら、せめて夜が来いと思う。梵天丸や他の家臣たちに
弱っている素振りを見せるわけにはいかぬ。
小十郎は眉を寄せた。
よる。

夜になればしのびの食事の為に、炭焼き小屋に行かねばならぬ。

考えるだに憂鬱だった。

「―――面倒臭ェ」

つぶやく。
目隠しをされたしのびは、人が変わったようになっている。
しのびの様子が変わったのは寺に来てからで、まず最初にへらへらと常に緩んでいた口元が引き結ばれ、余計な言葉を
一切発しなくなった。ひとを馬鹿にするか虚仮にするか、どちらにしても小十郎に不快感しか与えぬ男の言葉が出なく
なったのはむしろ喜ぶべきことであったけれど、次にしのびは食事を口にしなくなった。暑いんだよ。しのびは笑い、
それですべては事足りたと言うように黙り込む。殆ど手つかずの食事を前に小十郎は首を傾げたが、傷を負い何処とも
知れぬ土地でひとり熱にまとわりつかれながら、日がな一日動かずに居れば食の欲も失せるやもしれぬと思った。
そして次にしのびは水を飲まなくなった。

「水、飲んでねェのか」

しのびの寝転がっている筵の横に、隠してはいたのだろうが水が零れた染みが出来ていた。
竹筒の中身は無くなっているので、無論飲んでいると疑っていなかった小十郎は驚いた。しのびは体を起こし、足を伸
ばして座り込んで、飲んでるよと言う。
小十郎は黙ってその手を掴み、筵を捲り上げて濡れた板間にしのびのてのひらを押し当てた。

「何故、飲まん」
「―――これは偶然零しちまったんですよ」
「嘘だな。だったら言やァいい」
「これでも遠慮してるんだ。いいじゃないか、あんたに迷惑はかけてねえ」

しのびは鬱陶しげに身をよじった。
いつからだ。小十郎は問うた。しのびは答えず、添え木をされた足で小十郎の膝を蹴った。

「お帰りよ。もう用はねえでしょう」

突き放すように吐き捨てられ、小十郎は耳の辺りが怒りで熱くなるのを感じる。
掴んでいた手の皮膚を爪で突き破ってやろうかとも思ったが、そうする代わりに小十郎は黙って立ち上がり、空の竹筒
を手に小屋の外に出た。月は無い。おそろしいほどに、世界は闇だった。
ちろちろと川の流れる音がする。火打ち石で松明に火を付け、川のほうへ向かった。つめたい水はきらきらと星のあか
りに時折ひかったが、それでも夜の川は黒いなにかが流れているようでぞっとする。
たっぷりと水を汲んだ竹筒をまたずいとしのびの手に握らせると、呆れたような声が返ってきた。
あんたばかだ。

「いらねえ」
「干涸らびる気か」
「いいんじゃないの、それもさ」

しのびはひょいと肩をすくめ、からんと竹筒を振り払った。
ころころとそれは板間を転がり、小十郎の刀に当たって止まった。小十郎はそれを拾い上げ、栓を取って無理矢理にし
のびの口元に寄せる。しのびは顔を逸らした。そのしろいほおを手で掴み、口のなかに指を突っ込んで開かせようとす
るとがちりと歯と爪がぶつかる音がした。
思わず痛みに手を引いた。
しのびが笑う。

「いらねえんだよ。とっとと帰ってとっとと寝りゃあいい。
 あんた日に日に弱ってんのが見なくたって丸わかりだぜ。そのうちほんとうに」

しのびはすこしだけ間を置いた。
それから言う。
死んじまうよ。

「俺が干涸らびる前にあんたがお陀仏だ」
「―――俺は死なねェ」
「前も言ったと思いますがね、ひとが死ぬのに理由はないよ。ひとが生きてるのに理由がないのと一緒だ。
 あるのは原因と結果だけだぜ。いいかよ。あんたは馬鹿で俺みてえな余所者抱えてるせいで、ただでさえ足りてない
 眠ってる時間が更に減ってる。これが原因。
 これを続けてりゃあ、馬鹿でも解ることだけど死ぬよ」

これが結果。
しのびは言う。小十郎は黙った。
それからおまえは死にたいのかと問うた。水を飲まず食事を取らず、目の前のしのびの体は明らかに目減りしている。
しのびはすこしだけ黙って、それから口角をあげた。死にたくはないよ、できりゃあ生きてるほうがいい。

「死んだら何処に行くか解ッたもんじゃない。
 だったらどんだけ糞だろうと、うつつのほうがいくらか上等だね。すくなくとも糞だってことは解ってらぁ」
「じゃァ生きればいい。水を飲まなけりゃいずれ死ぬぜ」
「俺は得体の知れないものがだいッきらいなんでね。死ぬのもそう。それから」

あんたもだ、としのびは言った。
なあ、あんたどうしたいのさ。小十郎は食いちぎられた爪に目を落とした。どくどくと血の流れで皮膚が揺れている。
つうと流れる熱い液体を振り払って、まだこびり付いている赤を舌で舐め取る。
黙ったままに竹筒をまたしのびに握らせた。

「飲め」
「御免だ」

ぺ、としのびは口に含んでいた小十郎の血を吐き捨てた。
唇の端にまだ赤が付いている。小十郎はしばらくそれを眺め、それからしのびの手から竹筒を引いた。
首を傾け、口の中目一杯に水を含む。男の赤い髪に手をかけて、引き寄せた。


そして口付けた。


一瞬しのびの動きが止まる。
その一瞬で小十郎はしのびの頤に親指を食い込ませて、口を開かせた。もう片方の手を額に当てて首を傾けさせる。
小十郎を受け入れるように上向いた唇に口に含んだ水を流し込むと、こくりと男の喉が鳴る音がした。
次いで唇に激痛がはしる。
錆びた鉄の味がした。
痛みで飛び退く前に、しのびは自由に動くほうの腕で小十郎を突き飛ばし、着流しの裾で唇を拭った。小十郎もおなじ
く思い切り噛みつかれてぱくりと切れた唇の血を拭いながら、飲んだな、とすこしだけ笑う。
しのびは口を開いたまましばらくほうけていた。
それから口元を歪めて、しんじらんねえと言う。

「あんた、正真正銘の馬鹿だ」

小十郎はくつりと苦く笑う。
空になった竹筒で、かん、と板間を打った。

「おまえが飲まねェと言うなら、これからはこうやって飲ませる」

ひくりとしのびの肩が揺れた。
小十郎は低く声をたてて笑い、いやならてめェで飲め、と言って立ち上がる。手つかずの握り飯と菜の物を麻袋から取
り出して、改めてしのびの前に並べる。朝までに食え、と言ってやった。でなけりゃ、おんなじように食わせる。
苦虫を噛み潰したような顔をして、しのびは唸った。それが可笑しくて、小十郎は柱に背をもたれさせながらくつくつ
と笑った。笑っていると息が零れて、そうしているとそのうち意識まで零れていきそうだった。眠いのではなく、眩暈
がする。帰れよとしのびが言うので、言われたようにおのれの座敷に戻った。

そうして矢張り、昨夜も眠れなかった。

木刀を肩に背負って、小十郎は息を吐く。
目を閉じて、木刀を正眼に構える。すう、と息を吐いて肩の力を抜くが、切っ先がぶれた。苛立たしさに木刀を地面に
投げつけようかとも思ったが、おのれの未熟さを他のなにかにぶつけるのは愚者かそうでなければ、痴者だ。
愚者やもしれぬおのれを自覚しつつ、小十郎は一歩引いて自然体になり、木刀をぶらりと横に添えた。ちちち、と鳥が
鳴いて、木漏れ日からはひかりが差し込んでいる。地面に斑に落ちているひかりは驚くほどにしろいのに、小十郎はす
こしもそれを愛でるきもちにはなれなかった。


































端から溶けてしまいそうな細い月が雲に引っかかっている。
それが見えなくなった。そしてそのすこし後にまたつるりと出てくる。風が強い。動いているのは雲のほうであるが、
目を凝らして見ているとそのうちに月がつるつると滑っていっているような錯覚に陥る。
炭焼き小屋の引き戸をからりと引くと、寝転がっていたしのびが体を起こそうとして―――しかし、体が軋んだのか顔
をしかめてぴたりと動きを止める。小十郎は息を吐いて阿呆、と言う。

「大人しくしてろ。傷が開くだろうが」
「うるせえおひとだ。良いからとっとと飯寄越しゃぁいいんだよ」

苦く笑って言われずとも、と小十郎は麻袋をしのびの足下に投げた。
空の竹筒が転がっている。小屋のなかを見回すが、特に水で濡れたような痕跡は無かった。しのびが皮肉げに鼻で笑う。
ちゃんと飲んだよと言う。

「もうあンなのは御免だからな」
「お互い様だ」
「ほんとうに、あんたはどこまでも可笑しな男だ」
「そうかよ」
「そうだよ」

麻袋に手を突っ込んで、握り飯を頬張りながらしのびは言う。
小十郎は背を壁につけてそれを聞く。男の声は透明で、年齢ゆえかすこし高い。小十郎は目を閉じて、何故水を飲まな
かったのかと問うた。握り飯を咀嚼し終えてから、しのびはだから言っただろうと言う。

「俺は得体の知れないもんがきらいなんだ」

あんたはわけがわからない。
小十郎は目を閉じたまま、そうか、とだけ言った。それからすこしだけ笑う。おのれにも掴み切れていない行為の所以
を、当事者でない者が理解しうるわけもない。悪かったな。そう言うとしのびは謝るなよと吐き捨てた。ますますわけ
がわからねえ。
目を開く。月明かりが細く明かり取りの窓から差し込んでいるのが見えた。それに照らされて、しのびの晒が闇のなか
でぼんやりと浮かび上がっている。晒は薄汚れていた。
小十郎は眉を寄せ、立ち上がってしのびの傍に寄る。

「晒を取り替える」

麻袋のなかから替えの晒を取り出す。
するすると晒を取り除くと、閉じられた瞼が顕わになった。皮膚が薄い。月明かりに照らされて、しろい肌は殊更にし
ろく、むしろうっすらと青くすらある。右の瞼に斜めに付けられている傷が目に入って、小十郎は奥歯を噛みしめた。
痛むか。問うとしのびは首を振った。べつに。

「そうか」

手を伸ばして瞼に触れる。
つめたいのではないかと思わせる青い瞼はそれでもじんわりと温い。指を動かすと、ひくりと瞼が蠢いた。傷をなぞる
ように上から下へと人差し指を滑らせ、一度息を吐いてから新しい晒を巻く。
巻き終えると、しのびが唇を尖らせてくすぐったかった、と言った。小十郎はちいさく笑ってうるせぇよと返す。笑っ
たが、左ほおの傷が痛んで仕様がなかった。瞼の傷は大きく、皮膚が抉れて凄惨な見目であった。しかし確かに表面だ
けなのだろう、深くはない。瘡蓋が取れれば痕すら残らぬであろう。
もう晒の下に隠れたしのびの右眼を思いながら、小十郎はつぶやいた。

「もし」

おまえの目が見えるようになったら。
しのびは首を傾げる。小十郎は古い晒を握りしめ、




「俺に、おまえの両の目が開いたところを見せてはくれないか」




と言った。
しのびは黙った。
そして言う。なんでさ。

「俺の目なんて、見てどうすんだよ」

小十郎はそれには答えずに、古い晒を麻袋に突っ込んだ。
そうしながら、何色だ、と問うた。目は何色だ。しのびはすこし間を置いて、ちのいろ、とちいさく笑いながら言う。
小十郎はじゃあそれが見てェんだよと返す。
それが理由でいい。

「おまえのその、血の目が見てェのさ」
「なんで」
「見てェからだ。それ以上の理由なんぞあるか」
「―――わかんねえよ」

しのびは困ったように言った。
小十郎は空になった竹筒と水の満ちた竹筒を取り替え、しのびの横に置く。そしてまた悪いなと言った。全ては小十郎
の都合で、目の前の年若いしのびには一切の関係は無い。いたずらに戸惑わせていることは百も承知である。

それでも小十郎はどうしても目の前の男がひかりを取り戻す、その一瞬が見たい。

見てどうなるというわけでもなかった。
梵天丸の右眼はしのびのそれとは異なり、もう二度とひかりを取り戻すことはない。小十郎の主は永久に右からひかり
を失って、そうやって延々と生きねばならぬ。それはもうどうしようもなく終わってしまったことだ。
どれだけ祈ろうと、枯れ果てるまでに泣こうと、何も変わりはしない。
小十郎にはまだそのことをどう受け止めて良いのか解らぬ。腐った右眼は邪魔にしかならぬ。しかし主にとってそれは
今はもうおのれを振り返らぬ母が与えたものなのだ。もうなにもないんだ。主はそう言って泣いた。
小十郎にはそうやって泣いた主の胸のうちの、その半分すら理解することはかなわない。小十郎には両目があり、両親
があり、そして力がある。
梵天丸が泣く。
それを苦しく思う。
痛いと思う。
救ってやりたいと思う。

・・・・
それしか出来ぬ。


絶望的なまでに小十郎と梵天丸は他者である。
どれだけ手を伸ばそうとも、そして強く抱き留めたとしても、その痛みを小十郎が感じることはどうしても出来ない。
いっそおのれの右眼を抉り取ればそれはかなうのだろうか。
否、と小十郎は思う。
幼い主が味わっているのは、理不尽なまでに唐突に全てが奪い取られる不条理である。昨日までは在ったものが今日は
おのれの物でなくなっている絶対的な孤独である。自ら望んで主に殉じることは小十郎の矜持を満足させるだろう。要
するにそれは、単なる自慰的な行為でしかありえない。

それは主のあの右眼と向き合うことではない。

晒に隠されたしのびの右眼を思う。
血の色だというそれが、ゆるゆると開いてひかりにさらされる日を思う。それを真っ正面から見据えることが出来たら、
おのれは梵天丸のあの目と向き合えるのではないか。そう思うことは、もしやしたら逃げだろうか。
逃げやもしれぬ。しかし梵天丸からの逃げではなく、おのれからの逃げだ。せめてそう思うことで小十郎はおのれへの
嫌悪感を抑えつける。おのれでおのれに幻滅するのはひどく楽だ。そして無意味だ。
だから。小十郎は苦く笑って、立ち上がる。だから気に病むな。

「俺の都合だ。おまえはただ、黙って治ってりゃァいい」

小十郎を見上げるしのびは、しばらく黙っていた。
小十郎もしばらくの間しのびを見下ろし、それから息をひとつ吐いて踵を返す。小屋から出ようとするとぐい、と袴の
裾が引っぱられた。振り返るとしのびが乗り出して裾を引いている。身を乗り出すときに体の基軸がずれたのか、ほと
んど縋り付くような形になっている。
なんだ、と問うとそうもいかないな、と言う。

「俺ばっか貰ってンのは癪だよ」

屈み込んで元の場所に戻してやると、しのびは不満げにそう言う。
そしてたん、と横の筵を叩く。来い、と言う。何故と問うがいいからと言って答えない。
首を傾げながらそれに従うと、にゅ、と腕が伸びてきててのひらが目の上を覆った。すこし驚いて、振り払おうかと思
ったが、しのびの体が全身傷だらけだったのを思い出して、ただ何だ一体と言うに止める。

「ちっと目ぇ閉じてな」
「―――だからなんだ、こりゃァ」
「お黙りって」

くつりとしのびは笑う。
温いてのひらの感触が気色悪い。
しかし言われるがままに目を閉じた。瞼をゆるゆると撫でられる。そしてふいと手が離れた。まだだよ。静かに透明な
声が続ける。まだ目は開けちゃ駄目だ。小十郎は眉をひそめながら、早くしろと言う。
笑いながらしのびはまったくうるせえおひとだよと唄うように言った。


そしてその声がそのまま、唄になった。


聞いたことのない唄だった。
ゆるやかに音が流れて、時折止まり、そしてまた流れ出す。
聞いていると、どうやら赤児を寝かしつける為の子守唄のようだった。
馬鹿にしている。そう思った。そんなのもので眠れるものかと目を開こうとして、しかしまた瞼のうえにてのひらが覆
い被さってきたのでそれはかなわなかった。ぬるい温度がじわりと目を覆い、ゆるやかな声が空気を震わせて体中を包
み込んでくる。強い風にがたがたと小屋が揺れた。明かり取りの窓から風が吹き込み、湿った室内のこもった空気を吹
き飛ばし、すずやかなつめたさを運んでくる。
しのびの唄は風に乗って、小屋の中を満たすようだった。

「おやすみよ」

唄の合間に、時折しのびは静かにそう言う。
瞼を覆っていたてのひらはすいと上にあがり、額を覆う。そしてするりと落ちてほおの傷に触れた。唄は続いて、空気
が震えて、ぬるい温度は顔を確かめるように這い回る。もう瞼は開こうとしても開かぬ。
おやすみなさいな。またしのびは言う。だいじょうぶだよと言う。
だいじょうぶ、もうゆめはみないから。

「怖がんないで、もう寝ていいよ」

幼子に言い聞かすような声だった。
馬鹿にするな。そう言おうとしたが、あんまり唄が心地よかったので小十郎はそのまま意識を飛ばした。

夢は見なかった。








そうして、しのびの横で殆ど一月振りに小十郎は眠った。

















       
 





不眠症ってすきです。




空天
2007/05/21

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