愛してるぜ★ベイベ 「―――こじゅ、うろう?」 知らず、問いかけるような声がこぼれた。 小十郎が空に浮いている。 にわかに信じがたい光景に、政宗は一瞬言葉を失った。 傘の下にぶら下がった小十郎が、強い風にあおられて宙でゆらゆらと揺れていた。はっと政宗は立ち上がり、 飛び上がって小十郎の足を捉えようとしたがまったく届かない。 空を飛んでいる小十郎は目を見開いて固まっている。 さすがに動揺しているらしい。政宗もどうしていいか解らずに固まるしかない。そうしているうちにも小十 郎は固まったままゆらゆらと風にあおられ、傘と一緒に幼稚園の塀を越えて道路のほうへ流れていった。 政宗はしばらくやっぱり口を開いたまま突っ立っていたが、そんな場合ではないことにようやく気付いて慌 てて塀に登った。ほんとうならば保育士を呼びに行くべきだったかもしれない。でもそんな判断力は政宗に はなかった。視界から消えた小十郎を自分の左目の中に取り返すことを考えるのが、五歳児の悩における許 容範囲の精一杯だった。 政宗は風に煽られながら必死で塀をよじ登り、その天辺に辿り着いたところで正面から思い切り吹き付けて くる風に目を閉じた。 再び目を開くと、小十郎はさらに反対側の道路へと流されている。 「こじゅうろうッ」 政宗は必死に叫んだ。 でも叫んだところで小十郎が戻ってくるわけもなく、そのままゆらゆらと空色の傘は流れていくばかりだ。 一際強く風が吹いた。さあっ、と体温が下がる。空色の傘がぐらりと傾き、含んでいた風を失った傘からは 浮力が消え、そのまま道路へと急降下していく。 政宗は咄嗟に顔を伏せた。 ほんとうは耳も塞ぎたかった。きっと直後には、小十郎が地面に叩きつけられる「ぐしゃり」という音が鼓 膜に突き刺さってくるはずだからだ。でも風の中では塀にしがみつかざるをえず、政宗は耳に入ってくるで あろうその音の為に唇を噛んだ。 「―――わ、メアリーポピンズだ」 政宗はうっすらと目を開いた。 メアリーポピンズ? 残酷な擬音の代わりに耳に入ってきた間抜けた声による児童文学のタイトルに、政宗は弾かれたように顔を 上げた。 小十郎は地面に叩きつけられてはいなかった。 代わりに赤い髪の男に小十郎は抱きかかえられていた。傘はころころと道路を転がっていって、政宗の視界 から消えた。男は―――制服を着ているのでおそらくまだ学生のその男は、抱きかかえている小十郎に向か って首を傾げ、「だいじょうぶ?」と聞いた。 「ボク、怪我とかしてない?」 小十郎はぼう、と固まっていてそれに返事をしない。 まだ混乱しているのかもしれない。政宗は塀をよじ登り、飛びこえた。道路を横断してふたりに近寄ると、 男のほうが気付いて首を傾げた。 「あれ、またちっこいのが来た」 「ちっこいのじゃねェ。おれにはだてまさむねってェ、ネームがある!」 「はあ、そら失礼しました」 男はひょいと肩を竦めた。 なんとも言えないしゃくに触る仕草をする。政宗は眉を寄せて、短い腕をぐい、と伸ばした。かえせ、と言う。 それかえせ。 「それはおれのだ、ユーシー?」 「それって―――あぁ、この子?」 男は抱え込んだ小十郎をくるりと腕の中で回転させ、脇を持って道路に降ろした。そこでようやく政宗の 存在に気付いたらしい小十郎は、目を丸めた。慌てて男の腕から離れ、政宗に駆け寄る。 政宗は駆け寄ってきた小十郎を上から下までじいと眺めた。 「こじゅうろう、ケガはねェか?」 「はい、すみません、ごしんぱいおかけしました」 「うん、こんどからはあんまりむちゃすんなよ」 「まさむねさまはへいきですか?」 「おれはなんともねェよ。ドントウォーリー」 「おお、美しい友情だね」 後ろから間の抜けた声がして、小十郎と政宗は顔を上げた。 さっきの男がまだそこに居て、へらりと笑って座り込んでいる。顔に緑のペイントが塗ってあって、赤い髪 はヘアバンドでまとめられ、後ろに流れている。制服はびしょ濡れで変色していたけれども、グレイのズボ ンに見覚えがあるので、近所の高校の生徒だということが解った。 赤毛の男は手を伸ばし、小十郎の頭をカッパ越しにぽんぽんと叩いて、またへらりと笑う。 「なんかグローバルなお友達が助けに来てくれたなあ。今後はあんまり雨の日に無理して傘ささないほうが いいよ、また飛んじゃうから」 男はそう言って立ち上がった。ボクもね、と政宗にも笑いかける。政宗は頷いて、短い腕を左右に振る。 「アンタ、サンキューな。うちのこじゅうろうがせわになったぜ」 「いえいえこっちこそ流暢な英語堪能したわ。ボク賢いね、帰国子女?」 「おれはボクじゃねェ。だてまさむねだ」 「これまた失敬。そいじゃ気をつけて、ダテマサムネ君」 男は笑いながらくるりと踵を返し、鞄を頭の上に掲げて走りだした。 政宗はそれを見送って、幼稚園の建物へ向かおうと隣の小十郎の肩を叩こうとして失敗した。すか、と政宗 の手は空振りし、自分の膝にてのひらがぱちんと当たる。政宗は空振りした手とすこし痛む自分の膝を眺め、 それから顔を上げた。 青いカッパが物凄いスピードで走っていくのが見えた。 それが小十郎だということに、政宗はしばらく気付けなかった。 その青いカッパが、赤毛の男の後を追って角を曲がったところで政宗はようやくその正体が小十郎だという ことに気付いて、慌てて後を追った。 「おい、こじゅうろうッ、ワッツハプン!?」 聞こえていないのか、青いカッパは振り返る気配すらない。 「―――おい、そこのあかげッ」 「うわっ」 やっと追いついて駆け寄ろうとしたら、台風の騒音も掻き消すような大声が鳴り響いて、政宗は両手で耳を 塞いだ。 仁王立ちをした青いカッパが、―――もとい、小十郎が前を走る男に向かって怒鳴っている。男はくるりと 振り返り、小十郎を視界に入れると髪とおんなじ色の目をぱちぱちと瞬かせた。 「どうしたのボク、まだなんかあんの?」 「なまえ」 「は、」 「なまえ、おまえのなまえをきいてねェ」 おしえろ。 小十郎はそう怒鳴った。 男はしばらくぼう、と突っ立ってから、困ったように眉を下げて、「べつに名乗るほどの名前は、」と言い かけた。その前に小十郎がその言葉を遮り、うるせェ、とまた怒鳴った。 「おまえのなまえのかちなんてどうでもいいんだよ。おれはかりをつくるのはきらいなんだ。なまえおしえ ろ。さんばいにしてかえしてやる」 「―――なんかヤクザの捨て台詞みたいだな」 「うだうだいってねェではやくおしえやがれッ」 小十郎はびしりと男を指さしてから、後ろの政宗に気付いたのかぱっとその指を下ろした。 それからすこし間を置いて、「おしえてください」と言い直した。男はけらけらと笑って、なんか大変そう だねメアリーポピンズ、と首を傾げた。 小十郎はむっと顔をしかめて、おれはそんなおちゃらけたなまえじゃねェ、と言った。おれはかたくらこじ ゅうろうだ。 「へえ」 男はひょいと眉を上げ、名乗られたなら名乗ンねえとな、と口角を上げてにんまりと笑った。雨脚はすこし ずつ、弱まっているようだった。風は相変わらずひどいけれども、辺りがすこしずつ明るくなってきている のに政宗は気付いた。 たぶん、小十郎は気付いていない。 ただ目の前の赤い髪の男を睨んで、その男が何を言うのかをじいと待っている。男は小十郎の視線ににっこ りと笑顔で返して、口を開いた。 「俺の名前は猿飛佐助。三倍返しはいつでも受けつけますよ、小十郎君」 じゃあね、と男は―――猿飛佐助は手を振ってまた駆けだしていった。 |