かちゃりと鍵を差し込んで、ドアを開く。 それと同時に飛びついてきた物体に、佐助はぺたんとマンションの廊下に尻餅をついた。うひゃあと間抜けた声がもれる。ぺろぺろ と佐助のほおをなめてくるそれは、艶やかな黒が印象的な、たぶんドーベルマンだった。つまり犬だった。 呆然とする佐助のはるか上から、 「おい、コジュウロウ離してやれ」 と小十郎が言った。 The Words Are Special For Only Me 金曜日がちょうど、開園記念日でやすみだった。 金・土・日と三連休になる。それで小十郎の担当クラスの園児であり、恩人の息子でもある伊達政宗は沖縄に単身赴任している父親 に会いに行くらしい。もちろん佐助は本来であればそんなことは知る由もないし、関係もないのだが、世間で言うところの恋人であ る小十郎に関してはすこしはなしは別だった。 最初にそれを聞いたとき、佐助はにやりと口角をあげた。 「てことは」 「あァ?」 「今週は政宗のとこ行かないってことだよな」 毎週金曜日、小十郎は政宗の家に食事に行く。 それは驚くほどに例外がなく、どれだけ佐助が頼んでもすねてみても変わらない。恩人である輝宗に頼まれているという以上に、あ の眼帯の可愛げのかけらもないような園児に佐助の恋人は夢中なのだ。盲目と言ってもいい。もちろん佐助としてはそれがおもしろ いわけもないが、なまじ「俺と政宗とどっちが大事なのさ」とでも言おうものならば、おそらく十中八九の割合で佐助の恋人は「政 宗様」と答えるだろう。 負け戦はしないのが佐助のポリシーである。 が、沖縄に金曜日に旅立つというのならば、金曜の夕食会は当然キャンセルだろう。小十郎はにやついている佐助を気味悪げに眺め ながら、そうだな、と言った。ここで実際にガッツポーズをしなかった自分を佐助はほめてあげたいと思う。じゃあ金曜日に遊びに 行ってもいいかと聞いたら、小十郎はすこし考えてから頷いた。 泊まってもいい、と更に重ねて聞いたら、 「着替えは二日分持って来いよ」 と言われたので、佐助の機嫌はさらによくなる。 小十郎にしてみれば、どうせ日曜日は一緒に映画を見ることになっているのだから帰らせるのもあほらしいとかそういうことなのか もしれないが、佐助はそういう事実は極力見ないことがこの男と付き合うコツだと思っている。よいように取れることはよいように 取っておけばよいのだ。佐助が思っているだけなら誰にも害は及ばない。 だから佐助は、小十郎のマンションのインターホンを押して反応がなかったときも、それほどがっかりはしなかった。 むしろどちらかと言えば、先日手に入れた合鍵を使うチャンスだとさえ思った。なだめすかして泣き落としまで使ってようやっと手 に入れた合鍵だったのに、小十郎のマンションに佐助が行くのは大抵がふたりで出掛けた帰りであり、当然のようにそのときは小十 郎がドアを開けるわけで今の今までそれは宝の持ち腐れだった。もったいない。これでは佐助の涙は流れ損である。 佐助はうきうきしながら合鍵を使った。そしてドアを開いた。 そうして冒頭に至る。 黒犬にまとわりつかれながら、佐助はリビングに入ってソファに座った。まだ午前中なので、電灯がついていない北向きの部屋はう っすらと暗い。小十郎は佐助がリビングに入るとぱちりと電灯をつけた。白い光が室内を照らす。 「じゃあこれって、政宗んちの犬ってこと?」 「あァ」 かたん、とソファの前のテーブルにコーヒーが置かれる。 黒犬は相変わらず佐助になついて尻尾を振っている。佐助はそれを膝に乗せながら、それも、と聞いた。小十郎の足元にも、すこし ちいさめの、こちらはたぶん雑種だと思われるベージュの犬がまとわりついている。小十郎はこれは違う、と首を振った。 「こいつァ、真田のだ」 「幸村ぁ?」 「政宗様と一緒にあいつも沖縄行ったんだよ。一緒に頼まれたんでね、まァ、一匹も二匹も変わるまい」 ひょいと雑種を持ち上げて小十郎は言う。 ふうん、と佐助は鼻を鳴らし、で、と言った。で、なにさっきの。 「あんたこの黒いののことなんて呼んだ?」 「コジュウロウ」 「・・・なんで」 「そいつの名前以外でそいつを呼ぶわけがねェだろうが」 「あんたの名前じゃねーかよそれ」 政宗の考えそうなことだ、と佐助は目を細めた。 今年最年長クラスにあがった伊達政宗は、どういうことだか盲目的に小十郎を慕っておりーーーなのである意味このふたりは両思い なのだがーーー将来の夢は世界征服と小十郎を嫁にすることだと公言してはばからない。幼稚園児に嫉妬するほど佐助も元気ではな いのであまり気にしないようにはしているが、それでもいっそ清清しいほどの熱愛を政宗は小十郎に向けていた。飼っている犬の名 前を同じにするなど、かわいいものだとさえ佐助は思う。いつかあの園児はもっとえげつないことをしてでも目の前のこの男を手に 入れるような気がしてならない。 だからこの黒犬がコジュウロウだということはいい。 「よく呼べるな、自分の名前でさ」 そこが不思議だ。 小十郎は首をかしげる。 「なんで呼べねェ理由がある」 「いや、やじゃないふつー。俺はサスケって名前の犬が居ても自分じゃ呼ばねーよ」 「四十七音のうちの五音が合わさったってだけだろうが。それ以上の意味はねェ」 「・・・あんたの脳みそは時々鉄で出来てるんじゃねーかと思うよ、俺」 息を吐くと、ぽいと雑種が飛んできた。 あわててそれを手に取る。昼飯つくってくるから見てろ、と小十郎はキッチンに向かいつつ佐助に言う。二匹の犬にかこまれて、佐 助はちいさく呻いた。動物はきらいではないが、特別すきでもない。二匹はすこし手に余る、と思った。 が、小十郎から渡された雑種のほうは、するりと佐助の手から飛び降りてキッチンへと走って行く。そして入り口のところで尻尾を たれて、丸くなった。寝ているのかもしれない。 (猫みたい) 相手をしなくてもいいようだ。 なので佐助は膝の上のコジュウロウをとりあえず撫でてみた。するとぴょんと顔をあげてがばりと佐助に飛びついてくる。大型犬な のでその重さに思わず佐助はソファに押し倒される形になった。コジュウロウはぺろぺろと佐助の顔を楽しそうに舐めている。 「おー、こっちのコジュウロウは積極的だねえ」 くすぐったい舌の感触に笑いながら言う。 コジュウロウの足が引っかくように佐助のジャンパーを踏みつけるのですこし痛い。それに眉を寄せながら、ふと佐助はキッチンの ほうへ目をやってみた。小十郎の姿は見えないが、距離は近い。 わざとすこし大きめな声で、コジュウロウってば乱暴なんだからーと言ってみた。 反応はない。 ち、と舌打ちをする。 コジュウロウはその間も飽きもせず佐助の顔を舐めている。起き上がろうとしたら、またそのままぽすんとソファに押し倒された。 佐助はおかしくなって、 「もーコジュウロウえっちだなあ」 と笑った。 と、ひょいと目の前のコジュウロウが消える。それまで影になっていた部分に室内灯が当たってあかるくなり、佐助はうん、と首を 傾げて、 青くなった。 「あー・・・ごめ」 ん、と言う音は発せられなかった。 そのまえに小十郎の左の拳が佐助の頭頂部に思い切り振り下ろされた。 ごす、という鈍い音がして、いっしゅん痛みよりもその衝撃でくらりと世界が揺れる。頭を抑えながら顔を上げると、まるで悪鬼の ような顔をした小十郎がコジュウロウを抱えてそびえ立っている。佐助はひいと身をすくませた。 「ごめ、ちょっと調子に乗った」 「・・・ちょっと?」 「えっと、あー・・・かなり?」 佐助がえへ、と笑うと小十郎もにこりと笑った。 ぞくりと背筋に寒気がはしる。佐助は経験上、この男はほんとうに切れたときは怒るよりもさきに笑うのだということを痛いほどに 知っていた。なのでひょいと小十郎の手のなかの犬を奪い取って、 「・・・・・・・・・・・・・コジュウロウとちょっと散歩してくる!」 と笑って逃げ出した。 後ろからえんぴつとかボールペンとか飛んできたが、部屋のドアを閉じたときも佐助の一命はなんとか取り留められていた。咄嗟に 小十郎から奪い取ったコジュウロウを、コンクリート張りのマンションの廊下に下ろし、ふうと大きく息をつく。ジャンパーのポケ ットに合鍵があることを確認して、佐助はうーんとちいさく呻いた。このまままた部屋に入っても、追い出されるということはない だろうが確実に腹か頭かに一発がくる。佐助は特に暴力をふるわれて快感を得るタイプというわけではないので、できればそれは遠 慮願いたい。 佐助はしゃがみこんで、コジュウロウに聞いてみた。 「ご機嫌ナナメなご主人様のために、おいしいケーキを買いに行ったほうがいいと思う?」 わん、とコジュウロウが吠える。 佐助はにい、と笑ってよっしゃ行くかとコジュウロウの頭を撫でた。 ケーキの入った箱を抱えて、佐助はおそるおそるリビングのドアを開いた。 テーブルの上には既にほかほか湯気ののぼるロールキャベツと白米とサラダが並べてある。小十郎はほおづえをついて椅子に座って いて、佐助を見ると遅ェよとひとこと言った。殴ってくる気配はないので、佐助は安堵の息を吐く。 「ごめん、どれにしようか迷っちゃってさあ」 「角のところのか」 「うん、こないだおいしかったから」 ことん、とテーブルに箱を置くと、そのロゴを見て小十郎の眉間のしわがやわらいだ。 顔に似合わず、と言ってはいけないのかもしれないが、とにかく意外にも小十郎はあまいものに目がない。どちらかと言えば辛党で ある佐助はあまりその趣味に理解が示せないのだけれど、このマンションを出てすぐのところにある洋菓子店のケーキはあまり甘く なくて佐助もお気に入りだった。がさごそと箱を開くと三つのケーキが姿を現す。 小十郎は眉を寄せる。 「三つもいらねェよ」 「いやーコジュウロウがね、チーズケーキとモンブラン片倉さんはどっちすきだと思う、って聞いたらどっちにも吠えるんだもん。 わかんねーから二個とも買ってきた」 「犬に聞いてどうする」 「おなじこじゅうろうだからわかるかと思って」 へらりと笑うとわかるか、と小十郎は目を細める。 椅子に座って足下のコジュウロウを撫でていたら、雑種のほうも佐助に近寄ってきた。短い尻尾を振って佐助の足にしがみついてく る。それをならしながら、そういえば、と佐助は言った。ケーキを冷蔵庫に入れるためにキッチンへ向かっていた小十郎が振り返る。 「この雑種さ」 「あァ?」 「こいつなんて名前だっけ」 やっぱ幸村のだからシンゲンとかもしかしたらエンチョウとか、と佐助は笑いながら聞く。 が、小十郎はなぜだか答えずにそのままキッチンの奥へと進んでいった。佐助は首を傾げつつ、雑種を膝に抱く。雑種だがちゃんと 世話をされているのだろう。ベージュの毛並みはふわふわとしていてとてもさわり心地がいい。温いなーとほおずりをしていたら、 戻ってきた小十郎にひょいと奪われた。手を洗ってこいと睨まれる。 「はいはーい」 やはりくっついてくるコジュウロウを従えて、洗面所に向かう。 蛇口を捻って水を出し、石けんで手を洗っていると、ちょいちょいとズボンを引っ張られた。見てみるとコジュウロウがなにかくわ えている。タオルで手を拭きつつ、佐助はしゃがみこんでそれを手に取った。赤いそれは、首輪のようだった。 おまえの、と聞くとコジュウロウはぶんぶんと首を振る。首を傾げながら佐助はしげしげとその首輪を見て、 「・・・・・・あ」 あるものを見つけた。 しばらくぱちくりと瞬きを繰り返したあと、その目はにい、と上弦に歪む。 戻ってきた佐助を見て小十郎の顔が不審げな色に染まる。 いやに佐助の顔がにやにやとふぬけている。気色悪いな、と小十郎は言った。佐助はそれでもそのにやけ面を変えずに、じりじりと 小十郎ににじり寄ってくる。がたん、と小十郎は思わず椅子に座ったまま退いた。とてつもなく気持ち悪い。 「・・・なんだその面」 「うっふっふー」 「ものすげェ気色悪ィぞ」 「ふっふっふっふ、なにを言われても俺は平気だぜ」 これを見ろ!と佐助は小十郎の鼻先に首輪を突きつける。 ちゃらん、と揺れたそれを小十郎はしばらく眺め、それから目を見開いてがしりと佐助の手から奪い取った。佐助はやはり目を半目 にしてにやにやと笑っている。 首輪は雑種のものだった。そこにはアルファベットで、名前が刻まれている。 椅子を引きながら、佐助はわざとらしく首を傾げた。 「四十七音のうちのたった三音じゃないのーそれもさ」 小十郎が握りしめている赤い首輪を、ちょん、と人差し指で弾く。 小十郎は大きなてのひらで口元を覆い、眉を寄せている。心の奥底から不機嫌そうな顔で、なのに佐助を殴らないのは佐助の言うこ とが図星だからだろう。佐助は更に顔を笑みで崩して、まとわりついてくるコジュウロウをひょいと膝に乗せ、額を合わせる。 「ほんとにあっちのこじゅうろうは素直じゃないねえ」 ちゅ、と濡れた鼻先にキスをする。 肩にコジュウロウを背負って人間のほうに目をやる。じとりと黒い目が睨み付けてきたが、佐助はへらへらと笑い返した。コジュウ ロウをフローリングに放して、箸を持っていただきます、とことさらに明るく言う。食べないの、と聞くと諦めたように息を吐いて 小十郎も箸を持つ。佐助はロールキャベツに箸を突き刺しながら、ね、と笑った。 「ほら、特別じゃん」 へらへら笑う佐助に、人間のほうは黙って犬のほうはわんと吠えた。 佐助はすこし屈み込んで、サスケもコジュウロウもあとでドッグフードあげるから待っててね、と言った。 |