猪だってここまで一直線には向かってこないだろう。 小十郎はそう思った。天守閣から見下ろせる城門のところには遠目にも目に痛い真っ赤な物体がこちらを見上げてなに か叫んでいる。眉間に指を当てて、小十郎は低く呻いた。 横にいる主が首を傾げている。 「Hey,小十郎」 「―――は」 「呼ばれてるぜ」 いいのか、行かなくて。 政宗は煙管で真っ赤な物体――――――真田幸村を指して、言った。
し の ぶ れ ど
あ ま り て な ど か 後 「此度は片倉殿に米沢を案内していただきたくて、参った次第でござる」 客間に通した真田の嫡男はそう言って笑った。 小十郎は袴をぐぐ、と握りしめる。案内。巫山戯るな。帰れ。そう言えればどれだけいいだろうとは思うけれども、こ の場合小十郎は一家臣であり幸村は一国の跡取りである。逆らうことなどできるはずもない。 承知しましたと頭を下げようとしたら、幸村がしかしと言葉を続けた。 「しかし、お忙しいのなら無理にとは申しませぬ」 「――――――何だと」 「片倉殿は伊達家が家臣。 真田の嫡男が無理を言えば従わなければならぬでしょう。しかし、それでは意味がないのだ」 幸村は照れたようにほおを染めて、これは其の勝手でござるよ、と言う。 勝手であるから、お頼みであって命令はしたくないのでござる。小十郎は目を細めて、それから口を開いてまた閉じた。 最近気付いたことだけれども、目の前の童のような顔をした男のことをどうやら小十郎は苦手のようだった。 手練手管に搦め手ならば受け流すこともできる。強引にと言うのならばこちらもそうやって応戦するのみである。しか し幸村は何を求めることもなく、なにか策を使うでもなく、ただ飽きもせずにこうやって奥州に通うだけだ。 米沢を案内しろ、という建前ももはや五度目になっている。 「もう何処も案内するところなんざ、残っちゃいねェよ」 小十郎はそう言った。 幸村はむう、と唸って眉を下げる。 「どう致そう」 「知るか」 問われても答えようがない。 どう致そう。また幸村は言う。困り切った顔はまるで捨て犬かなにかのようで、小十郎は思わずきつく目を閉じた。お のれでも自覚はしているが――――――この手の顔に小十郎は弱い。 むうむうと唸る幸村に、小十郎はとうとう耐えきれずに遠駆けでもするかと言ってしまった。 幸村は大きな目を幾度か瞬かせる。 「遠駆け」 「悪くはねェだろう。今の季節なら、最上の川沿いにゃ紫陽花が咲いてる」 「紫陽花」 「繰り返すな一々」 呆れて言うと、幸村の顔がみるみる赤くなって、 「い、行くでござるッ」 最後に破顔した。 小十郎は息を吐く。あまりそういう顔はしないでほしい、と思った。 部下のひとりを呼んで、厩でふたり分の馬を用意させる。行くぞ、と声をかけると、またひどくうれしそうに幸村は笑 って、小十郎の後ろに犬のように付いてくる。これが虎の若子。小十郎は舌打ちをしてしまいたくなった。 廊下を渡っていると、きしきしと床が軋む音がふたりぶん響く。日のひかりが濃く差し込んでいて、組んだおのれの腕 にかかる影もひどくそのいろが濃い。うしろを振り向くと、ふわふわとした前髪を揺らしている男が不思議そうに見返 してきた。小十郎はすこし苦く笑って、何でもねェよ、とまた前を向く。 調子が狂うな、と思う。 ――――――片倉様には、お似合いじゃ ふいに遊び女の言葉が蘇ってきて、小十郎は足を止めそうになった。 眉を寄せて、そのままなんとか足を進める。馴染みの遊び女は、店に行くと最近ではその話しかしない。真田様とはど ういたしましたか、あんなに思われてさぞかわいらしいでしょうな、ほんに片倉様が羨ましいこと。 譲ってやろうか、と小十郎は憮然として言ってやったことがあった。 幽里はころころと笑う。 「恋心はそんなふうに扱えるものではありゃしゃりません」 「欲しいならやる。俺は要らん」 「ひどいおひとじゃ」 笑みをほおに貼り付けたまま、幽里は小十郎の体にしなだれかかる。 だらりと骨が抜けたように、おのれの体にひたりと寄り添うその体を腕で更に引き寄せながら、小十郎はあの手合いは 好かんな、と苦く笑った。真田様のこと、と幽里が問うので、小十郎は頷いた。 急に幽里が袖を口に当てて笑い出す。 「嘘ばッかり」 そして小十郎の唇にそのしろい指を当てる。 好きじゃない、ではなくて苦手でありましょう。そう言われて、小十郎はすこし首を傾げてそうかも知らん、と答えた。 あの馬鹿の一つ覚えのようにおのれに向かってくる男を、きらいかと問われれば小十郎はきっと答えに窮すだろう。そ れはつまり、あの男の感情にも行為にも小十郎は嫌悪を感じていないということになる。 片倉様は、と幽里は唄うように続けた。 「片倉様は真っ直ぐに恋慕を向けられることも向けることも、苦手な御方」 さればあの方も苦手なのでしょう。 小十郎はつい、と眉を上げた。すこし女の体を遠ざける。 廓に来るのは此処が気楽で表の薄っぺらい部分でしか触れあわぬからである。こんな場所でまでおのれの中身を探られ るのは御免だ。鬱陶しげに女を押しのけると、それでも幽里は楽しげに笑って指を膝に這わす。 「おや、図星かえ」 「いやにお喋りが進むな、今日は」 「たのしいのだもの。そんな顔をなさる片倉様は珍しい。夏に雪が降るより珍しい」 ほんにたのしいこと。 幽里は笑いながら、小十郎の膝に頭を乗せてそれにあの方は立派なおのこですぞ、と言う。どうだか、と小十郎は吐き 捨てた。惚れた相手と一晩共にして、なにもせずに過ごす馬鹿を小十郎は知らぬ。そう言うと、幽里はまた肩を震わせ ておかしいことそれではまるで何かして欲しかったよう、と小十郎をひどく楽しげに見上げた。 小十郎は顔を歪める。 「何奴も此奴もひとのことを玩具扱いか」 たまらんな。 吐き捨てる。しのびの顔が浮かんだ。 あの男もけらけら笑っては小十郎と幸村で遊んでばかり居る。いやぁ俺様は旦那らのことが心配でさぁと言ってはいる が絶対に嘘に決まっている。真田幸村のことを心配していることは百歩譲ってありえるやもしれぬが、小十郎のことは 確実にただの玩具としか思っていない。何時になったら黒龍は帰ってくるのだ。 苛々と小十郎が足を進めていたら、そういえば、と幸村が声を出した。 「なんだ」 「これ、お返し致す」 「――――此奴ァ」 振り返って小十郎は目を見開いた。 幸村のお付きの小姓が跪き、小十郎に一振り刀を差し出す。 それはまごう事なき愛刀の黒龍だった。 其のしのびが失礼なことを致した、と幸村は困ったように笑う。 佐助も悪い奴ではないのだが、巫山戯るのがすきな男なのですよ。小十郎は何も言わずに、ただ久々に感じるおのれの 刀の重みを確かめるように柄を握ってはゆるめ握ってはゆるめて、それから腰に差した。 いいのか、と小十郎は幸村に問う。 「此奴が俺の元にありゃァ、もうおまえとは会う理由が無ェんだぜ」 「構わないでござる。それでも其は勝手に会いにくるでござるよ」 「俺が会わなくてもか」 「会ってくれなくても」 其が会いたければ、会いに参ります。 幸村はゆるりと笑う。小十郎はむっつりと黙り込んだ。 くるりと振り返り、また足を踏み出す。ぎしぎしぎしぎし、ふたりぶんの足音が響く。幾分大股になった小十郎の歩み に幸村は小走りでついてくる。かたくらどの、と後ろから声がかかった。かたくらどの、それで、きょうのとおがけは ともにしていただけるのでござろうか。 小十郎は何も言わずにただ歩く。 「片倉殿」 幸村は何度も小十郎の名を呼ぶ。 かたくらどの、かたくらどの。十回呼ばれて、小十郎はようやっと振り返って目を細める。 それから思い切り幸村の横っ腹を蹴りつけた。 「ぅぶっ」 不意を突かれたらしい幸村は蛙が潰れたような情けない声を出して蹲る。 小十郎はそれを細めた目で眺めて、てめェは鸚鵡か、と静かに言った。 繰り返すな阿呆。 「遠駆けは行く。一度約束したことは違えん」 それだけだ。 小十郎は言い捨てて、へたり込んだ幸村をまたひとつ蹴りつけたあと踵を返して歩き出した。 厩の前で待っていたおのれの小姓から栗毛の馬を一頭受け渡されて、小十郎はとっととそれに飛び乗って幸村を置いて 城門を潜った。一度振り返ると、幸村は月毛のまだ若馬に乗って追いかけてきている。気を付けろよ、と小十郎は声を かけた。幸村の乗っている馬は暴れ馬で名を通している。主の伊達政宗にしか懐かぬ。 幸村はしばらくは苦戦しているようだった。手綱を握ったまま、城門の近くでうろうろしている。が、そのうちに馬の ほうが鼻先を幸村の手に擦りつけてきて、激しい体の動きを止めた。ふうん、と小十郎は鼻を鳴らす。幸村は笑みを浮 かべながら月毛の馬に乗って駆け寄ってきた。 「なかなか気性の荒い馬でござるな」 「小姓連中の嫌がらせだったと思うがな」 「は」 「何でもねェ」 伊達の兵は政宗に心酔している。 その好敵手への嫌がらせにこの馬を寄越したのだと思うが、生憎虎の若子は乗りこなしてしまった。逆効果だな、と思 いながら小十郎は追いついてきた幸村にちらりと笑う。可哀想なことだと小姓らに同情するつもりの笑みだったのだが、 なぜか幸村の顔はうっすらと赤くなった。 いきなり笑わないで欲しいと幸村はちいさな声で言った。 「び、びっくりしたでござる」 はァ、と小十郎は眉を寄せる。 幸村は顔を赤らめたままに、笑われると驚く、と言う。小十郎はますます眉を寄せた。 口元に手をやって、横に並んだ幸村を思いきり睨み付けながら、じゃァもう二度と笑わねェよと吐き捨てた。馬の腹に 鞭をくれて、小十郎はとっとと駆けだす。 幸村が慌てて追いかけてくる。 「そう、そうは言ってないでござるよッ」 「煩ェ。笑わなけりゃいいんだろうが。お望み通りにしてやろう」 「ちがうでござる、その、ああそうだッ。言ってくだされ! まず笑う前に言ってくだされば其も心の準備というものが出来ますゆえまず其に一言言ってから笑ってくだされば」 「巫山戯んな、阿呆」 「巫山戯てないでござるッ」 「じゃあ死んでおけ」 「片倉殿どうして怒ってるでござるか」 「煩ェ黙れ。落馬しちまえ」 言い合ってるうちに最上川に着いてしまった。 馬上で小十郎は洗い息を吐く。横で幸村も汗だくになっていた。絶えず口を開きっぱなしにしながら全速力で馬を走ら せるのはなかなかに骨だ。木陰に馬を括って、乱れた髪を掻き上げる。幸村も馬を下りて汗だくの体を手拭いで拭って いる。紫陽花がそこら彼処で咲き乱れていた。野生のそれは、城に植えてあるものとはちがっていろが薄い。 川の水面はきらきらとひかりを撒き散らしていて、小十郎はそのひかりの強さに思わず目を閉じそうになった。幸村が 袴をすこし持ち上げて、つまさきを川の水に浸してほうと息を吐いている。小十郎は大樹に背をもたれさせてそれを眺 めた。つめたい水に足を浸して喜んでいる様はただの童でしかない。 まるで子守だ。 どうしておのれはこんなところで子守をしているのか。 「――――――調子が狂う」 ぽつりとつぶやいて、それから小十郎は頭を木の表皮にこつんとつけた。 川のなかをばしゃばしゃと歩いている幸村が、小十郎に手を振った。かたくらどの、と声をかけられて小十郎は仕方な く頷いた。幸村は川からあがって小十郎のもとまで駆けてきた。 犬だ。 小十郎はぼんやりそう思う。 「片倉殿も入ってみませぬか。きもちいいでござるよ」 「いらん。俺は生憎、もう十六じゃあねェんでな」 川遊びなどしているところを家臣にでも見られたらどう言い訳をすればいいのか。 小十郎は幸村に視線を向けぬままにそう言った。幸村はそうでござるか、と特に感慨もないように言って、小十郎の横 に腰掛けた。見下ろすと、にこりと笑みを寄越される。小十郎は眉を寄せた。 一体何なんだ。眉間に指を二本押し当てて、小十郎は低く呻く。 「おまえは」 なんでござろう、と幸村が見上げてくる。 小十郎は目を閉じたまま言った。おまえは何がしてェんだ。 「接吻のことは忘れた方がいい。犬に噛まれたと思っておけ。 初めてだからといってなにか特別なことがあるわけでもない。 何遍もすりゃあ最初のことなんぞどうだっていいことだったと気付く日が来る」 「何の話でござるか」 幸村は不思議そうに首を傾げる。 おまえの話だ、と小十郎は言った。其の話。幸村はそう言ってから、また首を傾げる。 「接吻がどうしたでござるか」 「しただろう」 「しましたな」 「あれが原因じゃねェのか」 「何の」 「おまえが俺のことを慕うだなんだと言ってることだ」 うんざりと小十郎は言った。 おのれで言うのも煩わしい。幸村はくるくると大きな眼を回して、その言葉にすこしだけほおを赤らめている。それか らそれでも、ちがうでござるよ、と言った。其が片倉殿をお慕いしているのは、あれのせいではござらんよ。 じゃあ、と小十郎は声を出して、すぐに口を噤んだ。じゃあ一体何なんだ――――――とは言えなかった。言うとなに か空恐ろしい答えが返ってきそうでとてもではないが問うことは出来ない。木漏れ日が差し込んで、幸村の顔を斑に染 めあげている。幸村は小十郎を見上げながら、またにこりと笑った。 その笑みがあんまりうれしそうなので、小十郎はすこし笑ってしまった。 「しかしおまえも物好きだな」 惚れた相手と一緒に居て、何もしたいとは思わんのか。 幸村はぼう、としばらく呆けた顔をさらしてから顔をその召し物よりも真っ赤に染めた。小十郎はくつくつと笑う。 坊ちゃんは初心だな、と言うと幸村は其はもう元服を済ませておりますると無気になったように立ち上がって声を張り 上げた。耳元で怒鳴られたのできぃんと頭の奥に声が響く。 小十郎は眉をひそめて顔を逸らした。 「煩ェ」 「す、すみませぬ」 「おまえさんはもう些ッと落ち着いたほうがいい」 「心がけては居るのでござるが」 「とてもそうは見えねェ」 呆れて息を吐くと、幸村がしゅんと項垂れた。 土の色をした髪が目の前に現れて、小十郎はとりあえずそこに手を置いた。政宗が幼かった頃によくしてやったように つい幼い者が目の前に居るとこうやって頭をなぜてしまう。幸村がふいと顔をあげた。大きな目に見据えられて小十郎 は手を退けようとしたが、手首を掴まれてかなわない。 幸村は小十郎の手首を握って、真っ赤な顔で其にもしたいことはございまする、と細い声で言った。蝉が鳴いているの が聞こえた。幸村の顔がひどく近くて、小十郎はすこしだけ体をずらす。 なにが、と小十郎は静かに問うた。なにがしたい。 幸村はこくりと喉を鳴らして、 「手を」 手を。 繋いでもよろしいござるかと問われて小十郎は呆けた。 「手」 「手でござる」 「繋ぐだけか」 首を傾げると、幸村はぶんぶんと頭を上下に揺らす。 小十郎はしばらく黙って、それから掴まれているのとは逆の手を幸村の手の甲に重ねた。ひくりと幸村の肩が揺れる。 顔はますます赤くなっている。手首にかかる力が緩んだのでするりと手を外し、手の甲からおのれの手を滑らせてゆる く握った。幸村のてのひらはじんわりと汗ばんでいて湿っている。 「――――――ッ」 幸村は声も出せないようだった。 残った手を握ったり開いたりしている。顔は真っ赤に染まり、眉は下がって大きな目は水が溜まって今にも零れ落ちて きそうだ。おいおい泣くんじゃねえだろうなと小十郎は眉を寄せる。男と手を繋いで、そのうえ泣かれるなんて冗談に もならない。泣くなよ、と小十郎は言った。 泣かぬ、と幸村はあわてて声をあげる。 「片倉殿の手はつめたいでござるな」 ようやく落ち着いた幸村は静かにそう言う。 そうかよ、と小十郎は返した。溶けるような顔で幸村は笑う。 「きもちいいでござる」 「おまえの手は湿っぽくて気色悪い」 「す、すみませぬっ」 「べつにいい」 小十郎はそう言って、すこし笑った。 何がしたいと言うかと思えば手が繋ぎたいと言う。笑うしかない。 これは本格的に子守だな、と思いながら小十郎はとりあえず幸村が離すまではこうしておいてやることにした。幸村は ほおを染めながら口角を緩めて小十郎の手をひどくしあわせそうに見下ろしている。男の手を眺めることのどこがたの しいのか小十郎にはちっとも解らない。たのしいか、と問うと幸村は顔もあげずにこくこくと頷く。 そうか、とつぶやいて、それから良かったな、と小十郎は続けた。 幸村は顔をあげて、 「片倉殿はおやさしゅうございますな!」 と思い切り笑う。 思わず口元が歪んだ。 どうしたのでござるか、と幸村が顔を覗き込みながら首を傾げている。覗き込んでくる幸村からなんとか顔を逸らしな がら、なんでもねェよと吐き捨てた。矢張り苦手だ。幽里の言葉を思い出す。 似合い。有り得ねェ。そう思うけれども、握ってくる手のちからがあんまり強く、そして幸村の目が真っ直ぐ過ぎて、 どうにもその手を離すことができぬ。まァいいか、と小十郎は空を仰ぎながらおのれに言い聞かせた。手を握りたいと 言う。かわいいものだ。害がない。 ――――――すきなようにさせりゃァいいか そういうことにした。 狂言のようにただ手を握ったままじいとしていたら、そのうちに日が落ちて川が橙に染まってきた。 いい加減帰ることにして馬に乗り、城門のまで戻ると赤毛のしのびが塀に背をもたれさせて待っていた。にやけた顔の しのびは、お楽しみだったようで、と口角をあげる。 小十郎は一瞬馬で轢き殺してやろうかと思った。 とことん猿飛佐助は癪に障る。 馬を降りると、するすると佐助は小十郎の傍によって耳元でうちの旦那はお気に召しましたか、と笑い声をたてた。小 十郎は眉を寄せながらそれを無視する。 佐助はひょいと首を竦めて、今度は幸村に視線をやった。 「旦那、たのしかったかい」 「うむ!」 「そいつぁなにより。じゃあそろそろ帰りましょうかね」 「そうだな――――――ああ、片倉殿」 馬上の幸村に声をかけられ、小十郎は振り返った。 駆け寄ってきた小姓に馬を任せ、どうしたと問いかけると幸村は橙の茜空のようにほおを染めながら馬を飛び降りて、 今日は一日有り難かったでござる、と頭を下げた。 小十郎はちらりと目を見開いてから、すこし笑う。 「べつに、構わねェよ」 歩み寄って、さらされた髪をまた撫でた。 くしゃくしゃと掻き混ぜていると、幸村が顔をあげて笑う。小十郎も思わずちいさく笑った。 犬に懐かれているようだな、と幾度か思ったことをまた思う。くすぐったいが、不快ではない。慕われているというの は頂けぬが、こうやってこの男の満面の笑みを見るのはきらいではないなと思う。 幸村の茜色の顔が、小十郎の笑みにますますそのいろを濃くした。 かたくらどの、と声がかかる。 「ん、なんだ」 小十郎は首を傾げた。 幸村がこくりと喉を鳴らす。手がすいと伸ばされた。 ほおにそれが添えられて、するりと左ほおを撫でられて小十郎はかすかに眉を寄せた。気色悪ィと手を退けたが、その 手は肩に添えられる。ぬるい体温がじわりと皮膚に伝わり、それをぬるいと感じるより前に幸村の顔がすぐ近くまで寄 っているのに小十郎は気付いた。近い。 近い、と言おうと口を開こうとして、 そのまえにその口を幸村に塞がれた。 ちゅ、と唇が離れるときに音が鳴った。 小十郎はしばらく口を開いたまま目の前の幸村の顔が離れていくのを眺めた。幸村は顔を真っ赤にして、それからくしゃ りと笑う。また、と震えた声で言う。 「また、会いに参るでござる」 それでは。 ぺこりと頭をさげて、幸村は一目散に走り去った。 土煙をあげてすぐに視界から消えてしまった。小十郎はそれをぼんやりと眺めて、それから思い出したように唇を袖で 拭う。ぺたりと後ろからなにかが覆い被さってきた。佐助がへらへらと笑いながら、腕をだらりと小十郎の肩にかけて いやぁ熱いもの見ちゃったなあと耳元で言う。 小十郎は取り返したばかりの黒龍を抜いてしのびの鼻先に切っ先をつける。 「消えろ」 「いやいや、まあまあ。いいじゃないか、これからも長い付き合いになりそうだし」 「なんだって」 「いやだって、あんたうちの旦那とお付き合いすンでしょ」 「誰が」 「またまたぁ」 佐助はへらへらと笑いながら、そのつもりがねえならあんただったらさっきぶった切ってるでしょう、と言う。小十郎 は腕を組んで、忘れただけだと吐き捨てた。あんまり不意を突かれたので、なにかしようとも思わなかった。 飼い犬に噛まれたような心地だ。そう言うと佐助はけらけら笑い、おばかさん、と唄うように言う。 「うちの旦那はねぇ、犬じゃなくて――――――虎なんだぜ」 油断してると喰われるよ。 佐助は笑いながら小十郎の肩を叩いた。そしてしゅるりと姿を消す。 ひとり残されて小十郎は額を抑えながら舌打ちを漏らし、それから虎ね、とつぶやく。 成る程虎だ。喰われ掛かった。 手を繋ぎたいなどとかわいらしいことを言うだけかと思えば、あれも男なのだ。 口元に手を置いて、今更のように熱くなるほおに、小十郎は思いきり目を瞑った。 口付けられれば、殴って二度と会わねばよいと思っていた。殴り損ねてしまった。今度会ったら絶対に殴ろうと小十郎 は思い、そこではたと次もあの男がまた訪ねてくることを疑わぬおのれに気付いてますます目を固く瞑る。 今度。今度またあの男と会ったときおのれは拒絶するのだろうか。口元を覆ったまま小十郎はしばらくそのことに思案 を巡らせて、それから放棄した。幼げでなにも望まぬ無害な男だと思ったからこそ、受け入れようとも思ったというの にとんだ見込み違いだ。俺もまだまだ甘いと小十郎はつぶやいて、 それからちいさく笑う。 「――――――面白ェ」 犬や猫ならいなすだけだ。 が、虎なら話は変わる。溢れるようなあの感情が、愛玩動物のひたむきなそれなのかそれともひとを喰らい尽くそうと する獣のそれなのかはまだ小十郎には解りかねたが――――――ふいに遊び女の言葉が浮かぶ。 お似合いじゃ。片倉殿と。 犬や猫と似合いなどと言われては、龍の右眼の名が廃る。 「虎、ね」 面白い。 存分に相手をして頂こうじゃあねェかと小十郎はくつりと笑い声をこぼした。 おわり
随分間を空けてしまいましたが・・・やっと終わりました。
遊女との絡みがたのしかったでs(黙れ)リクエストに添えているかどうか・・・ゆきこじゅはでもすきなのでたのしかった・・・。 空天 2007/06/30 プラウザを閉じてお戻り下さい。 |