ゆ く へ も し ら ぬ こ い の み ち か な 存外真田幸村は碁が強い。 将棋も強い。小十郎も三度に一遍は負ける。負けると幸村は笑って「流石片倉殿」と言い、 勝てば矢張り笑う。どちらにせよ笑っている。ただ最中にはほとんどにこりともせず、真っ 直ぐに盤を見据えている。その目は矢張りおのれの主が唯ひとりと定めた好敵手なのだと思 わせるほど、真っ直ぐで鋭く、それでいて平坦である。三局ほど試合ってから、幸村はほう と息を吐いて立ち上がった。 「厠をお借りいたす」 「あァ」 縁側からは庭が見えて、代わり映えのしない風景が目に飛び込んでくる。 戦装束とはちがってやわらかな青丹の単衣を着た幸村がその風景を切り込んで縁側に出て、 そしてそこを歩いていく。 小十郎はそれを目で追って、それから盤の上に視線を落とし、さてここからどう攻めていく かなと思いかけて止めた。 代わりに首を傾げて眉を寄せる。 「あんたら、なにしてんの」 たん、と天井裏から何かが降ってきた。 小十郎はそちらへは敢えて視線をやらずに盤を睨み付けた。態と立てる必要もない足音を立 てて近寄ってきた落下物は―――――真田幸村のしのびの猿飛佐助は、先程までは主が座っ ていた席へと腰を下ろして、丸い目を半分までに細めて小十郎のことをひどく馬鹿にした声 で呼んだ。 ねえ右眼の旦那。 「あんた幾つ」 「どうしておまえにそんなことを教えなけりゃならん」 「ふうん。まぁいいですけどね、知ってるから」 二十九だろ、と言う。 「うちの旦那はね、十六なんだ」 「知ってる」 「おまけに見りゃ解るだろうけどそういうことにとんと鈍い御方なんだよ。 女の影だけで『破廉恥』だからね。とてもじゃあないけど、自分からなんか出来るわけが ないのよ」 「そうか」 小十郎は佐助にちらりと視線をやった。 後ろ手を付いたしのびは深く息を吐いて、首を振る。 あんたはさ、と言う。あんたはさ、嫌いな人間と長く一緒に居られるような男じゃあねえだろ。 小十郎は答えずにただ佐助を見る。佐助は言葉を続けようとしない。仕様がなく小十郎は舌打 ちをした。 佐助はやれやれと首を振って、へらりと笑う。 「要するにあんたも、なんだかんだと真田の旦那に惚れられてる今の状況、いやじゃないわけでしょ」 「―――――誰がそう言った、阿呆」 「止しなよ、右眼の旦那。いい年こいた男の意地張りなんざ」 気色悪い気色悪いと佐助はふるりと身を震わせる。 小十郎は盤の上にある碁石を投げつけてやろうかと一瞬だけ思ったけれども、どうせそんなこ とをしても目の前の赤毛のしのびにとってはなんら意味のある攻撃にはならぬであろうし、し てしまえばなにかに負けるような気がする。結局小十郎の手は膝の上から動くことはなかった。 「あんたもさ」 「なんだ」 「したくねえの」 「何を」 「え、ナニを」 「死ね」 小十郎は低い声で吐き捨てた。 佐助はまるで何も聞いていないとでも言うように立ち上がり、「言っておくけど」手を伸ばし て小十郎のほおに触れた。すいと顎を持ち上げ顔を寄せる。「うちの旦那の貞操はやらねえか ら」要らねェよと小十郎は即座に返した。 そうそりゃ結構。 佐助はにこりと笑って、小十郎の顎から手を引いた。 だったら誘わなけりゃ、と言う。 「俺だったらあんたに何されたって誘いどころかただの嫌がらせか視覚の暴力にしかならねえ けど、真田の旦那はどうもゲテモノ食いだったらしいから割にどんな誘いにでも乗ってくる と思うンだよね。ほら、なんだかんだで十六なんてさ、女と見れば股の間に手を突っ込んで みたくなるお年頃なわけだし―――――この場合は何処をどう間違ったンだか相手は男でし かもあんただけど」 「誘う、だァ」 小十郎は鼻を鳴らす。 するか、阿呆。佐助がほおを膨らませる。それじゃ振り出しじゃねえか。 小十郎は黙り込んだ。そろそろ幸村が帰ってくる。それまでに次の手を考えなければいけない。 小十郎が幸村の筆下ろしの世話をした―――――無論直接ではなく相手を世話したというだけ であるが―――――ことで、佐助の言葉を借りれば「何処をどう間違った」のだか知らぬけれ ども虎の若子は竜の右眼に懸想をした。それは確かまだ水無月に入ったばかりの頃で、紫陽花 が咲き誇っていたように思う。 そのときに一度、接吻はされた。 その前にも幸村と接吻を交わしたことがある。 筆下ろしの初夜の前にあんまり固くなっているおのれより十も下の男を見て、つい親切心―― ―――と言うよりはいろいろなことが面倒になっていたので、いっとう簡単な方法で度胸をつ けてやろうと口付けてやったのがいけなかった。 幸村はそうではないと言っているけれども、小十郎は信じていない。錯覚なのだ。初心な男の そういう感情を逆撫でしたのは他でもなくおのれなので、熱が冷めるまで付き合ってやろうか と思ってしきりに訪ねてくる幸村を拒まずに待ってみればずるずると既に季節は秋を飛び越し て冬に向かおうとしている。まだ雪は降らぬけれども、そろそろ朝起きてみれば地面が凍り付 き、霜が降りることもある。木々は衣替えを済ませて、煌々と赤い。 幸村は相も変わらず小十郎のもとに通い、最近では碁や将棋をするようになった。 佐助が言う。「ねえ、それたのしいかよ」 「どうして惚れ合った同士が半年間一緒に居て、接吻のひとつもねえんだか俺にはさっぱり解らない」 「惚れ合っちゃいねェよ。大体してこねェのはあっちだ。俺は知らん」 「おや、その言い方だと矢っ張りあんたもして欲しいンじゃないか」 佐助はにいと笑った。 ねえ、と言う。小十郎の傍らに座り込み、顔を下から覗き込んでくる。 「誘ってみなよ、右眼の旦那」 「しつけェよ」 「さっきはああ言ったけどね、俺は案外あんたに誘われるってのは来るンじゃねえかなと思うよ。 なんたってあんたは普段にこりともしねえし、髪も服も夏でもちらとも崩しゃしねえんだもの。 ―――――――それがさ」 佐助の手が小十郎の首元に添えられた。 するりとそれが耳まで撫で上げられる。小十郎は眉を寄せてそれを振り払おうとしたが、反対 に佐助に伸ばした手を取られ、気付けばひどく近くにしのびのしろい顔があった。佐助は目を 細め、口を耳に寄せて、俺が練習台になってやってもいいよ、とくつくつとひそめた笑い声を 漏らす。 小十郎は思いきり佐助の髪を掴んでおのれから引き離した。 「冗談じゃねェよ」 「いってえなぁ、離しておくれ」 「だったら笑えねェ冗談を抜かすんじゃねェよ。大体」 そろそろ真田が帰ってくるだろうがと小十郎は言おうとした。 けれども言う前に、かたん、と音がしてそちらを振り向いてみれば、佐助が「ああ」と声をあ げて次いでたたたた、と駆けていく足音がそれに続いた。 ああ。 佐助はぺしんと額を叩いて首を振る。 「見られちゃった」 「真田か」 「そうみたいね。あちゃあ、やあ、困った困った」 佐助は一切困っていないというふうに、肩を竦めて手を振っている。 小十郎は佐助を睨み付けた。佐助はへらりと笑う。いやあこまったこまった。また言う。仕組 まれたらしい。小十郎は立ち上がって縁側から顔を覗かせた。当然だけれどもそこに幸村は居 ない。腕を組んで、板間の文様を小十郎は黙ってしばらくの間凝視した。 俺は、と思う。 俺はあれを追わなければいかんのか。 小十郎はくるりと振り返って、佐助を見た。 「おまえが行くべきじゃねェか」 「いやあ、ここは右眼の旦那でしょ」 「おまえの主だろうが」 「あんたの情人だろ」 「違ェよ」 「でもすくなくともあんたの客だ」 多分ね、と佐助は立ち上がり小十郎の横に並ぶ。 それから廊下の突き当たりを指さして、それをかくりと左に曲げる。あっちだと思う、と言う。 何故かと問うてみればなんにも考えてない人間は左に曲がる習性があんだよ、と佐助は踵を返し てまた盤の横に座り込んだ。探しに行くつもりはないらしい。小十郎はしばらく突っ立ったまま 庭を睨み付けて、とうとう諦めて一歩足を座敷から踏み出した。 いってらっしゃい、と佐助が手を振る。 「戻って来なくてもいいよ」 「おまえは帰れ」 「旦那が帰ってきたらね。俺これから町にでも行って、そうだなあ幽里とでも遊んできてもいいかい」 佐助は小十郎の馴染みで、幸村の筆下ろしの相手を務めた遊び女の名を口にした。 巫山戯るなと言ってやれば佐助はひょいと肩を竦めて、行ってくるよと立ち上がってそれから消 えた。最後に一言、お互いにたのしみましょうぜ、と言い残して消えた。佐助はほんとうに完全 に消えてしまったので、苛立ちをぶつける場所を失った小十郎はとりあえず佐助が先程まで座り 込んでいた畳を思い切り踏み付けてやった。 幸村は、小十郎の屋敷を出てしばらく行ったところにある畑の中央に突っ立っていた。 居場所はすぐに知れた。物凄い勢いで疾走していったらしい虎の若子の跡はそこかしこに残って いたし、第一目立つ。 小十郎は声をかけようとして、一瞬口を噤んだ。一体なにを言えばいいのか良く―――――ほん とうに良く解らなかったのだ。さっきのは誤解だとでも言えばいいのだろうか。しかしどうして そんなことを小十郎が言わなければいけないのか皆目見当が付かない。 小十郎は腕を組んで幸村の背中をしばらくぼんやりと眺めた。 そうしていたら、そのうちに幸村がくるりと振り向いた。 「申し訳ござらぬ」 ひょいと鳥の巣のような頭が下がる。 小十郎はそれに特に意味もない頷きを返した。 幸村は奇妙に歪んだ―――――口元がへの字になってしかし眉は下がっている―――――顔をして、 それでも必死に笑おうとしているようだった。小十郎は思わず吹き出しそうになったけれども、寸 でのところで耐える。 佐助がおかしなことをいたした、と言う。 ほんとにな、と小十郎は肩を竦める。 「あまり主思いなのも考え物だぜ」 幸村は良く解らないというような顔をした。 小十郎は解らないならいいと手を振って佐助の話を断ち切る。どうにも小十郎はあの男が苦手でなら ない。見透かすような笑いと声と、底の見えない目がきらいだ。 ちらりと幸村に視線をやる。 大きな黒い目に、ひたりと焦点があった。 幸村のことも、また小十郎は得意ではない。 幸村はじいと凝視してくる小十郎にすこしだけほおを赤らめた。 小十郎はうんざりと息を吐いた。大股で近寄って、頭を思い切り叩いてやる。 「あぅッ」 幸村が情けない声を出した。 小十郎はまた忌々しげに息を吐いて、がしりと襟元を掴み上げ、ずるずると畑の中央から幸村を引き ずって傍の大樹の傍に放り出した。幸村は大きな目をうるませて小十郎を見上げる。 あきらかにそれは犬だった。 「情けねェ顔をするんじゃねェよ、阿呆」 「か、片倉殿があまりに長く此方を見てくるので、つい」 「それじゃまるで俺のせいみてェじゃねェか。気色悪いことを抜かすな」 「申し訳ござりませぬ」 「いちいち謝るな」 小十郎は、おのれが犬やら猫やらに弱いことを良く知っている。 幸村を見ているとどうしてもそれを実感させられる。大きい目も勿論だが、鳥の巣のような頭から飛 び出てはふるふると揺れる後ろ毛はなんとなく尻尾を連想させた。たまに引っ張ってやりたくなる。 小十郎は幸村の横に腰を下ろして、その後ろ毛にこっそりと触れてみた。幸村は横に小十郎が居るこ とに気を張っているのか気付く様子はない。地面を睨み付けて、顔を真っ赤にしている。大地のいろ の髪はひどくやわらかかった。ふわふわと、猫の毛のようでもある。 最初は気付かれぬようにと指先でだけ触れていた髪を、小十郎は今度は五本の指で絡めるように軽く 引いてみた。ひくりと幸村の肩が揺れて、くるりと顔が此方を向く。 「か、片倉殿」 「あァ、すまん」 ぱ、と手を離す。 幸村は首を物凄い勢いで振った。 顔は真っ赤で、目がうるんでいる。そこまで緊張をすることもないだろうと思う。なにしろ、と小十 郎は顎を撫でながら思った。横に居るのが傾城の麗人であるというなら話は別だが、小十郎なのだ。 ただの男だ。特別うつくしくもなければたおやかさなどあるわけもなく、そもそも幸村のほうが余程 美童で通るような風貌をしている。体つきもまだおさなく、小十郎に比べれば一回り縦も横もちいさ い。端から見れば、そういう関係になるならあきらかに女役は幸村だろう。 ただ小十郎は、おのれの年齢の半分程度でしかない男を組み敷く気は一切無い。そもそも男との行為 を小十郎はそこまで好まない。戦場で仕方なくというのなら兎も角、日常でわざわざ面倒をする理由 が理解出来ない。元は小姓であった小十郎は、男同士の閨のことも知らぬではないけれども―――― 進んでしようとは思わない。 物好きだな、と感心するように小十郎は真っ赤になっている年下の男をぼんやりと眺めた。 俺だったら絶対御免だがな、俺を抱くのなんざ。 なァ、と小十郎は幸村に声をかけた。 「おまえさんは、どうして奥州に飽きもせずに通う」 「―――――それは」 すう、と幸村の顔の赤が引いた。 顔が急に平坦なものになる。それから眉がすこしだけ寄って、それでも幸村は笑った。 「以前から、申しておるではありませぬか」 お慕いしております。 すこし上擦った、それでも真っ直ぐな声で言う。 ふうん、と小十郎は気のない声をそれに返した。聞き飽きたと言えば聞き飽きた。このような問いを かければ、必ずこの若武者はおんなじ答えを芸もなく返してくる。 その割には、二度きりの接吻以降は手も繋ぐことはない。 「坊ちゃんには性欲がねェのかね」 ぽつりとつぶやいてみた。 幸村があわあわと慌て始める。口ごもったり手を上げ下げしたりしている。 小十郎はほおづえを突いて隣の若武者を眺める。真っ赤に染まった耳が見えた。ないのだろうなァ、 と小十郎は呆れるように思った。きっとほんとうにないのだ。性欲だとか、そういうものは幸村のよ うな男には、ない、ということがありえるのだろう。小十郎からすれば信じがたいことだが、事実な のだから仕様がない。 ぽん、と鳥の巣にてのひらを置いてみる。 小娘のようにびくりと身体を揺らす幸村に、小十郎はかすかに笑った。 「まァ、それならそれがおまえさんらしいということなんだろう」 ないものを出せと言っても仕様がない。 そもそも、べつに小十郎は幸村と情を交わしたいわけでもないのだ。 幸村は赤い顔のまま小十郎を見上げ、おかしいでござろうか、とおそるおそるというふうに首を傾げ る。佐助は言うのです、それはおかしい、ありえないよ、と。 まァそうだろうと小十郎は思った。 幸村はしかし、頻りに首を振る。 「しかし其は、ただ片倉殿と一緒に居るだけで十分に満ち足りているのでござる」 それではいけないのでしょうか。 そう問われて、否と答えることができるだろうか。 少なくとも小十郎にはできなかったし、する必要もなかった。幸村は真っ直ぐに小十郎を見上げてい る。大きな瞳には水がたっぷりと含まれていて、小十郎はしばし呆然とした。 なんだこれは。 耳の奥がいやに煩い。 「片倉殿」 震える声が、小十郎の名前を呼ぶ。 小十郎は思わず彼の頭に置いた手を引いた。そのことにはっとしたように幸村の目が揺れる。棄てら れた子犬のような目に、小十郎はこくりと息を飲んだ。 なだめるように、引いた手を幸村の肩に乗せる。乗せたあとで小十郎は深く後悔した。なんだかこれ は、それこそ佐助が言った「誘う」めいた行為のようだ。小十郎はもちろんそんなつもりではなく、 ただ幸村が捨て犬のような顔をしているのを、慰めるだけのつもりだったのである。 しかし実際のところ、小十郎の手は幸村の肩を引き寄せるような形でおかれていて、その感触に子犬 はひどく喜んでいた。かたくらどの、とまた呼ぶ。 声は相変わらず震えている。 その声で呼ぶのはよせと小十郎は叫んでしまいたかった。 いつの間にか肩に乗った小十郎の手を握りしめた幸村は、ずるり、と膝を進めて互いの距離を詰め、 間近に顔を寄せると、切羽詰まった顔をさらに強張らせ、小十郎の名前をまるで縋り付く唯一のよす がのように、繰り返し呼んだ。 震える声には、あきらかな熱が籠もっている。 「片倉殿、片倉殿、かたくらどの、―――――――其は、」 顔が近い。 そう思ったが、小十郎は不思議と幸村を押しのけることができなかった。 「其は、佐助のように大人ではございませぬ。だから、そのような意味で貴殿を満足させることは 出来ぬやもしれませぬが」 「おい、待て。誰があのしのびがいいと言った」 「それでも」 小十郎の話など、幸村の耳にはまったく届いていない。 痛いほどぐっと手を握られ、小十郎は思わず顎をもたげた。幸村の顔が近い。息がかかるほどの距 離はしかし、なぜか不快ではなかった。 幸村は甘いにおいがする。 熱とそれが混じって、くらりと酩酊するような感触を寄越した。 「それでも片倉殿のことをお慕いするこの気持ちに、一片の陰りもございませぬ。其は、このよう な、その―――恋情や、そういったものを感じるのはこれが初めてでござって、だから確かにそ れがどういったものなのか、よくは知らぬ。しかし、ならば学びまする!学び、そして片倉殿に 満足頂けるような立派なおのこになってみせましょうぞ!だから、しかれば、」 こくん、と息を飲む音がした。 幸村の顔はもう熟れきった柿のように赤く、大きな目からは涙がこぼれる寸前で、小十郎の手を握 るてのひらにはじっとりと汗が滲んでいる。 情けない、と小十郎は思った。 ひとを口説くのに、こんな情けない顔をしていいと思っているのか。そう思った。そう思いながら も、小十郎は汗ばんだ手をふりほどくことも、大きな目から目を離すことも矢張りできずにいた。 幸村の声に湿り気がありすぎたのだ。 その声で名前を呼ばれると、耳の後ろがぞわりと粟だった。 「しかれば、片倉殿。其がそこへゆくまで、待ってはいただけませぬか」 縋るような。 そんな目だ。馬鹿らしい。 小十郎は頭のなかでそう思った。待つってなんだ待つってなァ。待つも何もべつに何か約束を交わ したわけでもなく、単に幸村が小十郎の元に通っているだけの間柄ではないのか。どうしておまえ が俺に性欲抱くまで待ってなけりゃいけねェんだ、阿呆か。 餓鬼は家に帰って寝てろ。 そう言ってやるつもりだった。 「待って」 口を開くその瞬間まで、ほんとうにそう言ってやるつもりだったのだ。 「待っている間に、おまえの気が変わったらどうなる」 しかし口から出た言葉はまったくちがうものだった。 何を言ってるんだ。阿呆か。小十郎は自分を散々罵倒した。幸村はそんなことにはまったく気付か ず、ふるふると首を振り、ありえませぬ、と鼓膜が破れるほどの大声で宣言する。 「この真田源二郎幸村の名に誓って、そのような不義は決してありえぬ!」 お慕いしております。 片倉殿、どうか信じてくだされ。 雨のように、暑苦しいほどの誓いの言葉が注がれる。 気付くと小十郎は後ろ手をついていて、幸村はその上に覆い被さるようなかたちになっている。途 中で小十郎はそのことに気付いたが、幸村は気付いていないようだった。ただ必死に、思いつく限 りのつたない愛の言葉を並び立てている。 つたなく、ありきたりな、それでいてどうしようもなく真っ直ぐな言葉だ。 耳の奥の騒音が一層ひどくなる。 小十郎は諦めたように息を吐いて、幸村の頭に手を伸ばした。 「解った」 「え、」 「間抜けた声を出すな。解ったと言っている」 これ以上幸村の声を聞いていたくなかった。 聞けば聞くほど、自分の身体がおかしな反応をし出すのが解る。変にぞわぞわと寒気がするし、そ れでいてところどころ妙に熱い。 小十郎は緩慢に首を振り、まァ精々頑張れよと、おざなりに髪を梳いてから、幸村の胸に手を突い て押し返そうとした。 けれども、それは適わなかった。 「片倉殿っ」 「―――ッ、」 がばり、と思い切り抱きつかれて、身体がぐらりと揺れる。 そのまま押し倒されるようなかたちになり、小十郎はしたたか頭を木の根にぶつけた。痛みに顔を 歪め、犬のような男に文句を言ってやろうと思ったが、顔を上げたその表情があんまり幸せそうな ので、小十郎は失語した。 幸村は溶けるように笑みながら、小十郎のほおに触れる。 「お慕いしております」 何度も聞いた言葉を飽きもせずまた言う。 ふにゃりとだらしなく溶けた笑顔に、しかし小十郎は黙り込むしかなかった。ほおに触れていた手 がするすると下降し、肩にかかっても矢張り何も言うことはできなかった。幸村の赤らんだほおや 細められた目、幸せそうな弧を描いた口元を、小十郎はどうしようもなく見ていることしかできな かったのだ。 たぶん、みとれていたのである。 まるで呪いにかかったかのように、小十郎の身体は動かなかった。 「か、たくらどの」 「――――なんだ」 「その、あの、―――――――接吻、を」 してもよいでしょうか、と幸村は恐る恐る問うてくる。 なんで問うんだ、と小十郎は思った。前はいきなりしてきたじゃねェか。それでなんで今聞くんだ。 だいたい性欲はねェんじゃねェのか。 話がちがう。 言いたいことは山ほどあった。 ほんとうに間が抜けている。どうして聞くんだろうか。 問われたら答えなくてはならない。答えたら、答えが出てしまうではないか。 小十郎は舌打ちをした。幸村の身体が跳ねる。そのことにまた小十郎は舌打ちをした。 嗚呼、面倒臭ェ。 拒絶できないことの不可解さと、はっきりと答えることへの抵抗感と、耳の奥で騒ぐ音の五月蠅さ、 やたらに上がる体温のうっとうしさ。そしていやに高い鼓動の不快さ。 それらを全部一緒くたにして、小十郎は乱暴に幸村の尻尾を掴むと、ぐいと引き寄せて噛みつくよ うな接吻をしてやった。 おわり |