メモ帳はどこへ行くのだろう。

捨てただろうか。それとも取っておいてあるのだろうか。
もし捨てるつもりで、でもまだそれがこの世に存在しているなら、




もらってやってもいいなとキョンはすこしだけ思った。































いくつか認めざるをえない事情はあった。

たしかにキョンは古泉が奇っ怪なメモ帳を元手に自分と接することに多少の―――今更取り繕ってもしょうがないので言
うけれど多大な―――苛立ちを感じていた。それは認めよう。
認めることこそが事態の発展には不可欠だ。
そしてその明確な理由をキョンは持っていない。
どうして苛ついたのかと聞かれたら、それは俺の海馬かそうでなければ前頭葉に聞いてくださいと言うしかない。要する
に理由はない。
それも認めよう。
古泉一樹という同級生が、これまた同級生の涼宮ハルヒを神と呼び、自我の根源と呼び、ハルヒと親しいが為に自分のこ
とを特別と呼ぶ。キョンはそれがいやだった。なんかおかしいだろうと思った。
根拠はない。悪いけれどない。

「だからってこれはおかしいだろうがァッ!」

きぃん、と音がした。
骨と骨がぶつかるとそういう音がするのだ。
キョンは今日初めてそれを知った。きぃん。音というよりは響きだ。響いてくるのだ、それが波紋のように全身に。
痛みと痺れでキョンは膝を抱えた。

「―――大腿骨をここまで強打されたのは初めてです」

古泉が言った。
キョンはざまァみろと思ったけれど、悶えていたので声にはならなかった。
こっちこそここまで半月板を強打したのは初めてだ。キョンは部室の床に蹲っている。古泉は机に肘を突いて震えている。
しばらくそうやって時間が過ぎて、キョンが痺れを堪えながら膝を立てると古泉も腰のあたりをさすりながら体勢を立て
直していた。キョンは半目で息を吐いた。

「なにを考えてるんだ、おまえは」
「先ほどそれについてはもう言ったように思うのですが、僕の記憶違いでしょうか」
「聞いた。聞いたが人間の言葉とも思えん愚かしい単語の羅列にしか聞こえなかったぞ」
「ではそれをもう一度聞いていただきましょうか」

ただしもう膝蹴りはご勘弁を。
床に胡座をかきながら、キョンは唇をひくりと歪めた。内容による、と言う。
さっきみたいな寝言ほざいたらすっきりきっぱりもう一回お見舞いしてやるぜ。
古泉は一歩下がってにこりと笑った。

「臆病ものめ」
「僕も命は惜しいもので」
「安心しろ。峰打ちにしてやる」
「ありがたいですね。ところで」

古泉は座り込んだ。
キョンの顔を覗き込みながら、首を傾げる。顔は真顔だった。美形が真顔になると、無意味に迫力があって心臓に良くな
い。キョンは無意識に体を後ろに傾ける。
古泉はその顔のまま言う。

「あなたが、すきです」

キョンは黙る。
古泉はまた言った。あなたがすきです。キョンは目を細めて、息を吐きながら言う。

「―――どっから」
「はい」
「そんな素っ頓狂な結論が出てくるんだ」
「僕の心―――抽象的に過ぎると仰るならば、僕の脳の大脳皮質ですね。
  もうすこし具体的に言うならば前頭葉でしょうか」
「誰が脳医学の解釈をしろと言った」

ちがうだろうと言ってやろうかと思った。
おまえは一体誰に向かって言葉を発しているのか解ってるのか。男だぞとかこんな普通の顔だぞとか、そういうことより
もまず一番先に、そうだ。
なあ、おい。
ちがうだろう。

「俺はハルヒじゃねえぞ」

古泉は目を丸めた。

「知っています。というより、見れば解ります」
「そりゃ随分と良い目だな。それじゃあおまえのその無意味にでかい目は、俺が男で同級生だということだけ見損ねてる
 のか。そうでなけりゃ、さっきの」

キョンは一瞬口をつぐんだ。
けれど首を振って、目を細めてすこし上の古泉の顔を睨み付けて、言う。

「―――キスは何だ」
「愛の証です」

事も無げに古泉は言う。
キョンは口元を歪めて、それからブレザーの裾でまたごしごしと唇を擦った。冬の乾いた空気で乾燥している唇は、そう
するとささくれ立ってひりひりとする。
血が出てしまいますよ、と古泉は眉を下げた。

「急過ぎたかもしれません。その事に関しては謝りましょう。
 けれど、僕があなたをすきだというこの気持ちは冗談でもなければ見損ないでもない」

困ったように笑いながら、応えてくださいとは言いません、と古泉は言う。
ただ認めるだけで構いませんから。そう言う。
キョンは目を閉じた。
冗談だろう、と思った。

それもとびきり悪趣味だ。

どこがだよ。キョンはちいさくつぶやいた。
俺のどこがいいってんだよ。

「そう、ですね」

古泉はすこしだけ視線を浮かせて、それからにこりと笑った。
あなたはもう、忘れてらっしゃるかもしれませんが。そう前置きをしてから、大変だね、と言った。
眉を寄せる。

「なんだそりゃ」
「そう、仰ってくださったのを覚えてませんか」
「俺が、か」
「そうです。僕があのメモ帳をお見せしたときだったと思います。僕の記憶が正しければ」

古泉の言葉に、記憶を詰め込んだ段ボール箱をひっくり返してみると、確かにそんなようなことを言ったことがあったよ
うな気がする。日常会話の、ほんの薄っぺらい切れ端だ。

「嬉しかったんですね。とても」

あなたは、否定しないのだと思いました。
目の前の同級生が使っている言語の理解が出来ず、キョンはぼう、とほうけたままただその端正な顔を眺める。
古泉はうっとりとした、どこか自分の声に酔っているかのような薄ら寒いきもちにさせる顔をしている。

「否定って、なにをだよ」
「色々な物です。涼宮さんの事情にここまで深く関わり合いながら、それに対してまだ彼女の一個人としての人格―――
 高校生としての、彼女でしょうか。
  それにこだわり、それでいて僕のような人間に対して、あなたは否定をすることをしない。
 ただ認めて、そして労ることさえする。
 そう、思ったら」

キョンはぼんやりと古泉を見上げる。
どうすりゃあいいんだ。そう思った。古泉の言っていることは世間で言うところの告白というやつで、その熱の入りよう
は聞いていて申し訳なくなるくらいだ。それでも、まるで冷凍庫にしまいこんだかのようにキョンの心―――古泉の言い
方で言うならば大脳皮質―――はかちんこちんに凍り付いて一切動かない。
うれしかったんです。
古泉はまた言った。


「もうメモ帳の項目は無くなってしまいましたから。
 けれど、あそこに無いこともあなたと一緒にしていけならそれはとても」

「とても」

「とても、素敵だとは思いませんか」


古泉はそう言ってまた笑う。
キョンにはちっとも素敵なことだとは思えなかった。
ぞっとした。ひどく寒々しいきもちになった。間違えてる、と思った。

古泉一樹は、もう決定的に間違えた。

ちがうよ。
それはちがう。
そう言おうと思ったのに、声には出せなかった。

「俺が」
「はい」
「すきなのか」
「そうです」
「随分、悪趣味だぜ」
「そうですか。個人的には、なかなか僕も人を見る目があると自負していたのですが」
「錯覚だ」

キョンはくしゃりと笑った。
これが笑わずにいられるだろうかと思う。目の前で笑いを顔に貼り付けている男が、かわいそうだった。
古泉の手が伸びて、キョンのほおに触れる。すきなんです。そう言う。
キョンは顔を歪めたまま、そうかよ、と短く返した。
すきなんです。

「助けてください」

そう聞こえた。
勿論キョンの錯覚だ。
古泉は笑って、顔を近づけながらキスをしてもいいでしょうか、と今度は律儀に聞いてくる。
キョンはすこしだけ黙って、それからうるせえよ、と言った。

「一々聞くな。察しろ」

古泉の大きな目がくるりと回る。
それから細くなった。解りました、という形に唇が動いて、それから重なる。
やわらかくて生温いその感触を目を開いたまま感じながら、キョンはのろのろと腕を上げた。
そして古泉の髪を撫でる。

かわいそうだ。

誰かが自分の根源を支配しているというのは一体どういう気持ちなのだろうか。
いつかに考えたことを、またキョンは考える。
その誰かは、支配していることすら知らない。そう思ったら苦しくなった。
古泉はハルヒを神と呼ぶ。
神は信者の顔など知らない。
そういうものだ。

「古泉」
「はい」
「―――こいずみ」

名前を呼んでやりたくなったので、キョンは二度古泉の名前を呼んだ。はいなんでしょうか。古泉が、どこか嬉しそうに
返事をする。
そういうものだ。
そういうものだけれど、

「古泉」

三度目に名前を口にすると、また唇が重なってきた。
意味がなかった。男同士であるという以上に、古泉がキョンを求めるそのこと自体が、ひどく不毛で無意味だ。
古泉が欲しいのは、理解者だ。
    
それもハルヒにとって特別な理解者だ。

古泉が見ているのは固有名詞ではなくて、形容詞でしかない。腹立たしい。何様だ。馬鹿かおまえは。罵倒の言葉が浮か
んでは消えて、結局何も出てこなかった。
唇をすこし離して、古泉がすきですとまた言った。

「恋人としての段階を、始めてくださいますか」

キョンは古泉を見上げる。
段階。項目。
そういう単語がくるくると回る。

そんなものはない。

古泉とキョンの間には、なにもない。
ゼロだ。古泉にとって特別なのはただ唯一、涼宮ハルヒだけで、キョンはそれに付属するものでしかない。友人として。
それならいい。それ以上のものなどどこにもない。ゼロだ。キョンはまたそう思った。



目の前のきれいな同級生は、ゼロを始めようとしている。



赤で埋まったメモ帳。
それを眺めて満足げに笑う古泉。
ああ。キョンは呻くように思った。ああそりゃないぜ。



それはあんまりかなしいじゃないか。
 


「すきにしろよ」

咄嗟にそれが声になっていた。
古泉が目を見開く。キョンも目を見開いた。顔が歪んで、背筋が凍る。おいおい、今俺はなんて言ったよ。
いいんですかと古泉が聞く。

「僕の恋人になって頂けますか」

キョンは答えなかった。
それが正しいのかどうかがすこしも見当がつかなくて、笑ってしまうほどに情けない声で聞いてくるくせに相変わらずの
笑顔を浮かべている古泉が痛いほどに苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。
ここで笑い飛ばせば、キョンは安全だ。
古泉はきっと笑ってこの場を繕うだろう。明日からも今までとおなじように振る舞うだろう。
そういうことが出来る男だ。簡単に想像しうる世界だ。ああすいませんそうですかではまたあした。
笑って言うにちがいない。
またあした、ぶしつで。

いやだ。

キョンは黙って古泉の肩に額をつけた。

「どうしましたか」
「なんでもねえ」
「なんでもないということも無いと思うのですが」
「なんでもねえったらなんでもねえんだよ」
「はあ」
「黙って肩貸せ」
「僕としてはいつまででも構わないのですが」

キョンはちいさく笑った。
じゃあ貸しとけ。

「借りてやるよ」

何も始まりはしない。
そんなことは解ってる。けれど古泉の肩がすこし動いて、いいんですか、と聞いてくる声はどことなく嬉しそうで、だか
らキョンはもうそれでいいと思った。
付き合ってやるよ、と思った。
赤いメモ帳が嬉しいなら、それを楽しげに眺める古泉を、キョンは横で馬鹿にしてやりたい。

見てくださいこれ。
ああそうかいよかったな。馬鹿じゃないのかおまえ。
ひどいですね。
ひどかねえよ。

ひどかねえよ。






「おまえはほんとうに、どうしようもない馬鹿だ」






キョンは古泉の肩から顔を離してそう言った。
それからきょとんと目を丸めてアホ面になった、それでもきれいな顔に苦く笑ってから、古泉の言う愛の証というやつを
ひとつ、してやった。


                       










おわり


       
 






空天
2007/06/30

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