それは本気で言ってんのかと言われて佐助は困ってしまった。 そんなことを言われても困る。 「わかんない」 「なんだそりゃ」 「だってわかんねえよ。こんなつもりじゃなかったんだ」 ほんとうだったら、きっと今目の前に居るのは子栗鼠の筈だった。 子栗鼠は香水をつけない。髪からはシャンプーのにおいだけがして、抱き締めると服から洗剤のにおいがふわりとする。 そういうものを今頃は抱いている筈だった。なのに目の前には小十郎が居て、髪からは整髪料のにおいがする。 それから雨のにおいがするような気がした。勿論気のせいだ。再会した日に雨が降っていたから、そういうような気分 になるだけだ、と佐助は思った。 「悪かったな」 帰しちまって。 小十郎は淡々とそう言う。佐助は笑った。 「ちがうよ。あんたが悪いんじゃねえもの」 「じゃァ何でいきなりあんなこと言い出すんだ、おまえは」 「それはあんたが悪い」 「はァ」 小十郎は眉をひそめた。 「意味が分からん」 「だろうね。俺もわかんね」 「口寂しいのか」 「うん」 「子栗鼠が居ねェからか」 「だから、それがちがうんだと思う」 子栗鼠とキスをしても、煙草を止めようとは思わなかった。 小十郎と別れてからひとり目の恋人以降、三人出来た恋人とどれだけキスをしてもセックスをしても煙草を吸わない日 はなかった。どんな唇でもいいってわけじゃないんだよね、と佐助は言う。たぶんねえ、と続けようとしたら小十郎が 思い切り顔をしかめた。 「聞きたくねェ」 がたん、と椅子から立ち上がる。 佐助はその腕を掴んだ。 「聞きなって。なあ、ここに来たのはあんたなんだよ」 「忘れ物を届けに来ただけだっつってんだろう」 「それにしたってさ、別に断りゃいいじゃねえか。どうしてわざわざ来たりすんのさ」 小十郎は決して気軽になにかを引き受ける男ではない。 今の恋人とはそういう関係なのだと言われればそれまでかもしれない。が、佐助は苦々しく笑った。 「あんたさ、おかしいよ」 小十郎の切れ長の目が、佐助を見据えている。 背筋にぞくりと震えがはしった。三年前、佐助は小十郎の目がひどくすきだった。そういうことを思い出した。 おかしいよね。もう一度佐助は言って、それから小十郎を椅子に引き戻す。素直にすとんと腰を下ろした小十郎は、じ いと黙って佐助を眺めている。その視線を真っ直ぐに見返しながら、佐助は言った。 あんたへびみたいだね。 「俺が落っこちて来ンのを待ってるみたいに思えてしょうがないんだけど」 「阿呆か」 「そうかな」 「どうして俺がそんなことしなけりゃいけねェんだ」 「十分だと思うよ。だってさ」 佐助は首を傾げた。 「俺、これから生きていっても、あんたとするセックスよりきもちいいセックスは無いと思うもの」 小十郎の顔は、変わらなかった。 阿呆、といつものように言われるかと思った。が、小十郎は何も言わず、ただ佐助の顔をじいと凝視する。佐助もそれ をただ見返した。かち、かち、と時計の秒針が動く音がして、それがきっちり三十回鳴ったところで小十郎はようやく 口を開いた。だからなんだ。佐助はだからあんたは俺に落っこちて来て欲しいんじゃないの、と言った。 小十郎は鼻で笑って、おまえと一緒にするな、と言う。 「そんなもん、どうだっていい事だ。 そんなに良いセックスがしてェなら、風俗にでも行け。プロが相手してくれるぜ。俺より余程良いだろうよ」 「いいアドバイスだ。参考にするよ」 ただしあんたが俺の質問に答えた後でね、と佐助は言う。 小十郎のあがっていた口角がすいと下がった。佐助は小十郎の腕を掴み、睨み付けるように顔を見据え、そうして自分 でも驚いてしまうほど淡々と、 「あんた、俺のことすきだろ」 と言った。 最初にそう思ったのは、それこそ四年前のことだ。 どうして小十郎は佐助に抱かれるのだろうとある日不思議に思った。互いにひどく体の相性がいいことは解りきってい ることだけれど、それだけで小十郎のような―――男として何処にも過不足がないような―――男が、男に抱かれるこ とに甘んじるものだろうか。佐助は抱くのも、抱かれるのも抵抗はない。さみしいからだ。そして寒いからだ。 小十郎はでも、ちがうだろうと思った。 佐助は不足だらけだ。けれど小十郎は、そういう男ではない。 「下らねェ」 小十郎はそう言うけれど。 知りたい、と思った。 小十郎はどうせ教えてくれないので、では自分で考えてみようと思った。まず自分は何故小十郎とセックスをするのだ ろうと考えたら、それはどう考えてもきもちいいからという所に帰着する。そして楽だからだ。小十郎はずっと会えな くても何も言わないし、会ったところで久し振りだと言うだけだ。子供が出来る心配もないし、ついで言うなら女には 必ずあるセックスの出来ない一週間も存在しない。ひどく楽だ。 小十郎は面倒くさがりなので、手近な佐助でそういう相手を済ましているのかもしれない。 「そうなの」 「死ねばいい」 「ひでえ。だから理由を聞いてるだけじゃんか」 「だからそれが下らんと言ってるんだ、阿呆が」 理由なんて要るか。 そう言われれば黙るしかない。 小十郎が答えてくれないので、佐助はまたひとりで考えた。そして辿り着いた答えは、笑ってしまうことに小十郎はも しかしたら自分のことをすきなのではないかというものだった。実際佐助は笑った。ありえない。 ありえないとひとしきり笑ってから、ふとそこまで見当違いでもないような気がした。 理由なんて要らない、と小十郎は言う。佐助には理由がある。小十郎とのセックスはきもちがよくて、楽で、さみしく て寒いけれど居ないよりはいい。それが理由だ。小十郎にはそういうものが、ないらしい。 理由が無くて、ひとと抱き合うことはできるのだろうか。 それはもしかしたら、世間では恋とかそういうふうに呼ばれるのではないだろうか。 小十郎はセックスのとき声を出さない。 最後の最後まで決して声を出さない。達するときに、すこしだけそれが漏れる。佐助はそれを聞くのがすきだ。理性を 体中にまとわりつかせている男が、自分の前でだけそれを剥ぎ取る瞬間がたまらなくいい。 どうして佐助の前でだけ小十郎は、それを剥ぎ取ってくれるのだろう。俺がすきなのかなあ。佐助は首を傾げて、それ を小十郎に聞こうかと思って、止めた。 どうせ答えてはくれないし、第一、 「だったら、なんだ」 とでも言われたら、どうしていいか解らない。 佐助は、いつかずっと佐助の隙間を埋め続けてくれる肋骨と出会わなければいけないから、小十郎とずっと一緒に居る わけにはいかない。あんたが俺の肋骨でもいいのにな、と言ったら小十郎には鼻で笑われたので、しょうがないのだ。 小十郎は佐助の肋の話がだいきらいで、いつも馬鹿にする。 いつだったか、哀れむような顔で言われたことがあった。散々抱き合って、お互いにフルマラソンを走りきったくらい に疲れ果てて、ベッドのうえで死にそうになっているときに、小十郎がふとつぶやいた。佐助が覗き込んでみると、そ の顔はそういう顔だったのだ。水のない場所でのたうち回る金魚を見るような顔だった。 おまえは、と小十郎は言った。 「自分の肋骨探して嵌め込んだところでおまえは満足するのか」 おかしな質問だと思った。 満足か、と小十郎は言う。勿論そんな問題ではない。 佐助は何度も言ったように、またさむいんだよと言った。さみしいんだよ。満足とかそういう問題じゃなくて、ただそ れが無けりゃ俺は生きていけねえんだ。小十郎は荒い息を整えるように首を折って、天井を眺めながらそれは随分と難 儀だなと静かに言った。佐助がそうかなあ、と言うと、かわいそうなおとこだな、と返ってくる。 かわいそう。 初めて言われた言葉だった。 「俺って、かわいそうなんだ」 つぶやいたら、小十郎は体をシーツに倒してちいさく笑った。 かわいそうだ。また言う。佐助は首を傾げて、小十郎の胸に覆い被さりながらそれってどういういみ、と聞いた。こと ことことこと、小十郎の鼓動が聞こえてそれはとてもいい振動で眠くなった。 「自分で考えろ、阿呆」 「だってわかんない」 「一生」 一生、と小十郎は言った。 重い言葉だ。佐助は眉をしかめた。 「見つかんねェよ、そんなもの」 「ひどい。なんてひどいこと言うんだ、あんたは」 「そういうもんだろう。今まで見つからなくて、これから見つかると思ってるほうが俺は不思議でしょうがねェ」 「今日は雨だけど明日は晴れるかもしんねえじゃん。そういうもんだろう」 小十郎の言葉を取って繰り返した。 けれど佐助はそれほど苛立ってはいなかった。かわいそう、という言葉はそれなりに佐助を満足させた。小十郎の口か ら出てくる佐助はほんとうの佐助よりいくらか―――そう、かわいそうでいい。ほんとうはもう少ししょうがなくて、 そしてそれには特に理由がなかった。あるとしたら結局根源の問題で、そこはもうどうしようもない。足と手が何度数 えても二本ずつしかないのとおなじことだと思う。 小十郎は佐助を胸からごろりと落として、ちがう、と言った。 「今日雨が降って傘を忘れる馬鹿は、明後日雨が降っても傘を持たんだろうさ」 「ふうん。じゃあ、あんたは持ってるの」 「何を」 「傘」 小十郎はすこし黙った。 それから、持ってる、と言う。 「ただし一人分だ」 それは残念、と佐助は肩をすくめる。 それから小十郎の肩に手をやった。小十郎は不思議そうにその手を見た。 小十郎は傘を一本しか持っていないらしい。だとすると、佐助は今それに無理矢理割り込んでいるのだろう。どうして だろう、と佐助は思った。どう考えてもやさしくないこの男は、どうして佐助をこうも甘やかすのだろう。かわいそう だからだろうか。片倉小十郎はかわいそうなものを見るとセックスしてやるのだろうか。 それは恋なのだろうか。もしかしたら愛かもしれない。どちらも佐助は今まで見たことも触れたこともないので、名前 は知っているけれどどういうものかは解らない。あんた俺をすきなの。 聞きたいと思った。 結局聞かないまま別れてしまった。 佐助は傘を持っていない。 ついでに肋も無い。ないないないで、無い尽くしだ。 小十郎とまた会う機会も無いと思っていたけれど、それはどうやらあった。 以前聞けなかった質問を、今聞ける理由はよく解らない。 「すきでしょ」 首を傾げると、小十郎は死ね、と言った。 「阿呆か」 「阿呆じゃないね。ずうっと思ってたんだけどさ、だってあんたには理由がないじゃないから」 「理由」 「俺と一緒に居てくれた理由。それからセックスしてくれた理由」 「してくれた」 小十郎はがさりとビニール袋の中に手を突っ込んだ。 それから中からなにか取り出し、ぐい、と腕を佐助のほうへ突っ張る。唇に硬い感触が触れた。林檎だった。佐助の口 にそれを押しつけながら、小十郎は俺はてめェのそういう言い方が反吐が出る程気にくわん、と言った。 「てめェと寝てたのは、俺の意思だ。 ついでに言うなら今寝ないのも俺の意思だ。理由云々じゃねェ」 林檎が口に押しつけられているので何も言えない。 小十郎は笑った。ひどく皮肉げで、佐助のことを心の奥底から馬鹿にしきった笑い方だった。大体な、と言う。大体、 おまえは俺にそう言われたら逃げんだろうがよ。佐助は眉を寄せた。 逃げる。おかしなことを言う。何から逃げているというのだろう。林檎を押しのけて、逃げるってなんだよと佐助は言 った。小十郎はがたんと席を立って、だからてめェで考えろ、とひどく冷たい声で言った。 「反吐が出る」 「もう聞いたよ。俺の何がいけねえってのさ。こっちにも言い分はあるんですがねえ」 言いながら、どうやら自分は苛立っているということに気付いた。 「あんたはそう言いながら俺のこと甘やかすじゃん。あんたの言い方を借りるなら自分の意思でここに来て、自分の意 思で意味深なこと言ってんだぜ、自覚してほしいね」 「意味深。笑わせる。男同士で意味も何もあるか」 「あんたと俺にそこは関係ねえだろ。もうやることやっちまってるんだから」 佐助は笑った。 小十郎の肩に手を伸ばして、握りしめた。爪が食い込んだらしく、小十郎の眉が寄る。 仕返しのように佐助の腕にも小十郎の爪が食い込んだ。睨み合ったまま、佐助は薄く笑ってごまかしあうのもこれくら いにしようか、と言った。ほんとうのはなしをしましょうよ。 言ってからそんなものがあるのかどうかふと気になったけれど、小十郎は気にしていないようだった。いいんじゃねェ か、と言う。ほんとうね、と嘲笑うように口角をあげている。佐助も笑い返し、 「俺はあんたとキスがしたい」 と言った。 とりあえずね、と付け加える。 「もちろんその後のこともしたいけど」 「おまえ」 「なあに」 「子栗鼠は」 呆れたように小十郎は言った。 ただしまだ爪はぎりぎりと佐助の腕に食い込んでいる。そろそろ皮膚が破れて血が出てきそうだ、と思った。佐助はす こし考えて、わかんないな、と言った。小十郎は小十郎で、子栗鼠は肋だ。別のものなので比べることはできない。そ う言ったら小十郎の顔が呆れを通り越して、哀れむそれになった。 子栗鼠は子栗鼠だろうと小十郎は言った。 「肋なんぞ居るか」 「居るよ。だって聖書に書いてある」 「おまえクリスチャンか」 「ちがうけど」 「医者だろう」 「そうだね」 「男の肋は一本足りんのか」 佐助は首を振った。 べつにそんなことはない。肋骨は左右合わせて二十四本。男女共にその数は変わらない。大学でそれを習ったとき、佐 助は不思議だなあと思った。肋は全部揃っているのに、どうしてこんなにすうすうするんだろう。 おまえに足らねェのは肋じゃねェよと小十郎は言う。じゃあなにが足りないんだよと佐助は言った。足りないんだよと 言った。なんだかわかんないけど、俺にはなんかが要るんだ。 肋じゃねえならなにがこれを埋めてくれるんだよ。 「だから」 小十郎は言った。 絞り出すような声だった。 「自分で考えろ」 わかんないんだよ。 佐助がまたそう言うと、切れ長の目が歪んだ。 そして黙ってしまった。小十郎が何も言わないので、かわいそうだと思ってるんだよねえ、と佐助は笑った。気付いた ら腕の皮膚は爪が食い込んで赤く滲んでいた。すこし体を乗り出すと、目の前に小十郎の顔が来る。 唇を重ねてみた。 拒まれなかった。 ちゅ、と皮膚が触れあった音がした。 「すきじゃなくてもいいや。かわいそう、でもいいよ」 もう一度唇を寄せる。 そうしたら逆に噛みつかれた。目を見開く。 小十郎は怒っているようだった。 ぞくりとした。 蛇みたいだと思った。 舌が入り込んできて、それこそ蛇のように佐助の口の中を荒らしてくる。顎が痛いほどに乱暴なそれに、佐助が低く呻 くと下唇が軽く噛まれた。腕を掴んでいた小十郎の手がふいとあがって耳にかかる。ちらりと人差し指の爪のところに 赤いなにかが挟まっているのが見えた。佐助の皮膚だ。 テーブル越しに舌を絡ませ合っていると、次第に足の感覚が無くなっていって、最後にはほとんど小十郎に縋り付くよ うな形になる。左手で肩を掴んで、右手を首にかけた。小十郎の手は両手とも佐助の髪に入り込んでいる。呼吸のため に唇を離して、こじゅうろうさん、と出した声は思いのほか掠れていた。 ヤニ臭ェ、と小十郎は顔をしかめている。佐助は笑った。笑ってから、小十郎のほおに付いている傷に口づけた。 その唇が首に落ちて、鎖骨をなぞって、それからワイシャツのボタンが外れても小十郎は何も言わなかった。その理由 は恋だろうか。それとも愛だろうか。 かわいそう、だろうか。 考えていたが、途中でなにもかもどうでもよくなるくらいに小十郎がきもちよかったので、佐助は考えるのを止めた。 「“かわいそう”なんて理由で男と寝る程、物好きじゃねェ」 小十郎がそう言ったような気がした。 夢だったかもしれない。 次 |