包帯を取ってやると、かすかに残った痕の他はきれいな皮膚があらわになった。
佐助は満足げに笑って、顔をあげる。よかったね、これならたぶん痕もそんなに残らないぜ。そう言葉を発しようとし
た口は、開いたままに静止した。
目を丸めて、眉を寄せて佐助は首を傾げた。

「どうしたの。なんか、あった」

丸椅子に手をついて窓から外を眺めている林檎の顔は、漂白されたようにしろい。
佐助の言葉についと視線を寄越すが、その大きな目はすぐに閉じられた。そして、くすりと笑みを零す。その笑みがあ
んまりに投げ遣りだったので、ふわふわとした髪に佐助は手を置いた。

「どうした。美人さんが台無しだよ」
「元から美人なんかじゃないから、平気だよ」
「―――ほんとに、なんかあったの」

じいじいと蝉が叫んでいる。
林檎のつり上がった猫のような目が細められた。

「情けない。これじゃ、あたし先生に慰めてもらいたがってるってばればれだ」

すい、と包帯の取り除かれた細い足が伸び上がる。
聞いてくれるかな、と林檎は言った。佐助は腕時計に視線を落として、いいよ、と笑う。もう午前の回診はおしまいだ。
近くのレストランで食事をしながら話しをしよう、と言うと、林檎は首を振った。すぐに帰るからいい。
そう言って佐助を見据えた目は、思いのほか強くて驚かされた。

「別れた」

零れた言葉は短い。
佐助はしばらく黙り込んでしまった。
それから、え、とほうけた声を出す。林檎は足を組みながら、長い指で髪を撫で、それからまた言った。

「あたし、小十郎さんと別れた」

意味がよくわからなかった。
佐助はカルテをぺらぺらと意味もなく指でいじりながら、言葉を頭のなかで繰り返した。わかれた。こじゅうろうさん
と。よくわからない。だって理由がないじゃないか。
なんで、と聞くと林檎はすこしだけ泣きそうな顔で笑った。

「わかんないよ。あたし、結局あのひとのこと何にもわかんなかった」
「一年も付き合ってたんだろ」
「付き合ってたよ。でもさ、小十郎さんはきっとあたしじゃなくてもよかったんだと思う」
「そんなもん、みんなそうだよ」

佐助は言った。
誰かでなくてはいけないなどと言うのは、錯覚でしかない。
人間は世界から零れてしまうほどに溢れていて、けれど短い一生のなかで出会えるのはそのなかの一握りにすら満たな
いほんの一欠片でしかない。恋愛感情なんて、所詮脳内の誤作動にしか過ぎないのを佐助はよく知っている。
昨日まで死ぬほどにすきで、今日きもちが変わって、明日は忘れているかもしれない。確実なものなどどこにも無くて、
例え今目の前に居る人間こそが「誰か」だと思ってもそれは単なる錯覚でしかない。
佐助がそう言うと、林檎は困ったように笑って、そうだね、と返した。
でもね、と続ける。

「でもね、あたしは小十郎さんがよかったんだ。
 すくなくとも、昨日も今日も、たぶん明日もまだあのひとがすきなんだよね」

あのひとはちがったけど。
佐助はすこし黙って、それからでも明後日にはもっといい男に会えるかもよ、と言った。言ってから、我ながらひどく
陳腐な台詞だなと眉をしかめる。それでも林檎はありがとうと言って笑った。
林檎のカルテにペンをはしらせながら、これが書き終われば目の前の少女ともう会うこともないのだと佐助は思った。
もう診療は終わった。通院する必要はない。小十郎と別れたのなら、会うこともないだろう。林檎がまたこの診療所に
足を運ぶことがあればあるいはまた会えるかもしれないが、

「じゃあ、さよならか」

それはないだろうと思った。
林檎は首を竦めて、そうだねと言う。

「短かったな」
「うん」
「あんまり凹むなよ、若いんだから」
「おっさん臭いね、その台詞」
「もう三十越してますから」
「小十郎さんは三十五だよ。でもおっさん臭くなかった」

ちらりと林檎は笑って、それから泣きそうに顔を歪めた。
佐助はそれを不思議なものを見るように眺める。どうしてこんなに、この少女はかなしそうなのだろう。もう決して手
のなかに戻ってこないものの為にかなしむことに意味はあるのだろうか。よくわからなかった。
佐助は無くした物はすぐに忘れてしまう。

小十郎さんにだいきらい、て言っておいて、と林檎は最後に言った。

佐助は首を傾げて、すこし笑う。
無理かもしれないな、と言った。林檎は首を傾げる。

「絶交され中なんだよね」

そう言うと、呆れたように林檎が息を吐いた。
こどもみたい。佐助は髪を掻いて、へらりと笑った。そのとおりだ。
男の人ってみんな馬鹿だよね。林檎は続けてそう言って、それからまた言った。こどもみたい。佐助もまた思った。
ほんとうにそのとおりだ。



男は馬鹿だ。



子栗鼠と別れたときもつくづくそう思った。
子栗鼠は泣かなかったし、叫きもしなかったし、恨み言を言うこともなく佐助の言葉を否定することもなくただ黙って
頷いた。それから笑った。ひどくきれいな笑顔だった。
ありがとう、と子栗鼠は言った。

「ちょっとだったけど、一緒に居れてうれしかったです」

佐助はそこでようやく義妹が相当いい女であったことを知ったけれども、特に別れの言葉を撤回する気にもなれなかっ
た。おかしな話だ。きれいでかわいくて健気でいい女と別れて、佐助が手に入れるものは一体なんなのだろう。
顔が怖くてちっともやさしくない、言葉のすくない固くてでかい男か。それも難しい。もう佐助は、片倉小十郎と二週
間も会っていなかった。電話も通じないし、メールなんて元々返ってこないのが解りきっている。バーに行っても居な
いし、そういえば小十郎がどこに住んでいるのか佐助は知らない。
あの夜から、佐助は小十郎と会う術すらない。

あの夜、動物みたいなセックスをして、そのあと小十郎は佐助を一発殴って家を出て行った。

ひとから殴られたのは初めてだった。
痛みよりまず最初に熱があった。それから体がふわりと飛んで、床にたたきつけられた背中の痛みでああ俺は殴られた
のかということが解る。朝起きて、横で寝ている小十郎に軽いキスを落とした。そうしたら真っ黒い目がゆるゆると開
かれて、それが佐助を見据え、そして気付いたら佐助は床でほおを抑えて呆然としていた。
小十郎は怒鳴るわけでもなく皮肉るわけでもなく、ただ脱ぎ散らかされた服を纏いながら帰る、と言った。

「もうここには来ねェ」

そう言って出て行った。
あんまり素早かったので、佐助はそれを追うこともできなかった。
林檎と会った日、マンションに帰ってきた佐助はぼんやりと小十郎の居なくなったベッドに寝そべりながら、もう会え
ないのかもしれないなと思った。そういう感覚はもう二度目だ。三年前、小十郎が引っ越してしまうときも佐助はきっ
ともう会えないな、と思った。なにもしなかった。してもしょうがないと思った。
それで三年経って、べつに小十郎が居なくても佐助は当然のように生きてきたし、これから先もきっとそうだ。小十郎
が居なくても、佐助の心臓は動いて佐助の血液は循環する。
なんでだろう。佐助はシーツを掴みながら思う。
なんでだろう。

「変だなぁ」

小十郎が居ない。
もう二度と会えないかもしれない。



その事実がかなしくてかなしくて、しょうがなかった。


































今年の夏は例年より暑くなるでしょう、とアナウンサーが言っている。
冷房の効きすぎた部屋で一枚羽織ものをしている佐助には何のことだかよく解らない。部屋を出れば一瞬暑いが、すぐ
に地下の駐車場に行って車に乗ってしまえばまた解らなくなる。こうやって人間は動物から遠ざかっていくんだ、と佐
助はぼんやりと思った。そして最後はきっと、生き物かどうかもあやしいような物体になるんだ。
佐助は林檎と会った日から、ずっとそのことを考えている。コーヒーを煎れて、椅子に腰掛けながら林檎の言葉を反芻
する。小十郎さんはきっとあたしじゃなくてもよかったんだと思う。林檎はそう言った。そうだろうね、と佐助も思っ
た。同じ種類の生物であれば、つがいになることは可能だ。そこに理由も意味も必然性もありはしない。
けれど林檎は続けて言うのだ。小十郎さんがよかったんだ。他の誰でもなく、片倉小十郎がよかったのだと少女は言う。
シンプルじゃない。佐助には解らない。

それはきっと恋なのだろう。

小十郎はどうだったのだろう、と佐助は考えてみた。
小十郎はもしかしたら自分に恋をしているのかもしれない、と佐助は考えたことがあった。小十郎から与えられる理由
のない許しが佐助にはどうにも掴めなくて―――そういうふうに名前をつけたら処理しやすいような気がしたのだ。
そう思ったときには、佐助はそのことをどうとも思わなかった。困るな、とはすこし思った。困るな、そんなよく解ら
ないこと言われても。小十郎は小十郎でそういうのとはちがうのだ、と佐助は思った。
熱いコーヒーを喉に流し込みながら、佐助は胸のあたりをてのひらで抑える。

「よく、わかんないな」

小十郎は、肋の話がきらいだった。
林檎とおなじようなことを言っていた。子栗鼠は子栗鼠だ。そう言った。
おかしな話だ。子栗鼠は女だ。世の中に数え切れないほど居る人間の、その半分を占めている女。そういうものでしか
ない。街を歩けば溢れるほどいるうちのひとり。佐助もそうだ。佐助は男で、それだけだ。
おや、と佐助はそこでマグカップをかたんとテーブルに置いた。
特別な人間など、この世にはひとりだって存在しない。
確かめるように佐助はそれをつぶやいてみた。何分の一か、だよな。どんな人間だって、その一の部分しか占めていな
い。創世記のふたりは最初のふたりだったから特別だったかもしれないけれども、佐助はもうその枝分かれの先の先、
いっとう先まで来てしまったからちっとも特別なんかじゃない。
それはみんなそのはずだ。今まで付き合った女も、子栗鼠も、林檎も、

「おかしいな」

佐助はつぶやく。
おかしいな、どうしたんだろ。佐助はつぶやきながら、テーブルに顔を埋めた。


佐助にとって、小十郎はずっと小十郎だった。


他の誰でもなく、片倉小十郎だった。
別れた後も小十郎の名前だけは決して佐助のなかから消えてはくれなくて、再会したときはほんとうにただ純粋にうれ
しかった。また話せる。また会えるのだ。そう思ったら佐助はたのしくてしょうがなかった。
子栗鼠の顔はもうぼやけてる。あと一週間もすれば、きっと町中ですれ違っても気付かないだろう。
   ・・          
小十郎だけが、どうしてだか特別だ。

とくべつ。佐助は腕に顔を押しつけてつぶやく。
一体何がだ。おかしな話だ。佐助は何度目かになるそのフレーズを思い浮かべた。
小十郎のどこが特別なのだろう。
ふつうのサラリーマンで、性格はすこし乱暴だけれど実は面倒見がよくてかわいそうなものを見ると放っておけない。
ひとりで居ても平気な顔をしているくせに、寒がりできっとほんとうは寂しいのだ。
時々ひどく寂しげな顔をする。
そうすると夜の帳を降ろしたような深い黒が、すこしだけその色を濃くする。佐助はそれを見ると胸のあたりがざわざ
わと煩くなって、小十郎のあの高いところにある頭をくしゃくしゃと撫でてやりたくてしょうがなくなる。
それからセックスが上手い。
キスも異様に上手い。
慣れているのだ。
佐助が声をあげると、小十郎は馬鹿にしたように笑う。佐助はきもちいいことに弱いので、小十郎とちがってすぐに声
に出してしまう。小十郎はそれがおかしいらしくて、佐助の感じるところを探してはたのしんでいた。のだと思う。あ
んまりそういう話はしなかったので、正確にはわからない。ただ佐助は、自分が耐えきれずに声を出してそれにちいさ
く笑う小十郎のことがすきだった。時々わざと声を出した。けれど、そうするとばれるのだ。
ああ。佐助は絶望したような声を出した。

ああ、どうしよう。

この世にあと何人人間が居るのかなんて佐助は知らないし知りたくもないし、それにそれは必要ないのだと佐助はびっ
くりするくらい今簡単に知ってしまった。ああ、なんてことだろう―――こんなにか、と佐助はほとんど呆れるように
思った。おいおい、こんなにかよ。
嘘みたいだ、と思った。








こんなに小十郎が特別なんて、思ってもみなかった。







































林檎に電話をかけて、すぐに小十郎の住所を教えてもらった。
林檎は呆れて笑っていた。なあに、まだ喧嘩してるんだ。そう言う彼女の声はひどく魅力的で、もう吹っ切れたのかと
思ったらそうではないらしい。林檎はありがとう、と言う佐助にしばらく黙ってから、いいな、と言った。いいな、猿
飛先生は小十郎さんとまた会えるんだ。
林檎の声はますます魅力的だった。
佐助は黙って、ごめんねと言ってから携帯を切った。

「ほんと、ごめんだな」

子栗鼠と別れたのは、自分でもよく理由がわからない。
ただ申し訳ないと思ったのだ。ちがうのに一緒に居るのは、かわいそうだ。
何とちがうのかはもう解らなかった。肋ではない。肋はもう要らない、と佐助は思った。ひどく寒いこの吹き抜けの胸
は、佐助の生まれ持った欠陥なのだ。背負って引きずって、死ぬまで震えているしかない。
誤魔化すことはできる。けれど、それでは駄目だ。

それでは小十郎が手に入らない。

あれが欲しいのだ。
あの男だけが欲しい。
携帯をジーンズのポケットに押し込んで、佐助はキィを差し込んでエンジンをかけた。
夏の日差しは鬱陶しい。車内専用のサングラスをかけながら、佐助はふと笑ってしまった。なにもかも手放してしまっ
て、それでまだ小十郎が手に入るとは決まっていないのだと思ったら、なんて自分は必死で不格好なのだろう。
欲しい、と思った。けれどほんとうはもうすこし具体的な欲求がある。
頭を撫でて欲しいし、笑って欲しいし、それにあの低い声で、しょうがねえな、と言って欲しい。セックスもしたい。
あの大きな手が自分の体中を這い回るのを目を閉じて感じたい。あの乾いた肌を触りたい。
それからおまえは、とあの男が自分を語るのが聞きたい。
この世の中で、小十郎だけが佐助を語っていいのだ、と佐助は思う。
あの声で語られた自分が真実でいい。
ほんとうすら要らなくなるくらいに、佐助は小十郎が綴る佐助がすきだ。
車が動き出す。地下の駐車場から地上に出る出入り口にさしかかると、案の定のつよい日差しが佐助の車を包み込んで
きた。空が一瞬だけしろく見えた。すぐに焼けるような青に変わる。
林檎に教えてもらった小十郎のマンションは、それなりに大きくて新しいところだった。クリィム色の壁を触ると夏の
熱気で熱い。六階だというのでエレベーターに乗り込んで、佐助はこてんと頭を壁につけた。かたかた、と音がするの
でなにかと思ったら、壁に当たっている指がかすかに震えている。
震えている。佐助は眉を寄せた。なんでだ。
しばらく考えて、ああ自分は怖がってるのか、と気付いた。

怖いのだ、小十郎に会って、そして拒絶されるのが佐助はひどく怖い。

一回無くしてしまった。
もう一回無くすのはきっと耐えられない。
エレベーターのドアが開く。不快な電子音がした。

「―――やっべ、怖ぇわ」

佐助はぶるりと震えて、ドアが閉まる直前にあわてて足を踏み出した。
来ちゃったなあ、と髪を掻く。空がやたらと青くて嫌がらせじみている。そんなに青くなくてもいいぜ、と思った。冬
なら良かった。小十郎は寒がりなのだから、こんなに暑かったら追い返されてしまう。
水曜日なので勿論小十郎はまだ部屋には居ない。おや、と思った。これじゃ俺って不審人物じゃないの。時間くらい読
んでくればよかった、と思ったけれど今更なので佐助は諦めて小十郎の部屋の前まで歩いて、そこで壁に寄りかかって
煙草を吸おうとして、

すこし考えてから止めた。

「怒られちまうもんなぁ」

ちいさく笑って、空を見上げる。
相変わらずかすかに手は震えている。よっぽど怖いのだ。馬鹿みたいだ。
自分で考えろ、と言った小十郎の声が蘇ってきた。考えてみれば、自分で考えたことなんて殆どなかったような気がす
る。小さい頃に見た聖書のあの記述がほんとうに羨ましくて、ああじゃあこの隙間を埋めてくれるなにかが何処かにあ
るのだと確信してそれからはそのことしか見てこなかった。
今更この年になって、一からのスタートだ。

自分で考えるのはひどく怖い。

それでもこれが考えた結果だ。
小十郎はなんと言うだろう、と佐助はぼんやりと思った。
怒るだろうか。呆れるだろうか。それとも例の困ったような怒っているようなどちらとも付かない顔で―――しょうが
ねえな、と笑ってくれるのだろうか。しょうがねえ野郎だな、おまえはよ。
どれでもいいや、と佐助は笑う。

空が青い。
雨は降っていない。
では傘は無くてもいい。
他にはなにも要らないなんてことは言えない。ただ佐助は思った。

勘違いでもいいし錯覚でもいい。














世界中の誰でもなくて、片倉小十郎に一刻も早く会いたかった。








 





あれ、終わらなかった(驚愕



空天
2007/06/17

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