その男が緑の国に居るのは、あるひととの約束のためでした。 もともと青の国に居たその男は、その約束のためにひとり緑の国にやってきたのです。 緑の国はうつくしい国でした。男はごく普通の町人のように、そこで静かに暮らしてい ました。男の家は町外れの森の入り口にありました。そこはさみしく、暗い場所でした が、あるひととの約束を果たすまで、男はそこから一歩だって動くことはできなかった のです。男は国のひとびととも仲良く付き合いましたが、決して家にだれかを呼ぶこと も、だれかの家に行くこともしませんでした。 月のきれいな夜には、ときどきさみしいと思うこともありました。 それでも男はずっとひとりでしたし、周りのひとびとも男はひとりで居るのがすきなの だと考えて、あえて近寄ってこようとはしないのでした。 男のことをほんとうに知っているひとは、緑の国にはひとりも居なかったのです。 あるとき、男は家のそばで笛を吹いていました。男は笛を吹くのがすきだったのです。 時間を忘れて笛に没頭していると、ふいにポキリと枝の折れる音が耳に入りました。驚 いて顔を上げてみると、赤毛の男がぼんやりと立ってこちらを見ています。 赤毛の男は慌てたように手を振ると、男に頭を下げました。 「ごめんね、覗くつもりじゃなかったンだけど」 赤毛の男は困ったように笑いながら、あんまりいい音色だったから、と謝りました。 「もっと聴かせてくれない?邪魔はしないからさ、ここに居させてよ」 男はすこし考えましたが、勝手にしろと言ってまた笛を吹き始めました。 赤毛の男は言った通り、何も言わないで男の隣で笛の音色を聴いていました。男がふと 隣を見てみると、赤毛の男はうずくまって首を落としています。慌てて男は肩を揺さぶ りましたが、赤毛の男はただ眠っていただけでした。 赤毛の男はとても疲れているようでした。 それから何度か赤毛の男は男の元を訪れました。毎日ではありません。赤毛の男はとて も忙しいようで、訪れるのは十日毎でした。そして訪れたところで赤毛の男はなにをす るわけでもなく、ただ男の笛を聴いては、いつのまにか眠り、眠るだけ眠るとどこへと もなく消えていくのです。 そのうちに男は、赤毛の男が来るのを待つようになりました。 緑の国にやってきて、こんなふうに会う間柄の人間ができたのは初めてだったのです。 男は赤毛の男がどこかへ行ってしまうと、次に彼が来るであろう十日後のことを考える ようになりました。赤毛の男は緑の国の人間ではないようで、一度来てから次に来るま での十日間に、偶然街で出会うようなことはありません。会えるのはほんとうに十日に 一度、男の家でだけなのです。 男はそれでも、赤毛の男に出自を尋ねるようなことはしませんでした。 男自身がそれを問われると困ってしまいますし、そういうことを尋ねないからこそ、赤 毛の男は男の元を訪れるのではないかという気がしたからです。 赤毛の男は相変わらず十日に一遍だけ男の元を訪れます。 ふたりは次第に、ぽつりぽつりと話をするようになりました。 聞いてみると赤毛の男には深い悩みがあるようで、いつも疲れているのもどうもその悩 みのためなのです。赤毛の男は決して多くを語りませんでした。彼が話すのはほとんど は抽象的なことばかりでした。 でもなぜだか、男は赤毛の男の悩みが手に取るように解ったのです。 赤毛の男が語る話を聞きながら、男はときどき頷き、ときどき相づちを打ちました。 「俺はそのひとをどうしたらいいのか、ぜんぜん解らないンだ。なにをどうしてやるの が一番正しいのか、なにが一番あのひとのためになるのか解らねえ」 「あァ」 「俺にはなにができるのかね」 「あァ」 男は頷きながら、自分の大切なひとのことを考えました。 遙か遠い国で自分との約束を果たそうとしているあるひとのことを考えました。 「俺にも、解らんな」 今していることが、正しいかどうかの判断など、今できるわけがないのです。ましてや それが自分ではなく、他人に関わる問題であればなおさらのこと。 そんなことは、ほんとうに最後になってみないと解らないのです。結局のところ、自分 が正しいかどうかの判断なんて、自分で下せるものではないのですから。 「考えるしかねェんだろう。ほんとうに最後の最後まで、―――どうせ、最後にはなに かしらする他ねェんだから」 相手がすこしでもしあわせであるように、と。 祈るしかないのです。願うしかないのです。自分のおこないがすこしでもその祈りに、 願いに適っているものであるようにと、考えるしかないのでしょう。 男はすこしだけ笑って、赤毛の男の髪を撫でてやりました。 赤毛の男はびっくりしたように目を丸めて―――彼は目もとても赤いいろをしていまし た―――それからへらりととても幼げに、男に笑顔を返しました。 そうだね、と赤毛の男は言いました。 そうだね、結局そうするしかねえもんなあ。 「ありがとう」 あんたはやさしいね。 赤毛の男はそう言って、その日も帰っていったのです。 十日後、赤毛の男は男の元を訪れませんでした。 代わりに緑の国に隣国から兵士たちが攻め行ってきました。もともと兵など持たない平 和な国である緑の国は、大量に雪崩れ込んできた隣国の兵士たちになすすべもなく、十 日後には完全に制圧され、国のひとびとはみな殲滅されてしまいました。 緑の国が完全に占拠されたその日、国境の山の天辺からちょうど男の家があった森の辺 りをひとりで眺めている人間が居ました。でも誰もその人間の姿を見ることはなかった ので、それが誰であったかは解りません。 ただその人影は、とてもとても長い間、ずっと緑の国を見ていました。 夜になっても、次の朝がきても、ずっとずっと見ていました。 次 |