切なさが過ぎると死ねるかもしれないと思った。 けれどもどれだけ待っても一向に死は訪れず、ただ躯は無様に痛みを伴ったまま朝を迎える。 嘘吐き達 の 幸福な日常 時折発作のように泣きたくなる。 どうして泣くのかは良く解らない。ただ、涙が出て涙が出て仕様がなくなる。情けないなあと思うけれどもこればかり は好き好んで出している訳ではないので如何ともし難い。困ったもんだ。猿飛佐助は髪を掻きながら、暗い屋根裏でひ とりはらはらと泣く。見ている者は蜘蛛しか居ない。ならば良いだろう。 無論主にこんな姿は見せない。主どころか、他の誰にも見せたことはない。あるものか。こんな無様な姿を見られたら 死んじまうよと佐助は胸のうちで笑った。慰めを必要としているわけではないのだ。特にかなしいことがあるわけでも なく、辛いことがあったわけでもなく、要するにこれは発作なのだ。だから佐助はひとりで泣く。顔も歪めず、声も出 さず、夜の屋根裏でひとりただ涙を義務のようにはらはら、はらはら。 発作はいつもお誂え向きにひとりの時に起きていた。 「―――――――――ええっと」 だから佐助はどうしたものかと頭を抱える。 目の前の男が、切れ長の目を丸めている。それはそうだろう。佐助はへらりと笑って、首を傾けた。その拍子に目から 冗談のように大量に流れている涙が耳に入る。こぽ、と不自然な音がした。慌てて耳を叩いてそれを流す。 どうしたものだ。佐助はまた思った。その間にも涙は嫌がらせのように大量にこぽこぽと目から湧いてくる。 ええっと。佐助は言葉を探してしばらく視線を落としてから、顔を上げた。 「あんまり、気にしないでいいよ」 「無理だろう」 「大したことじゃねえから、いやほんと」 男の切れ長の目が細く歪む。 「目の前で茶を飲んでいた野郎が唐突に泣き始めたことが大したことじゃねェなら、世の中の大抵のことは大したこと には入らん」 男の名は片倉小十郎と言う。 佐助は困ったように笑った。目を細めると殊更に涙が零れる。 小十郎は呆れたように顔を歪めて、懐から懐紙を取り出して乱暴に佐助の顔に押しつけた。がしがしと音がしそうな程 に強く擦られて、目の下がひりひりと痛む。そのうちに涙はぴたりと止まった。 小十郎は息を吐いて、ふやけた懐紙を丸めて畳に上に置く。 「どうかしたのか」 「いやべつに」 「何もねェのにおまえは泣くのか」 「うん、困ったことに」 頷くと、小十郎はほうけた顔をした。 佐助はへらりと笑う。そうすると、涙が伝った痕がかさかさと乾いている感触がした。発作なんだ。そう言うと小十郎 は益々訳が分からないと言うように眉間に皺を寄せ、ふうん、と鼻を鳴らす。難儀だな、と言われたので佐助はまった くだよと両の手を拡げて眉を下げる。ちらりと小十郎が笑う。 まるで他人事だなと言う。佐助も笑った。 「そうなんだ、実際。時も場所も場合も、お構いなしなんだ困っちまうよね」 「何か原因はねェのか」 「ねえなあ。べつにかなしいことがあったわけでもないしねえ。 ほら今だって、あんたと茶飲んでるだけで泣くンだぜ。これがかなしいってことはどんだけ俺があんたのことを嫌い なのさってことになっちゃうでしょ」 「嫌いなら帰れ」 「例えですよ、例え」 湯飲みを両手で持ち上げる。 それから首を傾げる。おかしいな、と思った。 「でも今まではひとりの時しか、発作はなかったンだけどね」 ふうん、と小十郎は鼻を鳴らした。 それからすこし顔を曇らせる。ひとりで、と繰り返す。そうひとりで、と佐助も繰り返した。ひとりで、屋根裏とかで、 収まるまで泣くんだよ。小十郎の顔が益々曇る。 止めろ、と言う。 佐助はほうけた。 「へ」 「止せ」 「え、なにを」 「ひとりで泣くなんざ、止せと言っている」 「いやそんなこと言われても。あんた他人に泣いてるとこなんて見られたいって思いますか」 「俺はおまえと違ってそんな女々しい発作は持ってねェ」 「あ、そうですかそりゃ結構」 佐助はけらけらと笑った。 冗談だと思ったのだ。小十郎は常に真顔なので解りづらいけれども、時折そういうことを言うこともある。それの類だ と思った。けれども小十郎の眉間の皺は一向に引かない。 思い出すから不愉快だと小十郎は吐き捨てた。 「思い出すって、なにを」 問うと、小十郎はすこしだけ怯む。 それを見てああと佐助は頷いた。それから呆れて笑う。ああ、ご主人様ですか。 「俺は梵天丸様じゃあないよ」 「見れば解る」 「だったら放っておきゃあいいでしょうに」 「だったら選りに選って俺の前で泣くな」 見ちまったら、忘れるわけにもいかんだろうが。 小十郎は不機嫌そうに言う。佐助は困ったように笑う。小十郎は泣いているこどもだとか、捨て猫だとか捨て犬だとか そういうものにひどく弱い。すべて、おのれの主の幼い頃に被るからだと言う。これも一種の発作だなと佐助は思った。 難儀なひとだね、と佐助は吐き出す。佐助は男で年もそれなりに食っていて、猫でもなければ犬でもない。それでも放 っておけないのだ。佐助は唸って、手を挙げた。 「解った解った、頑張るよ。ひとりで泣かないように」 「そうしろ」 「旦那に泣かれても困るし」 「はあ」 「あんた、泣きそう」 佐助はへらへらと笑って小十郎の眦に触れた。 無論そんなことがあるはずがない。けれども小十郎は弾かれたように佐助の手を払って、おのれの目を擦った。佐助は 腹を抱えてけらけらと笑う。騙されたと気づいた小十郎が元々鋭角の眉を更につり上げて、畳の上に寝転がっている佐 助の背に持っている湯飲みの湯を掛けた。 温い湯が装束を濡らす。 「濡れたよ」 「そうかい」 「ああ、びっしょびしょだなこら」 「おい」 「なに」 「今度発作が起きたら、俺のところに来い」 いい年した男の泣き面なんぞ、胸糞悪ィがひとりで泣かれるよりは幾らかいいと小十郎は言う。佐助は驚いて体をむく りと起こした。小十郎は相も変わらぬ仏頂面で、しかもひどく不快げに、佐助の顔を見るのすら嫌だとでも言うような 声音で、来い、と繰り返す。 甲斐から奥州までの距離を佐助は思った。 「たぶん涙が枯れ果てると思うンですけど」 佐助が幾ら急いでも、丸一日は掛かる。 小十郎は表情を変えずにそうかとだけ答える。佐助は途方に暮れる。無理だよ、と言うとなんとかしろおまえしのびだ ろうがと小十郎は吐き捨てる。そんな無茶な。佐助は眉を下げて、濡れた装束を絞った。 俺だって見たくねェ、と小十郎は言う。おまえの汚ェ泣き顔をどうして見たいなんて思うか。 「でも来い」 「話の飛びようが半端ねえな」 「俺の前で泣いたのが運の尽きだ」 観念して次からは此処で泣けよ。 佐助は矢張り途方に暮れたが、一応頷いた。片倉小十郎はあらゆる意味でひと離れしているけれども、だからと言って 甲斐で佐助がひとり泣いていたからと言ってそれを見通すちからを持っているわけでもない。解った解った、あんたの 前でだけ泣くよと佐助は笑って嘘を吐いた。知れなければそれは相手にとって嘘にはならない。 小十郎は最初からそうすりゃァいいんだ、不愉快な野郎だなと吐き捨てる。 佐助は悪うござんしたねえと適当に応えた。 困ったことになった。 佐助は頭を抱えたいような心地になる。 「良く泣くな」 殆ど感心するように小十郎は言う。 涙がぽろぽろと零れる。持ってきた書状が濡れそうになるので慌てて小十郎に押しつけた。小十郎はそれを受け取り、 文机に置いて膝を立て、ほおづえを突いてしげしげと佐助を見上げる。佐助は居たたまれなくなったのでそのまま出て 行こうと足を退いたら、もう片方の足をがしりと掴まれた。 まあ待て、と小十郎が言う。 「二度目だ。逃げることもねェだろう」 「二度目だろうが何度目だろうが、好んでひとに泣き面見せる趣向はありませんでね。 ちょっと離してくれませんかね、片倉の旦那」 「断る」 小十郎は言い切って、佐助の足を強く引いた。 佐助は息を吐いて逃げることを諦めて腰を下ろす。行灯がゆらゆらと橙のひかりを揺らしている。虫が鳴く。涙が零れ る。小十郎はそれを拭おうとするでもなく馬鹿にする言葉を吐くでもなく、ただじいと興味深げに佐助を眺めている。 そのうちに飽きたのか書状を開いて読み出した。けれども佐助の足は掴んだままである。佐助はこれ見よがしな息を吐 いたが、小十郎は矢張り足を離さない。涙はまだ止まらない。 書状を読み終えた小十郎は、それを文机に置いてまた視線を佐助に戻す。 「何かあったのか」 「何もねえよ」 「そうか」 「うん」 はらはらと涙が零れる。 小十郎は黙ってそれを眺める。 結局四半刻涙は止まらなかった。止まった頃にはからからに喉が渇いていたので、佐助は帰り際に米沢城の井戸から水 を拝借する。つめたい水はひりつく喉にこびり付き、じわりと滲むように痛んだ。小十郎は佐助が泣き止むとすぐに足 を離して、ひとつ欠伸を漏らすととっとと帰れと佐助を追い返した。 もう牛の刻である。佐助は井戸の水を被るように飲み干しながら、少し笑った。 「―――――――――変なおひとだよ」 結局小十郎は佐助に付き合って起きていたのだ。 泣いた男の顔など見たくもないというような仏頂面で、ずっと佐助が泣き止むのを待っていた。 きっと伊達政宗がおさない頃、まだ梵天丸と名乗っていた頃もそうだったのだろうなあと佐助は思った。おさない主が 泣くのに疲れて眠るまで、ずっとあの男は待っていたのだろう。泣き止むように諭すでなく、慰めの言葉を吐くでもな く、ただ横で、夜より黒いあの目をじいと真っ直ぐに向けて、待ったのだろう。 最後に水を頭から被って、佐助はふるふると頭を振った。水が飛ぶ。 ひどくすっきりとした心地だった。 発作が起こるのが、どうしてだか小十郎の前でだけになってしまった。 最初は戸惑ったけれども、小十郎が平気な―――――――――まるで当然のような顔をしてそれを受け入れるのでその うちに佐助も慣れてしまった。はらはらと泣く。小十郎がそこに居る。泣き止むと手拭いを放ってくる。 「何か、あったか」 「なんも」 「そうか」 小十郎はそれだけ問う。 それ以外は問わない。 それがひどく心地が良い。ひとりで泣いていると涙は義務のように流れるけれども、小十郎がそこに居るとそれが流れ ることに何かしらの意味があるような錯覚が起きる。無論それは錯覚でしかない。 錯覚でしかないけれども、それでもその意味のような感触が泣いていると体中に満ちる。 体から水がこぼれていくと、それと対するようにその感触がぬるぬると体に入り込んでくる。満ちたような心地になる。 空っぽの体のなかにその感触がみしりと埋まると涙はぴたりと止まる。小十郎が手拭いを放ってくる。 「ありがとうね」 ある日礼を言ってみた。 小十郎は目を瞬かせて首を傾げる。 「何が」 「泣かせてくれて」 「べつに、いい」 「そっか。あんたはやさしいね」 そう言うと、小十郎は息を吐いて読んでいた草紙を閉じる。 書見台を退かせて、手を伸ばして佐助のほおを掴んで伸ばす。感謝するならとっととその可笑しな発作を治せと言う。 佐助は痛みに叫び声をあげながら、それでも笑った。 あるときに、佐助はふと思った。 これはほんとうに発作なのだろうか。 佐助はしのびで、泣きたいときに泣くことができる。すぐにそれを止めることができる。 相変わらず佐助は小十郎の前で泣く。小十郎はそれに何も言わずに、ただ付き合う。佐助はよく解らなくなった。ほん とうに泣いているのだろうか。あんまり長い間泣いていると、小十郎は呆れたように手を伸ばして、こどもにするよう に佐助の髪を掻き混ぜる。終いには目が溶けるぞ、と言う。その声はひどく静かで森のように聞こえる。 小十郎と会う機会はそれ程多いわけではない。仕事で奥州に行くときしかその機会はない。多くて一月に一度、すくな いときには半年会わぬこともある。半年会わなくても発作は起こらない。 小十郎と会うと涙が出る。 はてそれは発作と呼べるのだろうかと佐助は首を傾げる。 泣きながら目の前の男を眺める。 手を伸ばしてみる。腕に届く。小十郎の顔が上がる。 「どうかしたか」 「いや、なんとなく」 「物凄く汚ェ面だな」 「仕様がないだろ、泣いてンだから」 腕を掴んでも、振り払われなかった。 小十郎は佐助をうんざりと眺めているけれども、泣いているときは決して拒まない。 たぶん―――――――――と佐助は思う。たぶん、こうすることは小十郎にとってどうしようもないことなのだろう。 言葉もなくただ泣く佐助は、小十郎にとって梵天丸の“欠片”のようなものなのだろう。そしてこの男はその“欠片” すら見逃すことができぬのだ。難儀なひとだね。佐助は泣きながら言う。 振り払われぬので調子に乗って背中にほおを寄せてみた。 「濡れる」 「そうだね」 「何処にそんなに水が詰まってんだ、おまえは」 「何処だろうねえ」 涙は相変わらず出るので、小十郎の襦袢が濡れる。 ひたひたと水に濡れた布の感触がほおに張り付いてくる。 佐助は目を閉じた。小十郎の背中を通して、鼓動が聞こえる。血が流れていく音が聞こえる。生きてるんだなあと思っ た。そういうことを実感したのは初めてだった。ひとが死ぬことは良く知っているけれども、考えてみれば生きている ことは良く知らない。小十郎は生きている。その事実がひどく鮮やかで驚いた。 その日涙はなかなか止まらなかった。 もういいよ、と佐助は言った。 もういいや、寝ちゃってよ。 「いい加減、明日に差し支えるでしょうよ」 「だったら早く泣き止め」 「こればっかりは俺様もどうにもこうにも」 眉を下げると小十郎は逆に眉を寄せた。 ぐい、と佐助を引っつかんで畳に転がす。石かなにかのように転がされた佐助は目を瞬かせた。小十郎は座敷の隅にあ った敷き布団を掴み上げて、無造作に佐助の上にどさりと放る。 ぶ、とおかしな音が鼻先からこぼれた。 「なにすんのッ」 「煩ェ。もうそこで寝てろ」 「はあ」 「寝りゃァ涙も止まるだろうよ」 視界は効かない。 上から布団が被さっているので、真っ暗闇だった。 ぽんぽん、と布団が揺れる。小十郎が叩いているのだ。とっとと寝ちまえ、と言う。佐助は転がされた状態のままに、 真っ暗闇をじいと眺めながら、小十郎の声を聞いた。 途端に涙が止まった。 止まったけれども、佐助はそのまま眠りに就いた。 起きると、小十郎は襖に背をもたれて眠っていた。 まだ外は暗い。そんなに刻は経っていないようだった。佐助は敷き布団をよいしょとおのれの体から下ろして、きちり と敷き直し、小十郎の体をそうと抱え上げる。脇を持ってずるずると引きずり、ゆるりと布団の上に横たえる。小十郎 はそれでも起きない。余程眠いのだ。申し訳なくなって佐助はちいさくごめんねとつぶやいた。 掛け布団をかける。小十郎はすうすうとかすかに寝息を立てている。こんなときでも眉間に皺が寄っている。可笑しく なって佐助はすこしだけ笑い声を漏らした。額にかかった髪を掻き上げてやる。 黒い髪はつやつやと行灯の灯りで橙に染まる。浅黒い肌も橙に染まる。佐助のしろい指から黒い髪がはらはらとこぼれ て、落ちていく。かすかに小十郎は身じろぎをした。佐助はすこし驚いて、身を退く。 小十郎はまた静かに眠り始める。佐助は安堵の息を吐く。また小十郎を眺め始める。それには飽きるという感情が欠如 してしまったような感すらある。どれだけ見ていても、それは鮮やかで新しいような心地になる。 佐助はそして、おのれがこの男を恋うていることに唐突に気付く。 次 |