「今晩は、良い夜だね」

その夜は月が丁度ぱかりと半月で、夜に浮かぶ小舟のようだった。
中途半端なひかりが地面に降ってくる。小十郎の寝所の座敷から見える中庭の前栽がそれでうっすらとしろくなってい
る。小十郎は既に眠りに入る支度を終えて、掛け布団を刳っているところだった。佐助はするりと障子を開いて、首を
傾げてへらりと笑う。小十郎は一瞬だけ目を見開いて、それからすぐに細める。
またかと問われて佐助は何も応えず笑った。

たん、と殊更に大きく涙が畳に落ちる音がする。

小十郎はほうと息を吐く。
佐助は突っ立ったままで小十郎を見下ろす。涙が溢れるように零れる。小十郎はしばらく額にてのひらを押し当てて黙
っていたけれども、そのうちに立ち上がって佐助の首根っこを掴み、布団の上に引き倒した。
顔にぽすんとやわらかい布の感触が伝わる。小十郎はげしりと倒した佐助の背を蹴った。

「夜に来るな。せめて昼に来い」

俺を不眠症で殺す気か。
不機嫌そのものの声で小十郎は吐き捨てて、布団に顔を埋めた佐助の頭を押して回す。鼻が潰れそうだったけれども、
佐助はごめんなさいねえ、いつも迷惑かけちまってさあと笑い声を立てた。
まったくだと小十郎は舌打ちをする。佐助は笑いながら顔をあげた。

「ねえ、片倉の旦那」
「なんだ、泣き虫野郎」
「悪いからさぁ、あんたも一緒に寝ようぜ」
「はあ」
「だから、あんたも、此処で」

俺と一緒に。
小十郎の顔が歪む。

「男と共寝をする趣向は持ち合わせてねェ」
「ちょっと、何勘違いしてらっしゃるんだい。
 俺ぁべつにまぐあおうって言ってンじゃねえんだぜ。たださ、一緒に寝ようって言ってるだけじゃあないのさ」

袖を引く。
座敷の外から、虫の叫び声がした。
奥州の秋は大分深くなっている。肌寒いと感じる日も多くなっている。小十郎はすこし迷ってから、佐助の手を振り払
って納戸をからりと開いた。もう一組の布団をどさりと畳に落とす。

「おまえはこれを使え」
「なんか埃臭い」
「煩ェ。贅沢言ってンじゃねェよ」
「まあいいけどね。ちぇ、一緒に寝りゃあ万事解決なのに」
「誰にとっての何のための解決だ、阿呆」
「勿論俺にとっての俺のための解決」
「死ね」

布団は埃のにおいがした。
佐助は最低限の装備だけを付けて、手甲と具足を脱ぐ。装束を上だけ脱いで、帷子を外した。体の其処此処に備えてい
る隠し武器も寝ながら使えるもののみを残して後は枕元に置く。小十郎はそれを呆れるように見ている。よくもまァ、
と言う。よくもまァそんなに付けて動けるもんだな。
あんたらお侍さん程じゃあないさと佐助は笑いながら布団に潜り込む。

「あったけ」
「布団だからな」
「ねえ、手拭いないかい。枕が濡れちまうよ」
「まだ止まらんのか。そのうち枯れ果てるな」
「いやいや、大丈夫ですよ。俺様基本的に潤ってるからいろんなところが。誰かと違って」

思い切り手拭いを顔にぶつけられた。
佐助は枕にそれを覆い被せて、うつ伏せになって小十郎のほうを眺める。小十郎も佐助のことを見ていた。小十郎は、
佐助が泣き止むまで基本的には寝ないし、何処かへ行ったりもしない。
あんたは難儀なひとだねと佐助は笑った。

「世の中にはたくさん居るぜ」
「なにが」
「ひとりで泣く奴だよ」
「そうだろうな」
「それをご丁寧に、みんなこうやって面倒看るのは大層骨だろうに」
「―――――――――べつに探す気はねェよ」

小十郎は言い訳をするように言った。
目に付いたからそうしただけだと言う。そうかい、と佐助はけらけらと笑った。
肩を震わせて笑うと、涙が手拭いを濡らす。手拭いは薄い浅黄色だった。それが濡れた部分だけ濃くなる。小十郎は目
を痛ましげに細める。佐助はまた笑った。ぽろぽろと涙が零れて手拭いを染めていく。
おまえは、と小十郎は言う。

「泣くときくらい、そういう顔をしてりゃァいいだろうに」

難儀だなと言う。
そうでもないさと佐助はまた泣きながら笑った。

「俺はね、随分と幸運だったとこう、この巡り合わせに感謝してンだよ」

小十郎の顔を覗き込みながら佐助はつぶやいた。
だってそうだろう。こうやっていい年した男が泣くのに付き合ってくれる酔狂なおひとなんざなかなか居やしないもの。
小十郎は舌打ちをした。付き合いたくて付き合ってんじゃねェよと言う。そうだねえと佐助は目を細めて笑った。そう
だろうねえ、でもさあ、だから幸運だって言ってンじゃないか。
小十郎は呆れたような声で、

「そんな難儀な癖を持ってる時点で、不運だと思うがな」

と言う。
成る程と佐助も頷いた。
それから、それでも俺は幸運なんだよ、と目を閉じる。
永遠に枯れぬようにすら思えた涙が、死んだようにぴたりと止まった。佐助はしばらくの間目を閉じていた。そうする
とそのうちに小十郎の寝息がこぼれ始めたので、再び目を開く。わざと物音を立てて派手に布団を剥いでみるけれども
小十郎は目を開かない。佐助はそのまま四つん這いで小十郎の側まで寄って、じいと顔を眺める。
閉じられた目はあの黒を顕わにしていない。眉間に刻まれた皺はすこしだけ薄らいでいる。気配は消しているとは言え、
こんなにも深く眠っている小十郎を見ているとくすぐったくなった。一応他国のしのびなんだけどねぇ、と胸のうちで
だけつぶやく。こんなに安心しちゃって、まあ。


そうするとじわじわと何かが滲むように―――――――――ああ、恋うているのだと思う。


抱きたいだとか、抱かれたいだとか、そういういろを伴う感情ではない。
ないと思う。或いはそれなのやもしれぬけれども、そうだとしても佐助はその想いを遂げるつもりは毛頭なかった。そ
ういうものが欲しくないかと問われればそれは欲しい。欲しいけれども、
手を伸ばして、小十郎のほおに触れる。

「嗚呼、全く俺は幸運だよ」

つぶやいて、手を離す。
それから布団からこぼれている指先に軽く口付けた。
この手に触れて貰えるならばそれだけで上等だ。そう思った。小十郎が触れているのは梵天丸の欠片だけれども、佐助
が触れられているのは紛れもなく片倉小十郎なのだ。笑みが零れた。俺みたいな男には勿体ないような話だよ、実際の
ところ。佐助はおのれの体に感謝した。自然と涙が零れる癖すら幸運なのだと思った。

そして、その癖が収まった後も涙を零すことの出来るしのびという体に感謝した。

これが顕わにならなければ、ずうっと小十郎は佐助の頭を撫でてくれるだろう。
そう思うとへらりと笑ってしまった。嗚呼、と声を漏らす。全く、俺は幸運だよ。あとはこれを抑えるだけだ。どうし
ようもなく湧き出てくる慕情だけなんとかすれば、この幸運はきちんと佐助のてのひらの中にあって逃げてはいかない。
気をつけなくてはね、と佐助は笑みを治めて布団に再び潜り込んだ。



































ある日ふと、佐助は気付いた。
いつものように小十郎の座敷で小十郎に頭を撫でられながら、おや、と思った。こうなってから随分経って、もう小十
郎も文句すら言わなくなった。頻繁ではない。月に一度、半年に一度、会わぬのならば一年でも会わない。何かの約束
があるのではないのだから、その程度のものだ。小十郎は何も言わない。
言わなくなった。

「ねえ」

月は半月だった。
小舟が雲の間を泳いでいる。丁度天辺から降ろうかと言うところである。
ようよう涙が止まって小十郎に雑巾で床を拭くように顔を拭かれながら佐助は口を開く。小十郎は訝しげに眉を寄せた。
佐助は手拭いを受け取ってぱさりと目の上に掛けて、天井を仰ぎながら言葉を続ける。ねえ、そういえばさ。小十郎は
どうしたと静かに問う。そう、問うた。
あんたは最近俺に聞かないね、と佐助は言った。

「どうして泣くのか、とか」

何かあったのか、とか。
そういうことを最初は必ず問われていた。むしろそれしか小十郎は問わなかった。それ以外は問わず、ただ黙って佐助
の涙を拭うだけであった。それが最近では、それすら問わない。
聞いて欲しいのかと呆れたように小十郎が言う。佐助は手拭いで目元を覆ったままけらけらと肩を震わせて笑って、そ
うじゃないけど些ッと気になってさあと続けようとしてふいに口を噤んだ。小十郎が不思議そうに幾度か目を瞬かせ、
覗き込んでくるのが気配で分かったけれどもそのままにしておいた。
すうと体温が下がっていく。
聞いて欲しいのか。
小十郎の声が耳の奥で幾度か繰り返される。    

                          ・・・・・・・・
聞いて欲しいのか。聞いて欲しいのか―――――――――聞いて欲しいのか?


佐助は下がった体温に耐えながら手拭いをするりと目から落とし、小十郎の顔をじいと凝視する。小十郎は平素と変わ
らぬ顔をしている。ただ急に顔を覗かれて、すこしだけ驚いたように眼を見開いている。夜色の目がそのいろをすこし
薄くする。おのれの姿が写り込んでいるのが見えた。
佐助はそして、恐ろしいことに気付く。

「あんた、嗚呼、そらぁないや」

笑いながら、手拭いを小十郎に返した。
急に腕のなかにぱさりと落とされた手拭いに小十郎が首を傾げる。
佐助は笑いながら、とうに止まった涙を拭う仕草だけして、そうしてなんでもない俺はもう帰るよと立ち上がる。そう
か、と小十郎は納得しかねるようにそれでも頷いた。佐助はそれを見てまた笑い声を立てた。
一度冷えた体の熱は、今度は顔に集まり始めたけれどもそれを見られる前に佐助はその場から消えた。おい、と呼び止
める声がすこし聞こえたが構わずに屋敷を出る。
頭の上の月の小舟は、雲に舳先を突っ込んで転覆しかけていた。


気付かれていた。


佐助は呻いて、赤くなった顔を覆う。
態と泣いていることが知られていた。
何よりまず恥ずかしかった。そんなことをするなど、それこそ童子だ。梵天丸とおんなじだ。次にぞっとした。気付か
れていたことに欠片も気付けなかった。その事実にどれだけおのれがあの男に心を許していたかということが知れて、
おのれの迂闊振りにうんざりする。
それから次に、ひどく切なくなった。

「そうまでして、ですか」

口から零れた言葉は吐息混じりになった。
情が深い。深すぎて見えぬ程だ。そうまでして、そうまでして。

そうまでして、小十郎は梵天丸の欠片を拾うのか。

見られていないことなど今更だけれども、それでもその事実はひどく切なかった。
ではきっと小十郎は知っている。佐助がおのれを恋うていることも知っている。そうしてそれでも、おのれに劣情を抱
く男を受け入れてまであの男は、泣いているかつての主の影を追わずにはいられないのだ。業が深い。いっそそれは、
佐助の悪癖より余程質が悪いようにさえ思えた。
佐助は転覆していく小舟を眺めながら、すこし泣きそうになったが泣かなかった。泣いても小十郎が居なければ頭も撫
でてもらえないのでは泣き損だ。ああでももうそんなことはないだろうねえと佐助はかなしくなった。もうないだろう。
流石に知られていてはまた小十郎のところへ行くことも躊躇われる。
あの手に頭をくしゃくしゃと撫でられることはもうないのだ。
切ないなあと佐助はつぶやいて髪を掻いた。

「ああこりゃ―――――――――思ってたよりも、切ねえや」

とぷりと月の小舟が雲に完全に沈んだ。
佐助はそれを眺めながら、また小舟が浮かんでくることを期待した。期待しながら見ていたら、夜が明けてしまった。
胸のすこし上辺りを、朝靄のようにふわりふわりと浮かんでいる切なさはそれでも何処へも行ってはくれずに、いっそ
このまま死んでしまったほうが幾らか楽なのではないかという程に鈍い圧で喉の辺りを締め付ける。
梵天丸の欠片でもまったく構わなかったのになあ、と佐助は思った。ああまったく、気付かないふりならもっと上手に
やってくれよ。直ぐに解っちまったよ。朝が東からやってくる。今日の夜に空に浮かぶのは、さっき沈んだ小舟とはち
がうものだ。佐助は目をきつく閉じた。涙は流れてはこない。今流れないで何時流れるんだよと佐助はおのれの体に呆
れ果てた。ここでおのれで流そうとするのも阿呆らしい。
死ねない上に泣けもせず、完璧に朝が来た。
まあこんなものだと佐助は息を吐いた。

































もう自ら会いに行くことはないけれども、それでも奥州に行く用事は絶えない。
大抵一月は何も無いというのに、嫌がらせのように上田に帰るとすぐにまた奥州へ行けと言われた。すこし前までなら
浮き立つその命令も、今では煩わしいものでしかない。はいはいと承知しながらも佐助はすこしだけおのれの主を怨ん
だ。無論、真田幸村はそんなことに気づきもしない。

「書状かい」
「ああ、そうだな」
「独眼竜宛てですか」
「いや」

その右眼殿だ、と言われてすこしだけ心臓が跳ねた。
へえ、と辛うじて笑う。幸村は書状を佐助に手渡した。それを懐に仕舞って、では行って参りますよと軽く笑う。
道すがら思ったのは、一体どうやってまたあの男と顔を見合わせれば良いのだということであったけれども、良く考え
なくともきっと何も考えなくて良いのだ。どうだっていいことなのだろう、小十郎にとって佐助がおのれを恋うている
かどうかなどは顔にも見せぬ程にどうでもいいことでしかない。ただ小十郎は、佐助が泣いているのが耐えられぬだけ
なのだ。どうして泣いているのか解らない、という佐助の言葉が、あんまりかつての主に似ていて耐えられぬだけだ。
駄々子のように撫でられることを乞われたら、矢張りそれも拒めぬのはおんなじ由だ。

佐助が小十郎を恋うていても、小十郎が見るのは佐助ではない。

それは特にかなしいことではなかった。
悔しいという感情はそもそも佐助のなかには無い。
態と泣くことを止せば、もう小十郎は佐助には触れない。それがすこしだけ切ないだけだった。
小十郎の屋敷は、その身分に比べればあんまりこぢんまりとしている。政宗にしてみれば望むだけの屋敷を与えてやり
たいところなのだろうけれども、小十郎が恐らくは拒むのだろう。佐助はひょいとその屋敷の屋根に乗って、しばらく
夜の空気を体のなかに溜め込んだ。米沢の夜は、きんと冷たい。それは不快ではない。
しばらくそうしていると、からりと障子の開く音がしたので佐助はすいと身を退いた。廊下を渡る足音がする。近付い
てきたかと思うと、とさりと中庭の土を踏む音がそれに続いた。顔をすこしだけ覗かせてみる。見覚えのある後ろ姿だ
った。撫でつけられた髪は解れて、纏っているのは襦袢であったけれども、小十郎だ。
佐助はすこし考えてから、屋根の上から身を落として中庭に降りた。

「やあやあ、お久しぶり―――――――――でもねえか」

へらりと笑いかける。
小十郎は特に驚かなかった。

「おまえか」
「書状をお届けに参りましたよ」
「もう些っと常識的な時間に来やがれ」
「今更何を仰いますか」

けらけらと笑って、懐の書状を小十郎に手渡す。
小十郎はそれをてのひらに収めて、それからふいと顔を上げてしげしげと佐助を覗き込んだ。夜色の目に見据えられる
と知らず背筋が伸びる。どうしたのさ、と問う声は震えてはいなかったけれども、どくどくと血液は逆流する程に鳴っ
ている。いや、と小十郎は身を退いてすこしだけ笑った。

「今日は泣かねェんだな」

ぽん、と頭にてのひらが乗る。
治ったかと問われて、佐助はええまあねえと笑ってやった。お陰様で、と言う。
そうか、と小十郎は言う。そうか、そりゃァいい。佐助はてのひらの重みにどくどくと鳴るおのれの手首の脈をもう片
方の手できつく握ってなんとか止めようとしたが、逆に更にその音は大きくなった。どくどく、どくどく。
おやさしいことだね、と佐助は言った。小十郎は佐助が態と泣いていたことを知っている筈なのに知らぬふりをまだ通
そうとしている。反吐が出る程に、おのれの主に関することでは甘い男だ。もう大丈夫だから、あんたを煩わすことも
ございませんよと笑ってやれば、すこしだけ小十郎の顔が曇った。
べつに、と言う。

「べつに、煩わしいとは思ってねェさ」
「そうかい。でもまあ、俺も餓鬼じゃねえしずうっと甘えるのも気色悪いだろう。
 第一さ、あんたが大事なのはご主人様なんだから、俺が些ッとばかし似てるからってそんな」
「ご主人様」

小十郎は不思議そうに佐助の言葉を繰り返した。
佐助は目を瞬かせて首を傾げる。

「梵天丸だよ」

小十郎の顔は変わらない。
矢張り何を言われたのかよく解らないような顔をしている。
どうして、と言う。どうしてここで政宗様が出て来るんだ。佐助は目を丸めた。え、だって、と言葉を詰まらせる。だ
ってあんたが俺をこんなふうに扱ってくれたのは、梵天丸に似てるからだろうよ。
小十郎が一気に顔をしかめた。

「おまえが梵天丸様に似ているだと」

巫山戯るな。
梵天丸様の何を知っている。
梵天丸様は賢く幼気でいじらしい、それはあいらしい若子様だった。
それをてめェに似ているなどと、どの面下げてぬかしやがる。一遍鏡でてめェの面を見てから言え。
第一貴様今“梵天丸”と呼び捨てにしやがったな。一体何様のつもりだ―――――――――

「すこしも似てねェ。何処も彼処も全くちがう」

小十郎は一口で佐助の罵詈雑言をまくし立てて、そう結んだ。
佐助は一瞬呆気に取られたけれども、その後ふるふると頭を振ってそれからええっと、と額にてのひらを押し当てて考
えた。ええっと、それはつまり。
顔をあげて首を傾げる。

「でも前に思い出すって言ってたよ」
「言ってねェよ」
「言ったね。俺様きちんと覚えてますよ」
「言ってねェ」
「言ったね」
「煩ェ野郎だ」

ぐい、と手を引かれた。
体が揺れる。無論耐えることもできたが、佐助は大人しくその揺れに従った。
小十郎の顔がひどく近くに来る。心臓が煩くなる。煩ェよ、と小十郎はまた言った。てのひらが頭に乗る。乱暴にくしゃ
くしゃと掻き混ぜられる。黙れ、と言われた。佐助は黙って頷いた。
もうほんとうに泣かんなら、それでもいいが。

「まだ泣くなら、言っておくが前に言ったことは無効になっちゃいねェぞ」

くだらんことを言って、約束を破るなと言う。
佐助は目をくるくると回す。小十郎の言うことを考える。
そうしてうんざりと息を吐いて、他を当たってくれよと言った。

「俺はもう大丈夫ですよ。あんたの梵天丸探しに付き合う気はねえよ」
「だから意味が解らねェよ」
「ああいやだいやだ」

小十郎のてのひらを払おうとする。
けれども出来なかった。あんまりそれの感触が心地よすぎる。
狡いな、と佐助は呻いた。その手を退けてくれよと言うと、小十郎はだったらてめェでやれと言う。狡いよ。佐助はま
た言った。そんなことが出来るわけねえじゃないか。
小十郎はすこし口角をあげて、大人しくしていろ、と静かに言う。

「俺がおまえさんを心配するのは、そんなに可笑しいか」

てのひらの動きは緩い。
小十郎の顔は動かない。
佐助は静かな声を聞いていたら、涙が零れてきてしまって焦った。
もう随分これの発作は起きていない筈なのに、何故だかどうにも止まらない。ぽろぽろぽろぽろ、と笑える程に涙が出
てくる。これは、と佐助は小十郎から一歩引きながら言った。これは、嘘泣きじゃあないよ。
小十郎は目を丸めてから、くつくつと笑う。

「てめェで言ってちゃ世話ァねェな」

目尻に指が添えられる。
そこをつうと涙が伝って、小十郎の手首に落ちていく。
見てらんねェなと小十郎が息を吐く。頭にまたてのひらが乗る。矢っ張り治ってねェじゃねェかと言う。まったく餓鬼
でもこんなに酷くはねェだろう。佐助はくしゃくしゃと髪を掻き混ぜるてのひらの感触があんまり心地よかったので、
ついそのまま額を小十郎の肩に押しつけた。
餓鬼だな、とつぶやく小十郎の声はひどくやさしい。

「ひどいおひとだよ」

泣きながら佐助は言った。
肩に縋り付いて、うんざりと。
小十郎は不思議そうに首を傾げる。なにが、と言う。佐助は笑った。勘違いをしそうになる。まるでほんとうにこの男
が心を砕いている対象がおのれであるかのような、そういう勘違いをしそうになる。
もうとうに全部知っている男の吐く嘘が、ひどく切なくて死にそうだった。

「梵天丸が大事なくせにさ」
「呼び捨ては止めろ」
「俺の主じゃあないですから、ああそれにしてもひどい嘘吐きだな、あんたは」
「嘘泣き野郎に言われたくねェ」

くしゃくしゃと小十郎は絶えず佐助の頭を撫でる。

「不運だったな」

佐助は笑った。
小十郎の前で泣いたのは、きっと不運だったのだ。
今更気付いたかと言うように小十郎は呆れた息を吐く。ただ、なにも言わない。あくまで言葉には出さない。出してし
まえば、それで言い逃れは立たなくなる。ひどいひとだなと佐助はまた言った。
俺があんたに惚れてるのを、そうやって利用するわけだ。

「そんなに、自分が居なけりゃどうしようもなかった頃の独眼竜にまた会いたいのかよ」

皮肉げに笑うと、小十郎にぐいと髪を引かれた。
小十郎の顔が目の前に来る。小十郎はゆっくりと首を傾げて見せて、何の話だ、とまた言った。佐助はけらけらと泣い
たまま笑って、なんでもねえよと言いながら直ぐ近くのその顔に口付けた。
小十郎は特に避けようとはしなかった。






この世でこれ以上ない位に意味のない接吻だった。
















       
 





ええっと・・・・
一応これでおしまいでも良いかと思ってるんですが、あまりにも佐助が可哀想過ぎて書き終わった今ちょっと迷い中。
もう(本当に)ちょっとだけしあわせになった佐助くんが見たい方いらっしゃったら続けます。

空天
2007/09/26

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