ため息ばかり出る。 「はあ」 激流を自力で昇るという、おまえは鯉ですかというような修行をする主を上流から見下ろしつつ、猿飛佐助は何度目に なるかわからぬため息を、また吐いた。奥州から帰って十日、伊達政宗との決闘に敗れた真田幸村は普段にも増して暑 苦しく鍛錬に励んでいる。 それはべつにいい。 (何で気づいちまったかねえ) 今更主の戦馬鹿をとがめるほど佐助は暇ではない。はあ。また息を吐く。目は閉じない。閉じると、あの夜の小十郎の 顔が浮かんできてなんともいえない感触がしてくる。思わず大声で叫んで、ごろごろと転げまわりたいようなそういう 衝動が腹の奥のほうから込み上げてきてたまらなくなる。 あんなふうに笑うあの男を見たことがない。 「・・・あれは、そう、だよな」 自意識過剰か、とも思った。 小十郎とていつもそんなに眉間に力を入れていては疲れるであろうから、時折はああやってやわらかい表情をすること もあるのだろう。それがたまたま、あの時だったというだけだ。空になった膳を小十郎が下げたあと、佐助は必死でそ う思おうとした。葉桜のことはおのれ自身がそうであったから覚えていただけで、特別に佐助の言動を記憶していたと いうわけではないのだ、と。 それが、淡い、一夜限りの期待だったことを後で佐助は知る。 「帰るのか」 幸村が起き上がって朝餉を三人前腹に放り込んだあと、小十郎はそう問うた。 幸村はお世話になったでござる、と頭を下げ、 「そう長々とお邪魔するのも申し訳ない。帰らせていただくでござる。早く帰って修行もしたいゆえ」 と、政宗に視線を送った。 上座で胡坐をかいている政宗がにいと口角をあげる。いつでもかかって来い、と煽る主を家老は視線で咎めた。昼餉は いらんのか、と問うのに幸村はひとつ頷く。 「そうか」 小十郎の返事は短い。 組まれていた腕が解かれて、右の膝に手が重ねられる。ちらり、と視線があがって佐助に向けられた。が、すぐに逸れ て幸村に向かう。次はもうすこし守りも学んでこい、と言う声はいつもどおりに無愛想で低くてよく響く。佐助は幸村 の後ろに控え、今のも気のせいに決まってる、と思い込もうとした。 それは確信するにはあまりに微かだった。 ただ無視するには佐助は聡過ぎた。 なので、声をかけられた時には情けないことに冷や汗が背中を伝った。昨夜は眠れたか、と小十郎はなんとはなしに問 うてくる。佐助は顔を引きつらせながら、まあまあですねえ、と答えた。 「お仕事の関係上、ま、熟睡とはいかねーよ」 「そうだろうな」 「なんで?」 「あァ?」 「なんで、そんなこと聞くの」 小十郎は首を傾げる。 「聞いちゃいかんか」 「いやべつに。そーじゃないけど、俺の睡眠のことなんて片倉の旦那に関係ないじゃん」 「含みのある嫌な言い方をしやがるな」 不快げに眉がひそめられる。 まァそうだがな、と言う小十郎にそうでしょう、と佐助は笑った。笑って無いことにしたいと思わなかったとは言わな い。むしろ積極的にそう思っていた。小十郎は腕を組んで佐助を眺めながら、気になっただけだ、と相も変らぬ仏頂面 で言う。 「昨夜寝る前に、急に思った」 だから聞いてみた。それだけだ。 とっとと帰れ、と吐き捨てられたので佐助は幸村を抱えてとっとと帰った。 ばさばさと鴉が翼をはためかせる。上空では風が強く、すでに春だがそれでもまだ肌寒い。寒いでござるな、と幸村が 言うのに佐助は頷いたが、実際のところ佐助の背筋を寒くさせているのは春の風のかすかな冷たさなどではなかった。 きっと鏡で見たら、今のおのれの顔は真っ青に違いない。 (洒落になんねーって・・・!) 無意識に視線で相手を追って。 相手の言動を細かく覚えていて。 嗜好が一緒だとほほえんで。 夜寝る前に相手を思い出す。 あれが恋でなくて、何だ。 ばしゃん、と水音がした。 見ると幸村が滝を昇りきって荒く息を吐いている。ぱちぱちと御座なりに拍手をして、佐助はぽいと手ぬぐいを投げつ けた。まだまだ修行が足りないとのたまう主を見ながら、佐助はふと、言葉を漏らす。 「・・・旦那」 「ん?何でござるか?」 「片倉の・・・いや」 口を噤む。 おそらくは本人も自覚していないであろうそれを、まさか幸村が知るわけもない。佐助への対応を見るに政宗も知らぬ であろう。 (無かったことにしよう) 奥州に行くことなど滅多に無い。 小十郎には妻も子もある。佐助は男に好かれて喜ぶ趣味は一切ない。周りも知らず、そもそも本人があきらかに無自覚 だ。一年も経てばこの悪い冗談も自然と無かったことになるであろう。そう思ってみると、それはとてもいい考えのよ うに思われた。そうだ、そうしよう。佐助は頷く。 「佐助?」 幸村が不思議そうに首を傾げる。 はあ、と息を吐いてから、なんでもないよと佐助は笑った。 呼び出されて、幸村の前に跪く。 まずは文通からだと思うのだ、と言う幸村に佐助は首を傾げた。 「・・・ぶんつう?」 「うむ」 「誰が」 「そなたに決まっておろう」 「・・・誰と?」 「もちろん」 にこり、と幸村は眩しいほどの笑顔を浮かべる。 いやな、予感がした。 これ以上聞いているのはあんまりよくない。そう判断した佐助は、ああ俺様ったらそういえば大将に呼ばれてたんだっ たーいやーしまったしまったそれじゃあ悪いけど退散するわ!と、逃げようとしたところをがしりと幸村に掴まれた。 主の笑顔はきらきらと、春の日差しよりもやわらかく輝いている。 「もちろん、片倉殿とでござるよ!」 「なんでだァアアアアア!!!」 ぴらり、と幸村が和紙を取り出す。 ふわりと微かに香がかおった。 「佐助」 主の笑顔が眩しい。 いつもなら佐助はその笑顔がだいすきだ。が、今はできるならその顔の真ん中に蹴りを食らわせてやりたかった。なに 言ってんの。なに言ってんのこのひと。 「其、知ってるでござるよ」 言葉も出ない。 ぱくぱくと魚のように口を動かす佐助を後目に、幸村はぽ、とほおを染めながら言う。 「佐助は」 「・・・俺が、なに」 「片倉殿を慕っておるのであろう?」 「・・・はいぃいいいい?」 「隠さずともよい!」 「隠してねえよ!」 「其、男同士だからといって偏見などござらん。それに片倉殿は其から見ても素晴らしい武士。 佐助が惚れるのも無理はござらんよ」 「だから惚れてねェエエエ!」 惚れてんのはあっちだし! 思わず口から出かけた言葉を寸前で飲み込む。幸村は照れるな!と笑っている。どうしてこの主はこう呆けているのだ ろう。呆けているなら呆けているで構わないが、それならこういうおかしな気を回さないで欲しい、と佐助は切に思う。 香の焚きしめてある、あきらかに恋文用の和紙を佐助はぐしゃりと手元で握りしめた。 「出・す・か!」 「ああっ、其の文が!」 「御館様にでも出しとけ!」 和紙を放って、屋根裏に戻る。 一度あのぽわぽわしている頭を鈍器かなにかで殴っておいたほうがいいやもしれぬ。そうしたらちょっとは悪い頭も良 くなるだろう。ああそれにしてもなんというおぞましい誤解であろうか。 (俺が、片倉の旦那を、すきだって?) ありえねぇ。 あの強面の家老に――口に出すのも恐ろしいが――惚れられているというだけで佐助にしてみればいい迷惑だというの に。このうえそんな不名誉な誤解をされては一生の恥である。惚れてたまるかあんな怖い顔。屋根裏で佐助ははあ、と 息を吐きかけて、それを飲み込んだ。たぶんあの主が誤解をしたのはこのため息のせいだろう。 そういえば、佐助は最近小十郎のことばかり考えて、その度にこうやってため息をついてばかりいる気がする。 (これじゃぁ、まるで俺が惚れてるみてーじゃねーかよ) 屋根裏の蜘蛛の巣を、乱暴に指で払う。 とんだ災難だ。惚れるなら相手を選んでくれ。また性懲りもなく頭のなかに浮かんでこようとする伊達家の家老を、佐 助はぶんぶんと頭を振って追い出した。やめてよ、とちいさく呟く。あの切れ長の目でじい、と見つめてられた感触が 生々しく蘇ってきて顔が熱くなった。 「・・・勘弁しろよな」 うんざりと、佐助はまた息を吐いた。 気持ちを乱されるのはすきじゃない。小十郎のあの目がいやだ。黒すぎて深すぎて、居たたまれなくなる。まあ。佐助 はふう、と息を吐いて首を振った。あれだけ言えば幸村もまさか佐助が小十郎に懸想しているとはもはや思うまい。ま た文通しろなどと言って和紙を渡されたら、今度はびりびりに引き裂いてやろう。 兎に角佐助は決めたのだ。 もうあと一年は、片倉小十郎と顔は合わすまい、と。 (それでなんでこうなるかな!) 叫んでやりたかった。 目の前のなにか棒切れでも突っ込んでいるのかというくらいにぴんと背筋を伸ばして書状を読む小十郎を見ながら、佐 助はぐぐっとその衝動を堪える。真田幸村め。胸のうちで吐き捨てた。真剣に転職先を見つけようかと思うくらいに、 あのきらきらした笑顔が憎らしい。 (え、なにこれ。いじめ?) 和紙を突っ返してから約一刻後。 ふたたび幸村に呼ばれた佐助は、書状を渡された。表になにも書かれていない、まっさらな書状であった。何処宛、と 問うと幸村はさらりと、 「片倉殿でござる」 とのたまう。 その瞬間に佐助はその書状を破り捨てたくなったが、げに悲しきは雇われの身である。主が笑顔で行けと言えば行くほ かない。幸村の勘違いがおのれが帰ってくるまでに終わっていることを祈りつつ、佐助は泣く泣く奥州へと向かい、で きれば他の家臣にでも渡して帰ってしまおうと目論んでいたところ、 「武田のしのびが何の用だ」 ちゃきり、と。 植込みのあたりに身を隠していたら背後から当の片倉小十郎に刀を向けられて、用件を言わざるをえず、渡した後は返 事を書くまで待てと言われれば待つほかなく、もう日も暮れた広い小十郎の座敷で佐助は正座をして途方に暮れること となった。 書状を読み終えた小十郎は、すこしだけ眉を寄せて首を傾げている。 (何が書いてあるんだか) もちろん佐助の立場でそのようなことを問うことが許されるわけもなく、ただ黙って待つことしかできない。書状の中 身はまとものものであろう。と。 佐助はせめてそうであることを願った。 「・・・これは」 ぽつり、と小十郎が声を漏らす。 「てめェの主は、何かえらい勘違いをしてやいねェか」 「・・・勘違い?」 本日二度目のいやな予感がした。 勘違いって何のこと、と問うと、小十郎は黙って書状を佐助のほうへ放り投げた。 拾い上げて読んでみる。 「・・・ええっとー・・・・・。 『其が影猿飛佐助貴殿を慕い申し上げ候。 ゆえに貴殿が心情許されば、文の遣り取りなどさせ給へればこれ有難き由也と』・・・」 とても最後までは読めなかった。 おそらくは真っ青になっているであろう佐助の顔を見て、小十郎は静かに落ち着け、と言う。落ち着いてられるかっ、 と書状を畳に投げつけると、小十郎が苦い笑みを浮かべた。 「おまえも苦労するな」 と、言われて佐助の顔が引きつった。半分はあんたのせいだけどね!と言ってやりたいと思ったけれど、言ってもおそ らく小十郎は何のことだかわかるまい。大体実際に会ってみるといきなり刀は向けられるわこんな書状を見せても無反 応だわで、まるで佐助の独り相撲のようだ。 「何でこんな勘違いしやがったんだかな、おまえの主殿もよ」 平然とそんなことを言う。 惚れてるなら惚れてるで、もうちょっと反応しろよなと佐助は理不尽なことを思った。わかりにくすぎる。つーかあん たのせいでうちのご主人さまは誤解してんだよ。ぶつぶつとつぶやく佐助に、小十郎は首を傾げた。 ふわり、と開いた障子から風が吹き込んでくる。 花弁がひとひら、ふたひら、畳の上にこぼれ落ちた。 「もう桜も終りか」 ふいに小十郎がそう言う。 それからすこし笑って、いい主だな、と言う。佐助は思い切り嫌そうな顔を浮かべた。 どこが、と吐き捨てる。 「勘違いにも程があるっつーの」 「勘違いだろうが何だろうが、家臣のためにここまでやる阿呆はなかなか居ねェさ。 それだけてめェが大事なんだろうよ」 「・・・そりゃーまー」 きもちは有難いけどさ、とほおを掻いた。 よかったじゃねぇか、と小十郎はくるりと後ろを向いて、文机に向かう。返事を書いているのであろう。墨のにおいが 佐助の鼻先をくすぐった。 さらさらと筆が紙のうえを走る音を聞きながら、佐助は髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。小十郎の言葉に――幸村が佐 助を大事にしているというそれに――柄にもなく喜びを感じているおのれが、ひどく恥ずかしかった。佐助はおのれの 主がとても大事で、それに見返りだとかそういうものは一切求めては居ない。求めようと思うことすらない。それでも、 大事に思って、思い返されてうれしくないわけがないのだ。 にこにこ笑っている幸村の顔を思い出したら、ほおが緩んだ。 その気配に小十郎も微かに笑って、振り返らずに言う。 「随分とご機嫌だな」 「・・・そぉ?」 「見なくとも、腑抜けた面してんのが丸わかりだ」 「随分な言い様だなあ」 「いいんじゃねェか」 くるりと振り返って、書状を投げ渡される。 ぴんと伸びたその背中のように真っ直ぐな字だった。 「腑抜けにもなるだろう。てめェの主にそれだけ想われれば」 「・・・いがーい」 「なにがだ」 「あんたがそんなこと言うなんてさ」 「俺だってべつに石で出来てるわけじゃねェぞ」 「じゃあ、あんたも独眼竜にあんなに慕われてんだから、さぞかし腑抜けてンだろうね」 伊達政宗の、その右眼に対する執着は有名だ。 戯けてそう言うと、小十郎の眉が寄った。 「うるせェしのびだ」 仏頂面をさらす小十郎がおかしくて、佐助は声をたてて笑った。 畳にこぼれ落ちている桜の花弁を拾い上げて、月明かりに透かした。薄紅色の花弁が、青いほどに透明なしろいひかり に照らされてしらじらと浮かび上がる。今夜はどうするんだ、と問われて佐助は腰を上げた。 書状をぺらぺらと振りながら笑う。 「お目当てはもらったしね。帰りますよ」 「こんな刻にか」 「むしろこっからが俺様の時間ってね。ほんじゃまぁ、お邪魔したわ」 「そうか」 切れ長の目が、見上げてくる。 胸の奥のほうがざわめいた。佐助は困ったように笑う。 (たのしかったから、わすれてた) 小十郎はあんまり普段通りだ。 それでもあの目で見られると、思い出す。 この男は、佐助のことがすきなのだ。 何か言うべき言葉を探しているように小十郎の口がうすく開き、それから閉じられた。迷うように目が宙を彷徨ったが、 すいと伏せられて結局閉じられる。主殿にもうちっと落ち着いて物事を見ろと言っておけ、と小十郎が言うので佐助は 殊更に大きく笑い声をたてて、ご高説承りました、とひょいと頭を下げた。 開いた障子から腕を差し伸べる。視線を感じた。 振り返ると、柱に背中を預けた小十郎が、じいと佐助を眺めている。 (なんでこのひと、俺なんかに惚れてんだろ) 着流しを纏って、腕を組んですこし首を傾げている小十郎はひどく男前だ。 それこそ幸村の言うように、男から見ても羨望を向けるほかないようなそういう男だ。今日、はじめてと言っていいく らいに長い時間を小十郎と過ごして、見目だけでなくその内面も面白い男なのだと思った。敵国のしのびに対しても、 一切の卑しむ視線も向けず、対等に話して疑問に思うこともしない。 おのれの主に対する思慕が強すぎるきらいはあるが、それでも佐助の主のことを思って、笑んだりもする。 俺のことなんかすきにならなくてもいいのにな、と佐助は思う。 鴉の背を撫でて、それじゃあね、と言う。 小十郎はそのままの体勢で、ああ、と頷く。 それでも動かぬ視線に、佐助は喉の奥がからからと乾くような感触がした。鴉の足を掴んで、ふわりと浮かび上がる。 ある程度まで浮かび上がってから、すこしだけ先まで居た座敷を見下ろしてみた。小十郎がまだそこに居るかどうかは よく見えなかったけれど、居るだろうなあ、と半ば確信しながら佐助は息を吐く。 小十郎がおのれに恋などしてなければよかったのに、と思った。 風が異様に強くて、なかなか前に進めない。 月は三日月で、これから満ちるのか欠けるのか、すこしだけ考えたがすぐに止めた。 次 |