教授がここ二三週間なにかやっているな、ということは猿飛佐助にも解っていた。 ただそれを追求する気にはいまひとつなれない。おっかしいなあ、と佐助は髪を掻いて首を傾げる。おっかしいなあ、こ んなんやるひとじゃあなかったんだけど。 佐助がこの研究室を選んだ理由は教授が堅実、というのが一番大きかった。 堅実というのはおかしいかもしれない。もうすこし正しい表現を探すならば、確実、というほうが適切だ。理系の研究者 にありがちな探求心と好奇心による横道への蛇行というのが笑えるほどにここの教授にはない。「ねえ、それってたのし いの」といっそ聞いてしまいたくなるほどにない。 佐助にしてみれば都合がいい。たのしい研究はそれ相応の地位を得てから自分ですればいいのであって、今大切なのは就 職率のやたらといいこの大学の研究室でヘマをしないように博士号までをもらうことだ。その為には趣味ばかり優先させ て学会でそんなに評価されない天才よりも確実に学会誌に載るような秀才タイプの教授の下に居たほうがいい。そう思っ てこの研究室に入った。 教授の名前は毛利元就という。 細長い一重の瞼がいかにも鋭利で、細面の顔は黙っていれば男雛のように見える。口を開くと初見の人間は大体泣く。お そろしく遠慮と配慮と思いやりに欠ける発言は、慣れてくるとそんなに気にならない。佐助はすぐに慣れてしまった。新 入りの院生は十人入ると二人残って良い方なのだそうだ。なるほど、佐助の代でも佐助を含めて二人しか研究室には残っ ていない。 「ねえねえ」 佐助はデスクに顔をつけて、横のそのもうひとりに話しかけた。 ノートパソコンのキィボードをかたかたと打ちながらそのもうひとり―――片倉小十郎は、ひどく面倒そうになんだ、と 答える。佐助はその体勢のまま、最近教授おかしくね、と小十郎を見上げた。 小十郎の指がすこしの間止まる。それからまた動き出した。かたかた。 「なにか作ってるな」 「おかしくね、あれ、絶対俺等の専門外のモノだろ」 「だろうな」 「毛利先生ってさ、そういうのすっごいきらいなおひとじゃなかったかね」 「最近おかしな宗教に嵌っているらしいからな」 それ関係じゃないか。 小十郎はかたん、とエンタァキイを押してぎしりと回転椅子の背もたれにもたれる。縁のない眼鏡を取って、ほう、と息 を吐いている同輩を眺めながら、佐助は眉を寄せて勘弁してほしいよなぁ、とこちらも息を吐いた。そういうのがいやで この研究室に入ったのに、本末転倒だ。 眼鏡を取った小十郎は、まァこっちに被害が及ばんなら何でもすりゃァいい、と言う。 佐助はすこし考えてから、まあねえ、と言った。 まあねえ。 「こっちに来ないンなら、たしかにどうでもいいか」 そう思った。 それはべつに間違った認識ではなかった。 被害がこちらに来ないなら、たしかにそれはどうでもいいことだったのだ。 チョコレェト パニック ところで被害は当然のようにふたりの上に降ってきた。 四日後、佐助と小十郎は元就に呼ばれて実験室に行った。元就は珍しくほおに笑み―――ひとを小馬鹿にしていたとして も笑みは笑みだ―――を貼り付けながら、遅いわ、とやはりそれでもふたりを罵倒した。佐助も小十郎もなにも言わない。 慣れている。 薬品臭い室内のなかで、佐助はふと眉をひそめた。 「なんか―――甘い、においが」 「ふん、ようやっと気付きおったか」 「チョコ、か」 小十郎がつぶやく。 元就はそうだ、と言った。 「これを見るがいい」 元就の手元には銀色のケースがある。 お菓子を作るときに使う型のようなものに見えた。元就の細い指が取っ手にかかり、かぱりと蓋が開く。かすかに室内に ただよっていた甘いにおいが一気にふわりと浮かび上がった。甘いものが苦手な佐助はなんとなく一歩下がった。 それでもケースの中身は見える。 「――――――はァ?」 佐助と小十郎の声が重なった。 思わず佐助は小十郎の顔を見た。思い切りしかめられた小十郎の顔に、ああ俺の見ているものは見間違えとかじゃあない んだな、と確認する。それから教授の顔を見た。 なんすかこれ。そう聞くと、これだから愚民は、と元就は鼻で笑う。 「我がここ二週間、何かをしていたということにすら気付かんのか」 「いや、それは知ってましたけどね。でもこれがなにかは解んねえですよ、正直」 「そんなこと誰が望んだ。所詮駒に我の意が汲める筈がない」 「はいはい、わかりましたーっと」 佐助は手を振って元就の延々と続きそうな罵詈雑言を遮る。 横から小十郎が、で、と言った。で、これは何ですか。 ふん、と元就がまた鼻を鳴らす。この形見て解らんのか、貴様らは。そう言われて佐助は目を細めてじい、と銀色のケー スの中身を凝視した。しばらく眺めていたら、そのフォルムが急に変形することも事と次第によってはなくもないと思っ たのだ。が、当然のようにそんなことはなかった。 佐助はしばらく迷った後、 「ハートに見えるンですけど」 と素直に言った。 元就は満足げに頷き、今度は小十郎に視線をやる。小十郎はすこし黙ってから、 「ハートのチョコに見えますが」 と言う。やはり満足げに元就は頷いた。 貴様らにしては上出来だ、と言ってから、元就はそのチョコレェト―――しかもピンク―――を指で掴んで、うっとりと 眺める。佐助はその表情に一歩退いた。小十郎は隣で平然としている。この同輩は心臓が鉄なのでいろいろなことに物凄 く鈍感なのだ。 元就はぱきりとそのハートのチョコレェトを二つに割り、 「食べてみろ」 とずいと佐助と小十郎に差し出した。 佐助は眉を寄せる。 「いやです」 「なんだと、駒のくせに」 「意味がわかンないから。つーかこれなに?」 「得体の知れんものを食う気にはなれんな」 小十郎も腕を組んで言う。 珍しく意見が合った。佐助はひょいと眉をあげて、にいと笑って肩に手を置く。ねえ、と首を傾げながら笑いかけるとす るりと肩にかけた手を下ろされた。触るな暑い鬱陶しい。視線も向けられない。佐助はこっそりと舌打ちをして、それで そりゃぁなんなんですかい、と元就に聞く。 「見て解らないか」 「解らないから聞いてンですけど」 「惚れ薬だ」 「―――はあ」 佐助はほうけた声を出した。 元就はまったく気にしていない。 「ある御方から愛の薬を作れと頼まれてな、手慰みで作ってみたがなかなか難儀した。 が、我に掛かれば出来ぬという道理もない。あとは」 細い眼がこちらをちらりと見る。 人間実験が残るのみだ、と言う声は今まで聞いたことがないくらいに、やさしげだった。安堵せよ、単位は出してやる就 職先も保障しよう。 「生きていたら」 「そこが一番大事だろォがッてゆーか死ぬのかっ」 「大丈夫だ。マウスは五匹に三匹は生き残った」 「40%は死ぬンじゃねえかよっ。そんな危険なもん食えるわけねえでしょうっ」 「これだから凡人は困る。 これがどれだけ偉大な研究か理解をしようとしない」 「――――――研究」 ぽつりと小十郎がつぶやく。 佐助はうげえ、と顔を歪めた。 小十郎は普段は大人で冷静だけれども、こと研究のことになるとひとが変わる。この研究室を選んだのは佐助とおなじ理 由らしいが、それでもたまの休日に他の研究室のヘルプに行くほどに研究馬鹿だ。べつに勝手にそういうことをしている 分には佐助に実害はないので放っておいても構わない。 しかしあきらかに今の状況はまずい。佐助に実害が出そうな気配が物凄くする。 かたくらさん。佐助は恐る恐る声をかけた。 「まさか――――――」 「食いましょう」 よく通るいい声で小十郎は言った。 「しょうがねェだろう。研究の為だ」 「うむ。それでこそ我が研究生」 「えええええええええ」 「うるせェ猿飛。吼えるな」 小十郎は佐助を罵倒しながら元就の指に挟まったチョコの欠片を受け取る。 それから佐助にひたりとその黒い目の焦点を合わせた。 「なにをしている。早く食え」 佐助はひくりと口元を歪めた。 細長い四つの目は、どうしたって逃がせてはくれそうもなかった。 しかしな、と小十郎は手を口元にやって眉をひそめる。 「発情した猿飛に襲われたら責任は誰が取る」 「我は関係ない。それは猿飛の責任だ」 「そうは言っても、その薬は教授が作ったわけだろう」 「知らん。強制しているわけではないのだから、飲んだ以上は自己責任に決まっておろう。 よしんばそこの発情期真っ盛りの若造が貴様に襲いかかったところでそれは我の管轄外だ」 「まァそれも道理だな」 小十郎はほう、と息を吐く。 それからくるりと向きを変え、佐助に襲うなよ、と吐き捨てた。 「――――――襲うかァアアアアア!!」 だん、とデスクを叩く。 デスクの上のファイルが振動で揺れた。 小十郎も元就もまったく動じていない。まァ襲われたとしてもそんな生っ白いのに負ける気はせんので平気でしょう、と小 十郎は言う。そうだな、抵抗してくれ襲われたとしても、と元就が言う。佐助は言い返す気力も無くしてがくりとデスクに 寄りかかり、それでも最後の気力を振り絞って、 「俺様は男襲う程不自由してません」 と言った。 小十郎もひょいと肩を上げる。 「俺も餓鬼に興味はねェ」 「俺だっておっさんに興味はねえよ」 「うむ。意見が一致したところで」 飲め。 元就が珍しくにこりと笑って言う。 佐助はああいいですよ飲んでやろうじゃねえかよと言ってからはた、と。これは教授の思う壺ではないかと気付いた。恐ろ しい。手渡されたチョコレェトの欠片をじいと佐助は凝視して、それから息を吐いた。しょうがない。毒食わば皿までとい うやつだ。大体なにか間違いがあるという前提がおかしい。相手は片倉小十郎だぜ、と佐助はこっそり胸のなかでつぶやい た。間違い。そんなもんあってたまるかってたんだ。 ちらりと横の小十郎を見る。既に小十郎は口を開いてチョコレェトを含んでいた。 チョコより尚濃い色の目が笑みに歪む。 「怖じ気づいてんのか」 「―――ッ、じょーだんきついねえ」 ぱくりとチョコを口に放り込む。 手渡されたグラスの水でそれを飲み込む。 こくん、と喉が鳴る音が響き、 世界が揺れた。 「――――――おや」 副作用アリ、か。 淡々とした元就の声が聞こえる。 それから天井が見えた。がしゃん、とグラスが割れる音がふたつ聞こえ、そして佐助の視界が暗くなった。 頭の中身がシェイカーで振られているような気がした。 大変だ、と佐助はぼんやりと思った。大変だ。これじゃ俺様の海馬と前頭葉が一緒くたになっちゃうじゃん。ふわりと意 識が下のほうから浮かんできて、佐助はそれを両手を伸ばして掴み取る。くいくいと引き寄せて、ようやくそれを自分の なかに押し込んだ。 目を開く。 天井が見えた。 「ぅああ―――気分さいあく」 むくりと体を起こして呻く。 目を瞬かせて、それから辺りを見回す。 背後に大きな固まりが見えた。 なんだろう、と佐助は振り返る。 白衣と、黒い髪と、それから長い足が投げ出されているのが見えた。ああ片倉さんかお互い災難だよなぁ――――――と 佐助は細めた目で倒れた小十郎を眺めた。体をずらして、起きているのかどうかを確認しようと顔を覗き込み、 「―――ッ」 がたん、と立ち上がる。 小十郎がちいさく呻いた。佐助はその呻き声に更にひくりと体を震わせる。 とくとくと心臓がやたらに煩い。佐助はそれを抑えようと手を左胸に当て、深く息を吐いた。ひどく体が熱い。耳のあた りが燃えるようで、火でもついているのではないかと思う。 佐助は目をきつく閉じて、それからまた開く。小十郎の顔を見た。小十郎は目を閉じている。気絶したまま、意識は戻っ ていないようだった。すうすう、とちいさな寝息が薄い唇からこぼれていて、普段寄せられている眉間のしわは眠ってい てもやはり刻まれたままだった。佐助はそれをじいと確認し、それからちいさく笑う。 「気の――――――せいだよね」 ありえない。 なんとなくさっき見たとき、ひどく小十郎が男前に見えて――――――それは認めるのは癪だが事実だが――――――そ の男前だという事実がなぜか佐助の心臓を物凄い勢いで叩きつけた。ないない。佐助は空笑いをしながら頭を振った。そ のせいでまた頭がシェイクされて口から脳みそが出てきそうになる。 「どうだ、気分は」 「――――――良く見えますか」 「ふむ」 後ろに居たらしい元就が興味深げに頷く。 佐助は口元を抑えながらふらふらと立ち上がり、デスクに肘を突いた。元就がそれを覗き込んで、それでどうだ効果の程 は、と聞く。佐助はひくりと口元を歪めた。小十郎が後ろでもぞもぞと寝返りを打っている。佐助はそれを見ないように して、残念でしたねえ、と元就を睨み付けた。 「なーんにもありませんよ―――っぅわあっ」 ぐい、と肩が後ろに引っ張られる。 体が軸を失って、ふわりと浮いてそれから腰が床に叩きつけられる。 あわてて後ろを振り返ると、虚ろな目の小十郎が首に腕を巻き付けていた。 「ちょ、片倉さんっ、あんた何を――――――」 佐助は言葉を最後まで繋げることができなかった。 後ろで元就が、これは上々、と言うのが聞こえた。ひどく嬉しそうな声だった。佐助はそれを聞いてふざけんなと思うこ とはなかった。それどころではなかったのだ。 ちゅ、と小十郎の唇が自分のそれに重なっている。 佐助は一瞬固まった。 小十郎は目を閉じて唇を押し当てている。 ようやく意識を取り戻した佐助は小十郎の肩を掴んで、ぐい、と引き離した。 「か、片倉さん、あんたなァアアッ」 がくがくと小十郎を揺さぶる。 切れ長の目がゆるゆると開いた。肩を揺さぶるのを止めてその目を睨み付ける。するとそれがまた近くなってまた唇が重 なった。二度目のそれに佐助は口の中で悲鳴をあげる。 必死でそれを引き離して佐助は視線を元就に向けた。 「教授っ、見てねえで助けてくださいよっ」 「きいているな。まぁ当然だが」 うれしそうに元就は言う。 その間にも腰に小十郎がくっついている。ぎゃあああ、と佐助は悲鳴をあげた。 必死でそのがっしりとした腕から抜け出して、研究室の端まで逃げる。肩で息をしながらおそるおそる振り返ると、小十 郎はデスクに背をもたれさせて座り込んでいた。目は閉じられている。また眠っているように見えた。 が、ちいさな呻き声があがる。 がたがたと心臓が揺れた。 「――――――ッ」 黒い目が開かれる。 その視線がひたりと自分に向かう前に、佐助は一目散に逃げ出した。 「なにを逃げ出しておるか、駒め」 「駒でも独楽でも構いませんけどねえ。ちょっと放してッ、俺帰るッ」 研究室を飛び出して、そのまま大学からも逃走しようとしたら元就に腕を掴まれた。 「つうか実験失敗ですぜ。俺なぁんともねえですよ」 「そんな筈はない。片倉にはあんなにきいているではないか」 なにかないのか。 元就がじいと覗き込んでくる。佐助は視線を逸らした。 なにか。なにかあるに決まってるじゃないか。額に手の甲を当てて、汗を拭う。さっきから暑くてたまらない。寒いく らいの冷房の入った室内でこんなに汗をかくなんて尋常ではない。佐助はそれでも笑って、なんでもないですよ帰らせ てください、と言った。 元就は一切佐助の言葉を気にせずに、ずるずると研究室のドアの前まで佐助を引きずる。 「そう怯まずともいいだろう」 片倉が裸になっているわけでもあるまい。 佐助はうげえええ、と顔を歪めた。あんな男の裸なんて願い下げだ。 そんなもん見てたまりますか、と言いながら佐助はがらりとドアを開いた。 そして固まった。 「あァ――――――すまなんだな」 なってたな、裸。 憎らしいほどに淡々とした声で元就が言う。 小十郎はさっき居た場所で白衣を脱いでついでにワイシャツの前を寛げていた。 佐助はずんずんと進んで小十郎の手を掴む。 ぼんやりした目が見上げてくる。佐助はそれから視線をそらしながら言った。 「―――頭ぶん殴って眠らせましょう。そうじゃなけりゃどっかに縄でくくりましょう」 「何故」 「何故じゃないでしょうにッ。あんた研究室が濡れ場になってもいいのかよ」 「それは御免だ。貴様らのそんなもの、目が腐るわ」 ああそうですか、と佐助が目を細めていたらこてんと胸になにかが乗っかってきた。 またかっ、と体を強ばらせる。が、小十郎は抱きついてきたわけではなく倒れ込んできたようだった。そのままずる ずると体が落ちていく。佐助はあわててそれを抱き留めて、眉を寄せる。 「ちょっと――――――」 あっついンだけど。 小十郎の体は燃えるように熱かった。 次 |