指輪と形式美と製菓業界の商業主義 朝起きてテレビを点けると芸能人が離婚会見をやっていた。性格の不一致と、子供が居ない ことでふたりの心が離れていってしまったことが原因であるとそこそこ有名な俳優と佐助に はまったく見覚えのない女優が―――元アイドルらしい―――シャッターの光を浴びながら 説明していた。性格の不一致。性格が一致するってどういうことなんだろう、と佐助は逆に 思った。言葉通りに捉えればお互いの性格が同一であるということになるが、そんなことは 結婚する前に解りそうなものだ。子供が居なくて心が離れるくらいなら、最初から結婚しな けりゃあいいのになあ、と佐助はクッキーを囓りながらひとりテレビにつぶやく。 平日の昼間、もちろん家に旦那は居ないのでひとりごとは宙に消えていく。 まあ、と佐助は続けてつぶやいた。まあ、解ンないけど、ひとさまのことは。 クッキーの入っていたパックを輪ゴムでくくり、リビングのテーブルの上にあるバスケット に放り込む。ソファから立ち上がってうんとひとつ伸びをしてからテレビの電源を消した。 そろそろ洗濯物を取り入れる時間だ。窓から差し込むひかりは蜜柑を絞ってそれを洗い立て のシーツにぶちまけたような、透明なオレンジ色をしている。 佐助はあいまいなそのひかりに目を細めながら、旦那のボクサーパンツを取り込む。旦那が 家で洗濯するものはそれしかない。他の物はすべてクリーニングに出してしまう。一緒に暮 らし始めてからすぐの頃、佐助が何もかもを一緒に洗濯して、小十郎のブランド物のセータ ーを駄目にしてしまってから旦那は何も言わずに洗濯物をクリーニングに出すようになった。 こういう嫁の失敗に関して、旦那は何も咎めない。普通ならそれに苛立つかもしれないが、 佐助は小十郎のこういうところが気に入って結婚したのでありがたいと思うくらいで他には 何も感じない。性格が一致しないことは最初から解りきっての結婚だったのだから、今更そ んなことで苛立っているのはいかにも馬鹿馬鹿しい。 相手もそう思っている―――と佐助は思っている―――ので、まったく自分たちの結婚は実 に合理的だ。佐助は満足げに頷いて自分のジーンズやらパーカーやらを取り込む。子供がで きないことも最初から解りきっている。ふたりとも男なのだから。 うんうん、世間って馬鹿だよなあ。佐助はシーツをベランダの柵から引き上げながら思った。 もっと結婚って合理的なものであるべきじゃないの、なんたって一生の事なんだし、つまる ところそれって、人生における一種の契約事項なんだからさ。 「変になんか夢見るからおかしくなっちゃうんだと思わない?」 「帰って早々おまえは何を言い出すんだ」 「いやいや、今日テレビで離婚会見やってたから」 「ふうん―――それで、」 「ごはんは出来てないよ」 「知ってる」 会社から帰ってきた旦那を風呂に押し込んでから急いで夕食をしあげ、テーブルに並べなが ら佐助はテレビを点けた。またニュースで離婚会見の模様が繰り返し放送されている。一体 テレビというのは、何回同じ事を繰り返し放映するんだろう? 出来たての焼き芋のようにほっくりとあったまった小十郎が、リビングへ入ってくる。タオ ルで髪を拭きながら、旦那は嫁の見ているテレビ番組に露骨に顔をしかめた。 「また見てるのか。くだらねェ」 「いや、あえて見ようと思ったわけじゃないんだけど。点けたら偶然これだったから」 「飯時にこんなもの点けるもんじゃねェよ」 旦那は不機嫌そうにテーブルに着く。佐助は肩を竦めてテレビの電源を切った。 「ごめんなさいって。怒らないでよ」 「怒ってねェよ」 「あんたってどこに怒るツボがあるかいまひとつ謎だよな」 「だから怒ってねェっつってんだろうが」 「はいはい」 手をひらひらと揺らしながら佐助も席に着く。小十郎はまだ仏頂面をしている。うん、と佐 助は首を傾げながら旦那の顔を眺め、ああ、とさっきまでの考えを変えた。これはべつに不 機嫌なわけではないのだ。単なる疲れた顔なのだ。 そのあたりの見極めが、まだ嫁にはいまひとつ解らない。 「ごめんね」 佐助は味噌汁をすすりながら謝った。 小十郎は片眉を持ち上げて、なにが、と言う。 「いや、顔が怖いから思わず怒ったのかと」 「こりゃ元々の顔だ」 「うん、そうなんだけど。どこからが元々怖くてどこからが俺のせいで怖くなったのかって 結構難しいンだよね。ラインの見極めが」 「おい」 「なあに」 「おまえ、俺を怒らせたくてさっきから喋ってんのか?」 「まさか」 佐助は目を丸めた。 「どうしてそんなこと俺様がしなけりゃならないの?」 「おまえの言うことは冗談と本気の区別がつかねェんだよ」 「はあ」 佐助はさくりとトンカツにナイフを差し込みながら息を吐いた。旦那はトンカツに醤油をか けている。佐助は思わず声をあげてしまった。 「醤油?」 「なんだ」 「あんた、トンカツに醤油かけんの?」 「悪いか」 「悪かないけど、変わってるって言われない?」 「別に」 「へえ、ふうん、はあ」 「間抜けた声出してんじゃねェよ」 「はあ、ごめんね―――いやでも、へえ」 小十郎の顔が本格的に不機嫌なほうへ移行してきたので、佐助は口をつぐんだ。 黙ってトンカツを切り分ける。醤油の匂いが正面の旦那の皿から漂ってくる。佐助は改めて 醤油のかかった小十郎のトンカツを見た。香ばしいパン粉の匂いと醤油の匂いが絡み合って いる。小十郎は佐助の使い終わったナイフとフォークをひょいと持ち上げて自分のトンカツ をきれいに切り分けている。さくりと音がする。肉汁がしみ出て、醤油と混じって茶色くに ごる。佐助はじいとそれを眺めた。小十郎が息を吐いた。 「物欲しげな顔で見るな。野良犬でもあるまいに」 ほら、と箸でトンカツを一切れ持ち上げ、旦那は嫁の口の前に醤油のかかったそれを差し出 した。嫁はそれを一口で収める。もぐもぐと咀嚼している間にソースのかかった嫁のトンカ ツを旦那はひょいと取り上げてこちらも口に放り込む。 佐助はこくんとトンカツを飲み込んで、おお、と声を上げた。 「美味い」 「だろう」 「もう一切れちょうだい」 「調子乗ってんじゃねェ、阿呆」 「ケチ」 佐助は唇を尖らせて、けれども直後にへらりと笑って「新鮮」とつぶやいた。 「やっぱり新婚って、いいよね。新鮮で」 「新婚の良さがトンカツに現れるとは知らなかった」 「いいじゃない。何にせよ。トンカツにさえ新婚の良さが現れると思うべきじゃない?」 「ポジティブな意見だな。無意味に」 「前向きなのっていいことだよ。何にせよ」 「自画自賛か」 「いやだな、単なる一般論ですよ」 佐助はけらけらと笑った。小十郎は肩を竦めた。 「新婚って」と佐助は続けた。「いつぐらいまでを言うんだろうね?」 「さっきの離婚会見に話を戻すんだけど」 「戻すのか」 「戻すよ。あのねえ、新婚だったんだ。その夫婦。ああ、離婚したから元夫婦だけど。それ でさ、性格の不一致なんだって。離婚原因がね。でもさ、よくよく考えるとだよ。性格が 一致するっていうのは一体全体どういった状態のことを言うのかってのがそもそもよく解 ンねえことないですか。基本的にお互いの性格って不一致なもんだと思うんだけど」 「猿飛」 「はいはい」 「飯時に喋るな」 ぴしゃりと旦那は短く断じた。 嫁はすこし黙ってから、ごめんなさい、と言って頭を下げた。 今度の旦那の仏頂面は、多分怒っているときの仏頂面だろうという気がなんとなくしたのだ。 佐助と小十郎が結婚してからちょうど二ヶ月経つ。 見合い結婚だけれども、それなりに佐助は自分の旦那に満足している。なかなか悪くない。 「怖いのが玉に傷だけど」 「口に出てるぞ、阿呆」 「おや失敬。ついつい」 食後に食器を洗ってひとりごとをつぶやいていたら、ビールを取りにキッチンに入ってきた 旦那に頭を殴られた。旦那はビールとグラスを持ってキッチンを出て行く。洗い物を終えた 佐助もそれに続いた。グラスはふたつ、きちんとテーブルに置いてある。 「で」 「はあ」 旦那が嫁のグラスにビールを注ぎながら急にそう言う。 「で」と言われても、なかなかその後の話題の内容を特定することができる人間は居ないん じゃないだろうか。すくなくとも佐助には無理だった。 「なに?」 「だから、さっきの話の続きは」 「え、ああ。はいはい、離婚会見ね」 一応聞いてくれる気はあったらしい。佐助は身を乗り出した。すかさずその額を小十郎にて のひらで抑えつけられたけれども、気にせず続ける。 「性格の不一致なんだよ」 「それは聞いた」 「でさあ、そういうなんかこう、ロマンチックな感じのことを考えちゃうのがそもそも結婚 っていう制度に見合わないんじゃないかしら、と思ったわけ、俺様としては。だってさ、 その離婚会見の傑作なことったらなかったんだぜ。結婚式で指輪の交換ってするじゃん?」 「するな」 「それの逆をやんのよ」 「逆」 「指輪をね、お互いに引き抜くの。そんなん見せてどうすんだっつうの」 けらけらと笑いながら佐助はビールを喉に流し込んだ。 ふうん、と小十郎は興味が無いことを隠さない相槌を打つ。そりゃまた仰々しいな、と言う。 でしょうと佐助はその短い相槌に更に言葉を重ねた。なんだか馬鹿みたいだよねえ、と言う とそうだな、と旦那も同意した。 「指輪なんてそもそも、阿呆らしいだろう。どう考えても。衛生的にも良くねェしな」 佐助は目を丸めた。 指輪。 「指輪」 「指輪の話だろう」 「はあ、ええっと―――そう、ですね、うん。指輪だ」 「ありゃァ、なんでまた婚約指輪と結婚指輪の二種類があるんだろうな」 「はあ―――さあ」 「無駄だな」 「そう、だねえ」 佐助はぼんやりと答えた。 旦那は嫁の異変に気付いた様子もなく、二杯目のビールを注いで飲み干している。佐助はそ のグラスを握る手をじいと眺めた。旦那は左利きなので、グラスは左手で握っている。長く 節のある指は真っ直ぐに、なんの異物もなく指先から又の部分まで繋がっている。何の異物 もない。例えば金属製のドーナツ状のアクセサリーとかは、もちろんそこには存在しない。 佐助は自分のてのひらにじいと視線を落とした。左手を見る。 そこにはやはり金属製のドーナツ状―――短く言うと指輪は、ついていない。 佐助と小十郎は、披露宴はしたが結婚式はしなかった。クリスチャンでもなければ日本の神 に対して造詣も深くないふたりにとっては、そんなものをすることに意味があるようには思 えなかった。大体「健やかなるときも病めるときも」お互いを愛するかどうかなんていうの は、その時々になってみなければ解らないことではないだろうか。佐助はそう思った。小十 郎はとりあえず面倒なことをしたくなかったらしい。ウェディングドレス姿のおまえは見た かった、とは言われた。それだけで一週間は笑ってられたってのにな。小十郎はそう言った。 まるで不治の病に冒されたことを患者に告げる医者のような仏頂面で。 そういうわけで、ふたりは指輪交換なるものも一切おこなわなかった。 佐助は今の今までそんなことを考えたこともなかった。 しかし考えてみると自分たちの左手の薬指に何も嵌っていないという事実は、何かしらの意 味を持ってしまうような気がした。佐助はじいと自分の薬指を凝視する。つるんと滑ってそ のままどこまでも行ってしまいそうなほど、そこにはなんの支えも存在しない。 ふと気付くと目の前に居たはずの旦那はすでに居なくなっていた。ビールの缶とグラスを持 ってキッチンに立っている。佐助と目が合うと、小十郎は手を差し出した。 「もう飲まねェなら、それもよこせ」 「ああ、はい、よろしく」 グラスを渡して、ぼんやりとしたまま風呂へ向かう。 湯船に浸かり、天井を見上げながら佐助は「ゆびわ」とつぶやいた。 ゆびわ、ゆびわ、ゆびわかあ。 「かあ」はすこしバスルームに反響した。 「考えたこともなかったけど」 そういえば自分たちには結婚指輪がないのだ。 もちろん婚約指輪もない。気楽でいいと言えばそうだろうし、小十郎の言うとおり衛生的に も実際的にもついでに言えば経済的にも特に指輪自体には意味はないのだ。そこにどういっ た感情を込めるかというだけの話で、その物体には物体としての意味しかない。付加価値は 常に人間が込めるものだ。 そんなものは形式だけのものであるといえば、そうだろう。 けれども、佐助はだからこそなんだかひどく指輪が欲しくなってしまった。なにしろ佐助と 小十郎は見合い結婚で、しかも出会ってからまだ四ヶ月しか経っていない。言ってみればふ たりの間には形式しかないのだ。愛があるのかどうかは今ひとつ解らない。お互いのことも あんまり知らない。トンカツに醤油をかけるかどうかだって、今日知ったくらいなのだ。 そういうふたりの間に、結婚における形式美の極地であるような結婚指輪がないということ は、とても重大な問題であるように思えた。 しかし、と佐助は口まで湯に浸けながら思った。 しかしあの旦那が果たして指輪など今更嫁に渡すだろうか? 考えるまでもない。答えはノーだ。そんなことがあるわけがない。明日の朝になったら世界 に絶対的な平和が訪れているくらいにあるわけがない。そうなったらいいなあと思うけれど も、それはあくまでもありえない「イマジン」の世界の話だ。 ぶくぶくと泡を作りながら佐助は眉を寄せた。旦那は指輪をくれないだろう。でも指輪は欲 しい。とても欲しい。強請ってみようかとも思ったが、旦那の物凄く嫌そうな顔が簡単にぼ んと浮かんできたのでそのアイデアを佐助はすぐさま排水溝に流し込んだ。きっと第三次世 界大戦が起こったことを国民に説明するような仏頂面をするに違いない。 しばらくぶくぶくと呼吸を止める限界に挑戦してから、佐助はぷはあ、と顔を天井へ向けた。 そして、おお、と天井へ向けて声を反響させた。 「そうじゃん」 ざぱんと湯船から出て、バスルームを出る。 からりと扉を開くと旦那が洗面所で歯を磨いている。佐助は気にせず全裸のまま旦那の肩に 顎を乗せて、その先にあるカレンダーに視線をやった。 「やっぱり」 「何がやっぱりだ阿呆」 ぐい、と後ろへ押しのけられた。 「濡れるだろうが」 バスタオルを押しつけられる。佐助はそれで体についた水滴を拭いながら、にんまりとほお をゆるめた。小十郎が不気味そうに佐助を見る。嫁はへらりと旦那に笑いかけた。旦那はま すます嫁から距離を置いた。口をすすいで、歯ブラシを洗面台に置いてドアを開ける。 「どこへ行くの、片倉さん」 「全裸でへらへら笑ってる変態から一センチでも遠い場所」 言葉とおんなじに、ばたんとドアが閉まった。 佐助は肩を竦め、またカレンダーを見た。二月の第二土曜日まで視線を動かす。そして再び にんまりと笑った。 二月の第二土曜日。 二月十四日。 「プレゼントには絶好のチャンスじゃあねえの」 くふふ。 佐助は不気味な笑い声を喉の奥でこもらせて、それからはっとしたように慌てて洗濯機の上 にあるパジャマに手をやった。 次 |