彼のほうから呼び出しがかかるのは、決まって唐突でそれでいて呼ばれるほうの都合を完全に無視 した時間帯なのだ。猿飛佐助は携帯電話を握り締め、ふわあ、とひとつ欠伸をした。辺りは完璧な 夜に包まれている。それも当然のことで、なにしろ時計は午前二時を正確に指していた。 佐助は目を擦り、携帯電話を見た。 携帯電話はもう切れている。 その電子端末は、たった一言、「今から来い」という言葉だけ吐いて、さっき事切れたところだ。 そ れ が 恋 な ら 、 片倉小十郎との付き合いは、さかのぼれば十年以上前からのことになる。 中学の頃、友人である伊達政宗の家に遊びに行ったときに、まるで当然のように小十郎は彼の家に 居た。遠縁の親戚だとか、そういう話だったように思う。 そのとき小十郎はまだ大学生だった。 そして政宗のことを、「政宗様」と呼んでいた。 「小十郎は親父に恩があるからな」 政宗はそう言ったが、端から見れば小十郎が恩を感じているのが彼の父にではなく、彼自身に対し てであることはあまりにもあからさまな事実だった。 政宗の父は会社の社長で、小十郎は彼らの家に居候をしているらしかった。 小十郎が居候をするきっかけが政宗の言葉だったとか、そんな事情があったという話も聞いたよう な気がするがはっきりとは覚えていない。ともあれ現状で言えることは、佐助が中学生の頃に初め て顔を合わせたときから今に至るまで、片倉小十郎という人間の重要項目リストには「伊達政宗」 以外の項目は載っていないのだということであり、そして小十郎という人間を語るうえで、それ以 上に言うべきことなど結局のところまったく存在しないのだ。 それがいささか異常であることに佐助が気付くのは、けれども出会ってから何年も経ってからのこ とになる。佐助が初めて会った頃の小十郎は、中学生でも名前を知っているような有名大学に現役 で合格したばかりの、背が高くて付き合いのいい―――今から考えればそれは佐助が「政宗の」友 人だったからなのだけれども―――スポーツ万能の、年上のやさしい「お兄さん」だった。 小十郎は決して口数の多い気易いタイプではなかったけれども、おさない頃の佐助にはそういうと ころがいかにも「大人」の象徴のように感じられたし、実際少ないけれども彼の口からこぼれる言 葉たちはいかにも魅力的で、瞬く間に佐助は友人の家に居る年上の男のことがすきになった。政宗 の家に遊びに行くときには、いつも小十郎が居ることを期待したし、居なければ落胆した。有り体 に言えば佐助は小十郎に憧れていたのだ、ということになる。 中学生から見て、小十郎は理想的な「大人の男」だった。 欠けるものなど、なにもないように思えた。 あくまでも、その頃は。 「遅い」 佐助が店に足を踏み入れ、小十郎の姿を店内に探していると、背後から低い不満げな声がかれられ た。振り返ればそこには目の据わった人相の悪いしかめ面が聳えていて、それは見慣れたものでは あったけれども、それでも佐助は一瞬だけ身を竦ませてしまった。 腕の時計に目を落とす。 電話がかかってきてから、まだ三十分も経っていない。 「遅くないでしょ」 「十分で来いと言ったはずだ、阿呆」 ふん、と鼻を鳴らして、小十郎は佐助の横をすり抜け、カウンター席へと戻っていった。 よく見るとすでにその手にはグラスが握られていて、しかも横切った彼の体からはかなりの量を飲 んだのだと予想できる酒の匂いが濃厚に漂ってきたので、佐助はうんざりと深夜営業のバーの天井 を見上げ、息を吐いた。 そのちいさなバーは、幸か不幸か、ちょうど佐助の住んでいるマンションと小十郎の住んでいるマ ンションの真ん中辺りに建っていて、お互いにそこまで歩いて十分ほどしかないうえに、決して都 会とは言えない辺鄙な場所にあるくせに、そのバーのカクテルは東京の一等地にあるバーのそれに 比べても、まったく見劣りがしないくらいには美味かった。 たぶん、―――と、小十郎の隣の椅子に腰掛けながら佐助は思った。 たぶん、もう五杯は飲んでいるだろう、この様子だと。 それは小十郎のデッドラインの、約三分の一をすでに彼が消費していることを示す数値だった。佐 助は自分はハイボールの水割りをマスターに頼んで、こっそりと息を吐いた。佐助は後悔していた。 とても深く、カクテルに浸かっているオリーブみたいにたっぷりと、どうして自分のオフの日程を 隣に座る男に告げてしまったんだろうかと後悔していた。 小十郎は空になったグラスをカウンターの奥に押しのけて、新しいカクテルを頼んでいる。相当の ハイペースだ、と佐助はハイボールをすこしずつ舐めながら横目で小十郎を窺った。これはまずい。 かなり、荒れている。 「ね、小十郎さん」 佐助は恐る恐る、小十郎の肩を叩いた。 「ちょっと、飲むペース早いンじゃない?」 小十郎は返事をせずに、マスターが端正込めて作った美しいエメラルドグリーンのカクテルを、一 切の詩情を排した即物的な動作で、一口に喉に流し込んだ。佐助はちらりとカウンター越しにマス ターの表情を窺ってみた。無口で口ひげが特徴の四十絡みのマスターは、まるで居酒屋のビールの ように一気飲みされた自分のカクテルがかつて入っていた空のグラスを、まったくの無表情で回収 した。それはなんだか、戦死した自分の子供の骨を引き取る母親の所作のようだと佐助は思った。 佐助は息を吐いて、のろのろと口を開いた。 ああ、また聞かなくてはならないのか、これを。 「小十郎さん」 小十郎はまたマスターに注文をしている。 マスターは哀れな犠牲者を再び生み出すべく、宿命のようにこくりと深く頷く。 「―――“なんか、あったの?”」 そして佐助は、自らを彼の前に供物として提供すべく、聞きたくもない質問を口にして首を傾げて やった。 ところで、佐助がその事実に気付いたのは五年前のことだった。 ちょうど二十歳になったばかりで、小十郎がその祝いに飲みに連れて行ってくれるというので、佐 助は浮き足立っていた。大学に入ってしまえば年齢に関係なく飲み会はあったし、今更酒を飲むこ とを歓ぶような要素はなかったのだけれども、小十郎が連れていってくれる、という、そこにこそ 佐助にとっての重要な要素があった。 彼に一人前だと認められたような気がした。 勘違いだとしても、そう思うのは佐助の勝手だ。 佐助はとても上機嫌だったし、浮かれていた。浮かれすぎて約束の場所に約束の時間より一時間も 前に着いてしまったほどだった。駅の改札での待ち合わせだったが、佐助は暇なので駅を出た。 喫茶店にでも入って時間を潰そうと思っていたのだけれども、一本道を間違えたらしく、気が付く と佐助は見覚えのない通りに出てしまっていた。 冬なので午後五時を過ぎると辺りは暗くなる。 その通りには安っぽいネオンが点灯していて、あからさまにいかがわしい雰囲気を晒しだしていた。 佐助は眉を寄せ、自分はすこしまずい場所に迷い込んだらしいことを認識すると、すぐに来た道を 戻ろうと踵を返した。たぶん、さっき道の曲がり角を左右で間違えたのだ。戻って左に曲がれば、 いつも行く喫茶店があるだろう。 そう思って、佐助は一歩足を踏み出し、ふと足を止めた。 なにかが視界に入ったような気がした。 そしてそのなにかは、ひどく見覚えのあるものであるような気がした。 佐助は振り返り、目を凝らした。安っぽいネオン。いかがわしい看板。その脇に大きな影がふたつ 見える。両方とも、男だろう。ひとつは目立つ銀髪だった。もうひとつは平凡な黒髪だが、男にし てはすこしだけ長く、肩に届きそうなそれは襟足のところでぴょんと跳ねている。 佐助は目を丸めた。 影の片方は、あきらかに小十郎だった。 佐助は声をかけようかと思って、足を踏み出し、けれどもまたその足を留めた。銀髪の大男は笑み を浮かべながら小十郎の肩に腕を回し、自分のほうへ引き寄せようとしている。小十郎はそれを嫌 そうな顔をしてふりほどこうとしているが、相手の体のほうが大きいのでその試みはあまり上手く はいっていないようだった。男はますます笑みを濃くして、小十郎をそのまま店のなかに引き込も うとしている。小十郎は面倒臭そうに息を吐いて、男の強引さを厭いながらも、そのまま足並みを 揃えようとしているようだった。 佐助は思わず駆けだして、銀髪の男の腕を掴んだ。 「ちょっと」 男は佐助より頭ひとつ分かそれ以上に巨大だったが、佐助は唇を引き結び、高いところにある男の 顔を睨み上げた。左目が眼帯で隠されている男は、ぱちぱちと何度か瞬きをすると、佐助から視線 を外して小十郎を見た。小十郎は目を見開いていた。 珍しく、彼は驚いているらしかった。 もっとも、佐助の目にはそれらの事象はほぼ、まったく入り込んでいなかった。 佐助はともすれば怯えて竦みそうになる足を必死で律しながら、口を開いた。 「このひと、俺の知合いなんだけど。なんか用?」 男はまた瞬きをした。 「なんだ、こいつは」 そして小十郎の袖を引いて首を傾げた。 小十郎はまだ目を丸めていたが、次第に気まずそうに顔を歪めだし、最終的には苦虫を噛み潰した ような表情に落ちつくと、うんざりしたような息を吐いて、一言、ツレだ、とだけ吐いた。 不満げな小十郎の態度に、佐助はちらりと眉をひそめた。 そんな態度をされるのは心外だ。 片目の銀髪は、一旦黙り込んだあとに大声で笑い出した。 「おい、今度は年下かよ」 「違ェ、黙れ。阿呆が」 「隅に置けねえなあ、まったくよう!」 からからと笑いながら銀髪は小十郎の背中を乱暴に二三度叩くと、次に佐助の背中もおんなじよう に叩いて、そしてやはり笑いながら店のなかへと姿を消した。佐助はぼうと立ち尽くし、小十郎は 苦々しげに大きな舌打ちをした。 しばらくして、我に返った佐助は小十郎を見た。 小十郎は珍しく視線を外した。 「小十郎さん」 すこし間を置いて、なんだ、と小十郎が応える。 「あいつ、なに。知合い?」 「まァ、―――そのようなものだ」 おい行くぞ。 小十郎は短く、かつ極めてあいまいに答えると、さっさとその長い足を有効に使い、佐助を置き去 りにして歩き出した。佐助は慌てて追いかけながら、問いを重ねる。 「ねえ、なんか絡まれてませんでした?」 「ああいう奴なんだ」 「ていうかさ、なんでこんなところに居たわけ?俺との約束は?」 「あと一時間も後だろうが。おまえこそなんでこんなところに来てるんだ」 「暇で、ああ―――迷っちゃってさ、つうか」 佐助は辺りを見回し、そしてちらりと振り返った。 さっきまで居た店の看板が見える。紫色のライトに目を細め、佐助は再び前を向いた。小十郎の広 い背中が見える。佐助はまた口を開き、その背中に向かって問いかけようとしたが、ふとあること に思い当たって開いた口を噤んだ。 黙ったまましばらくふたりで通りを歩いていく。 明るい通りに出たところで、ようやく小十郎が振り返った。 小十郎が足を止めたので、佐助もおんなじように足を止める。黙ってこちらを見下ろすふたつの黒 い目に、佐助はやはりおんなじように黙り込んだ。小十郎はしばらく佐助の目をじいと覗き込んで から、諦めたように息を吐き、首を振った。 たぶん、ごまかそうと思えば、ごまかされた振りは出来た。 けれどもそれはあくまでも「振り」にしかならなかっただろうし、例え彼の口から確たる言葉が聞 けなかったとしても、やはり佐助はそのときに沸いた「あること」への疑いを晴らすことはできな かったにちがいない。その「あること」は突飛と言えば極めて突飛な考えではあったけれども、仮 にそれを事実であると仮定すると、片倉小十郎という男に含まれる様々な疑問が一挙に解決される。 たとえば何故小十郎には女性の噂がないのか、だとか、何故政宗の父から持ち込まれる見合い話を 片っ端から断っているのか、だとか。 どうしてあんなに政宗のことを大事にしているのか、だとか。 佐助はそれらの疑問を、「あること」を前提にしてひとりで解決してしまった。 そしてそのことはたぶん、小十郎にもよく解っていたのだと思う。彼は陰鬱な溜息をたっぷりと吐 き出すと、哀れむようないろを目に含ませて、重々しく口を開いた。 小十郎が哀れんでいるのが、果たして佐助なのか小十郎自身なのかはよく解らなかった。 次 |