「―――お、」 仰ってる意味がよく解りませんと佐助が言うと、小十郎はとても穏やかな顔に笑みを浮かべ、なにも気にす ることはない、おまえはいつも通りにしてればいいんだと応えた。 いやそういう問題じゃねえし。 佐助はうめき声をあげそうになったが、一応目の前に居る女は上司なのでぐっと堪えた。小十郎はトースト とコーヒーだけの朝食にいささか不満があったのか、冷蔵庫を開けていいかと一言断ってからなにかキッチ ンでごそごそと作っている。テーブルで額を抑えながらちらりとそちらに視線をやると、佐助のTシャツと ジーンズをまとった小十郎の後ろ姿が目に入る。佐助はきゅっと目を細めた。 普段パンツスーツを着ているときからそう思っていたけれども、小十郎はスタイルがいい。 多少たくましすぎるところはあるが、それでも腰は細いし足も長い。それに大きめのTシャツを着てもなお 目立つ胸は、意識して見てみると相当の大きさだ。 佐助は慌てて目をてのひらで覆った。 さっきうっかり裸を見てしまったから、おかしなことを考えている。 「猿飛」 「はいっ」 背後から声をかけられ、思わず素っ頓狂な声が出た。 慌てて振り返ると小十郎が目を丸めている。切れ長の目が丸くなると、すこしだけ彼女の顔はおさなげなも のになった。すこし間を置いて、小十郎はふっと笑う。 佐助はわけもなく顔が赤らむのを感じた。 「酷ェ面」 小十郎は笑いながら、オムレツの中身は何がいいかと佐助に尋ねた。 「な、なんでもいい、です」 「そうか」 小十郎はまたくるりとキッチンに向き直り、フライパンに油と野菜を注ぎ、じゅうじゅうと炒め始める。 佐助はひとつ深呼吸をしてからぺたりとテーブルにほおをつけて、料理できるンですねとつぶやいた。小十 郎はさっとフライパンをひるがえしながら、まァな、と言う。 「なんか意外」 「言いやがる」 悪態をついても小十郎は相変わらず機嫌がいい。 これが朝でなければ酔っているのかというほどだ。目の前に差し出されたきれいなオムレツをぼんやりと見 下ろし、佐助は何度目かの「どうしたらいいんだ」についてまた思いを巡らせた。 いったいどうしたらいいんだろう。 ていうかこのひとなにがしたいんだろう。 オムレツを丁寧に切り分け、口に運ぶ上司に意を決して口を開く。 「部長」 「うん、どうした。遠慮せずに食え」 「いやいただきますけど、―――あのですね、片倉部長」 「猿飛」 「は」 「ここは職場じゃねェんだから、部長というのはやめねェか」 「―――え、」 何言ってるんだこのひとは? 小十郎は当然あるべきものを要求するような顔をして、佐助の応答を待っている。まだ五月の上旬だという のに、背筋につうと汗が伝っていくのが解る。 おずおずと「片倉さん」と言うと、満足げに頷かれた。 目の前に居るのはほんとうに自分の知っている片倉小十郎なんだろうかと佐助は疑った。彼女はこんなにも 理解しがたい生き物だっただろうか? 「―――改めましてあのですね、片倉さん」 佐助は必死で話を戻そうとする。 小十郎はオムレツを食べながら頷く。 「なんでまた急に、うちに住むとか言っちゃってるンですか、あんたは」 「嫌か?」 「いやいや、嫌とかそういう問題じゃなくてですね。だって意味が解らないでしょ、そりゃ片倉部長―――、 片倉さんと俺は同じ部署ですし、よくしてもらってるとは思いますけど、―――俺は男であんたは女なんで すよ?」 そこまで聞くと、小十郎は首を傾げた。 「だから?」 「だから、って、」 「おまえは女と見ると襲わずにはいられねェようなけだものなのか?」 「そういうわけじゃなくて!」 「ならいいじゃねェか。女もいねェなら面倒もないだろう」 うん、と小十郎は大きく伸びをする。 呆然とする佐助を振り返り、今日はなにか予定はあるのかと聞く。思わず頷くと、てのひらを差し出された。 「鍵」 「は?」 「鍵をよこせと言っている。買い物をしてきてやろう」 「買い物?」 「この家の冷蔵庫は貧相すぎる。ろくなものが作れやしねェ」 ちゃんと食ってんのかと腹を押された。ひゃ、という情けない声が出る。小十郎は笑いもせずに、薄っぺらい 腹だなァと言って、次いで佐助の肩をするするとなで始めた。 背筋がぞくぞくと震える。 小十郎は、ふむ、と顎に指を置いた。 「晩飯はうちで食え。精のつくのを作ってやるぜ」 鍵、と手をさらにぐいと押し出される。 結局佐助は迫力に負けて、合い鍵を小十郎のてのひらに落としてしまった。 「―――なんなの、あれ」 特に用事があるわけでもなかったが、その場の勢いで外に出ざるを得なくなった佐助は、しかたがないので 近くの喫茶店で本を読むことにした。けれどもいくら読んでも文字がまったく頭に入ってこない。同じペー ジに十分もかけてしまったことに気づいて、諦めて文庫本を閉じる。 家に帰ると小十郎が居るのかと思うと気が滅入った。 あれってもう逆セクハラだよなと思うが、恐ろしくてそんなことはとても口に出せない。小十郎が考えてい ることがまったく理解できないのが、佐助を一層憂鬱にさせた。もしかして俺のことを好きだったりするの かな、などと一瞬思ってはみたものの、冷静に考えるそれはまったくもってありえないので佐助はすぐに考 えるのをやめた。 どこの世界に好きな男の家に上がり込んで早々素っ裸になる女がいるのだ。 からかわれているのだろうか。 でも小十郎はそういう冗談が得意なタイプにも見えない。 閉じた文庫本を額に当ててうんうん唸っていると、喫茶店の窓から見覚えのある姿が見えて、佐助は思わず 席を立ちそうになった。窓の外できょろきょろと辺りを見回しながら、すこし小走りで歩いているのは会社 の社長である伊達政宗だった。 佐助は浮かしかけた腰を椅子に下ろし、改めて政宗の姿を眺める。 直接会話を交わしたことはないが、何度か社内で見かけたことがある。まだ二十代も半ばだというのに、先 代の社長からつい先頃社長の椅子をゆずられた右目を眼帯で覆った青年は、いつになく焦った様子で落ち着 きなく道を歩いていた。いらだたしげにときどき携帯電話をいじっているので、なにか急ぎの用事でもある のかとも思ったが、私服を着ているところを見ると仕事中でもないようだ。佐助はほおづえを突き、慌ただ しく視界から消えていく政宗の背中をぼんやりと眺めた。 恋人との約束でもあったのかなと思う。 政宗はあの年で社長だし、そのうえ顔だって悪くない。ゴールデンウィークを恋人と過ごそうとしたら寝坊 でもしたのだろうか。あわれなことだが、それすら佐助には羨ましく思えた。 佐助はほうと息を吐く。 恋人も居なければ、家には何を考えているのかよく解らない上司が住み着いているなんて、どれだけ自分は かわいそうなんだろう?佐助はもう姿の見えなくなった社長のことを呪いたくなった。待ち合わせに遅れた くらい、たいしたことじゃないでしょ? 佐助はそう思う。 俺に比べれば世界はだいたいしあわせだ。 夕方近くまで時間を潰して、重い足取りでマンションの部屋に戻る。ドアを開けておそるおそるリビングに 顔を出すと、小十郎の姿はなかった。もしかして帰ったんだろうかと一瞬期待したが、よく見てみるとソファ の上に窮屈そうに長い体を丸めているだけだった。 佐助はまた、深く息を吐く。 「―――風邪ひきますよ」 声をかけてみるが、身じろぎもしない。 疲れているんだろう。小十郎のワーカホリックぶりは社内でも有名だ。佐助は寝室から毛布を引きずって、 小十郎の体にかけてやった。ソファが占領されているので、しかたがなくキッチンの椅子に腰掛ける。いい においがするので視線を巡らせてみると、コンロに煮物と味噌汁が用意されていた。 思わず、ぐう、と腹が鳴る。 佐助は自分の腹に視線を落とした。すると、ソファのほうから笑い声がくつくつと響いてくる。見ると小十 郎がうつぶせになって、こちらを見ていた。 「腹が減ったのか」 からかうように言われて、佐助は顔をゆがめる。 「狸ですか、質が悪い」 「いや、寝ていたよ。おまえが毛布をかけたあたりで起きた」 「―――やっぱり狸じゃないスか」 「好意を無にするのもどうかと思ってな。うん、飯にするか」 小十郎は毛布を丁寧にたたむと起き上がり、煮物と味噌汁を温め直してテーブルに並べた。佐助は炊きあが った白米をぺたぺたと茶碗によそいながら、また文句を言うタイミングを逃してしまったことにひっそりと 後悔をしたが、小十郎が用意した大根と豚の角煮の煮物があまりにも美味しそうなので、まあ晩ご飯が終わ ってからでいいかと思い直す。 テーブルの真ん中には、大皿に盛りつけられた菜の花のおひたしと、枝豆が置かれる。 実家を出て以来の家庭料理らしい家庭料理に、佐助はうっすらと感動した。 「いただきます」 頭を下げると、小十郎のほうも同じようにいただきますと言う。 じっくりと煮られた角煮は口に入れると溶けるほどやわらかく、じんわりとにじむ甘味がとろけるように舌 にしみこんでくる。どうだ、と小十郎が首を傾げる。佐助は意味もなく何度も頷いた。 「すごく、美味しいです」 「そうか」 ならよかった。 薄い笑みが口元に浮かぶ。 佐助はそれを見て、やけに鼓動が早くなるのを感じないわけにはいかなかった。 おかわりを何回かして夕食を終えたあと、小十郎は冷えたグラスを二つ冷蔵庫から取り出すとそこにビール を注いだ。きれいに泡を残すつぎ方に、佐助はぼんやりと、まあいろいろと話を聞くのは明日になってから でも構わないだろうと思った。 次 |