ゴールデンウィークが終わる、金曜日の朝。 目を覚まし、寝室をそっと覗くとすでに小十郎の姿はなかった。 ベッドは綺麗に整えられ、貸していたTシャツやジャージは洗濯されて、乾燥機に突っ込まれている。 佐助は寝癖をくしゃくしゃと掻き混ぜ、キッチンに用意された朝食をぼんやりと眺めた。和食が好きだ と昨夜言ったからだろうか。テーブルの上には朝食にしては豪勢過ぎる一汁三菜が用意され、そしてラ ップがされている。 メモがある。 丁寧な字で、「チンして食え」とだけ書いてあった。 「―――出て、ったのか」 つぶやいた言葉に、そこはかとない寂寥が滲んでしまって佐助は慌てた。 出て行ったなら出て行ったでまったく構わない。いつもどおりの日常が戻ってくるだけだ。佐助はうん とわざとらしい伸びをして、パジャマを頭から脱ぎ捨てた。朝食を済ませ、ソファの上で眠るための毛 布や枕を片付けてしまうと、もう小十郎が居た痕跡はどこにもなくなってしまった。佐助は出勤のため にスーツに着替えながら、寝室のどこかに彼女の痕跡が残っていないかと視線を巡らせたが、まるで証 拠隠滅でもしたかのように部屋のなかはきれいに片付いてしまっている。 いったいなんだったんだろう、と思う。 ゴールデンウィークが見せた夢かなんかだったんだろうか。 考えてもしかたがない。佐助はぱん、と自分のほおを叩くと、ネクタイを締め、家を出た。 出勤すると、オフィスには当然のように小十郎が居た。 佐助の部屋を出て行ったからといって、もちろん彼女が会社に来ないわけがないのだけれども、その当 然の事実に佐助はかなりの驚きを感じた。オフィスに並んだデスクのなかで、ひとつだけ離れた場所に 小十郎のデスクはある。小十郎はそこに座って、コーヒーを飲みながら書類に目を通していた。 仕事中、小十郎は眼鏡をかけている。 フレームに細かな細工のあるそれはとても繊細で、女にしては鋭すぎる彼女の横顔をすこしだけやわら かく見せる。以前その趣味を褒めたら、小十郎は珍しくとてもうれしそうに微笑んだのを、佐助はふと 思い出した。 出勤時刻前のオフィスにはまだ小十郎と佐助しかいない。 「おはようございます、―――片倉部長」 できるだけ平静を装って、声をかける。 小十郎の視線がふと持ち上がり、切れ長の目がすこしだけ丸くなる。でもそれだけだった。それ以上の 反応は、―――すくなくとも佐助が内心期待したような反応はまったくなく、小十郎はただ「おはよう」 と言っただけで、再び視線を書類に戻してしまった。 佐助は自分のデスクに腰掛け、眉をひそめる。 それだけかよ、という言葉がのど元まで出かかったが、ぐっと堪えて飲み込んだ。 十分もすると他の同僚も次々に出勤してきて、ああ休みも終わったんだという感覚がじわじわと体に染 み、小十郎に対するぼんやりとした苛立ちも次第に薄れていった。昼休みまで休みの間にたまっていた さまざまな連絡を済ませ、午後からはゴールデンウィークの前に本来だったら済ませておきたかったデ ータの整理にとりかかろうかと佐助が考えていると、ぽん、と後ろから肩を叩かれる。 振り返ると、小十郎が居た。 「猿飛、仕事はどうだ」 「はあ、―――まあ、とりあえずのモノは終わって、午後からは別のことしようかと思ってたとこですけど」 「そうか」 ふむ、と小十郎が顎をさする。 あれは彼女がなにか考え事をするときの癖だ。この三日でそれを知ってしまっていた佐助は、その仕草 を会社で見ることになんともいえない戸惑いを感じた。 なんだかひどく生々しい。 思わず視線が横にそれた。 その先に居た同僚の真田幸村が不思議そうに首を傾げる。 「佐助、どうかしたでござるか」 「え、いや、なんも」 「猿飛」 「はいっ」 ぴ、と背筋が伸びる。 それを見て小十郎がおかしそうに口元を笑みでゆがめた。 「そうかしこまるな。昼、すこし時間をとれるか?」 「昼、ですか」 まあ、と頷くと小十郎は会社の近くにある喫茶店の名前を告げ、自分のデスクに戻っていった。なに かあったのかと幸村に小声で問われたが、佐助は黙るしかない。なにかあったのかなんて、佐助にも まったく解らない。誰かが教えてくれるなら、教えてほしいくらいだ。 「さあ、仕事の話じゃない?」 笑ってそう答えておいたが、もちそんそうでないことは佐助が一番よく知っていた。 昼休みに入ってすぐに指定された喫茶店に向かうと、すでに小十郎は日のあたるテラス席に座って本 を読んでいた。長い足を組み、目を伏せて真剣に文字を追う姿は、離れた場所からでも際だって目立 つ。体のラインで女性であることはあきらかなのに、化粧気のない顔とパンツスーツが小十郎をひど く中性的に見せて、それがいっそう彼女を目立たせていた。 昼の日差しが小十郎のほおを照らす。 佐助はしばらくその風景に見とれ、それから慌ててその席へと向かった。椅子をひくと、ふと気づい たように小十郎が顔をあげる。佐助を視界に入れると同時に、ふわりと目元がゆるめられ、その変化 に佐助は一瞬息がつまるような苦しさを感じ、また戸惑った。 にこりと笑みを貼り付け、軽く会釈をする。 「お待たせしました、部長」 「あァ」 呼び出して悪かったな、と言う。 ほんとうに思っているかどうかはあやしいところだ。佐助は何も言わずに席に着いた。小十郎は本を 閉じ、テーブルの上にそれを置く。ふと見るとそれは冠婚葬祭についてのマナー本だった。 「結婚でもするんすか」 「あァ、知り合いがな。それより、何か頼むだろう」 メニューを差し出される。 小十郎はもう何を注文するか決めているらしい。佐助がメニューを見て何にするか迷うのを見て、た のしそうに笑みを浮かべている。なにがおかしいんですかとすこし拗ねたように聞けば、おまえは優 柔不断だなァとくつくつと肩を揺らしながら笑われた。 「このあいだ何が食いたいか聞いたときもなんでもいいだなんて言いやがって」 「いや、あれはそれどころじゃなかったっていうだけで、―――つうか、」 「うん」 「覚えてンすか、それ」 「おい、ひとをあんまり馬鹿にするなよ」 まだぼけちゃいねェよと小十郎は笑う。 「そういう意味じゃなくッて、」 なかったことにするつもりなのかと思っていた。 小十郎が不思議そうに首を傾げる。佐助は黙ってメニューに視線を戻した。もうなんでもいいと適当 なものを選び、ウェイトレスに注文を済ませると、ふつふつと今朝方忘れたと思った苛立ちが改めて わき上がってくる。 もてあそばれているような気がしてならない。 佐助はむっつりと仏頂面をさらし、小十郎を睨んだ。 「―――部長って」 「うん、どうした」 「だいぶ、勝手ですよね。つうか、かなり」 ぱちり、と小十郎が目を瞬かせた。 「なんだ、いきなり」 「いやいや、それは俺の台詞。ひとの家に三日も居候したあげく、出て行くときは黙って出て行っちゃ うなんて、結構人でなしだと思うンですけどね。俺、間違ったこと言ってますか」 「出て行く?」 「そりゃ、俺があの夜にどうやらあんたに失礼なことしちゃったのは認めますし、それについては申 し訳ねえとは思ってますよ。でもね、だからって何してもいいってわけじゃないでしょうが。上司 と部下とはいえ、プライベートではそんなの関係ないでしょ。出て行くなら出て行くで、一言くら い言ってくれたっていいじゃないすか」 喋っているうちに、だんだんと体温が上がっていくのが解る。 あ、やべえなと佐助は思った。これはやばい。なにを熱くなっているんだ俺はと思うが一度吐き出さ れた言葉は思うようには止まってくれず、たらたらと未練がましく垂れ流されるばかりだ。 まずいなあと思う。 これじゃまるで、出て行ってほしくなかったみたいじゃないか? 「いやべつにね、出て行くのは構わないンですよ、でもね、なんで来たのかもなんで出て行ったのか も解らずじゃ俺のほうも納得がいかないっていうか、なんていうか」 「猿飛」 「なかったことにしたいならそう言ってくれないと、俺だって気持ちの整理がつかねえし、なんか今 朝は今朝でぜんぜん平気そうにしてるし、かと思えば昼飯誘ったりしてほんと意味不明っていうか、」 「おい、猿飛」 「なんです」 「おまえ何を言ってるんだ」 意味が解らない、と小十郎が首を傾げる。 佐助は思い切り顔をしかめた。世界中の誰に言われるより、目の前の女にそれを言われるのが一番腹 が立つ。顔をしかめたまま黙り込んでいると、小十郎があっけらかんと「俺はべつに出て行ってねェ ぞ」と言った、 佐助はぱちぱちと目を瞬かせる。 ウェイトレスが場違いに明るい声でパスタを二人分運んできて、そして去っていった。 「なんだって?」 「だからべつに出て行ってねェよ。ふつうに、出勤しただけだ」 「でもなんか部屋がきれいに整理されてましたけど」 「休みの日以外は朝に掃除やら洗濯やらするのが習慣でな」 「―――メモが」 「ちゃんとチンして食ったか?」 「はあ」 「和食がいいと言うから作ったんだが、あれはさめると不味いからな」 どうだ美味かったか、と言う。 佐助は呆然としたまま、いちおう頷いた。小十郎が満足げに口角をあげ、そうだろうと頷く。そうだ ろう、じゃねえよ、と佐助は思ったが、小十郎がパスタにフォークを絡め始めてしまったので、しか たがなく自分も目の前のランチを食べるのに集中することにした。 パスタを食べ終えると、アイスコーヒーが運ばれてくる。 それを飲む小十郎はまったくいつもと同じ顔をしていて、見ているといちいち戸惑ったり焦ったりし ているのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。 部長って変なひとですねと言うと、そうかな、と小十郎は首を傾げた。 佐助はなんだか笑えてきたので、素直にそのまま笑うことにした。 「で、なんで俺のこと呼び出したンです?」 「あァ、そうだな。忘れていた」 今日はすこし遅れるから夕飯を作れるかどうか解らないんだと小十郎はすこし申し訳なさそうに眉 をひそめて言った。そんなことかと佐助は肩の力を抜く。 構わないと答えると、安堵したように小十郎が息を吐いた。へんなところで律儀なひとだ。 「残業ですか?」 「いや、部屋を探しに不動産屋に行く」 「部屋?」 「あァ」 「え、―――部屋って」 「新しく俺が住む部屋だ」 いつまでもおまえの家に住むわけにもいかねェからなァと言う。 佐助はからんとアイスコーヒーの氷をゆらし、はあ、と間抜けた声を出した。小十郎が不思議そう に目を瞬かせる。 「どうした。間抜けな顔がますます間抜けになってるぞ」 「いや余計なお世話ですけど。え、なんなの、その話初耳なンですけど」 「―――そうだったか?」 「そうですけど」 聞けば、小十郎が佐助の家に転がり込んだのは、それまで住んでいた家を諸事情で出て行かなけれ ばならなくなったからなのだという。どうしたものかと飲み屋で考えていたら酔っぱらった佐助が ちょうどいいところに絡んできたので、これ幸いとつけこんだのだ、と小十郎は悪びれずに言った。 「てっきりもう言っていたと思っていた。悪かったな」 佐助はストローの包み紙をびりびりと破り、へえ、とつぶやく。 怒るのもそろそろ面倒くさくなりはじめている。 「―――じゃ、部屋を見つけたら出て行くわけですね」 「そうなるな」 それまで頼むぜ、と言う。 佐助はそれには答えず、破いた紙をくしゃくしゃに丸め、空になったグラスのなかに投げ込んだ。 ぬれたグラスの底についた紙がじわじわといろを変えて、ゆがんでいく。 ふうん、と鼻を鳴らす。 ふうん、出て行くンすか。 「へえ、―――いい家見つかるといいですね」 「あァ」 小十郎は佐助の不機嫌に気づいた様子もない。 まあそうだろう。あんたはそういうひとだよと佐助は思った。だいたいこちらが不機嫌なことを気 づかれても困るのだ。たとえば、どうしたなにかあったのか、なんて聞かれたら自分はなんて答え ればいいのか、皆目見当もつかない。 そうだ、厄介なひとが居なくなってくれるって思えばいいんじゃないか。 そりゃ食事は美味しかったしビールの注ぎ方も上手だけど、それだけじゃないか。 出ていってくれればそれに超したことはない。早く見つけて出て行ってくださいよと言おうと思っ たが、喉がつまって上手く言葉が出てこなかった。代わりに小十郎が今日は無理だが明日はすきな ものを作ってやるよと言ったので、佐助は咄嗟にハンバーグ、と答えてしまって、ガキみたいだと 盛大に笑われた。 「―――小十郎!」 昼休みが終わる時刻が近づいてきたので、会計を済ませて喫茶店を出ようとしていたら、後ろから 騒々しく駆け寄ってくる音と大声が響き、店内の視線が一気に佐助と小十郎のもとに集中した。 振り返ると、そこには荒い息を吐いて顔をしかめている社長が居る。 呆然とする佐助の横で、小十郎が忌々しげに舌打ちをしたのが聞こえた。 「社長、公共の場でそのように見苦しい姿をさらすのはいかがなものかと」 「うるせェ、よ」 乱れた息を整えながら、政宗は小十郎の腕を乱暴に掴んだ。 そしてそのまま佐助などもともと存在していないかのように、小十郎をぐいと引きずっていく。佐 助は咄嗟に政宗が掴んでいるのとは逆の腕を掴んだ。ふたりに腕を掴まれた小十郎の体がある一点 でぴたりと止まり、それでようやく政宗は佐助のほうに胡乱げな視線を向けた。 「Ah、なんだアンタ?」 「―――おたくの会社の社員ですけど」 「Hun、だから?」 「うちの部署の部長、どうするつもりですか。もう昼休み終わりますけど?」 時計を指さし、佐助はひょいと首を竦める。 政宗はひどく不愉快げに口元をゆがめ、舌打ちをした。 「今日は片倉は早退けだ。俺がそう言うんだから問題はねェだろう」 「政宗様、それでは他の者に示しがつきません。どうかお手をお離しください、」 「うるせェ、おまえは黙ってろ!」 背筋がふるえるような低い声で唸り、政宗はまた強引に小十郎の腕を引いた。 かすかに小十郎の眉がひそめられるのを見て、佐助は咄嗟に掴んでいた手の力をゆるめてしまった。 その隙に政宗は小十郎を自分の体に引き寄せると、忌々しげな一瞥だけよこし、無言でその場を立 ち去っていく。 佐助は追うべきかどうかを一瞬迷ったが、理由がないので追わなかった。 結局小十郎はその日オフィスに戻ってこなかったし、佐助の家にも戻ってはこなかった。 次 |