「休み」 「は」 「一週間取った」 家に帰ってきた旦那は、その日帰るなりそう口にした。 鞄を受け取った嫁はぱちくりと目を瞬かせて、それから誰が、と聞いた。旦那は、片倉小十郎は拳ひとつぶんちいさな 自分の嫁をひどく馬鹿にした顔で見下ろして―――――――見下してから、阿呆か、と短く返す。 「俺のに決まってるだろうが」 八月だった。 インフルエンザの人間に抱きつかれているような熱が常に世界を支配する八月の半ばだった。都会でもそこかしこで蝉 が鳴いて、陽炎がものの輪郭を曖昧にして、熱中症で老人が死に、海水浴で若者が死に、帰郷ラッシュで交通網が死ぬ。 詰まるところ、これ以上ないくらいに夏だった。 要するにそれは旦那の夏休みの話なのだと嫁はようやく理解した。 I wish I went to the another world with only you 世間一般の結婚生活というのを自分の旦那に望んではいけないのだ―――――――ということを猿飛あらため片倉佐助 はとても良く知っている。 それは何故かと言えば一に旦那が片倉小十郎であり、二も三も四も五も要するに旦那が片倉小十郎だからというところ に落ち着く。片倉小十郎の脳内を円グラフで表示することが出来るのならば、その九割九分九厘までは「社長」で埋め 尽くされているだろう。もしくは「仕事」かもしれないけれども、「社長の為の仕事」なのだから結局はやはり「社長」 だ。佐助は項目としては「家族」に分類されているけれども、小十郎の親戚連中すべてをかき集めて自分をそこに足し たとしてもやはり一厘にしかならないだろうということはよく解っている。 片倉小十郎は、清々しいまでに社長の伊達政宗のことしか考えていない。 それが佐助の旦那だ。 そして佐助はそれでいいと思っている。 最初に会ったときから旦那はそう言っていたし、結婚後も笑える程にその言葉どおりの行動をしている。朝は早くから 出勤して、夜は遅くまで帰ってこない。休日出勤をいやがったところなど見たことがないし、ふたりのマンションにや って来ては佐助を罵倒する社長に対してもなにも言わない。大体政宗は唐突にやって来るが、たまに予定などが入って いたりすると前日からいそいそと用意をし始める様は端から見ていると多少異様にさえ見える。 以前それをうっかり恋する乙女みたいだなと思って佐助は自分でおええ、と嘔吐いたことがある。 実際旦那の顔はいつでも仏頂面だが、政宗と居るときだけはやわらかくなる。社長を見ているときの旦那はほんとうに それをいとおしいんでいるんだということが見ているこちらにも切ないくらいに伝わってきて、苦しくなるくらいの顔 をする。ひとはこんなに誰かを想うことができるのだと、佐助は見る度にちいさな感動のようなものさえ感じる。 そういう旦那をたぶん、佐助はとてもシンプルに尊敬をしているのだ、と認識している。 佐助にはそんなに大事なものがない。そんなにひとをいとおしんだこともない。大事なひとは居るけれども、小十郎の ような顔はできない。ああいう顔で誰かを見ることができる人間は、きっと世界中探してもそんなには居ない。 小十郎がいとおしむのは佐助ではないけれども、それは脇に置いておいたとしてもああいうふうにひとをいとおしめる 人間と一緒に居るのは新鮮で、それからとても世界があざやかに見えて佐助は気に入っている。 小十郎と一緒にいると、すこしだけ世界がいろを増やすような気がする。 多少悔しいけれどもそれは政宗のおかげでもあるので、佐助は旦那が自分より政宗のほうを大事にしてもそんなにはい やではない。それが旦那で、なにより片倉小十郎だからだ。 社長を最優先する旦那のことを、それなりに嫁はすきだった。 だから小十郎のその言葉に、佐助は首を傾げた。 「やすみ」 旦那の会社は土日が休みだ。 けれども、小十郎は大抵そのどちらかは出勤している。 有給を使ったところも見たことがない。休み。それは確かにあるのだろう。夏休みになればもちろん幾日かは休みを取 ることも、労働基準法で認められている筈だ。ただ佐助のなかで自分の旦那とその「夏休み」という言葉はあんまり似 つかわしくなくて、なにか自分の知らない新しい言葉なのではないかとさえ思ってしまった。けれども何度発音しても それは「なつやすみ」で、佐助はそれを変換する術を「夏休み」という概念しか持っていない。 その間にも旦那は嫁を置いて寝室に向かい、スーツをクローゼットにしまってネクタイを解いている。 「風呂出来てるか」 「あ、え、うん」 「飯は」 「まだ」 いつものように嫁は答え、いつものように旦那は何も言わずに洗面所に入る。 佐助は鞄を抱えたままリビングに戻り、ソファにそれを放り投げてからまた首を傾げた。 休み。 しかも一週間。 「有り得なくね」 眉を寄せてつぶやく。 夏休みを取る片倉小十郎。 それはなんだか、平和主義の快楽殺人者、というのと同じ種類の響きを持っていた。言葉と言葉が矛盾している。その ふたつは並べて使ってはいけない。そういう感じがする。 佐助はとりあえずまだ味噌の溶いていない味噌汁がぷすぷすと沸騰してあふれ出してきたのであわててキッチンに戻っ て、夕食を用意しながらまた首を傾げた。はて。 これはどういうなぞかけだろう。 「そのまんまの意味だが」 風呂からあがった旦那は不思議そうに首を傾げる。 嫁は旦那の真似をするようにおなじ向きに首を傾げた。 「なんでまた一週間も」 「旅行に行くからな」 「りょこう」 佐助は思わずぽとりと焼き茄子を落とした。 「りょこうってあの、旅に行くと書いてのりょこうですか」 「俺は他の『りょこう』をついぞ見たことがねェが」 旦那は落ちた嫁の焼き茄子を眉を寄せて眺めながら、そう言う。 はあ、と嫁はつぶやいた。 はあ、旅行。 「どこに」 「シチリア」 「はあ」 シチリア。 また凄いのが飛び出てきたなと佐助は思った。驚く気にすらなれない。 なんでシチリア、そこになんかの支部があんのかよ、と佐助は聞いた。ねェよ、と旦那は答える。第一支部ってなんだ、 マフィアと話を繋げたいのかおまえは。どんだけ俺の会社を闇に引きずり込みてェんだ。佐助は睨み付けてくる小十郎 の顔を見て、そりゃほぼ十割方あんたの顔のせいだよとどうしても言いたいらしい口を拾い上げた焼き茄子でふさいだ。 もぐもぐと茄子を咀嚼しながら、佐助はシチリアかあ、と思った。 イタリアの島だということくらいしか知らない。 「片倉さんはイタリア語話せるの」 「日常会話程度ならな」 「すげえ。俺は大学で習ったフランス語だってあやしいってのに」 佐助は息を吐いて、それからふと思った。 「ねえ」 「うん」 「それってさ」 「旅行か」 「うん、それってさ」 「俺も付いてって、いいの」 おそるおそる聞くと、小十郎はちらりと目を開いた。 そして首を傾げて何が言いたいんだ、と言う。だからさ、と佐助はまたおなじ言葉を繰り返した。だからさ、俺もあん たに付いてってシチリアに行けるわけですか。 しばらく旦那は黙り込んでから、 「残りてェなら残っても構わんが」 急だったしな、と言う。 佐助は目を瞬かせた。 「え、それって」 「なんだ」 「俺も行っていいってことだよな」 「来ないつもりだったのか、おまえ」 呆れたように息を吐く。 うわあ、と佐助は声をもらした。 意味もなく碗を持ち上げて下ろす。なにしてんだ、と小十郎が思いきり軽蔑した目で見てくるがあまり気にならない。 へらりと佐助は笑った。そうかあ、とつぶやく。そうかあ、旅行かあ。 佐助と小十郎は新婚旅行をしていない。旦那は結婚式の当日も仕事をしていたし、翌日もふらふらと疲れ切った体をし ている筈なのにぴっちりとスーツで仕事に向かった。佐助は疲れ切って昼まで寝ていた。その後もふたりでどこかに旅 行に行ったことは一度もない。小十郎は仕事ばかりしているし、佐助は佐助で旅行をしたいときは忙しい旦那とではな くて昔の同僚の真田幸村や友人と行っていた。そもそも、と佐助は思う。 そんなことが可能だと思ったこともなかった。 「旅行かあ」 へらり、と佐助は笑う。 小十郎はにやつく嫁を気色悪げに眺めた。 「うん、まあ」 予想はしてたんだけどね、と佐助はつぶやく。 「何か言ったでござるか」 「いや、なんでもない。ひとりごと」 「そうでござるか」 幸村が首を傾げてまた耳にイヤホンを付ける。 佐助はそれを眺めてから、クラシックの流れるイヤホンを膝のうえに放って、首を通路に出して後ろを振り返った。斜 め後ろの席に旦那の顔が見える。その顔は佐助には向いていなくて、横の席に向いている。ときおり笑い声がもれてく る。佐助はうんざりと息を吐いて、またイヤホンを耳に突っ込んだ。 同時に、お客様、と声がかかる。 「なにかお飲みになられますか」 「あぁ、じゃ、コーヒー頼むわ」 「かしこまりました」 にこりとスチュワーデスがほほえむ。 佐助は今飛行機のなかに居た。 横には幸村が居る。 小十郎は斜め後ろの席で、政宗と隣り合わせで座っている。 佐助も馬鹿ではないので期待したのは小十郎に旅行のことを告げられたその夜くらいで、翌日朝日を浴びながらまあど う考えても社長も居るわな、ということは予想がついた。実際には社長だけでなく小十郎の姉の喜多と社長の従兄弟の 伊達成実も居た。まあそれはどうでもいいことだよね、と佐助は思う。問題は社長であって、それ以外の人間がいくら 居たところで佐助にとってはプラスにもマイナスにもならない。 次の問題は幸村も居るということだ。 「片倉殿が誘ってくれたでござるよ」 とにこにこと笑うかつての同僚に、佐助は乾いた笑みを浮かべた。 幸村に、ではない。幸村のことは佐助だってとても大切な友人だと思っている。一緒に居るのがいやなわけがない。こ こにおいての問題は要するに「小十郎が」幸村を誘った、というところに限定される。べつに旦那と幸村は親しくない。 たまにマンションに幸村が来ることはあるけれども、旦那は大抵居ない。会話をした回数は片手で足りるほどしかない。 そんな旦那がなぜ幸村を誘うか。 佐助は息を吐いた。 「コーヒーでございます」 「あ、どうも」 紙コップを掴んで口にコーヒーを流し込む。 期待はしてなかったけれども、やはりそれはただ苦く、香りがないコーヒーというのはつまり草木を潰して煮詰めたよ うな味がするのだと佐助は思った。コオロギにでもなった気分だ。 不味いコーヒーを一口でテーブルに放置して、佐助は幸村をちらりと見る。幸村は音楽を聴きながらくうくうと寝入っ ている。要するに、と佐助は思った。 要するに、これは佐助への気遣いなのだ。 旦那はこの旅行で佐助に構う気が一切ないのだろう。 だから幸村を呼んで、おまえはこれと遊んでいろということなのだ。ありがたいこって、と佐助は目を細めながら胸の うちで吐き捨てた。普段気遣いをしない人間はここぞというときで見事に外してくる。気遣いどころか不愉快だ。これ ならなにも言われず放置されたほうがいくらかましだ。 ひとりで観光でもなんでもしてやったのに、と佐助は思った。 本でも読もうかと鞄を探っていたら、すう、と影が落ちてきた。 「佐助さん」 「ああ」 佐助はひょいと頭を下げる。 小十郎の姉の、喜多だった。 小花が散りばめられたノースリーブのワンピースをまとっている喜多は、小十郎の姉にはとても見えない。佐助と同い 年か、それよりも下に見える。普段スーツを着ている喜多は年相応に見えるが、笑顔がおさない佐助の義姉は場所によ っておどろくほど印象が変わる。佐助は喜多がすきだった。何故かと言えば、なににも動じない自分の旦那の唯一の苦 手分野がこの姉だからだ。小十郎は喜多の話になると途端に顔をしかめてとても面白いことになる。 ごめんなさいね、とその喜多は小十郎によく似た切れ長の目を細めて頭を下げた。 佐助は首を傾げる。 「何の話ですか」 「あの子」 忌々しげに喜多は吐き捨てる。 「今年はちゃんとふたりで過ごしなさいって言ったんだけど」 「ああ、片倉さんのことか」 「ほんとうに駄目な子ねえ」 喜多は呆れたように言って、見棄てないであげてちょうだいね、と言う。 佐助は思わず笑ってしまった。 「いやあ、逆はあってもそれはないな」 「あらそうかしら」 「だって俺フツツカモノですから、相当」 「そんなこと」 「いやいや、ほんとほんと」 佐助は手を振って、それからへらりと笑う。 「それに」 「ええ」 「俺ね、結構ああいう片倉さんって良いなと思ってるんで」 まあ多少むかつくけど、という言葉を飲み込んで佐助は言う。 ちらりと小十郎を振り返る。喜多も振り返る。小十郎は丁度なにかを政宗に耳打ちされて、声をひそめてちいさく笑い 声を立てているところだった。それからまたちいさな声で政宗になにかを話しかけている。切れ長の目がつう、と細く なって、薄い唇がかすかな弧を描いている。喜多の呆れたような顔に、佐助はああいうとこがね、と笑う。 案外俺ねえ、格好いいなあって。 「俺にはあんなに想えるほど、大事なもんはありませんのでね」 そういうのを持ってる旦那さんは結構俺の自慢ですよ、と佐助は喜多に言ってやった。 喜多は目を幾度か瞬かせてから、こちらは小十郎とはちがって厚い唇を笑みに形取る。 「あなた」 「はあ」 「小十郎さんのこと、すきなのねえ」 喜多はしゃがみこんで、首を傾げる。 佐助はぼうとほうけて喜多を見下ろした。にこりと喜多は笑う。 「こちらこそフツツカモノな弟ですけれど、これからもよろしくしてやってね」 手を差し出される。 佐助はまだぼんやりしたままその手を取った。ぎゅ、と握られる。 そのまま喜多は立ち上がった。佐助は視線を動かして喜多を今後は見上げる。また喜多はにこりと笑って、小十郎さん はほんとにすてきなお嫁さんをもらったわね、と言う。 「しあわせものね、あの子」 するりと手が離れる。 ひらひらと手を振りながら、喜多は席に戻っていった。 ふわ、と幸村は伸びをした。 佐助はおはよう、と気のない声をかける。 「もう着いたでござるか」 「まさか。あと四時間はかかるっての」 「――――もっかい寝るでござる」 「そうしな」 ぽん、と頭を叩かれる。 ふと幸村は顔をあげた。そして首を傾げる。 「佐助」 「なに」 「おぬし、顔が」 「俺の顔がなによ」 「赤いぞ」 どうかしたか、と幸村は聞いた。 佐助は目を瞬かせて、てのひらで顔を覆う。 「これは」 「うむ」 「ちょっと、さっき」 地味に照れた、と佐助は言う。 幸村は意味が解らなかったけれども、眠かったのでそうかとだけ言ってまた目を閉じた。 次 |