「―――は、ぅ」 指が滑る。 長い指である。細い。するりと滑らかな指である。それが肌の上を辿る。すうと真っ直ぐに辿るかと思えば、一所 で止まって円を描くようにゆらゆらと揺れる。思わず、そのもどかしい動きに腰が持ち上がった。 目の前の男がくつくつと笑う。 「きもちいい?」 低い声はとろりと耳に浸食してくる。 焦れったい動きをしていた手が急に袂にかかった。ぐいと下ろされる。晒を乱暴に解かれる。肌にひんやりとした 夜風が触れた。肌が粟立つ。障子がまだ開いている。 猿飛佐助の唇があらわになった胸に触れた。曲線をなぞって、天辺の項に吸い付く。背筋に震えが走った。声が出 そうになる。必死で肩に噛み付くようにして顔を伏せた。佐助は喉を鳴らして笑いながら、固く軋んだ指通りの悪 い黒髪をいとおしげに撫でた。 「小十郎さん」 甘ったるい声が名を呼ぶ。 片倉小十郎は呻くように、佐助に抱きついた。 星の数ほど男はあれど意地を張るのは主ばかり 「―――しねェのか?」 散々体中を指と舌でなぞられた後、佐助は荒い息を吐いている小十郎の体を拭いて布団に横たえた。 しのび装束を脱いで、襦袢をまとう。そして小十郎の横に潜り込んでくる。それだけである。髪を撫でながら童の ように寄り添ってくる赤毛の男の笑顔に、小十郎は顔を歪める。 またか。 「しないけど」 佐助は目を瞬かせる。 それからにんまりと笑った。 「してほしいの?」 「こういう状況で、しねェほうがおかしいだろう」 「またまた。慣れたようなこと言っちゃって」 佐助はたのしそうに小十郎の耳の下を指でくすぐった。 ぞくりと背中に走った感触に首を竦める。佐助がけらけらと声を立てて笑った。ほうら、御覧なさいよ。小十郎は 目を細めて、佐助の髪を思い切り引っ張ってやる。佐助はそれでも笑うのを止めない。自分の髪にかかった手を取 って、そのまま口まで持っていく。 ささくれだった太い指に、佐助の唇が触れた。 「龍の右目は見た目に拠らず初心なんだから、無理しないでゆっくりやってこうって言ってンでしょ?」 俺は待ちますから、と佐助はへらりと笑った。 小十郎は仏頂面でそれを睨む。口が苛立ちで歪んだ。佐助はそれを勘違いしたのか、あるいは勝手に解釈すること にしたのか、嬉しそうにゆるんだままの顔で小十郎を引き寄せ、歪んだ唇に自分の唇を押しつけてきた。 ぬるまったい感触を、しばらくは押しのけようと小十郎も努めたけれども、途中から面倒になったのでしたいよう にさせることにした。佐助は口やらほおやら額やらに飽きもしないで口づけを降らせている。小十郎さん、と合間 にいとおしげに名前を呼んでくる。小十郎は最高に不機嫌だったので、それらをすべて無視して目を瞑った。 他国のしのびである佐助とこんな関係になったのは、偶然と成り行きという他説明のしようがない。 多分佐助は面白半分で近付いてきたのだろう、―――と、思う。それ以外に自分のような女に近寄る理由が小十郎 には思いつかない。佐助は女慣れしているようであったし、小十郎は男慣れどころか女の形すらしていない。他国 の者同士で、身分も異なる。本来であれば、恋仲どころか知古にもなれぬ間柄のはずである。 佐助は好奇心が興じてしまったらしく、冗談に交えて時折本気とも取れる態度で接してくるようになった。それも 本気かどうか、もちろん小十郎には解らない。小十郎は女として生きたことはない。女に対する男の態度の真偽な ど解りようもない。解らなくても困ったことはなかった。 今も、解る必要はないのだとも思う。 どうせ佐助もいつかは自分に飽きるはずである。 新奇さ以外で佐助が小十郎に近寄ってきているとは考えにくい。だからそのうちに何処かへ去るだろう。このよう な甘ったるい仲もそれまでの間のことでしかない。 小十郎が佐助の誘いに乗ったのは、あの赤い目に化かされたからである。 恋情と云うには自分の体はあんまり滑稽で、おのれのことながら笑えるようで頂けない。佐助は飄々とした中身の つかみきれない男で、そのなかに自分を捕えるなにかがあったのだとも思えない。大体にして小十郎の中身はすべ て主に預けてある。今更なにかに心を動かすことはありえない。 だから佐助に体を預けるのは、狐に化かされたようなことなのである。 朝起きたらあの男は大抵隣から消えている。矢張り狐である。夢だけ見せて消えるのだ。そのうちほんとうに消え るだろう。そんなことは解り切っている。今更女として生きる気もないので、小十郎は特に佐助に約束や明日のこ とを期待するわけではない。むしろそんなものはないほうがいい。ないからこそのこの間柄である。 しかし、とも思う。 いつか終わるんだとして、と思う。 佐助は小十郎を抱かないのだ。 指や舌で小十郎を高めることはしても、自らの熱で穿つことはしない。 釈然としない。なんだか対等ではなくて腹立たしい。どうせ束の間の情人同士だというのに、佐助はゆるんだ顔で あんたを大事にしたいんだと嘯く。意味が解らない。 確かに小十郎には、佐助以外の男との関係などない。 二十九にもなって処女はおかしな話だけれども、佐助さえ居なければ女としての小十郎を見る者も居なかったのだ。 とっととすりゃァいいだろうと小十郎は苛立たしく思う。この年まで女として扱われたことなど一度きりだってあ りはしなかった。それは一種、小十郎の矜恃ですらあった。 大事になどされても腹が立つだけである。 しかし佐助に比べて自分の手管が落ちるというのも、癪だが事実なのだ。 男に抱かれるということがどういうことなのか小十郎は知らない。佐助によれば、それは「ちょっと痛いかもしれ ない」のだそうだ。痛みなど慣れきっている小十郎にそれを気遣う佐助は阿呆だろう。しかし彼のしのびによれば、 「戦と情交はぜんぜんちがう」のだという。佐助は小十郎を「きもちいいだけにしてあげたい」らしい。だからこ そ「ちょっとずつ慣れていけばいい」などと嘯く。腹立たしい。佐助ごときに上から見られる筋合いはない。 しかししのびの手管は癪なほど巧みで、高められるだけ高められた後は体中から力が抜けてしまって文句もろくに 言えずそのまま眠ってしまう。起きると佐助は消えている。あの野郎と小十郎は思う。 それを繰り返している。 主導権が佐助にあるようで腹が立つ。 「おやすみ、小十郎さん。好い夢を御覧なさいな」 耳元で佐助が言う。 背筋が震える。嗚呼、癪だ。 見返してやらないことには気が済まない。そう思いながらも、小十郎は甘ったるい声にどろりと眠りに落としこめ られた。 考えてみるに、 小十郎は思った。つまり、俺が男を知らんことが悪いのだろう。それがあの赤毛のしのびを調子付かせている。大 事にしたいなどという戯言を吐かせている。本来であればそんなことを言おうとも思わせない鬼の片倉が、未通女 であるというその一点においてのみ、あのような暴言を容認せざるをえないのだ。 つまり、と更に小十郎は思う。 「とっとと突っ込まれればいいわけだ」 思いついてみれば簡単なことなのだ。 なにも佐助にされるのを待たなくても、他の男にされればいいだけの話だ。そうすれば佐助も待つ由がなくなる。 大事にするものも消える。痛みなど躊躇の理由にもならない。 とっととやっちまおう。 小十郎はそう、結論を下した。 そうと決まれば善は急げ。思い立ったが吉日である。きちんと自分の仕事をしているのかどうだか実に怪しいほど 足繁く通ってくるあのしのびがまた来る前に、何処ぞの男に抱かれなくてはならない。さすがに城の者を相手にす るわけにもいかないので、選ぶとしたら町の者になるが、それもまた『片倉小十郎』を前面に出してしまえばいろ いろと面倒なことになるだろうことは想像にかたくない。姉やら主やらが煩く騒ぐに決まっているし、そうでなく とも噂されるのは好ましくない。自分がどう言われようと知ったことではないが、小十郎の不評はひいては主であ る伊達政宗の不評である。第一、龍の右目と知って小十郎を抱こうと思う物好きな男が佐助以外に居るとも思えな かった。 さて、と小十郎はまた考え込む。 しばらく考えてから、小十郎は姉である喜多の元へ向かった。 「姉上」 喜多は座敷で文を認めていた。 姉の字はいかにも女らしく、肉太な蹟である。声をかけると喜多はそこから顔を上げ、軽く首を傾げた。そういっ た仕草をすると、年齢よりもいくらも若く見える。 「どうしました、小十郎さん。私を訪ねるなんて、珍しいこと」 「少々、頼みたいことがありましてな」 「あなたが?」 喜多は筆を置いて立ち上がった。 驚いているようで、切れ長の目が丸く見開かれている。 「ほんとうに珍しいわね。今日は雪でも降るんじゃないかしら」 「茶化すのは止してください、姉上」 「あら、御免なさい―――それで、頼みってなんです?」 小十郎は姉の問いに、眉ひとつ動かさずに答えた。 「女物の小袖を、ひとつ貸して頂きたいのです」 「小袖」 「はい」 「何故?」 「着るからです」 「誰が?」 「俺が」 しばらく間が空いた。 それから姉がおんなじ問いを繰り返した。 「誰が?」 「だから俺が」 喜多はまたしばらく絶句した。小十郎はそれを黙って待っていた。概ね、予想できた反応である。 それから更にしばらく経ってから、興奮のあまり騒ぎだそうとする姉を抑え、着もしないというのに常に用意して あるらしい小十郎の為の小袖がたっぷりと仕舞い込まれた葛籠を蔵の奥から引きずり出した。ほんとうにどうして こんなものがあるのかと本来ならば姉を睨みたいところだけれども、今のところは必要なので小十郎は黙ってそれ を見下ろす。見るに上等な小袖ばかりである。聡明な姉であるから、なにも無理をして買ったわけでもないだろう が、それにしても随分と無駄な投資である。 「あなたがいつか着ると思って用意しておいて良かった」 姉はほんとうに嬉しそうに葛籠の蓋を撫でている。 それを見るとかすかに申し訳ないような気にならないでもないが、小十郎は敢えてなにも言わず、小袖を検分した。 量が多すぎてどれを着たらいいのか、いっかな見当も付かない。どれを着てもおんなじように滑稽であるように 思えてならない。 姉上、と小十郎は浮かれる姉に声を掛けた。 「一目では俺と分らぬような、きちんとした女に化ける為にはどれを着たらいいでしょうか」 その一言で姉は益々浮かれてしまった。 小袖だけでは話は済まず、化粧までこしらえられた。白粉を顔にはたかれる。なんだか見世物になったような心地が する。姉は愉しそうである。まァいいかと小十郎は思った。 大切なのは何処ぞの男と一夜を共にすることであって、その為に体裁などに拘っている場合ではない。 常は胸を抑える晒を解いて、腰の詰め物も外し、襦袢をまとって上から群青の小袖を羽織る。帯は胸よりすこし下、 肺が締め付けられてひどく窮屈である。草色の薄物を被って、前髪を下ろして短い後ろ毛をきゅっと結わう。なにか 簪を付けようと喜多が騒ぐので、小十郎はすこし考えてから以前佐助が冗談で寄越してきたものを髪に挿した。 それだけでゆうに半刻はかかる。 女というのは面倒だ、と小十郎はうんざりと思った。 「見違えるようですよ」 姉はうっとりと言う。 鏡を見てみたが、成程、すくなくとも一応女には見えるようだった。 日はちょうど傾きかけ、次第に空は橙に染まっている。今から町に出れば、良い頃合いかもしれない。そういったい ろめいた店が開かれるとしたら矢張り夜だろう。もちろん詳しくは知らないが、まあなんとかなるだろう、と小十郎 は立ち上がり、姉に礼を言って座敷を退がろうとした。 そこで、姉に呼び止められる。 「小十郎さん」 「なんです」 「何方に、それをお見せするおつもり?」 姉は少女のように目を輝かせて小十郎を見上げている。 小十郎は目を細めた。ごまかせるとも思っていなかったけれども、答えるのは矢張りためらわれるし、何処から説明 していいのかも定かではない上に、なによりも面倒である。 しかし姉は答えを今か今かと待っている。 小十郎は観念して、口を開いた。 「―――見返してェ男がひとり居るだけです」 「まあ」 喜多はにこにこと笑って、うっとりとした声で「愛ね」と言い放った。 ちがいますと小十郎は即座に返したが、姉はもちろんその言葉を聞かなかったことにした。 次 |