とりあえず雰囲気が大事だろうということで、佐助は縛られている。 おかしいだろう、と佐助は吐き捨てた。なんで俺縛られてんですか。小十郎は首を傾げて、「流れだ」と答えた。 「にげるからだ」 と幸が続ける。 幸はさっきからもうずっと佐助にへばり付いて離れない。 ぎゅうと、ちいさな手でしのび装束に縋るようにしがみつく。佐助はそれをひどく困ったような顔で眺めている。 困るなら逃げなけりゃいいのにな、と小十郎は思った。弁天丸は小十郎の後ろで親の敵でも見るような―――こ の場合親は佐助なのだが―――顔でずっと佐助を睨み付けている。 それで、と小十郎は楓の木に括り付けられている佐助を見下ろしながら口を開いた。 「どうして逃げるんだ、おまえは」 「べつに逃げてません」 「あァそうかい」 「ってええええッ」 ぐい、と腹を思い切り踏んでやると、佐助が叫んだ。 弁天丸がひょいと小十郎の肩に飛び乗ってくる。更に重量が加算され、佐助の腹にぐぐぐ、と小十郎の足がめり 込んでいった。佐助のしろい顔が青くなる。すいません、と途切れ途切れの声が言う。すいません逃げました反 省してます。 小十郎は黙って足を引いた。 「理由言わなけりゃ、次は顔を蹴る」 「か―――――、それはひでえよ。俺の可愛い顔が」 「そんなもの何処にも見えねェ」 「みえねえッ」 「ちょっと幸、なんとか言ってやってこのひとたちにっ」 佐助が傍らの幸に訴えかける。 幸はすこしだけ目を伏せた。長い睫が切なげに揺れる。 「もくてきのためには」 「え」 「ぎせいがひつようなときもある」 とははうえがいっていた。 幸はそう言って、するりと体を退いて今度は佐助の膝に縋り付く。顔の近くでは危ないと判断したが為の、冷静 かつ正確な対処だ。佐助はすうと体温を下げた。 顔を小十郎のほうに向ける。 四つの黒い目が、とてもつめたく佐助を見下ろしていた。 どう見ても、どう考えても、何処にも逃げ場はない。 佐助はうう、と呻いて、視線を逸らし、それから目を閉じて深く息を吐いた。そして観念したように首を反らし て空を見上げ、どうせ言っても信じねえんだろうけど、と吐き捨てる。 「赤児が居ンだよ」 「はあ」 「赤児」 「誰の」 「俺の」 「へえ」 小十郎は取り敢えず頷いた。 それから「目出度いな」と言った。 佐助は不機嫌そうに顔を歪めている。幸はぱちぱちと目を瞬かせて佐助を見上げている。弁天丸は良く解ってい ないようで、小十郎の肩に縋り付いたまま固まっている。「誰の」と続けてまた問うべきかどうかで小十郎はす こし迷った。そうすることは、もしかしたらこのふたりの赤毛のおさなごにとってはまり良くないことやもしれ ない。 あんたの考えてることが手に取るように解るよ、と佐助は言った。 「『此奴等の前で聞くことじゃなかったな』―――とでも、思ってンだろ」 はん、と鼻を鳴らす。 いつの間にか縛っていた縄は解けている。 「生憎と、あんたが望むほど目出度い出来事じゃねぇよ」 「ふうん」 「あんたのだよ」 「はァ」 「あんたの」 佐助は眉を寄せて、小十郎の襟をぐいと掴んだ。 「あんたの子が出来たって言ってンだよ、この馬鹿」 それが来たのは、三ヶ月ほど前のことだった。 長く任務で暇が無く、もう随分奥州にも行っていない。おさなごふたりはどうしているだろう。小十郎は既におの れを忘れてはいないだろうか。佐助は久しぶりに上田に帰還した日、つらつらとそんなことを考えながら海より深 い眠りに就いた。無論、しのびに許される範囲の、ではあるけれども、その日の眠りは矢張り特別深かった。泥沼 の底の田螺のように佐助は眠った。 起きると、枕元に鴉が控えていた。 佐助は目を擦り、頭を振り、それから首を傾げた。鴉の傍らにはなにやら包みが置いてある。麻の布に、ちょうど やや大きめの下駄ほどのものが包まれているようだった。鴉は佐助が起きたことに気付くと、ぱたぱたと開いてい た障子窓から飛び立っていった。佐助はぼんやりとそれを見送って、板間に置かれた布包みに目を落とす。 「真田の旦那からの差し入れ――――なわけねぇやな」 つぶやいて、ま首を傾げる。 まぁとりあえず中身を見ないことには何も始まらない。おのれの鴉が持ってきたものなのだから、危険ということ もあるまい。佐助はそう判断して、するりと結び目を解いた。はらりと布が広がって、板間に落ちる。 中身は赤児だった。 「―――――ぁあっと」 佐助は眉間を指で強く押した。 目を開き、また視線を包みの中身へ落とす。矢張りそこには赤児が居た。まだ産まれて間もないようで、ひとと言 うよりは、ひとつの肉の塊のように見える。髪は黒く細く、すこしだけくるくると渦巻いていた。 かろく握られている手は、ぞっとするほどにちいさい。 「何処の子だ、こりゃ」 まさか鴉が勝手に連れてきたのだろうか。 佐助は乱暴に髪を掻いて、舌打ちをする。 幸いしばらく休みを貰っている。何処かで赤児が失せたという話でもあれば、すぐに帰せばいい。佐助はそう判断 して、それからまた布団にくるりと舞い戻った。なんにせよそれはもうすこし後回しにしよう。眠いのだ。後丸一 日程度なら昏々と、死んだように、百年前に彫られた石像のように、沼の底のナマズのように眠れそうだ。 ふいに、ちいさな鳴き声が包みから漏れた。 佐助は眉を寄せて起き上がる。包みのなかの赤児が泣いていた。 顔は真っ赤になって、皺がそこかしこに寄っていて、とてもではないがひとの形相には見えない。佐助はぼんやりと それをしばらくの間ぼうと眺めて、それからずるずると引き寄せておのれの布団のなかにそれを引き込んだ。まだ開 きもせぬちいさな手がゆらりゆらりと不安定に揺れるのを指二本で掴んでやると、すうと赤児の泣き声は止み、その ままころりと転がって佐助の胸元に寄り添ってくる。佐助はそれをゆったりと抱き込んで、また布団を被った。ぬく い、赤児の体温が冬の朝にひどく心地よい。 佐助は知らず顔をゆるめた。遠く奥州に居る、ふたりのおさなごはどうしているだろうと思った。早く会って、こん なふうに抱いてやりたいなあ。きっと幸は何も言わずに背中にちいさな手を回して、弁天丸は蹴りつけてくるのだ。 佐助はくつくつと肩を揺らし、胸のなかの赤児をやわやわと抱き締める。ぬるい、ぬるま湯のような、春の日差しの ような温度だ。今頃は雪に覆われている奥州の、この赤児のやわらかさとは真反対に居る男のつめたい肌を何故だか 逆に思い出した。 きんと張り詰めた、冬の朝のような固い肌。 「―――――あぁ、やばいなあ」 触りてえ。 佐助はつぶやき、それから首を振って眠りに就くことに集中することにした。 それから幾日かの間、佐助はその赤児の親を捜した。 しかし一向に見つからない。 鴉に問いただしてみても、頭をひょいと傾げるばかりで埒があかない。 赤児はひどく扱いやすく、ほとんど泣かない。仕事に就いているときは上田の女房衆に任せているので、しばらく経 てばおのれのことも忘れるのであろうと佐助はちらりと寂しさを抱きながら思っていたのだけれども、その赤児は佐 助がひょいと気紛れに訪れれば、誰に構われていようとも必ずちいさなその手を差し出し、ほおに触れ髪に触れ、ま るでなにかを確認するように寄り添ってくる。 女房衆は、佐助様は赤児の扱いに慣れてらっしゃる、と言う。 そうなのかな、と佐助は思った。小十郎は兎も角、おのれはほとんど赤児の世話をした覚えはないのだけれども、居 ないよりは居るほうが赤児のほうも警戒せぬのやもしれない。赤児の目はまだ開いていない。顔のほうは、大分ひと に近しくなってきた。 そんなふうにして、二週間ほど経った。 佐助はその赤児のせいで奥州にも行けていない。 まったくなんて厄介者を運んできたのだろうとおのれの鴉に苛立たしい気持ちを抱かぬでもないけれども、訪れれば 寄り添ってくる赤児は正直なところ、ひどくいとおしい。佐助はその日も、女房衆のところに居る赤児のもとを訪れ た。やあやあ、と障子を開き、高い声で戯けるように身を座敷にするりと入れ込む。 「―――――おや」 座敷の空気が、いつもとちがっていた。 女房衆が何故か佐助のことをじいと凝視している。 どうしたのどうしたのと首を傾げてみせれば、女房衆のうちのひとりが意を決したように口を開き、おひとつ聞いて もよろしいかしらと佐助に問うてくる。佐助は首を傾げて、なんでもどうぞ、と畳に座り込んだ。 「この赤さんは、どなたの子なのでしょう」 「いやあ、それがさ、まだ解ンないんだよねえ。探してはいるんだけど」 「佐助様」 「はいはい」 「ちょっと」 此方を。 女房が腕のなかに居る赤児を、すいと持ち上げる。 佐助は首を傾げながらそれを覗き込んだ。そして目を見開く。 赤児の目が開いていた。大きな丸い目である。それがぱちりと開かれて、佐助の顔をじいと一心に眺めている。 その目は、外の紅葉のように、赤かった。 佐助はぴたりと体を固める。 女房のひとりが、恐る恐る、と言うように佐助の顔を覗き込んで、さすけさま、と名を呼んだ。 はい、と佐助は何故か敬語で答える。佐助様。女房は佐助の目と赤児の目を交互に見比べて、その細い首をかくりと 傾げ、笑みを貼り付けた顔で言った。わたくし、おもうのですけれど。 「この赤さんは―――――佐助様の、ではないでしょうか」 赤い目。 そんなものは、そう転がってはいない。 すくなくとも、佐助はおのれ以外にそんないろの目をしている者に会ったことはない。 佐助は混乱した。そんな馬鹿な。これは鴉が勝手に拾ってきた赤児であって―――――とそこまで考えて、既にふた り居るあのおさなごがそもそも何処から出てきたか思い出して絶望した。うわあ、と思った。うわあ、有り得る。 小松菜から産まれる赤児が居るなら、鴉が運んで来る赤児のどこに不思議があるのだろう。 女房の腕のなかの赤児が、佐助に手を伸ばした。 「あ、ぅ」 「えええええ」 佐助は戸惑いながら、その手を握る。 女房が気を利かせて―――――余計な気ではあったが―――――そのまま赤児を佐助の腕に移した。やわらかく、ほ とんど重さを感じさせない物体が腕のなかにぽすんと収まる。赤い丸い目が、じいと直向きに此方を見つめてくるの で、佐助はどうしていいか解らなくなった。おまえ、とつぶやく。 「おまえ、俺の子?」 「あう、う」 こくり。 首の据わっていない赤児の首が、落ちる。 まるでそれは頷いているようで、佐助はくらりと眩暈を感じた。 次 |