これを着ろあれを着ろ、次はこれ、嗚呼、それもいいな。 葛籠は三つで終わるかと思えば四つになり五つになり、とうとう日も暮れた頃になっても未だ座敷へ担ぎ込まれ、 結局その日のうちにはすべてを着終えることはかなわなかった。佐助は精も根も尽き果てて、へたりと畳に顔から 突っ伏し蝸牛のように丸まって、もういやだ、と掠れた声で小十郎へと吐き捨ててやった。 「もう、もう襦袢一枚見たくない。肌が衣擦れでひりひりする。腕が痛い、肩が痛い」 突っ伏したまま呻く佐助に小十郎は満足げに息を吐き、うん、と頷く。 「そうだな。今日はこの辺りにしておくとしよう」 「―――今日は?」 「終わらなかっただろう」 終わるまでやるに決まってんだろうが。 小十郎は佐助を言葉で袈裟切りに切り捨てると、からりと襖を開いて女房を呼び、葛籠を引っ繰り返して衣装の山 になっている座敷を総出で片し出した。佐助はしばらくの間はぼんやりとその騒動を眺めていたけれども、元来の 性質かなんなのか、他人が働いているときに―――況んやそれが自分より尊い者である―――ひとり怠けるのはど うも性に合わない。なんだか腹の辺りがむず痒く、手伝おうと一枚の小袖についと手を伸ばし、 「―――ッ、た」 そこを、小十郎に叩かれた。 目を丸めて見上げると、小十郎も目を丸めている。 「あァ、」 すまん、と言う。 佐助はすこしの間弛緩して、それから首を振っていや俺こそごめんと取り敢えず謝った。女房たちがその間に佐助 が手に取ろうとした小袖もなにもかも、すべてを葛籠に収めて旋風のようにするりと座敷から退がってしまう。ふ たり座敷に残されて、しん、といやに沈黙と空間の隙間が重く、佐助は叩かれた手の甲を押さえたまま混乱してし まった。 女房が居なくなるまで佐助と同じくぼうとしていた小十郎が、ようよう口を開いた。 「手は、大丈夫か」 かさついた大きな手が、佐助の手を取る。 佐助は慌てて首を振って手を引いた。大丈夫だよと突拍子もないような声で吐き出し、小十郎からさり気なく一寸 ほど後ずさる。そうかと小十郎は安堵したように息を吐いた。そして目を伏せる。その風情はなにやら佐助には儚 いように見えた。見えただけやもしれない、と思い直す。なにしろどうも、今の佐助には小十郎はまるで正確なも のとして映らない。まったくなにか、佐助の目という歪んだ境を通してしか内奥へと伝わってこないのだ。 だから小十郎が目を伏せたことに、なにか意味があるのかどうかほんとうのところは良く解らない。 「どうか、したの。悪かったよ、高価な物だったンだろ」 けれどもすくなくとも、佐助の目にはその「目を伏せる」という事が、なにかしらの意味であるように見えた。 そうなると口を出さないわけにもいかない。なにしろ小十郎は目を伏せてから喋ろうとしないし、どころか立ち去 ろうともせずにただ佐助の横でぼんやりと畳の目を数えるばかりなのだ。横にこの生き物が居るままでは、佐助の 一日の疲れはいっかな取れるわけもなく、居るにせよ失せるにせよ、このままの刻が続くのはなにより佐助にとっ て害悪である。ごめんね、と佐助はまた言った。 小十郎はそれに、ゆるゆると首を振る。 「いや、俺こそ悪かった。急に女の手を払うなんざ、下郎のすることだ」 「あんただって女じゃないか。関係ありませんよ。それに、俺が悪かったンじゃない、さっきのは」 着物はどれも絹だった。 佐助など本来なら生涯一度も腕を通すことのない装束ばかりであった。なにゆえにそれを佐助に着せようとしたか は知らぬけれども、矢張り触れられる事に瞬時に嫌悪が沸いたのだろう。小十郎のような身分の者から見れば、佐 助などは「ひと」という括りにも入らぬ畜生である。 けれども、小十郎はまた首を振る。 「絹だのなんだの、そんな事ァどうでもいい。ただあれは、」 「あれは?」 「頂いた物でな。さる、御方に」 小十郎は困ったような、笑うような、微妙な顔をした。 「その御方は俺にとってあんまり大事で、時折思うより先に体が動く。悪気があるわけじゃあねェんだ。悪かった。 おまえが特にというわけじゃねェ。誰でも一緒だ。すまなんだな」 小十郎はその微妙な顔のまま、いやに歪んだ滑稽な笑みを浮かべ、明日は俺が政務を終えたらまた始めるから、そ れまでは好きにしていろと言い捨てて、座敷を出て行った。佐助はからんと閉まった障子を見上げながら、小十郎 の先刻の笑みを思い出していた。驚くべき、滑稽な笑みだった。ひとの笑顔があんなふうに醜く歪んだ様を、佐助 はついぞ見た試しがない。 急に、かなしくなった。 まったく意味も脈絡も由もなく、佐助はかなしくなってしまった。 佐助は焦った。そして大いに慌てた。このまま帰ってしまうことにしようかと思った。帰ることはできるだろう。 多少の警備を潜る自信はあるし、こんな下らぬことの為に小十郎が大それた包囲網を作っているとも思えない。呆 気ないほど簡単に、すぐさま佐助はあの良く解らない生き物の手の中から逃れることはできる。 けれども何故だか、佐助はそのときまったくそういう心地になれなかった。 小十郎は明日政務に向かい、そして屋敷に帰って佐助の元を訪れる。佐助が帰ってしまえばそこには当然何者も居 ないがらんどうの空間が広がることになる。そのときあの生き物はどういった顔をするのだろうか、と佐助は考え た。良く解らなかった。がっかりはするだろう。恨むやもしれない。その程度の薄い事しか佐助は想定できなかっ た。なにしろ佐助は小十郎のことをほとんどまったく知らないのだ。 さる御方って誰だろうと佐助は思った。 明日それを聞いてみようと佐助は重ねて思った。そうすることにして、佐助はその日は片倉の家で用意された上等 の客間で眠りに就いた。眠りに就く間際、小十郎に払われた手の甲を見てみたが、もちろん赤みはとうの昔に引い ていて、そこには小十郎の言う「しろい肌」がのっぺりとあるだけだった。 「さて、今日も始めるぞ」 日も暮れんとするような刻になって、小十郎はようよう佐助の元をまた訪れた。 佐助は肩を落としそれを迎入れる。背後には既に葛籠を持った女房どもが構えている。小十郎はおそろしく上機嫌 で、佐助に抱きつきかねないような勢いで横に座り込み、まるでそれは単なる案山子ででもあるような無造作な仕 草で佐助の纏う小袖を片手で剥ぎ取る。佐助はもう諦めることにして、目を瞑ってそれに耐えている。昨夜なにか しらの誤作動のせいで逃げだし損ねたときに、既にこうなることは知れていたのである。ならば今更抵抗するのも 阿呆らしい。小十郎は若草色の打ち掛けを佐助に羽織らせながら、今日は随分大人しいな、と特に問うような口調 でもなく言った。 「楽で助かる。しかしおまえ、緑が映えるな」 「そら、どうもありがとう。しかし昨日も思ったけどさ」 「なんだ」 「これ、一体何方のお召し物なわけ?」 佐助は片手を持ち上げて問うた。 たらりと打掛の袖が手の先に余って折れて下を向いている。佐助は小柄という部類に入るとはいえ、女としてそこ まで特殊でもない。それでここまで袖が余るのは奇異である。これではほとんど男物のようだが、それにしては作 りも色も女のそれである。 佐助の問いに、小十郎はあァ、と頷いた。 「俺のだ」 と言う。 佐助は思わず顔を上げた。 「なんだって?」 「いやだから、これは俺の着物だ」 「あんたの?」 「あァ、しつけェ奴だな。うん、青は今ひとつか。おい、そこの藍染めの小袖を持て」 「ちょ、っと、ちょっと」 佐助は立ち上がって、女房と小十郎の間に立ち塞がってやった。不満げに小十郎が睨み上げてくるのを見ないよう にして、改めて身に纏っている打掛と小袖を眺める。小袖は確かに裾が余っていて、打掛も件の如く裾も袖もおそ ろしく長い。小十郎の体躯は佐助より二回りほど大きく、成程、目の前の生き物にこれは丁度の大きさやもしれな いけれども、 「これが、あんたの?」 目の前で見上げてきている小十郎は、小袖と袴を着て、その上に綿入れの羽織を纏っている。 着こなし方まで涼やかで、憎い程である。主が伊達男であることになんら傷を負わせぬ男ぶりだが、中身が女であ ることを考えればそれもまた滑稽なようだった。佐助は自分の着させられた小袖を見下ろす。偽紫の薄色に、点々 といろが抜かれしろが舞い、袖の部分だけ絣が入れられている。粋な趣向の小袖である。深層の姫君というよりは、 女房頭辺りが着そうな柄といえる。佐助は改めて小十郎を見た。 成程、これなら小十郎が着ても滑稽ではない。 けれども、 片倉小十郎が? 「まァ、といっても着たこたァねェんだがな」 小十郎は木偶のようになった佐助の肩に手を置いて、すとんと下に座らせると、その上を通らせ藍染めの小袖を女 房から受け取り、打掛を剥いで他の女房に渡し、佐助の袷に手を掛けた。帯を解いて袷をくつろげさせながら、ち いさく笑みのようなものを口の端に浮かばせ、着る意味も場所もねェしな、と言う。 「御陰で此奴らは今の今まで延々おねんねしてたというわけだ。そりゃ、あんまり殺生かと思ってな」 着物は着る為にあるだろう、と小十郎は言う。 なら着てやらねェとあんまり哀れだ。 「おまえさんが女だと解った時に、これはおまえしかいねェと思った」 小袖が肩から落ちて、佐助の腰にまとわりついてくる。それを丁寧に小十郎は拾い上げ、横の女房にまた渡す。佐 助は藍染めの小袖と一緒に背中に小十郎が被さってくるのを背を丸めることで拒んだ。 どうかしたか、と不思議そうに小十郎が問うてくる。 「どう、って、いや、―――なんで俺なのさ」 佐助は振り返り、小十郎を見上げた。 「自慢じゃないけど、あんたの言う通り俺はそう大した体をしてるわけでもねえし、此処にいらっしゃる姐さん方 のが余ッ程別嬪さんでしょうに」 佐助は素肌のまま、くるりと体を一転させて小十郎と向き合った。 小十郎は小袖を持ったまま目を丸めている。佐助はなんだかぞっとした。小十郎の持っている物が、―――小袖な のだが―――急に得体の知れないなにかであるように見えてきた。 そうしたら小十郎の事が益々なんだか良く解らなくなってしまった。 「なにも俺じゃなくッても良いじゃないか。俺はそんなものを着る程上等なもんじゃありませんよ」 「急にどうした。今までは別になんにも言わなかったじゃねェか」 「だって可笑しいじゃない。なんであんた、自分の着物を他の女に着せてンだよ」 「俺は着れんからだ。言ったろう」 「なんで着れないのさ。着ればいいじゃないか」 「着れるかよ」 小十郎はいかにも愉しげに、くつくつと笑った。 「俺に?これが?俺にこれがなァ、へェ、成程なァ」 面白いことを言う女だな、と小十郎は目を細め佐助の髪を指で掬った。それからまた愉しそうに笑みを口に籠らせ て、おまえは髪までなめらかだな、と感心するような声をもらした。 つくづく女だ、と言う。そしておさなごに言い聞かせるようなやわい口調に音を上げる。 なァ、猿飛よ。 「面倒な事を言い出さねェで貰えると助かるな。おまえも早く帰りてェんだろう?」 「―――そりゃ、そうだけどさ」 「一体おまえは何が不満なんだ」 佐助は黙った。 すこしの間「不満」を探してみたが、それは特に何処にもないようだった。不満というなら元々のこの騒ぎの根本 に関しては大いに不満だが、しかし小十郎が言うのはそういうことではない。では不満はない。不満はないよと佐 助は言った。そうだろうと満足げに小十郎は返す。不満はない、不満は、 敢えて言うなら佐助は「不安」だった。 何に対してとも言えぬけれども、「不安」である。 「さァ、そうと決まればとっととこれを着てくれ。これは似合うんじゃねェかと思うんだがな」 小十郎はするりと佐助の背後にまた回って、藍染めの小袖を被せてくる。 そのときにかすかに小十郎の匂いが佐助の鼻をくすぐってきた。土と汗と、しかしかすかに女の匂いがする。佐助 はそれに体が熱くなるのが解った。小十郎は佐助の前に回り込み、長い指で器用に佐助に小袖を添わせていく。皮 膚に直接、かすめる程度でもその指が触れるとそこがじくじくと疼きを孕む。 それは佐助が小十郎を「男」と認識しているからなのか「女」と認識しているからなのか、それとも単なる生理的 な反応なのか相変わらずまったくその判別が付きかねる感触だった。佐助は小十郎にくるくると小袖やら打掛やら を着せ替えられながら、頭も体も激しい混乱の最中に放り込まれてしまって、まったく安定を失ってしまった。 結局葛籠は二日目になっても尽きないで、その日も奥州に泊まることになった佐助はもう逃げ出す事など思考に上 らぬほどに、「片倉小十郎」という理不尽な生き物の渦に巻き込まれていた。 次 |