「では力比べをしようじゃあないか」
北風はそう言いました。
太陽もそれに同意をします。
「いいとも。方法はどうするんだい?」
「なに、簡単さ。今からこの下を通る旅人の服をどっちが脱がせるか、だ」
「ふむ。至ってシンプルだね。異議なしだ」
しばらくして、旅人がひとり太陽と北風の下を通り過ぎていきます。
まずは僕からだと北風はおなかにいっぱいの空気を吸い込んで、ぶおう、と吹き出しました。
ぶおう、ぶおう。
ところが旅人は服を脱ぐどころか、
「なんて寒さだ」
とコートの襟を合わせて、いっこうに服を脱ごうとしません。
そのうちに北風は空気を吐き出すのに疲れてしまって、とうとう諦めてしまいました。
次は太陽の番です。
「僕ならこうするがね」
太陽はそう言って、ぱあ、とあかるく輝きだしました。
さんさんと日の光が旅人を照らします。旅人が汗をかきだしました。
そして「なんて暑さだ」と、とうとう旅人は服を脱いでしまうのです。
(『北風と太陽』アイソープス著)
The north wind and The sun
成る程ね、と猿飛佐助は手を振ってそこにこびりついた血を払った。
あァ、と横の片倉小十郎が捻り上げていた男の襟をひょいと離して、どさりと地面にそれを捨てる。
「良くもまぁ、逃げ道を見つけられたもンだ」
佐助はくつりと笑い、飛んできた拳にすこしだけ顔を逸らす。
すぐ後ろの壁にがつりと音をたてて拳がめり込む。重心を落とし、抱きつくようにして佐助は殴りかかってきた男の
腹に膝をめり込ませた。みし、と骨が折れる感触が膝に伝わってくる。ずるりと落ちてくるそれを地面に落とし、振
り返ると小十郎が眉を寄せてこちらを睨み付けている。
「人聞きの悪いことを言うんじゃねェよ」
「おやこりゃあ失敬。図星はついちゃいけねえよな」
足下に転がっている人間を蹴って、小十郎までの道を作る。
ざあ、と路地から見える道路を車が絶え間なく走っている。後一歩か二歩、大通りに足を踏み出せば昼よりまぶしい
ネオンで溢れている町のなかで、佐助と小十郎の居る場所だけはまるで死んだように暗い。小十郎の手を引いて、佐
助は路地を出た。手をあげてタクシーを拾おうとすると、小十郎がおいと難しい声をあげる。
佐助はへらりと笑って、大丈夫だよ、と言う。
「こういうときは公共機関使ったほうがいいぜ。
第一、あんだけやっときゃあ彼方さんもしばらく大人しくするでしょうよ」
タクシーが止まる。
佐助は血を隠して、後部座席へ乗り込んだ。
行き先を告げていると、小十郎がぽつりと何かをこぼす。佐助は振り向いて首を傾げた。佐助の視線に小十郎はしば
らく黙り込んでから、「助かった」と言い捨てる。
佐助はへらりと笑った。
「いえいえ、どういたしまして」
「だが」
「お」
「おまえ」
小十郎の声が低くなった。
佐助は黙って、背もたれにもたれる。
運転手に聞こえない程度の声音で、小十郎はちいさく「何故あそこに居た」と佐助に言った。佐助は視線を窓の外に
移す。ニューヨークの夜の町は、原材料不明の菓子のように悪趣味にまばゆい。ジェリービンズみたいだなあとぼん
やりとそのひかりを眺めながら佐助はさあどうだろうねえと間延びした口調で言った。
隣から舌打ちが返ってきて佐助は吹き出した。
「助けたってのに、えらい対応だこと」
「助けた、ねェ」
「おや、そこからご不満かい」
「どうもな」
おまえ驚かなかったろう、と小十郎は言った。
佐助は口を閉じて、てのひらで覆って、そのままウィンドウの枠に肘を突く。ちらりと小十郎を見て、そんなことも
ないけどね、とつぶやく。
驚いちゃいるけど、まあ。
「一度は、あんたならやるだろうとは随分前から思ってたってのが実際のところかね」
「知らなかった、と」
「知らないですよ、今日あんたから初めて聞いたよ。あんたが」
ウチを抜けることなんてね。
佐助は言った。
小十郎は黙った。
タクシーが赤信号で動きを止めて、車内に安っぽいラジオの音だけが満ちる。
しばらくて小十郎が口を開いた。「抜けるわけじゃねェ」佐助はくつくつと肩を揺らした。「らしくないね」と言っ
てやる。小十郎は何も言わない。自覚はしているのだろう。
佐助はそのまま「言い訳なんてさ」と続けた。
「正直に言ったらどうだい、あのおひとが怖いから、あんた逃げ出すンだろう」
口に出した後で、言葉をひそめるのを失念していたことに佐助は気付いた。
すぐに聞かれたところでどうということもない話題であったことに重ねて気付く。これは組織の話ではなく、個人
の話だ。タクシーの運転手が例え関係者であったとしても、聞かれたところでただの痴話でしかない。
これは武田の話ではなく、片倉小十郎と、
「―――――真田のことは関係無ェ、とは、言えんな」
小十郎はすこし笑いを含んだ声で言った。
佐助は小十郎の鋭角な横顔をじいと凝視する。
それはひどく疲れているようだった。目の下に隈がある。元より深く刻まれた眉間のしわが殊更に深く、ほとんど
痛々しいほどだ。佐助は下から小十郎を覗き込み、見上げながら「そんなにあのおひとは怖いかい」と聞いた。
怖くはない、と小十郎は窓の外を物凄い勢いで後ろに飛んでいく夜景を眺めながら答える。
「生理的な問題だ」
「そりゃひでえや。旦那が不憫」
佐助は苦く笑った。
「真田の旦那は、もうほとんどあんたのことしか見えてねえッてのに」
「麻疹のようなもんだろう。時期が来れば忘れる」
「あんたはどうなンだよ」
佐助は小十郎の顔を眺めながら、笑みを引っ込める。
まだ切れてねえんだろう、と言うと、小十郎は珍しくすこしだけ視線を泳がせた。やっぱり、と佐助は眉を下げて
態とらしく息を吐く。やれやれ。
「大人の麻疹は怖いぜぇ」
「煩ェよ」
「甘く見るなってことさ。
真田幸村はあんたが思ってるよりも、そう、どうしようもないひとだよ、俺たち如きには」
知ってるさ、と小十郎は言った。
知ってる。だから抜けるんだろう。
佐助は首を竦めて、ならいいですけどね、と笑った。
真田幸村は、片倉小十郎と猿飛佐助の共通の上司―――――より一般的な概念から解りやすい言葉で言うと、次期
首領、だった。ニューヨークのマフィアの中でも一二を争うファミリーの首領である武田信玄の養子で、今はこの
国の高校に通っている。年は16で、目が日本人離れして大きく、それでいて底知れないほどに黒い。あかるく、
生真面目で人懐こく、高校でもまたファミリーのなかでも誰ひとりとして幸村をきらう人間など居なかった。
小十郎と佐助は、まだ幸村が日本に居たときから常に世話役として傍に居た、言ってみれば次代ファミリーの幹部
としても地位を約束された立場にあって、もうこちらでの生活も十年近くになる。幸村がちいさい頃から、横に座
る男にきらきらとしたあこがれを抱いていたのを佐助は良く知っている。
そしてそれが恋愛感情に変わっていく過程も、とても良く知っている。
自然と言えば、とても自然なことだった。幸村は真っ直ぐで、前しか見ない、そういう少年だったし、今もそうい
うふうに育っている。横に居たのはいつも小十郎と佐助で、親しみやすい佐助が幸村にとっての親友になって、ど
こか近寄りがたいけれども決してつめたくはない小十郎がそういった対象になるのは、仕組まれたことのようにも
う最初から決まっていたのだろうと、佐助などは思う。
幸村の好意は開けっ広げで真っ直ぐで、小十郎がそれに応えるようになるのにも大した時間はかからなかった。も
ともと小十郎は幸村の性質をいとおしんでいたのだし、横に居る佐助からしても、ふたりが並んでいる風景は決し
て悪くなかった。幸村は小十郎に恋をしていて、小十郎はそういう幸村をはっきりと認めていた。
幸村が大学を卒業すれば首領は幸村になり、小十郎と佐助は幹部となるはずだった。
小十郎が「俺は日本に帰って企業に入る」と言い出したのは、そういうときのことだった。
抜けるわけじゃねェ、と小十郎は言う。
企業とは言っても一般企業ではなく、武田と繋がりのある到底まともとは言えないような企業―――――たとえば
武器輸送であったり、不動産の不正売買であったり―――――で、幹部として日本での組織を監督するというのが
小十郎の言い分らしい。うまいものだと佐助は初めて聞いたときは感心した。さすがは軍師とも言われる男だ。考
えることがいやらしく、隙がない。
そうまでして、とも思う。
そうまでして真田幸村から離れたいのか。
そうでしょうとも。佐助は小十郎の横顔を眺める。随分長い付き合いの相手だ。佐助は小十郎の性質をとても良く
理解している。とうてい、耐えられる筈もない。
おまえは残るのか、と問われて佐助は首を竦めた。
「俺とあんたは一緒だよ」
「どういう意味だ」
「耐えられない―――――そら俺もだ」
「なら」
行くか、と小十郎は前を見て佐助を見ないままに言う。
「おまえのポストも、ねェことはねェ」
「へえ」
佐助は一瞬だけ黙って、それからけらけらと高い笑い声をたてた。
お気遣い痛み入るね、と言って、首を振る。
「無理だ」
小十郎の眉がちらりと不快げに歪められた。
佐助はまだ笑ったままに、一緒だよあんたと俺はとまた繰り返した。一緒だよ。一緒。
「ただ要するに知ってるか、知らないか、それだけの違いしかない」
「何を」
「さて、何だろうね」
佐助は笑いすぎて目からこぼれた涙を人差し指ですくう。
小十郎は黙り込んだ。佐助も黙る。タクシーは高層ビルの間を縫って、佐助のアパルトメントに向かっている。
あと十分かそこらで目的地に着くという頃になって、佐助はまた口を開いて、真田の旦那にはもう言ったのかい、
と小十郎に問う。小十郎はしばらく迷ってから首を横に振った。
「明日、会う予定がある」
「そこで言うわけか」
「あァ」
「片倉さん」
「なんだ」
「あんた、『北風と太陽』って童話、知ってるかい」
小十郎の切れ長の目が、不思議そうに瞬かれた。
「イソップ童話だろう。誰だって知ってる」
「俺はあの童話が大嫌いでねえ、昔ッから」
佐助はくつくつと肩を揺らし、手をすいと持ち上げて、宙にくるりと円を描いた。
太陽がねえ、きらいだったんだ。小十郎は眉を寄せて不快げにしている。何が言いたいのか、という顔をしている。
佐助はまあまあとそれをなだめて、言葉を繋げた。
「要するにあれはさ、方法論の違いでしかねえンだよな」
無理矢理剥がすか。
じりじりと焦がすか。
「どうして太陽の方法がさも推進すべき行為として賞賛されるのかねえ。
これはある意味、恐ろしいじゃない。つまりあれを聞いた餓鬼どもは思うわけだろう。ああそうか、ひとを従わ
せるのは無理矢理じゃない。真綿で締めるように、じわりじわりとするのが一番だ、ってね」
「そんな穿ったことを考えるのはおまえくれェだろう」
呆れたように小十郎が言う。
佐助は笑って、そうかもしれない、と同意した。
「あれはふつう、『無理矢理ではだめだ、やさしさが人の心を開く』とか、そういう道徳的解釈がほどこされンだ」
「だろうな」
「でもさ」
「うん」
「太陽は、北風とおんなじことをしただけなンだぜ」
知りもしない旅人から、服を剥ぎ取る。
それがやさしさであるわけもない。単なる方法だ。
佐助はすこしずつ数をすくなくしていく外のネオンを眺めながら、でもまあふつうはそれでいいんだろうよ、と言
った。大抵の人間にはね、真綿でひとの首を絞めるなんてことは出来ねえんだ。太陽じゃないんだもの。
「精々がまぁ、ストーブになれるかどうかってところだね」
ただ、と佐助はそこで一旦言葉を切った。
ウィンドウを下げてくれと佐助は運転手に言う。ウィンドウが下がる。風が佐助の髪をふわりと巻き上げる。佐助
は身を乗り出して、空を見上げた。月がぽかりと、不思議の国のアリスのチェシャ猫のように弧を描いている。
太陽はあるんだよと佐助はそれを見上げながらつぶやいた。
小十郎はしばらく間を置いてから、おまえの言うことはいつも良く解らねェ、と息を吐く。
「それとおさらば出来るのも有り難ェな」
「そらまた随分なお言葉だ」
「結論がねェ比喩は好かねェ」
「メタファーは聞く人間の知性が試されるからねえ―――――まあ、いずれにせよ」
佐助は笑い声を引っ込めて、すこし声音を落とした。
「俺はあんたと別れるのは、結構堪えるね」
ちらりと振り返ると、小十郎も開いたウィンドウの縁に肘を突いて、外を見ていた。
佐助のアパルトメントは郊外にあって、そこは夜になるとぽつりぽつりと点在する街灯の他にはほとんどネオンは
存在しない。ひっそりとして、死に絶えたように音もひかりも消え失せる。タクシーはその一角にある、世界中の
どこを見ても転がっていそうな平凡の代名詞にも似た二階建てのアパルトメントの前で停まった。
佐助は運転手にカードを差し出しながら、ねえ、と小十郎に声をかける。
「出発は何時なの」
「明後日」
「そう、そりゃ奇遇」
俺も明後日は仕事がないんだ、と佐助は言った。
「あんたさえ良けりゃ、フライトの前に最後の晩餐と洒落込みませんか。空港まで送るぜ」
「―――――随分不吉なことを言ってくれるな」
苦く小十郎が笑う。
佐助も笑った。
安心して、と言う。
「俺はユダじゃない。銀貨であんたを売り渡したりはしねえさ。
それにあんたは信じてくれないかもしれませんがね、片倉さん。俺はほんとにあんたのことを結構気に入って
たし、そうだね、好きだったよ。一緒にずっと仕事が出来りゃあいいと思ってた。
でもまあ、あんたがどうしても無理ならしょうがないやな。だから、せめてさ」
タクシーのドアが開く。
佐助は片足だけアスファルトに落として、体を捻って小十郎の手を取った。
「あんたの未来に、祝福くらいはさせておくれよ」
にい、と笑って、手の甲に口付けるふりをした。
小十郎は呆れかえった顔でそれを見下ろし、けれどもすこし笑う。
おごれよ、と言う。もちろん、と佐助は顔を笑みで満たした。餞別だよ。そりゃいい。佐助はドアを閉めて、じゃ
あね、と言った。じゃあね、片倉さん、また二日後に。
小十郎はすこしだけ眉を上げてそれに応えた。
タクシーが走り去っていく。佐助はふるりと、秋の夜の温度に体を震わせる。
息を吐き出すと、しろくなった。とうとうライトも見えなくなった。佐助は目を閉じて、空を仰いで、目を開く。
月がぽかりと出て、その周りを星がちらちらと舞っていた。
俺はユダじゃない、と佐助はぽつりとつぶやいた。
それにくつりと笑って、言葉を付け足す。
「でもあんたもキリストじゃないんだぜ、片倉さん」
真田幸村と会うのは、一月振りだろうか。
相手は学生で、小十郎は社会人―――――と言うには多少特殊ではあるけれども、一応働いている。自由になる時
間が一致することはほとんど無い。長期休暇に幸村の学校が入ればそういうこともあるけれども、学期中にはほん
とうに一月に一度会えたら良い程度だ。
そしてそれは小十郎にとっては、救いでもあった。
十一月の空は真っ青で、それでもひかりがゆるく、風がつめたい。
小十郎は車の中でシィトに身を沈めながら、腕を組んでフロントガラス越しに見える世界を睨み付ける。何人かの
学生だと思われる男女が通り過ぎていく。季節のせいだけではなく、それを見ているとひやりと背中が冷えるのが
解る。らしくない、と思う。小十郎には怖いと思うものなどほとんどない。命を失うことも、怖いと思ったことは
なかったというのに、どうしてだろう、背中はつめたく、きいんと張っている。
こんこんとウィンドウが音を立てた。
顔をあげると、大きな黒い目と目が合う。
「片倉殿」
それがすぐに、くしゃりと笑みで崩れる。
小十郎はすこし間を置いて、久しいな、と言った。
「とっとと乗れ」
「かしこまりました」
大きな黒い目と、茶色のふわふわとした短髪の少年は―――――真田幸村はたたた、と駆けて小十郎の席の反対側
のドアを開き、助手席に座り込む。顔を向けてやれば、寒さのせいだけでなく紅潮したほおで、にこりと幸村は笑
い、かたくらどの、とまた小十郎の名を呼んだ。
「お元気でしたか」
「そこそこな」
「それはなにより」
「おまえはどうだ」
「其、健康だけは自慢でござるよ」
幸村は着ているセーターの胸の部分をぽんと叩いて、また笑う。
小十郎も思わずちらりと笑みを浮かべそうになったけれども、堪える。
ハンドルに手を置き、アクセルを踏む。何か食いたい物はあるか、と聞くと、すこし間が空く。不思議に思って隣
に視線を落とすと、顔を赤くした幸村が眉を寄せて呻いていた。
「どうした」
「あ、いえ、その」
「言いたいことがあるなら言え、まどろっこしい餓鬼だな」
小十郎は苛立たしげに吐き捨てた。
本来であれば幸村は小十郎の上司にあたるのだけれども、おさない頃からの付き合いであるし、幸村自身がそれを
望んだこともあって小十郎の幸村に対する態度は他の人間に対するものとすこしも変わらない。幸村はまたしばら
く言葉に詰まってから、意を決したように膝の上の拳を握りしめ、
「其、か―――――た、片倉殿の、手料理が食べたいでござる」
と言った。
小十郎は、はあ、と間抜けた声を出した。
「俺の」
「う、うむ」
「そんなものでいいのか」
「そんなものではござらん」
無気になったように、幸村が小十郎の言葉に自分のそれを重ねる。
小十郎は目を細めて、べつにいいが、と言ってからふと、そういえば明後日の出立の為に冷蔵庫の中身の整理をし
ていたので、家にはほとんど食料がないことに気付いた。そう言うと、構いませぬ、と幸村は首を振る。
「其、買いに行くでござるよ」
「ならついでに買って行くか、途中で」
「よろしいのですか」
幸村の顔があかるくなる。
態とらしいほどに声の調子があがる。
小十郎はぞわりと肌が粟立つのが解った。
自分のアパルトメントの近所にあるスーパーに車を走らせながら、ざわつく肌をなんとか収めようと小十郎は幾度
か深い息を吐いた。幸村はウィンドウをすこしだけ開けて、風にふわふわと髪を揺らしながら、会えない間にあっ
たことをどれもこれもが宝石かなにかだとでも言うようにたのしげに話してくる。小十郎はそれに相槌を打ち、た
まに一言二言言葉を返し、車を進める。
全身に寒気が行き渡るようだ、と思う。
幸村が悪いのではないことは知っている。
結局のところ生理的な問題なのだと小十郎は思う。
幸村はまっしろだ。なにもいろが付いていない。言葉にも動作にも一切の飾りも嘘もない。驚くほどに小十郎の横
に居る少年は無垢で、それはもう奇跡のようだと誰もが口にするほどに、純粋だ。
小十郎はそれが耐えられない。無垢。純粋。奇跡。
だって有り得ないだろう。
―――――どうしてこんな血腥い世界に居て、無垢で居られる。
いっそ快楽殺人者であったほうが、いくらか良かった。
小十郎と佐助はもうずっと昔から幸村の傍に居て、そうしてそのこどもがあんまりにまっしろなので、一体こんな
世界でどうやって生きていけるものかと気に病んだことも一度や二度ではなかったけれども、それはすべて杞憂に
終わった。幸村は変わらなかったのだ。すべてを知っても、何も変わらず、いつも太陽のように笑う。
自分が着ている服が、食べている物が、ひとを殺した金でまかなわれていると知っても幸村は何も変わらない。あ
あそうかと、そう思っただけなのか、それともそれすら思わなかったのかは小十郎などには知りようもない。
ただもう耐えられないと、そう思った。
この少年と居ると、すべての感覚が麻痺していく。
小十郎は自分の仕事が決して褒められるべき種類のものではないのを知っていたい。ひとを殺すことに心を痛める
ことのない自分に自覚的であることが、虫のように理由もなく死んでいった人間に対するせめてもの餞だろうと小
十郎は思っている。自分の手が汚れていることも知らずに生きていきたくはない。
スーパーに着いて、駐車場に車を停め、幸村がドアを開けて外へ出る。
「良い天気でござるなあ」
伸びをして振り返り、小十郎に笑いかける。
きらきらと茶色い髪が太陽に反射してひかる。
幸村はきれいな少年だ。目が大きく、髪はやわらかく、肌がしろい。小十郎は目を細めた。自分もドアを開いて外
に出て、鍵を閉める。幸村が反対側から駆けてきて、横に並んではにかむように笑った。小十郎はそれからこっそ
りと視線を外して、建物の方向へと足を進める。
野菜や肉を籠に放り込んで、会計を済ませてまた外に出た。
そこそこ大型のスーパーの駐車場は広い。丁度正午で、車の通りは激しかった。小十郎と幸村は互いにひとつずつ
の紙袋を抱えて、しばらく車が通りすぎるのを待つ。ちらりと小十郎は視線を落として隣の少年の顔を覗いた。幸
村は真っ直ぐに前を見ていたが、途中で小十郎の視線に気付いてこちらへ顔を向けた。
「どうかしたでござるか」
「あァ」
小十郎はすこし、迷った。
日本へ帰ることは、家に行ってから話そうと思っていた。
それはただしく、保身でしかない。おさない頃から傍らに居た少年の信頼を裏切ることを、すこしでも遠ざけよう
とする小十郎のちいさな保身でしかない。幸村の真っ直ぐな目が小十郎を見上げて、不思議そうにくるりと光彩が
回る。小十郎は急に馬鹿らしくなった。
言ってしまおう、と口を開く。
「真田」
「いかがいたしました」
「話さなけりゃいけねェことが」
ある、と小十郎は言おうとした。
その前にどさりと幸村の持っていた紙袋がアスファルトに落下した。
ころころとオレンジが転がる。小十郎は最初にゆるい速度で転がっていくオレンジを見下ろし、それから幸村へと
視線を戻して、目を見開いた。ちょうど黒いコルヴェットが正面を通過しようとしていた。
たん、と地面を蹴る音がいやに響く。
幸村がコルヴェットの前に飛び出した音だった。
「―――――さなだッ」
小十郎は紙袋を放り出して、黒い車体に牽かれそうになっていた幸村を思いきり突き倒した。
体を転がし、アスファルトに滑り込む。ざあ、とタイヤと地面が擦れる音が耳に入る。膝が擦れて鈍い痛みがはし
った。手を突いたアスファルトは太陽に焼かれて熱かった。小十郎は目を見開いたまま、息を詰めて粗いその黒光
りする石の床を凝視する。
「さすがでござるな」
間抜けた声がした。
小十郎は目をきつく瞑って、体を起こす。
体の下に居た幸村もそれにならって体を起こした。怪我はないらしい。小十郎の顔を見て、にこりと笑う。
「見事な身のこなし、さすがは片倉殿」
「―――――おまえ」
小十郎は掠れた声で言った。
額に手を押し当てて、呻く。それからぐいと幸村の首根っこを掴み上げた。
「巫山戯んじゃねェぞ。死にてェのか、この糞餓鬼。何がしてェんだ」
低い声で吐き捨てると、幸村の目が幾度か瞬かれた。
そしてかくりと首が傾げられる。それから眉が下がった。怒ったでござるか、と言う。小十郎は怒りでくらりと、
一瞬だけ目の前がしろくなったのが解った。当たり前だろうがと言うと、幸村は叱られた犬のようにくしゃりと顔
を歪ませ、申し訳ない、と言う。
「急に」
「急に、なんだ」
「試したくなったでござる」
「―――――何を」
「片倉殿が」
幸村の目は黒い。
底が知れないほどに黒い。
その目が真っ直ぐに小十郎に向いて、瞬きもしないままにひたりと固定する。
片倉殿が、と幸村は言う。片倉殿が、其を身を挺して助けるか否かを試したくなったでござる。
「試すまでもなかったでござるな。申し訳ござらん」
ほんとうに、心から反省したように幸村は言った。
ざわりと音がした。肌が粟立つ音だ、と小十郎は思った。
ゆるゆると幸村の首元から手を降ろす。おまえ、と小十郎はつぶやいた。
おまえ、しってるのか。
幸村が首を傾げる。
「知っているとは、何をでござるか」
「猿飛から何か聞いたか」
「佐助とは随分会っておらぬな」
「じゃあ首領か」
「お館様とはこの間お会いもうしたが、特別なことはなにも」
「なら」
小十郎は眉を寄せる。
どうしてあんなことを、と聞くと幸村は、
「急に試したくなっただけでござる」
当然のようにそう言った。
それから擦れて破れた小十郎の膝に視線を落として顔を歪める。
其のせいでこんなふうに、と言う。小十郎はてのひらを口に押し当てて、首を振った。吐き気がした。目の前に居
るのが一体何であるかが解らなくなった。幸村は嘘が吐けるような人間ではない。ほんとうに、自分のなかにある
ものしか外に出せないような男だ。
ぞっとする。
何も知らないと幸村は言う。
何も知らないのに、小十郎の態度だけであんなことをこの少年は平気でするのだ。
寒くもないのに悪寒が止まらない。
気付くと辺りに散らばった食料品を幸村が拾って紙袋に詰めていた。
ふたつの紙袋を抱えた幸村は、まだアスファルトに座り込んでいる小十郎を不安げに見下ろす。小十郎は立ち上が
ったが、動こうという気になかなかなれなかった。これから目の前の少年と自分の家に行くことは、なんだか自ら
人食い植物の粘液のなかに飛び込むことにとても良く似ているような気がした。
小十郎の指にするりと幸村のそれが絡まる。
「片倉殿、膝が」
「―――――あァ」
赤い血がスーツの膝を染めていた。
早く治療せねば、と幸村が小十郎の手を引く。
小十郎はそれに頷きはしなかったが、引かれる手に逆らいもしなかった。逆らう気力がどこかへ消えてしまってい
た。幸村の目にはどこまでも小十郎を案じるいろしかない。
それが吐き気がするほどおぞましい。
おぞましいが逆らえない。
「片倉殿」
ぐいと引かれる。
小十郎はそれに逆らわずに、ふらりと足を踏み出した。
じりじりと、遮るものの無い冬の太陽が世界を満遍なく焦がしていた。
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花卉さまからの60001HITリク、「マフィア設定で黒真田×小十郎でエロ」です。
うちのゆきこじゅに佐助が出るのはもう仕様なので諦めて頂くとして、黒真田の構造が解りませんセンセイ。
空天
2007/11/22
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