菊 投げ入れよ


     


 
 















小十郎の言葉に迷いはなく、声に淀みはなく、顔は相変わらず能面のままだった。
佐助はそれらに圧されるようにして、政宗の傍らにしゃがみ込み、額にてのひらを置いて印を切
り始めた。小十郎は佐助が術をかけ始めたのを見ると、肩から力を抜き、ずるずると板間に腰を
下ろし、額に手の甲を置いて天井を仰いだ。佐助は横目で小十郎をちらりと見やりながら印を切
る。すると小十郎が咎めるように唸った。

「おい、集中しろ」

佐助はふんと鼻を鳴らした。

「言われねえでも解ってらあ。ですがね、お言葉ですけど、あんなに曖昧な事言われちゃあ、術
 かけるほうとしちゃあ困りもんなんですよ。こちとら頭弄ってンだ。もそっと具体的に言って
 もらわなくちゃ、余計なことまで忘れちまうかもしれませんぜ」

目一杯軽薄に吐き捨てれば、小十郎は顔を下ろして忌々しげに舌打ちをした。
目が合う。するとそこには空洞ではなくて夜色の目がふたつ揃っている。つまるとことこの男の
感情は主に関わらなくてはどこにも存在しないのだと佐助は知った。だから政宗の居ないところ
では小十郎の目はただの空洞になる。
夜色の目は空洞より余程ひとらしかった。
そこには確かに、生身の小十郎が存在するようだった。

「気の利かねェ術だ」
「俺様の術はあんたを愉しませる為にあるわけじゃあ、ないンでね。仕様がないでしょう」
「どこまで口の減らねェしのびだ」
「性分なんだ。さて、どうする?」

これ以上弄ると、あんたのこともまるきり忘れちまうかもよ。
けらけらと笑ってやると、首にひんやりとした感触が突き付けられた。けれども佐助は構わずに
笑ってやった。おかしくって仕様がなかった。
この状況では小十郎が自分を殺せぬことは解り切っている。
こうなると半ば立場は逆転して、佐助はある程度何をしても小十郎から咎められはしない。実際、
べつに内情など知らなくとも術はかけられるのだ。ある期間の記憶を無くさせることは、決して
難しいことではなかった。
だからこれは単なる興味である。
佐助は単純に、ここにある理由を知りたかった。
自分を捕え、地下牢に一年放り込み、幸村を捕え、それで脅さなくてはならないほどに切羽詰ま
っている―――嗚呼、そうだ、小十郎はひどく切羽詰まっている。彼は実際まったく冷静ではな
い。むしろ混乱していると言っていい。今だって殺せないと解っている佐助の首元から刀を動か
そうとしない。それは彼の苛立ちが臨海を突破しているからだ。理性よりも前に激情が目元を覆
っている明瞭なあかしだ。佐助はおかしかった。
小十郎に抱く憎悪が、興味を後押しした。
この能面男がそこまでする由を佐助は堪らなく知りたくなった。

「―――、人選をしくじったな」

しばらくして、小十郎が刀を引いてそうつぶやいた。
佐助は笑いながら、そうみたいだねえ、とそれに応じた。小十郎は髪を乱暴に掻き毟ると、観念
するようにすうと口を開いた。
神妙に慎重に、小十郎は言葉を選ぶ。

「俺はその御方を今先刻、抱いた」
「そんなことは見てりゃ解るよ」
「なら聞くんじゃねェよ、阿呆」
「そこに至る話を聞いてンじゃないか、馬鹿なおひとだよ」

佐助は鼻で笑った。
小十郎は苛立たしげに板間をとんと叩く。

「おまえがその術を知らなかったら胴を真っ二つにしてやったところだ」

小十郎はくつりと自棄気味に笑って、背を障子の桟に預けた。

「ここに至る話なんざ何もねェよ」

かちりと刀が鞘に収る音がする。
佐助は振り返らず、耳だけ小十郎の声に傾けた。

「錯覚なんだろう、詰まるところは」
「錯覚?」
「その方の、さ」

小十郎は政宗のことを言っているらしい。
佐助は自分のてのひらの下にある若い寝顔を見下ろした。

「それが最初だから要するに何もねェんだろう。よくある事だ。昔から傍に居りゃァ情が沸く。
 親からろくに見返られなけりゃ尚更だ。それだけが唯一に思えちまう。なんもかんもが欲に
 結びつく頃になりゃァ、その情が間違ってそれに結びついちまうこともあるだろうよ。
 だが、それだけだ」

それ以上でも以下でもねェ。
それはただ、それだけだ。

「実際、その御方は俺じゃなくっても構わねェんだよ」

いや、構ってもらっちゃ困るんだ。小十郎は首を振った。佐助には解るようで解らなかった。
小十郎の言葉がそもそも、誰かに理解されるために発されているような言葉ではなかったのだ。
それは先刻の睦言とおんなじ種類の言葉だった。
それは誰よりも小十郎のために発された小十郎の言葉である。
小十郎はふと口を閉じた。佐助は振り返って彼を見据えた。小十郎は喋りすぎたと後悔するよう
に板間の模様を睨んでいる。確かに小十郎は喋りすぎていた。ほとんど半ばは彼の独白であって
状況の具体的な描写とはかけ離れている。
しばらくしてから再び彼は口を開いた。

「主の思い違いに、乗らざるを得なくて乗っちまったが、このまま進んで貰っちゃァ困る」

そういうことだ、つまり。
小十郎はそう結んでむっつりと口を閉じた。
佐助は矢張り解るようで解らないような語りを聞きながら、政宗の頭をぼんやりと弄っていた。






































術をかけ終えると、佐助は再び地下牢へと戻された。
しかと術がかかっているかどうかを確認するためだろう。小十郎はそういう説明を一切しなか
ったが、佐助はそう思うことにした。そう思っている間に冬はいっとう先端からゆるゆると春
へと下降していった。牢の中も随分ぬくくなった。佐助は小十郎を待っていた。
もうあんまり、彼のことを憎いとは思わなくなっていた。
佐助の激しい怒りや憎悪は、その度数があんまり高かったためか、長くは保たなかったらしい。
あの夜に小十郎の解りにくい説明を聞いているうちに佐助は片倉小十郎という男の明瞭な形を
見失った。そうしたら何に対して憎悪を抱いていいのかよく解らなくなった。佐助はぼんやり
と牢の壁を眺めながら幸村を案じている。そうしてひっそりと小十郎を待っている。
考えることが他にないので小十郎のことも考える。
佐助はあんなに切実に愛を語る男を他に知らない。
そうしてそれにあんなに幸福そうに応える男もいまだかつて見た事がなかった。
佐助はそういったものから比較的遠い場所に居る。女を抱くことはあるがそれはそれだけであ
る。惚れた腫れたというものにそれは一切関わらない。そういった感情に引っかかりそうな相
手は居ないでもないが、その相手に性欲を抱こうとは想像もしない。彼等はそこに存在するこ
とによって佐助を苛立たせ、慰め、焦げるほどの憧憬を抱かせ、辛うじて自分がひとであるこ
とを認識させるひとびとであって、手で触れて抱き込むことを対象とするものではなかった。
だからあの夜の小十郎と政宗に
ついて考えることは薄っぺらい想像にしかならない。
それでも佐助は考える。あの夜のふたりについて考え、そしてあの夜政宗の記憶を消そうとし
た小十郎について考える。

ふつう、想い合うことは幸福ではないのだろうか。
あんなにいとおしげに接吻をする相手と想い合ったこと自体をなかったことにするというのは、
どういった思惑が出る行為なのだろうか。すくなくとも政宗にとって小十郎と通じたのは幸福
のようだった。戦場では鬼のように歪む彼の笑顔は、あの夜にあってはただの年齢相応の男の
笑みでしかありえなかった。
では、と思う。
では、小十郎にとってはちがったのだろうか?
佐助は考えては、矢張りよく解らなくて首を傾げる。
そうして、いずれにせよ小十郎の行動はひどく身勝手で自己愛的な行為ではないかというとこ
ろへ思考は到着せざるをえなかった。べつにそれについて佐助はどうこう言う権利を持たず、
またそんなことを偉そうに嘯くつもりもまるでなかった。例え小十郎がそういった男であった
としても、それは佐助とは一切関わりのないことである。
ただ見合わない気がしたのだ。
片倉小十郎という男と、彼のした行為が。
もっとも佐助は小十郎についてよく知っているわけではないので、それもまた薄っぺらい想像
の一部にしかなりえない。あるいは小十郎はそういう男なのかもしれなかった。彼は卑怯者で
自己中心的な男なのかもしれなかった。主の想いを自分の都合で消し去ることを厭わないひと
でなしなのかもしれなかった。そう断じない根拠はどこにもなかった。
それでも佐助は目を閉じて、あの夜の小十郎のことを思い出した。
出来損ないの砂糖菓子のように、喉にひりつくほどあまったるい声は、矢張りどう聞いても彼
の声でしかありえなかったのだ。









































春先になって佐助はまた牢から出された。
そうして二度ともう地下牢へと入れられることはなかった。
小十郎は佐助を牢から出すと、医師に診せた。次いで清潔なしのび装束を用意した。そしてい
くばくかの、決してすくなくはない量の金子を押しつけてきた。

「長い間、すまなかった」

佐助は呆けた。
座敷の外では雀が鳴いている。もう桜のつぼみは膨らんで、数日のうちには一斉に綻ぶだろう。
二年ぶりに目に入れた眩しいほどの春に頭がおかしくなったのかと佐助は思った。小十郎は頭
を下げて、佐助に謝罪を述べている。
すまなかった、とまた言う。

「真田幸村は元のように、上田城に居る」
「え、」
「捕えたというのは法螺だ。騙して悪かったと思っている」

小十郎は懐から六文銭を取り出して、金子袋の横に置いた。
ちゃらり、と金属音が鳴る。

「これを返して置いてくれるか、真田に」

佐助はぼうと六文銭と金子と、それから小十郎の骨張った指先を眺めた。
ちょうど正午で、空の天辺に日が昇っている。強いひかりは佐助の目を痛めた。佐助はてのひ
らでそれを防ぎながら、目の前に座る男の顔を見た。小十郎は目を伏せて自分の指先を見てい
たが、佐助の視線に気付いたのかついと顔を上げ、それからかすかに笑った。
それはいつかに見たような、不器用な皮膚の収縮だった。

「どうした」
「どうした、と、言うか―――はあ、なんだか」

よく解らなかった。
佐助は片倉小十郎という男の輪郭をまた見失っている。それは敢えて知るべきものでもなかっ
たが、それが知れないということは、この一年余りの刻が夢のように思えてしまって、どうし
ても釈然としない。
自分はどういう男に捕えられていたのだろうか。
あんなに憎んだ片倉小十郎は不器用に笑っているのだ。

「あんたは、何を」

したかったんだろう?
言葉は知らずこぼれ落ちた。
佐助はそれにすこし驚いた。小十郎も驚いたようだった。目を丸くして佐助を見ている。佐助
は小十郎の久々に見た切れ長の目をじいと凝視した。それは矢張り、空洞ではなかった。
思えばこの目の中に感情を見てしまったときから、佐助には小十郎が解らなくなっている。よ
り正確に言えば、見てしまったときから、解るべき何かを彼の中に探そうとしてしまっている。
小十郎はまた不器用に皮膚を収縮させた。

「さァ、どうだろうな」

その言葉は、何かを誤魔化すような調子ではなかった。
あるものを説明することがどうしても解らないのを、困っているような口調だった。
佐助はそれを聞いて、そして不器用な彼の笑みのようなものを見て、嗚呼この男にもあの夜の
ことの辻褄が合っていないのだと、ぼんやりと、それでもあきらかに知った。
小十郎はそれきり黙ってしまって、視線を庭に向けていた。佐助もそれに倣って庭を見た。白
石城の中庭はうつくしく整えられていた。いつか任務で趣いた京の貴族のそれに似ている。砂
まで美々しく整えられた庭は壮麗で、そして春だというのにどことなく寒々しかった。
ふたりしてぼんやりと庭を見ていると、白鷺が一羽庭石の上に降り立ち、高らかに声を響かせ
た。それではっと互いに覚醒した。白鷺の声を契機にして佐助は白石城を出て上田城に向かっ
た。特に別れの言葉を告げるようなことはしなかった。自分は彼を恨んでいるべきだというふ
うに思ったが今更そんな気分にもなれなかったので捨て台詞も吐いてこなかった。二年近くの
投獄がそうであったように、最後まで佐助と小十郎の間柄はぼんやりと曖昧なまま終わった。
それでも佐助は城を出る前に、ひとつだけ小十郎に問うた。

「ねえ、あんたはあれを、忘れなくッていいの?」

小十郎は間髪入れずに答えた。

「あァ、俺は覚えているよ」

そうして矢張り、解りにくく皮膚を収縮させた。
佐助はその笑みを上田に帰るまで延々と瞼の裏に浮かべていたが、城で幸村の顔を見て、久し
ぶりに見る主のくしゃくしゃの泣き顔に出会った途端、煙のように小十郎のことは忘れてしま
ってそれきり特に思い出しもしなかった。









































それから一度だけ佐助は小十郎の元を訪れた。
幾年か経ってから、何かの折に思い立ってふと白石城を訪うてみたのだ。伊達が天下を統一し
てから十年ばかり経った頃だったので、伊達家の家老である小十郎はひどく多忙で、まさか城
に居ないだろうと思っていたら偶然にも彼はひとり中庭で空を見上げているところだった。そ
のために目が合ってしまって、佐助はしのびとしては多少気まずい思いをしなくてはいけなく
なった。小十郎はそれでも、笑いもしなかった。
ただ一言、久しいな、とだけ言った。

「術は順調に続いてる?」

佐助は屋根の上からそう問うた。
それしかふたりの間にある話題はなかったのだ。

「あァ、おまえさんの腕は確かだったようだ。感謝している」

相変わらず独眼龍とその右目の睦まじさは評判になるほどだった。
それでもそれはきっと、佐助があの夜に見たものとは別種のものなのだろう。佐助は庭の池に
映る月を眺める小十郎の秀でた額を眺めながら、ふと思い付いたように口を開いた。

「今になって思うンだけどね」

小十郎が顔を上げた。
その顔も随分過ぎた年月が刻まれたものになっている。佐助は老いたとまでは言わないまでも、
あきらかに草臥れつつある男の顔を眺めながら、うん、と頷き、

「俺はあんたのことを、もうすこしばかりよく知ってりゃあ良かったンじゃねえかなってさ」

と言った。
小十郎が首を傾げた。

「何故」
「うん、だってさ」
「あァ」
「知ってたらきっと、―――あんな術はかけなかったよ、あのおひとに」

佐助はそう言ってから、その声が思いの外確かな後悔が籠ったものであることに自分で驚いた。
小十郎はけれども佐助の言葉に驚いた様子もなく、例の不器用な笑みを浮かべて、そうだろう
なァと感じ入るような声をもらし、大分皺の寄った首を撫でた。

「俺にとっちゃァ、それが幸いだったということだ。おまえさんに知られずにいたことが」

おかげですべて、上手くいっているよ。
佐助はなんとなくそれが嘘なのではないかと思った。
けれども嘘だと断じるほどには矢張り、目の前の男のことを佐助は知らなかった。


それが佐助が小十郎を見た最後である。
小十郎はその夜から二十年ほど経った冬の日に、病で死んだ。















 

 
 
 
 
 
 








空天

2009/10/14


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