鬱蒼とした木々に囲まれた石階段を登っていくと、その先に一本の杉が見える。 その杉はまだ若く、細い。背丈はほとんど成人の男程度にしかない。周りの木々との比較で一層その 杉の若さは奇妙に際だっている。あきらかに人為的に植えられたことが解る。猿飛佐助は階段の途中 からその杉を見上げ、そしてその細い杉に寄り添うように座り込んでいるひとつの影法師に目を止めた。 「やあ、お久しう」 佐助が声をかけると影法師はふと顔を上げ、首を曲げた。 驚いたように目が見開かれる。佐助はにんまりと笑みを浮かべて階段を登り切る。若い杉の葉を撫で てから影法師とおんなじようにしゃがみ込み、態とらしくふるりと体を震わせた。 えらく寒いねと笑いかけると、影法師はしばらく黙り込んでから、そうだな、とようやく笑った。 「寒ィなァ―――」 影は感じ入るように語尾を伸ばした。 佐助は視線を落として、腕いっぱいに抱えた菊の花びらを摘み、宙へと放った。 あ る ほ ど の 菊 投 げ 入 れ よ 棺 の 中 昔の話になる。 思い出してみれば、もう随分と前のことなのである。 佐助は地下牢に入れられていた。腕と足を拘束されて、もう幾日経ったかも定かではないほどの刻を おそろしくひんやりとした石の壁に囲まれて過ごした。 それはとても奇妙な投獄生活だった。 佐助は伊達軍との戦で捕えられ、牢に入れられた。しかしそれだけだった。牢に入れられただけで、 その後は延々と放置された。食料も水も十分に与えられた。白石の冬は身を切るようなつめたさであ ったけれども、それを耐えうるだけの暖も与えられた。それは佐助が普段ある環境よりも上等である ほどに手厚いものだった。 拷問もされなかった。 佐助を捕えた男は佐助から何を聞き出すつもりもないようだった。 佐助は自分がどうして生きているのかよく解らなくなった。 他国のしのびを生かしておく意味などどこにもないのである。一体どうして自分は生きているのだろ うかと佐助は幾度も訝しがった。無意味な牢獄生活は、しかし見張りだけはこれもまた奇妙なほどに 堅く、まるで抜け出る隙などはなかった。 時間ばかりが過ぎていった。 しばしば身悶えるほどの焦燥感が皮膚を焼いた。 佐助は主の真田幸村の安否を考えては気が狂いそうになった。 伊達と武田の戦はどうなっただろうかと考えては、囚われの身を恨んだ。佐助は途中で捕えられたの で戦がどうなったかを知らない。主の武田信玄が、ひいては真田幸村がどうなったかを知らない。し かし想像はできた。伊達の重鎮である男の持ち城が相変わらず堅固であるのは、佐助の想像を湿った ものへと加速的に発展させるに足る現状だった。 いっそ死んでしまえば魂になって主の姿を見ることも適うだろうにと佐助はときどき考えた。しかし そう考え続けるには佐助はあんまり現世的な男でありすぎたし、あえて自分を生かしておくというこ とに対する一縷の望みは決してちいさくなかった。佐助に利用価値があるとすれば、それは真田幸村 に関することでしかありえないのだ。 それだけを糧に、一年は経った。 厳しい二度目の冬が地下牢に訪れようとしている頃に、唐突に牢の鉄格子は開かれた。 耳障りな金属音と一緒に、かすかなろうそくの灯りを遮るようにして大きな影が立ち塞がる。佐助は その影をあらん限りの憎悪を込めて睨み付けた。 影は眉ひとつ寄せず、佐助を見下ろしている。 「酷ェ顔だな、真田のしのび」 「嗚呼、―――そいつは、申し訳ないねえ」 佐助は気が違ったように高く笑い、じゃらりと手首にかかった鎖を鳴らした。 「どうもひとを歓待する気分にゃなれませンでね。特にあんたにはね、片倉小十郎殿」 佐助は目の前の男の名を呼んで、それからまた笑ってやった。 片倉小十郎は佐助の笑い声などどこにも存在しないような涼しげな顔をして、開かれた鉄格子に寄り かかり、おい、と真っ平らな声をかけてきた。佐助は笑うのを止した。小十郎は佐助の座る麻の敷物 を足でひょいとめくり上げて、どうだ、と言葉を続けた。 「居心地は」 佐助はにこりと笑って、「最高だね」と答えた。 「素敵過ぎて今にも気が狂ッちまいそうだよ」 「そうかい」 小十郎は感情のこもらない声と顔で応えると、鉄格子を潜って牢の外に出た。 佐助は目を細め、男の行動を追う。牢の外に出た小十郎は懐に左手を突っ込むと、しばらく探ってか らちゃらりと鍵の束を取り出した。 それをてのひらの上で二度、三度と放る。 「じゃァ出る気はねェか」 外に。 佐助は眉を寄せた。 「そりゃ、どういう意味ですかね」 「そのままの意味だ。此処から、出る気は、ねェか?」 小十郎は首を傾げ、指先で摘んだ鍵の束を揺らして見せる。 ちゃらちゃらと苛立たしげに鍵が鳴る。佐助は黙ったままその鍵の束を睨む。小十郎も黙ったままで ある。人払いがされたらしい地下牢には、ろうそくが溶けていく音だけがするようである。 佐助はまるで小十郎の言葉を喜ぶ気にはなれなかった。 片倉小十郎が、条件もなしにそんなことを言う筈はないのだ。 そうだとしたら佐助を一年もこんなところで養う酔狂はありえない。なにかしらの意図があって小十 郎は佐助を生かしておいたはずである。小十郎の行動に無駄はない。すべては最短距離で伊達軍の益 に繋がるようになっている。そしてその最短距離を遮る物を排することに、一切の躊躇いを挟まない。 もっとも佐助は小十郎と個人的な付き合いなどない。身分が違い過ぎて話す機会などありようもなく、 敵国同士であれば顔を見合わせるのは戦場だけである。 ともあれ、佐助の知りうる「片倉小十郎」は、そういう男だった。 佐助は黙ったまま小十郎の顔を睨んだ。その厳めしくも整った顔には何の感情も浮かんでいないよう に見えた。目を覗き込んでも地下のひかりのない世界ではそれはただの黒いぎやまん細工のようにし か見えなかった。黒目がちな切れ長の目はただこちらを向いているだけで、それは空洞のようですら あった。おそろしく深く、けれどもその底には何も無い。 佐助は息を詰めた。 すると小十郎が息を吐いた。 「おまえさんは唖か?」 小十郎は鍵を握り締め、再び牢に入り今度は佐助の足下にしゃがみ込んだ。 寸でのところで佐助の手足の届かない距離である。そこで小十郎は鍵を懐に戻し、代わりに何かをま たそこから取り出した。それもまたちゃらりと金属音がした。 佐助はその音を聞いた途端、戦慄した。 小十郎はそれを、佐助の鼻先に突き付け、口を開いた。 「では、おまえが喋りたくなるように、解りやすく話をしようじゃあねェか」 ちゃらちゃらと六文銭が揺れる。 見覚えのある薄汚れたそれが互いにぶつかって音を立てている。佐助は目を見開き、それからぎゅっ と閉じた。震える体を律して、深く息を吐き、吸う。ちぎれそうなこめかみの血管をゆるゆると緩め て再び目を開く。六文銭越しに暗くて深い空洞がある。 その深い空洞の持ち主が、矢張り平坦に言う。 「真田幸村を捕えた」 ちゃらりと六文銭が握られる。 佐助は奥歯を噛み締めた。小十郎は佐助の髪をぐっとひとくくりに掴んで顔を上げさせ、よく見ろと ばかりに目の前で六文銭を揺らした。佐助は目を細めようとしたが、髪を強く引かれたのでそれは適 わなかった。 ゆらゆらと鈍い黄金色が揺れる。 それは確かに、主の持つ物に違いなかった。 背筋に痺れるような痛みが走る。息が苦しくなって佐助は擦れた呼吸を喉から絞り出した。小十郎が それを見留めて塵のように佐助の髪を手放し、牢の壁へと放る。 佐助は痛みに燃える体を押さえるように肩をすぼめ、小十郎を見上げた。 「安心しろ」 小十郎は佐助の視線を受け流し、首を竦める。 安心しろ、死んじゃいねェよ。 「だが俺がおまえさんの主の命を握ってる事は変わらん。解るな」 小十郎の問いに佐助は慎重に頷いた。 ふつふつと痛みの代わりに何かしらの熱が全身を駆け巡っている。 それは目の前の男に対する嫌悪であり、憎悪であり、殺意であり、まったくおんなじに唯一の希望だ った。小十郎が何かの条件を出そうとしていることは明らかだった。ではその条件次第で真田幸村の 命は助かるのである。 そしてその条件の為に自分は居るのだ。 「何が、お望みで?」 佐助は戯けるような調子で問うた。 小十郎はすこしだけ笑みを浮かべた。もっともそれは笑みと呼べるようなものではなかった。単なる 皮膚の収縮にしか佐助には見えなかった。しかし話の流れと雰囲気から見れば、ここで皮膚を収縮さ せることは即ち笑みであるはずだった。 なんて不器用な笑みだろうと佐助は思った。 ともあれ小十郎は笑い、そして話が早いと立ち上がった。 「一から十まで、何も聞かずに何も云わずに、ただ俺の言う通りに働け。だが、」 小十郎は腰の脇差しを抜いて、佐助の喉に突き付けた。 「些ッとでもおかしな動きがあれば、主従揃って黄泉路行きだぜ」 「あ、―――あ、あはははははははははは」 佐助は高らかに笑い声を上げて、小十郎を睨み上げた。 「そいつは上等だよ。畏まりました、龍の右目殿。この猿飛佐助、御身の為に見事働いて御覧に入れ ましょう。お安いご用だ。ええ、なんだって致しましょうとも、―――なんだってさ!」 佐助は戯けて、脇差しの峰につうと舌を這わせた。 熱はいつのまにか歓喜に代わり、心の臟がそれで爆ぜる。佐助はつめたい金属が自分の熱でぬるくな っていくのにうっとりと感じ入った。小十郎はちらりと目元をきつくして、それから脇差しを引いた。 佐助はまだ笑いながら小十郎を睨んだ。つめたい男のつめたい脇差しが鞘に収っていく。佐助はそれ を見ながら、こんな酷薄な男の命を自分が聞くくらいで幸村が助かるのであれば、例えその命がなん であれそんなに簡単なことはないだろうと思った。死ねと言われても佐助は笑って従っただろう。罪 もないこどもを百人殺せと言われたらそうしただろう。逆らうつもりなどなかった。逃げるつもりな ど元より起こりようもなかった。幸村が死ねば、その瞬間に世界は終わるのだ。 佐助にとってもはや幸村はそういうものだった。 一年の投獄は佐助の世界をそこまで狭め、ある意味では鮮烈にした。 小十郎はその日はそのまま立ち去った。その日から佐助は小十郎をひたすらに待った。逢瀬を待ち望 む小娘のような執拗さで待ち望み、その一方で男の喉元に食らいついてその命を絶つことをほとんど 息をするように明瞭に、隅々まで事細かに想像した。歯が触れる皮膚のやわらかさから飛び散る鮮血 のぬるい温度まで、佐助には容易に思い描けた。 それは幸村の安否に頭を悩ませるよりも、余程佐助を慰めた。 そうして冬がいっとう鋭くなる頃に、小十郎は再び佐助の元をを訪れたのである。 雪が降る夜だった。 正確に言えば奥州は冬になれば延々と雪が降っているので、その日もまた、雪が降る夜だったと言 うべきかもしれない。ともかく雪が降っていた。佐助は小十郎に連れられて一年ぶりに牢の外へと 出たが、おかげで空はどんよりと雲で覆われていて余り牢の天井と変わりがないように見えた。 小十郎は襦袢に綿入れを羽織った格好で牢を訪れた。 そして佐助の枷を外す前に、あることを問うた。それは簡単な術を使えるか否かという問いだった。 佐助は呆れて思わず笑ってしまった。 「そんなことも出来ねえで、仮にも忍隊の長が務まるかよ」 そう言うと小十郎はほうと安堵の息を吐いた。 「そうか」 なら良かった。 佐助は枷を外され、袴と小袖を与えられて外へ出された。 佐助を連れて小十郎は本丸へと進んだ。自らの寝所の前まで足を進めると、そこで足を止め、振り 返ってそこで初めて小十郎は佐助を見た。 佐助はおやと目を丸めた。 以前は空洞に見えた目は、今日はそこに目として存在していた。 「天井に潜めるな?」 声にならない吐息で問う。 佐助はおんなじように、吐息で答えた。 「俺様をなんだと思ってンだよ。べつにあんたの子守唄歌いに来たわけじゃあねえンですよ」 「一々煩ェ野郎だ。ならいいんだ。俺が合図するまで、そこに引っ込んでろ」 「へいへい」 佐助は戯けてから、姿を消して天井へ潜った。 天井裏へ潜みながら、体が随分鈍っていることに佐助は苛立った。一年ほとんど動けずにいたのだ から仕様がないけれども、腕も足も以前のようになるには長い刻が要るだろう。磨いでいない刀の ようにてんでなまくらだ。佐助は改めて天井の下に居る男に憎悪を感じた。 天板をずらして見ると、寝所の布団にはすでに誰かが横たわっているようだった。女かと思って見 てみるとどうやらそうではない。と言って小姓でもない。そう称するにはあんまり屈強すぎる。 小十郎の布団で眠っているのは、あきらかに成年の男だった。 と、カラリと障子が開いた。 小十郎が座敷へ足を踏み入れる。 「まさむねさま」 そしてぎょっとするほどぬるまったい声で、布団に眠る男に声をかけた。 佐助は思わず口元にてのひらを押しつけた。 まさむね。 「Ah、―――寝てたか」 まさむねと呼ばれた男が布団の上で寝返り、仰向けになった。 仰向けになると、その男の右目が露わになる。そこは醜い疱瘡の痕が残る瞼があるばかりで、閉じ られて開かない。よく見てみると枕元には眼帯が置いてあった。 小十郎は男の傍にしゃがみ、その右目をいとおしげにてのひらで撫でる。 「ええ、半刻ほど」 「―――おまえ、何処行ってたんだ」 「すこし外で頭を冷やしていたところです」 「What?」 「申し訳もございませぬ」 お体は、と小十郎は姿勢を正して問う。男はうっとうしげに小十郎のきっちりと揃えられた膝の上 の手を払った。野暮な事言うんじゃねェよと拗ねたように顔を背ける。小十郎はほうと息を吐いて、 すこし乱れた掻い巻きの襟を男の胸元までかけ直した。 そして、まさむねさま、とまた男を呼ぶ。 まさむね。 伊達政宗だ、と佐助は相変わらず口を押さえたまま思った。 小十郎の布団で眠っていたのは彼の主だったのだ。 「水をお持ちいたしました。お飲みになられますか?」 小十郎の声は砂糖菓子のように甘ったるい。 佐助はなんとも落ち着かない心地に髪を掻いた。能面のような顔と、焼け野のごとく平らかな声し か佐助は「片倉小十郎」を知らぬのである。顔は見えないけれども、佐助に向けるような凝り固ま った顔がそこにないであろうことは確かだった。 独眼龍と右目の仲睦まじさは佐助も聞き知っている。 けれども、こういった意味でも親密だとは考えたこともなかった。 政宗は小十郎を見上げながら、ふん、と鼻を鳴らし、それから襦袢の裾を引き、にんまりと笑みを 浮かべる。不思議そうに小十郎の首が傾いた。政宗は笑ったまま手を伸ばし、腕を取る。 「おまえが飲ませろ」 「は、」 「Kissで飲ませろ、Kissで。口移しだ。You see?」 政宗は愉しげに喉を鳴らし、傾いた小十郎の体を更に引いて、首に手を掛けて自らに覆い被らせた。 小十郎はすこし何か文句を言ったようだったが、そのうちに諦めたのか、仕様のない御方だと、些 っともそんなふうには思っていないようなやわらかな声でつぶやき、枕元に置いてあった水差しか ら水を口に含むと、ゆっくりと政宗の顔に自分の顔を重ねた。 あきらかに情後の倦怠が寝所には満ちている。 「は、―――ようやっとだな」 小十郎が上から退くと、政宗が満足げにつぶやいた。 「ようやく俺の物になりやがった」 低い声には抑えた歓喜がありありと表れている。 小十郎が苦く笑い、主の黒髪をゆるゆると梳いた。 「小十郎はお会いしたその瞬間から、あなたの物以外のなにものでもありませぬ」 「Ha!よく言うぜ。天下取るまでは指一本触らせねェと抜かした口とおんなじ口だろう、これは」 政宗は小十郎の輪郭を辿るように、手を伸ばし、ゆっくりと動かしている。その手を小十郎が捕え、 自分の口元に運ぶ。指先を啄むようにくちづけて、手から口を離すと再び政宗の顔に被さって接吻 を落とす。政宗が喉を振るわせてくつくつと笑う。 「世じゃァ何処の傾城だって此処まで焦らしゃしねェよ」 「焦らすなど滅相もございませぬ」 「焦らしたじゃねェか。五年も待ったんだぜ、俺は」 政宗の言葉に小十郎も喉を鳴らして笑った。 「お手数をおかけいたしました」 「まったくだ」 「政宗様」 「うん」 「お慕いしております」 「あァ」 「誰よりも、―――いえ、この世でただ、あなただけが、この小十郎のたったひとりの御方です」 小十郎の言葉は何かの儀式のように、崇高だった。 それは目の前に居る政宗に、と言うよりは、自らに向けて誓うような調子ですらあった。佐助は知 らず身震いをした。つい先刻まで体中を支配していた小十郎への憎悪すら一瞬忘れるほどに、その 声はその意味に向かって直向き過ぎた。あんまり直向きなので佐助の耳にはそれが睦言には聞こえ なかった。情後の睦言があんなに切実であるわけがない。 そういうことは早く言えよと政宗が揶揄した。 小十郎は困ったように笑って、申し訳ありませぬ、と言った。 「この身に余る感情です。告げることは永劫にありえぬと思っておりました」 「それで墓の下まで持ってこうってか?」 「はい」 「ふざけんなよ」 「ええ、ですからこうして恥を忍んで申しております」 「小十郎」 「はい」 「もう一回言え」 「はい、政宗様」 お慕いしております、あなただけを。 政宗は笑みを浮かべて、俺もだ、と満足げに返した。 しばらくすると疲労のためか、政宗は再び眠り込んでしまった。 小十郎は何度か政宗の名を呼び、それでも意識を取り戻さないことを確認するとようやく佐助に合 図を送った。佐助は天板を外して座敷へと降り立った。 小十郎の顔をちらりと見てみる。 もうその顔は能面に戻っていた。 「見せつけてくれるじゃないか、お熱いことで」 いやらしく笑ってやったが、矢張り能面はひくりとも揺らがない。 佐助はつまらなくなったので小十郎の代わりに眠り込んでいる政宗を見た。将としての政宗しか知 らない佐助の目には、懇々と眠り込むその顔は随分おさないように映った。しかし考えてみれば彼 も佐助の主とそう変わらない年齢なのだ。まだ二十歳をいくつか超えたばかりだろう。 政宗の顔を凝視していると、ふと、小十郎が口を開いた。 「先刻言った術をこの方にかけろ」 佐助は顔を上げた。 小十郎の顔をまた改めて眺める。能面である。顔のどの部分もまるで動かないで固定されてしまっ ている。小十郎はその能面を付けたまま、どうした、と均された声で問う。佐助はためらいがちに 口を開き、先刻ってのは、と言った。 「記憶失せの、―――物忘れの術のことかよ」 先刻小十郎が佐助に問うたのは、ひとの記憶を弄る暗示の術だった。 しかしそれを今ここで持ち出すのはいかにも唐突な印象がある。今の今まで、あんなに幸福そうに ふたりは語らっていたのだ。あれらのうちに、忘れるべき何かがあるとは思えなかった。 けれども小十郎は深く頷いた。 そうだ、と言う。 「今晩あったことを、そしてそれにまつわる全部を、この方の頭から残らず消せ」 次 |