三眼の龍は狼の背を泳ぐ 序
嫌気がさすほどに、自分はみにくい。
おさない梵天丸はそんなことよく知っていた。
病のせいで飛び出した右目、人とは思えぬほどに恐ろしい形相である。誰も側に寄ってこない。当然だ、一体誰が化け物の側に好
んで寄るのだ。
生母とてうつくしい弟ばかりを愛するけれど、梵天丸はそれを恨もうとは思わなかった。
(おれだって、きたないものよりはきれいなものがすきだ)
父だけは、自分を見捨てなかったけれど。
それでも側に寄ろうとはしなかった。病は治り、もはや人にはうつらぬと解った後も梵天丸はひとりだった。
名は改まり政宗となっても、顔はもとのままであったし、相変わらず城中でひとり蹲るちいさな化け物でありつづけた。政宗はい
ずれ出家でもしようかと思っていた。化け物が家督を継ぐなど許されまい。弟はうつくしい。母も弟を愛している。なにより広い
この城のなかで、延々たったひとりで居ることが、おさない少年にはそろそろ耐えられなくなっていた。
失ったのは右目だけなのに、見える世界はいつだって暗闇だ。
米沢城は城下町の中心地にあるので、昼間は人の声がわずらわしいほどに届く。誰も近寄らぬ政宗の座敷は太陽が痛いほどに差し
込んで、もはや機能を果たさぬ露出した右目を突き刺す。政宗はいちにち、何もせずにそこで過ごすことしか出来なかった。勉学
を教える師もいない。武術を高めようにも、みなと混じって修練をする勇気が出ない。置物のようにおのれの嫡男という地位に据
えられて、いちにち部屋に閉じこもっていると、じわじわと腐って爛れていくのを待っているような恐怖にときおり襲われる。
が、どうすることもできぬ。
昨日もそうだった。今日もそうやって終わるから、きっと明日もそうだろう。
と。
政宗はその日もそうやって終わると思っていたのだ。
「片倉小十郎でございます。以後、お見知り置きを」
その男は唐突に現れた。
かたわらには父が控えている。父は政宗の顔をちらりと見て、それから顔をそらした。そのことに政宗はかすかに痛みを感じ、顔
は化け物のくせに未だ心が軟弱な人であることを奥底から痛んだ。爛れて腐った右目のように、とっとと心もなんの痛みも感じぬ
ほどに壊れてしまえばどれほど楽であろう。
「ちちうえ、これは」
男は政宗よりだいぶ年上のようだった。
広い肩幅、大きな体、精悍な顔つきはともすれば凶悪になりかねないのにどこか知的な色を漂わせている。きれいだ、と政宗は思
った。
こんなふうだったら、ははうえもおれをあいしてくれただろうか。
「おまえの守り役だ。儂の小姓であったが、ちょうどよかろう」
父はそう言うと立ち上がり、座敷から下がってしまう。
父は優しいひとだから、このような姿になった嫡男を見るのに忍びないのであろう。廃嫡されないだけでもおそらく喜ぶべきなの
だろうが、まだ十にもならぬ政宗は、家督よりも抱きしめてくれる父の腕のほうを欲している。永劫に与えられないことはだいぶ
前から知っているが。
消えた父の背中を振り切って、政宗は目の前の男へと視線をうつした。男は相変わらず頭を下げている。かおをあげろ、と命じる
と顔を上げた。切れ長の目が政宗をとらえる。それは、そらされなかった。
政宗は動揺した。
「おま、え」
男は目をそらさない。
するどい目はまるで野生の動物のようだった。それが瞬きもせず自分だけを見つめている。おそろしい。うつくしい獣の目に映る
には、あまりにおのれの姿は醜悪だ。
「きもちわるく、ないか」
「・・・なにが、でございましょう」
「お。え、あ・・・」
声が出ぬ。
喉の奥がひりついて、目が乾いた。息の仕方を忘れたように、肺がひゅうひゅうと音を立てる。こんなふうに長い時間誰かに目を
そらされずに居たことはなかった。目をそらされることはかなしかったけれど、ある意味でこの化け物の姿を見られないと言う安
心感があった。だのにこのうつくしい男は。いつまでも。
「ばけものの、もりやくなんて、いやだろ」
見ないでくれ。
だらだらと滝のように汗を流す政宗の様子をどう思ったのか、男は立ち上がり懐から懐紙を取り出して政宗の額に当てた。
かさり、という紙の感触をとおして男の指の体温が政宗の肌につたわる。
「化け物とは」
男が静かに言う。低い声は、冷たい水のように心地よく響いた。
「どういう意味でしょうか」
「・・・しらばっくれんじゃねぇよ。みてわかんねーわけねぇだろ、この」
このかお。
母も憎む化け物のかお。
男は政宗の顔をしばらく見つめた。政宗は思わず視線をはずそうとしたが、そうしたら負けだと思ったなにに負けるかは解らなか
ったけれど。とりあえずにらんで置いた。
「・・・・そうですな」
「っ、ほ、ら」
「そのように目が出ていると戦の折に掴まれてしまうかもしれません。目への攻撃はつねに激痛を伴うと聞きます。もしそのよう
なことがあれば政宗様の生命の危機にも関わりましょう。危険です」
片倉小十郎はそう言った。
政宗はそれを聞いた瞬間よく解らなくて、それから小十郎が去った後によく考えてそれでも解らなくて、太陽が頭上を一回転して
寝所に引きこもってかすかに夏の虫の音を聞いたときにはじめてすこしだけ泣いた。
陰気で無口なこどもだったという記憶しかない。
伊達家の君主の小姓として、それなりに実績を認められていた小十郎はだから、だてまさむね、という名前を聞いたときに心臓が
ことりと高鳴るのを感じた。政宗は嫡男である。嫡男の守り役、それは次代の伊達家を担う一翼を任されたことと同義。
それで掘り起こしてみた記憶にはしかし、病で崩れた顔を庇ってうずくまるちいさなこどもはうっすらとしか存在していなかった。
実際に会ってみても印象はそれほど変わらなかった。
ちいさいこどもだ。
残った左の目もびくびくと全てに怯えていて、けれど小
十郎はそれをどうとも思わなかった。彼は、こどもだ。病によって崩れたと聞いていた顔は思ったほどではなかったし、残ってい
る部分だけ見ても端正な顔立ちだと見て取れたし、なにより敬愛する君主がじきじきに小十郎に実の息子を託したという事実だけ
でもおのれの職務を果たす理由としては十分だ。
と、思っていた。
「こじゅうろう」
守り役として政宗と対面してから一月も経った頃だっただろうか。
日も落ちて寝所で書物を読む小十郎のもとへ、政宗が訪れた。先ほど別れたときには襦袢であったのになぜか袴を履いて正装をし
ている。城外に出ないために白い頬が、蝋燭のひかりに照らされて橙に染まる。
「どうか致しましたか」
「たのみが、ある」
本を閉じて向き直ると、政宗は拳を握りしめて小十郎の顔の前につきだした。ちいさな手の中には、繊細な細工がほどこされた小
刀が握られている。
わけがわからず政宗の顔を見ると、左の目がおどろくほどの強さで小十郎を見据えた。
「きれ」
べり、と音をたてて政宗の目元のさらしが取られた。
半ば機能を停止させた右目は、化け物屋敷のそれのように露出して、本来しろであるべき球体はかすかに黄ばんで濁っている。
「おれのみぎめを」
「・・・なにを言って」
「おまえだから、たのんでんだ」
こじゅうろうはおれからめをそらさなかった。
そう言って政宗は笑った。
その顔に、小十郎はまるで心臓を鷲づかみにされたような気がした。
百年間だれとも会わなければひとはこんな顔をするだろうかと思った。
じいじいと鳴く蝉の音が聞こえないほどに、唐突に心臓がなり始めて、どどどど、とまるで早馬の足音のように耳の奥で血液が体
を巡る音がする。
「・・・いくさでは」
「は」
「いくさでは、じゃまなんだろうこのめは」
ならいらん、と言う政宗の手はふるえていた。
負けずふるえていた小十郎は、半ばそれを隠すように政宗のその手を握りしめ、
「承知」
と言った。
じじ、と音を立てて小刀が燻られる。
季節は初夏、夜中とて決して涼しくはない。小十郎はおのれの額に汗が浮かぶのを感じたがかたわらに座る政宗の真っ白な顔を見
て、拭うのをやめた。熱された小刀を、おのれを戒めるように握りしめる。
「政宗様」
細い肩を、握りしめる。びくりとそれが揺れた。
「ご覚悟はよろしいか」
「・・・うるせぇ。いつでもいい」
「では」
白い頬に手をかけた。露出した眼球に小刀を近づける。
じゅく、と音がした時目を閉じたのは政宗ではなく小十郎だった。
「おれのかちだ」
眼球がくり抜かれた瞬間、そう言って政宗は笑った。
小十郎はその日眠ることが出来なかった。
政宗は眼球をくり抜いた後そのまま気絶してしまったので、そのまま侍医の部屋に残してくるつもりであったがどうしても其処か
ら離れることが出来なかった。眠り続ける政宗のかたわらで朝日が差し込んでくるのを見ながら、いまだかすかに震えるおのれの
手を見る。
(これはなんだ)
何故いまだふるえているのか。
さらしでまかれた政宗の右半分の顔。えぐりだされた眼球は懐紙につつまれてまだ薬箱のうえにある。政宗が人生の半分以上をた
ったひとりで過ごしてきたすべての元凶である。小十郎は無表情のままそれに手を伸ばし、ぐちゃりと握りつぶした。ようやく手
は震えるのをやめた。
(ちがう、そうじゃねぇ)
ふるえているのは、ほんとうは手ではなく。
心だとかそういう曖昧なものに依拠したくはなかった。十にも届かぬこどもが、声一つあげず激痛に耐えたという、それに小十郎
の魂は確かに大きく揺れた。耐えている政宗の顔は、ひとりの侍の顔だった。
否。
侍どころではない。
あれは。
「・・・・・ん、あ。こじゅ、ろ」
「政宗様」
寝具のなかの政宗が身じろぎをする。残った左目が開かれ、小十郎をとらえる。
「お目覚めになりましたか」
「うん・・・ああ」
手がさらしに当てられる。しばらくそこを撫でて、それからその手はぱたりと畳に落下した。ひとつしかない大きな目から、ぽろ
ぽろと涙がこぼれおちる。
「ねぇ」
「・・・」
「ああそうか、もう。ねぇ。んだった」
ほんとうに失われた左目。政宗はしゃくりあげるでなく、静かに泣いた。涙はもはや右目からしかこぼれ落ちない。
「政宗様」
思わず畳に落ちたその手を握りしめる。政宗はちらりと小十郎を見て、それから笑った。ないてる、と言われて初めて小十郎はお
のれの頬を流れる液体が涙であることを知った。
「政宗様」
「なんだ」
不思議そうに政宗は首を傾げる。
「私はこれからあなたさまの右目となりましょう。
いえ、そう、今日よりこの小十郎のすべてを御身のものと心得ください。
政宗様のためにお使いください。
命尽きるその一瞬まで、あなたのために捧げましょう」
見開かれた政宗のただひとつの目を見ながら、小十郎は知った。
ふるえは、感動で
あの目は
龍の目だ。
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はじめて書いたこじゅまさです。
お互いしか見えていない伊達主従。このころからすでに。救えません(私が)
空天
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