・・・・・・・・・・・・・猿飛佐助の独白
男なんてもちろん御免だ。
第一に固いし、でかいし、それに変なにおいがするじゃないか。汗というか、なんというか、すっぱい感じのにお
いがする。あれはほんとに耐えられない。この世から俺以外の男なんて消えちゃえばいいのにって思う。
それに引き替えおんなのこの素晴らしいことったらない。きれいで、きらきら、しっとりしててふわふわしてる。
声は高くてきんきんしていてピッコロみたいな音だし、きれいなおんなのこが歩いている音は凄く素敵なリズムで
かつかつ、かつかつ、地面が鳴っているようなそういう音がする。いいねぇ、と思う。まったくたまらない。おん
なのこによって微妙にその音がちがうのがまた最高じゃないですか、ねえ。
モーツァルトが一生涯女遊びを止めなかった理由が俺にはすごく判る。
おんなのこって音楽に似てる。甘ったるい、きれいな、それが存在している理由がそれだけっていうような、そう
いう音楽に似てる。モーツァルトの協奏曲とかヴィヴァルディの室内楽とか、まあそんな感じ。ぬるまったくてき
らきらしてる、聞いてると眠くなっちまうような、そういう音楽。
もちろん指揮をするんだったら、それ以外の音楽もやりたいけど、私生活でまでドヴォルザークの新世界みたいな
人間と一緒だったらそれってたまんねぇじゃん。だだんっ、ばんっばあんってか。おいおい勘弁してくれよ。
とてもじゃないけど身が持たない。
若い時ならともかく今はもうほんと無理。
そういうわけで出来れば恋愛はおだやかにいきたいわけ。
一番良いのは後腐れが無いお付き合い。
たのしく遊んで、
たのしくえっちして、
たのしくばいばいはいさようなら。
これ理想的だね。
もちろん俺だって若い時はマジな恋愛してえなあって思った時もありますよ。本気で惚れた女も居ないわけじゃな
いけど―――――――まぁそれは振られちゃったわけで、今もすきだけど、でも多分これは恋愛にはなってくれな
いから諦めた。それでさ、そりゃあもう辛かったんだ、これが。
本気で誰かをすきになったのに、それが片っぽだけで終わっちゃうって死ぬほど苦しいわけだ。
死ぬほど苦しくッて、悔しくッて、そのあたりのもやもやを全部音楽にぶつけてみたらいつの間にか巨匠とかにな
っちゃったわけですが、それはまあ不幸中の幸い。結果オーライ。棚からぼた餅。もちろん貰えるものはなんでも
欲しい。お金も名誉も名声も、くれるんだったらいくらでも貰いますとも。
まぁ、なんやかんやで苦い恋愛を経て大人になっちゃった俺様は、地位と名誉とお金と人生の教訓を手に入れて、
今後の人生もたのしくおかしくさらさらっと生きていこうとしてたわけです。
あの馬鹿弟子が現れる前までは、という注釈が付くわけですが。
片倉小十郎っていう名前の馬鹿弟子が居るんです。
これがもう、ちょっとどうなの、ってくらい音楽馬鹿なんです。
十歳以上年下で今たしか25歳。人生一番たのしい時期に、俺みたいに誰かに振られたわけでもねぇのに朝から晩
まで音楽音楽、ばっかじゃねぇの頭だいじょうぶ?もちろん片倉君はそんなことは聞きゃしない。飛行機に乗れな
いっていうたのしい欠陥があるところが唯一のかわいらしいところだったのに、そこも無くしちゃって世界中を股
にかけて音楽のために奔走するその姿はまさにブレーキの壊れたスポーツカー。誰か止めてやって。
十歳だったかそれくらいの時に弟子にしてもらったっていう伊達輝宗をはじめとして、世界中の指揮者やら演奏者
やらとおともだちになっちゃって、まったく俺様の弟子はもてもてで困っちゃう。すっごくむかつく。余所見ばっ
かで全然ひとつのところに居やしねぇし、折角ヨーロッパに来れたってぇのに俺のところに顔出さないってそれど
ういうことですか。頼み込んで頭下げて、弟子にしてくれって言ってたあのかわいい片倉君はいまいずこ。
そんなこんなで苛々していた俺様は、もちろん再会したら苛めに苛めてやろうと思っていましたが、実際会ってみ
ると全然そんなことは出来なかったわけです。
片倉小十郎は会って早々に、あの仏頂面で、
「おまえに会いに来た」
と言いやがった。
なにそれなんの冗談ですか。
もちろん俺のかわいくない弟子にそんな能力があるわけもない。片倉小十郎の言うこと、これ100%真実。本気
で言ってる意味の解らない言葉ほど怖いものはない。
俺はすっかりこの言葉で頭がまっしろになっちゃった。
次の日からふたりっきりで三ヶ月の演奏旅行だっていうのに、出だしから転けた。
この転けたのが、ただの調子が狂ったっていうだけの意味なら良かったんだけどどうもそうじゃなく、これはつま
り「片倉小十郎に」転けたらしかった。しかもその先に坂があって、ころころ転がってたら最終的に崖があって、
その下には川、もちろん川は海に通じてる。どんぶらこっこどんぶらこ。
片倉君はつまり、とても面倒見が良かった。
すごく甲斐甲斐しかった。
朝の「起きろ」から夜の「もう寝ろ」までいったいあんたは俺のお母さんですかと聞きたくなっちゃう甲斐甲斐し
さ。薬の用意も演奏の準備も、演奏後ぶっ倒れる俺の面倒も、酔っ払って帰ってくる俺の介抱も、いやな顔は常に
するけどそれでもきちんとパーフェクトにやっちゃう片倉君は、絶対に女じゃなくて良かったと思う。いかにも男
を駄目にするタイプだと思う、もし女だったら、だけど。
それでまあ片倉君は男だけども、俺はもともと割と駄目な男なので、もちろんこの甲斐甲斐しいお世話でますます
駄目な男になった。
と、思ってた。
いつもよりいろんなところで、遅くまで酒を飲むようになった。
なんでかっていうと、つまり酒を飲むと片倉君が俺の面倒を看てくれるわけですよ。呆れた顔して、これ以上ない
くらい深い溜め息をついて、「おまえはどうしてそうなんだ」って低い声、それからネクタイを解いてワイシャツ
を脱がせてくれる。「風呂はひとりで入れるか」まだ首を振ったことはないけど、もしかしたら首を振ったらあの
弟子は風呂にも入れてくれるかもしれない。
風呂を出れば薬が用意されてて、寝るまで片倉君は横で見張ってる。
見張ってるっていうか多分心配してるんだろう。顔が怖いからそうは見えないだけで。
くすぐったいったらない。「だいじょぶだよ」と笑うと困ったような顔をする。酔っ払ってぶっ倒れるとこの困っ
た顔にかなしそうな顔がプラスされる。それはすごくほんのちょっとの変化で、ちゃんと見てないと解らない。で
もやっぱり片倉小十郎は、俺が倒れるとかなしそうな顔をする。
だいじょぶだよ、と言うとそれがますます濃くなる。
それで、つまり、なんというか俺はそういう片倉小十郎の顔がとってもすきだった、わけです。
無茶な飲み歩きはつまりそういう顔を見たいが為で、
その後に付け加えられる「いい加減にしろ」ももちろんだいすきで、
演奏が終わって、舞台の袖に下がってくる俺を見るうっとりした顔もとっても良い。
「猿飛」
っていう、俺の名前を呼ぶ声がびっくりするくらいに素敵。
素晴らしきかな演奏旅行。たったひとりの弟子をどうやら俺はとてつもなく気に入ってるらしくて、それはそれは
その一ヶ月、俺はしあわせそのもので、常にへらへらしながら弟子の回りをうろちょろしてて、
ある日、ふと気付いた。
―――――――これやばくないか?
あきらかに、ちょっと普通じゃない。
25歳の男に対する感情として許されるレベルをちょっと超えてる。
やべえなこりゃ、どうすっかな、いやぁでもねえだろさすがに、ねえ。いろいろ考えて、ちょっとそうだ、距離を
置こう、ということにした。まだなんとかなるような気がね、そんときはしたんでしょうよ。ちょっと距離を置い
て、しばらく冷静にすればすぐ解ることなわけじゃない。相手は片倉小十郎。俺より拳一個分おおきくッて、体も
ひとまわり大きい、全然かわいくない音楽馬鹿。
ないない。
あるわけがない。
つうかあったら困る。
「俺は」
そういう俺のはかない願いは、やっぱり馬鹿弟子にぶっ壊された。
オランダの演奏旅行中、久々に会った昔の知り合いと飲んでたらちょっと羽目を外しちゃって、待ってた片倉君の
顔の怖さがなんかもうすごいことになってた日のことだったと思う。そりゃもうその顔は怖かった。般若とかナマ
ハゲとかそういうレベルだった。
ごめんねって謝ったら、どうも怒るのにもいい加減飽きてたらしい弟子はほうとひとつ息を吐いて、それからすご
く疲れた顔をして「俺はただ」、
「おまえが健康で居て欲しいだけなんだが」
ぽつりとつぶやくように、言った。
ひとりごとみたいだった。
それでまぁ、俺はとうとう自分が海にたどり着いてることに気付いてしまいました。
片倉君はその後髪を掻きむしってベッドに行ってしまいましたが、俺としてはそれどころではなく、なんていうか
とっても即物的で申し訳ない話をすれば―――――――要するに勃ってしまいました。かわいくない弟子が、目の
下に隈を作って、すごく疲れた顔で、おまえが心配なんだという健気な言葉を言うのに駄目な師匠は欲情しちゃっ
たわけです。いやほんと、申し訳ない。
でも俺だって、とっても迷惑なわけです。
俺は静かに音楽だけやって後の人生を過ごしたいわけです。
今更年下で同性の弟子と見込みのなさそうな恋愛なんかしたくないわけです。
まず絶対に片倉君と両思いになんてなれないことは決まり切ってる。そのうえで男同士なんて言ったら下手したら
人間関係の縁まで切られちゃう。それはちょっとキツイ。さみしくってしょうがないから絶対にいやだ。でも一緒
の部屋で生活なんてしてると、とっても男前な俺様のお弟子くんは、服はぽいぽい脱ぐわ上半身裸で風呂から出て
くるわ布団で寝るときは微妙にくるんと丸まって―――――――どうも寒がりらしい―――――――寝るわでもう
どうしようもない。襲っちゃうぞちくしょー。
気を抜くとそういう悶々した部分が顔に出てきそうで、俺はすっかり眉間に皺が標準装備になりました。
そうしたら片倉君は当然のように切れるわけです。
まったくあの弟子はカルシウムが足りない。
俺としては今までの関係を無くしたくない一心で、なんとかかんとかこの残り二ヶ月ちょっとを、今考えたけどそ
れちょう長いね、まあいいや、ともかくその期間を乗り越えればまたどうせあの男は俺のことなんざ放ったらかし
でいろんなところでいろんな人間の音楽にうっとりするに決まってる。俺にだけうっとりして、俺のことだけ見て
る片倉小十郎なんてあとちょっとの間しか存在しない。
つまりそれを乗り越えれば、俺のこのなんかよくわかんない誤作動も収まる。
そう思って、一生懸命顔を合わせないようにして、部屋も別にしてもらおうとかしてたっていうのに、その提案を
したら馬鹿弟子はほんとうに切れちゃって、帰るとか言い出すんだからいやになる。
もちろん帰ってもらったほうがいいんでしょうよ。
でもさ、帰って欲しくないンだもの、俺が。
だってこの男が俺のことばっか見てるのなんて、きっとこれから五十年あってもこの三ヶ月だけだ。
片倉君は普段は真田の旦那に構いっきりで、
日本に帰ったら伊達政宗のことばっかりで、
ヨーロッパじゃあ伊達輝宗にうきうきしてる。
師匠だからって俺が特別なところなんて全然ありゃしねえ。
だから俺としては、そりゃあいろんなところがうずうずして、顔見るだけでなんだか心臓がどくどく煩くッて、声
聞くだけでびくびくするようなのはほんとうに面倒臭くていやなんだけど、それを差し引いても片倉小十郎に帰っ
てほしくない。ここに居て、俺の面倒を看ててほしい。
だからもう、ちょっと俺は必死だった。
片倉君はトランク引き摺って出て行こうとしてて、待って待ってと止めても全然待っちゃくれねえし、もう心底か
ら困ってしまった。しかもこの馬鹿弟子はどうも師匠の気持ちを汲まないことがお得意らしい。眉を寄せて、唇を
歪めて、切れ長の目をついと細めて、それで「聞こうにも、ここ二週間俺と目も合わせようとしなかったのは、誰
だ」とか言っちゃうんだ、この馬鹿弟子は。
馬鹿だ。もう馬鹿としか言い様がない。
そんなさみしそうな顔すんな、馬鹿野郎―――――――かわいいじゃん!
ああもう駄目だこりゃ。
俺はすっきりと諦めた。
いろいろ誤魔化すのはどうももう無理。
顔の怖い自分よりでかい弟子をどうも性欲の対象として、それからそれ以上に恋愛の対象として見てしまっている
事実はどうにもこうにも歴然としていて、そのことに関してはもう認めなけりゃならない。そしてそれをこの男に
隠したまんまにするのももう無理そうだ。言わなけりゃこいつは帰るだろう。それはいやだ。
そういうわけで、俺は言うことにした。
「欲情しちゃった、俺」
へらりと笑って、あくまで軽く言ってやる。
弟子は目をまんまるにして固まっている。そりゃそうだろう。俺だって男に欲情したなんて言われたら固まる。
かっちこちになっている片倉君を俺はそのままずるずるとベッドのほうへ引き摺っていって、それでぽすんと座ら
せた。肩に手を置いて、首を傾げて、ねえ片倉君、と俺は聞いた。
「俺はさ、つまりあんたのことをそういうふうに見てるわけ。
だから一緒に部屋だと辛ぇんですよね―――――――最近俺が遅いのも、それが理由なんだけど」
あんたの顔見ると、どうにもたまんなくって。
にいと笑う。片倉君はぼうっとしてる。すごいあほづらをしてる。
「だからさ、俺の健康のこと考えるなら俺と別部屋になってよ。
もちろんあんたが俺の望み通りのことしてくれるってぇなら同部屋でもいいんだけどね」
できないでしょ、と顔を覗き込んで言う。
もちろん出来ないに決まってる。つうかこんなこと言われたら同部屋に居たくないだろうよ。俺なら絶対やだね。
多分片倉君はこれで別部屋にすることを認める。そしたら俺が落ち着く。そんでしばらくして大丈夫になったらに
こりと笑って「まさかあれまだ本気にしてないよね?」って一言言ってやりゃあいい。
片倉小十郎は、ちょっとおばかさんだから多分これで「そうか」ってことになる。
これはそういう、俺の素晴らしい計画の一環だったのです。
俺はちょっとどきどきしながら弟子の次の言葉を待った。
そのうち撤回されるにしたって、拒絶の言葉はちいとばかし痛い。
片倉君はようやく目を覚ましたようにふいと視線をさまよわせて、俺の顔をじいと見て、それから口を開いてあぁ
とちいさくつぶやいた。あぁ。
そんで言った。
「そんなことでいいのか」
マジかよ。
「そんなことでいいのか」
と小十郎は言った。
佐助は慌てた。
「え、は、あ―――――――はい?」
「つまりセックスをすりゃァいいんだろう」
俺とおまえが。
小十郎は首を傾げてそう聞いた。佐助はすこし怯んで、それからそうだけど、とちいさく同意する。なんだ、と
小十郎は言う。なんだ、そんなこと。
「もっと先に言やァ良かっただろうに、阿呆らしい。
おまえが勿体ぶるからさんざんだ。そういうことは、先に言いやがれ」
「ちょ、ちょっと」
「なんだ」
「あんた」
何言ってンの。
意味解ってンの。
佐助は小十郎のワイシャツの胸ぐらを掴んでゆさゆさと揺らしながら声を絞り出す。何言っちゃってんのこの馬鹿
弟子。小十郎は平気な顔で、真っ平らな声で、解ってるが、と不思議そうに言う。おまえ俺を抱きたいんだろうと
言う。佐助は目の前の男が急に未確認生命体かなにかのようなものに見えて、思わず手を離した。
乱れたワイシャツを直しながら、小十郎はべつに、と言う。
「構わん」
それでおまえの夜遊びが無くなるなら願ったり叶ったり。
ケツの穴のふたつやみっつ、易いもんだ減りゃしねェしよ。
「生憎ひとつしかねェが」
「ふ」
ふたつあっても困る。
佐助はそう突っ込もうかと思ったが、止めた。
もちろんそんなことを言っている場合ではなかったからだ。
「か、たくらくん」
「どうした」
「それ、あの、本気かな?」
「俺は冗談は好きじゃねェ」
「そうだよね、それは、うん、俺も良く知ってるんだけど」
「じゃァなんだ」
「あのさ、俺が言うことじゃ、ないかもしれないけど」
「あァ」
「自分の体はもっと大事にしようよ」
「ほんとにおまえにだけは言われたくねェな」
大丈夫だ、と小十郎は佐助の肩を叩く。
俺は丈夫だ、と言う。それはそうだろう。見れば解る。ただそういう問題じゃない。どうしてそれが目の前の弟子
には伝わらないんだろうか。不思議だ。
小十郎はひとりで納得して、なんだそういうことだったのか、とまた言っている。
「今日は遅いからもう無理だぜ」
「え、きょうって」
「まァ早くて明日だろう」
「あした?」
「取り敢えず俺が全部用意しておく」
「ようい」
「いろいろ使うものがあるだろう。まァ俺が全部するさ。おまえは明日の演奏のことだけ考えてろ」
「あの、ちょっと、片倉君」
「そうと決まったらとっとと寝るぜ」
小十郎はそのままベッドに潜り込んだ。
佐助の言葉は一切聞き入れられることはなかった。
しょうがなくのろのろと自分のベッドにのぼって、途方に暮れて隣のベッドの膨らみを眺める。意味が解らない。
あの男の使っている言語の解読が出来ない。助けてシャンポリオン、と佐助は思った。
ぼう、としていると小十郎が布団から顔を出す。
不思議そうな顔が、どうかしたか、と聞く。
佐助は呆れた。
「どうかしたか、じゃねえよ」
「なにが」
「だってあんた、何言ってるか解ってンの?
ふつうそんなことにオッケー出さないぜ。まさかあんたゲイってわけでもねえでしょうに」
「阿呆か。俺は女が好きだ」
「じゃなんで年上の男に抱かれるとかふつうに言うわけ」
佐助はうんざりと聞いた。
小十郎は目を瞬かせる。それからすこしだけ視線を宙に浮かせた。
どうしてかなと思ってる顔だなと佐助は思った。解ってないらしい。なんだそりゃ。どうしてだろうなとやはり
小十郎は言った。枕の上に腕を組んで、顎をその上に乗せて、ふうん、と鼻を鳴らす。
それから、多分、と言葉を選ぶように口を開く。
「多分」
「たぶん」
「相手がおまえだからじゃねェか」
「―――――――は?」
「おまえが」
すこしでも長く指揮をするのに、
俺がなにか出来ることがあるなら、
「してェと思うさ。当然だろうと思うがな。
なにせおまえはまだ38で、これからあと30年はタクトが振れる。おまえの演奏は若さがどうってなァ種類
のもんじゃねェから、これから良くなることはあっても悪くなるこたァねェだろう。おまえは今までヨーロッ
パ中心の活動だったが、そのうちアメリカにも行くだろうし、アジアにだって行く。そうすりゃまた違う音楽
がそこで聞ける。俺はそれを聞きてェし、それからおまえの指揮でもう一度ピアノを弾く予定だってある」
死んでもらっちゃ困る、と小十郎はすこし笑った。
「言ってなかったかもしれんが、俺は猿飛佐助のファンでね」
頼むぜ巨匠。
小十郎はそう言って、ふわあ、と欠伸をした。
それから布団をもう一度引っ被って、今度はほんとうに寝てしまった。ちいさな寝息が聞こえる。佐助はそれを
じいと眺めて、それから天井を見上げた。橙の照明が満遍なく暗闇を照らして、かすかに天井の模様が見える。
幾何学模様が延々と続いて、照明の届かないところで夜に混じる。
しばらくそれを眺めてから、佐助はちいさくどうしようとつぶやいた。
どうしよう。
「―――――――誰かあの馬鹿弟子をどうにかしてください」
顔が熱くて、心臓が痛い。
体中に鳥肌が立つようで、口元は歪むし背筋がふるえるようにさわさわとおかしな感触が走り回っている。呼吸
の仕方を忘れてしまって、佐助はおかしな音を立てて無様に何度か息を吐き出した。ひゅうひゅうと、そういう
音がした。舌打ちをして、枕を叩きつける。とても覚えがある感触だ、と思った。
たったいちど、黄金色のピアニストにこういう感触にさせられたことがある。
沸々と湧いてくるこのどうしようもない軋むようなこれは、つまり、
モーツァルトじゃない。
ヴィヴァルディでももちろんない。
なんでこんな年で「新世界」なんて見なくちゃいけねえんだちくしょう。
「あぁちくしょう―――――――めんどくせえ」
呻く。
要するに十歳年下の弟子に恋をしたのだと佐助は認めることにした。
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うちの片倉さんのお尻には羽が生えてるようです。すごく 軽いです。
ちなみに管理人のクラシック知識はおうちにCDが十枚ちょっとあるくらいなので突っ込まないでください。
あとシャンポリオンはロゼッタ・ストーンのヒエログリフ解読に成功したひとです。
空天
2008/01/27
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