俺は刺身が食べたかった、と目の前に座っている赤毛が吐き捨てる。
小十郎はそれにちらりと視線をやって、ひょいと肩を竦めて「刺身じゃねェか」とフォークでスモークサーモンの
マリネを刺しながら言った。佐助は呻いて、こんなん刺身じゃねぇ、とビールグラスをぎゅうと握る。

「日本食が良いって言ったじゃねえかよ」
「近くになかったんだからしょうがねェだろう。おまえはいくつだ。
 小学生じゃねェんだから飯くれェで一々うだうだ言ってんじゃねェよ煩わしい」
「もうやだ。高カロリー高タンパクの料理は食い飽きた。肉じゃがとか食べたい」

正午のカフェテラスは、秋の太陽のぬるいひかりで満ちている。
夏の名残がある青い空の下で、小十郎はビールを飲みながら卵とトマトのサンドウィッチを無表情で飲み込んでいく。
佐助は文句を言いながら口の中をスモークサーモンで一杯にして、横を通りかかったウェイターにデザートのジェラ
ートを頼んでいる。小十郎はほおづえを突いてそれをつめたい目で眺めた。この阿呆が、と吐き捨てる。佐助は聞こ
えているのだろうけれども、何も言わずにまたビールを飲んだ。
それからふと顔を上げて、元から丸い目を更に丸めた。

「どうした」
「や、真っ昼間から凄いもん見たなと思って」
「はあ」
「後ろ後ろ」

フォークの指す先を振り向くと、すぐ後ろのテーブルに座る男女に視線がぶつかった。
現地人らしいそのふたりは、オープンテラスだとか昼間だとか、そんなことはまったく関係ないようで身体を密着さ
せて笑い合っていた。それだけなら良く見かける光景だけれども、小十郎がかすかに目を見張ったのはそのふたりの
体勢だった。女のほうが男の膝に座り込んで、男の手はあきらかに女のキャミソールの中に入っている。お盛んだね
えと佐助が言った。そうだな、と小十郎は視線を戻した。
佐助は顎に手を置いて、それから首を傾げてへらりと笑った。

「片倉君」

声が甘ったるい。
小十郎は顔をしかめた。いやな予感がする。
佐助は満面の間抜け面を浮かべながら、手を伸ばして長い指を一本一本ぱらぱらと小十郎の首にかけた。ぐいと身体
を乗り出して、目を細めてにいと笑う。

「あれ、俺もしたい」

予想通りの言葉に小十郎は舌打ちをして佐助の額を叩いた。

「いってぇ」
「阿呆なこと言ってんじゃねェよ、このド阿呆」
「良いじゃん。俺、ああいう迷惑なカップルになるの大好き」
「死んでも人前であんなふうに盛ったりするつもりはねェ」
「意外と見られると興奮するかもよ」
「俺はおまえと違って変態じゃねェ」

佐助は心外だと言うように両手を広げた。
俺は変態じゃない、と言う。ただ俺は人前で片倉君といちゃいちゃしたいだけだよ、と続く。小十郎はぐぐ、と手に
持ったフォークを強く握りしめた。このままこの男の顔の中心にこれを突き刺してやりたい。佐助はへらへらと顔を
緩ませて、睨み付けると何を勘違いしたのか目を閉じた。
寒気がするほど、頭が悪い。

「目を開けろ、気色悪い」
「え、ちゅうは?」
「死ね中年」
「またまたそんなこと言っちゃって」

開かれた赤い目が、つう、と細くなった。
俺が死んで一番かなしいのはあんたでしょ、と言われて小十郎は腕を組んで椅子にもたれた。黙り込んで、視線を逸
らす。癪だが事実だ。認めるのは嫌だけれども、嘘も言えない。
小十郎のしかめ面に、佐助は首を傾げて笑った。小十郎はそれに益々顔をしかめる。佐助は時々、困ったように笑う。
大抵はへらりと間抜けた顔で笑うくせに、ほんのときおり、困ったように苦く笑う。それを見ると不快が波のように
押し寄せてくる。理不尽だ、と思う。毎晩良いようにされているのに、この男はまったくしあわせそうじゃない。な
にが不満だ、と思う。佐助がしたいと言っていることは全部させている。小十郎自身が女にさせたこともないような
ことすら、佐助がしたいと言うならすべてしている。
小十郎は顔をしかめる。
なにが不満だ?

「そんなに怒ンねえでよ。サンドウィッチのレタスが泣いてる」

小十郎は視線を自分の手にやった。
パンを握りしめすぎてレタスがテーブルに落ちている。

「俺様はあんたのことを怒らせる天才みたいだね」
「どうも、そうみてェだな」
「なんでだろう。不思議だ」
「黙ってろ、阿呆」

小十郎はナプキンでレタスを取り上げ、皿に置いた。
佐助はほおづえを突いて、向かい側のショーウィンドウを眺めている。丸い目が丁度半分になって、赤い目は日に透
けるとそのいろをすうと薄めて、ステンドグラスのように見えた。小十郎はサンドウィッチを口に押し込んで、グラ
スを思い切り傾ける。体が不快で満ちている。矛盾が上から降ってくる。
ほんとうは、小十郎はここで不快を感じる筈がない。べつに小十郎は佐助に阿呆みたいな顔で笑って欲しいからセッ
クスをしているわけではないのだから、本来の目的であるあの男の健康が維持出来ているのならばそれで良い。良い
筈だ。けれども、実際のところはまったく良くない。

佐助のあの笑顔が、小十郎は吐き気がするほど嫌いだ。

会計を支払って、コンサートホールへと向かう道を歩きながら小十郎は佐助の背中を睨んだ。
薄い背中だ。肩幅は広くない。男として貧弱とまでは言わないけれども、決して逞しくはない。矛盾だ、と小十郎は
また思った。あの薄い背中は、ステージに立つと途端に何よりも大きく見える。小十郎はそれを見るのがとてもすき
だ。佐助が引き出す音も、佐助から音を引き出されるのも、とてもとても、すきだ。タクトが魔法使いの杖のように
見える。佐助ならカボチャからでも音が出せる気がする。そういうことを考える自分を、馬鹿だ、と冷静に小十郎は
分析している。馬鹿だ。しかしそう思う。多分、そのカボチャは十二時を過ぎても歌うのだ。
でもそれと佐助の笑顔とは何の関係もない。

「猿飛」

リハーサルの為に、控え室のドアを開けようとする佐助の背中に小十郎は呼びかけた。
佐助は不思議そうな顔をして振り返り、首を傾げた。小十郎は視線を左右に向けて、誰も居ないことを確認する。ど
うしたのさ、と佐助が言うのを無視して、腰を屈めて軽く口付けた。煙草の匂いがするのに眉を寄せる。またこの野
郎吸いやがったな、と舌打ちをしたくなった。
佐助の目が見開かれて、丸くなっている。
ちゅ、と音を立てて唇が離れる。

「――――――――は、」
「ヤニ臭ェ」

ドアを開けて、佐助を控え室に押し込む。
ヘマすんなよ、と言うと、ようよう気付いたらしい佐助が口にてのひらを当ててこくりと頷いた。それからあんたは
ほんとうに馬鹿だね、と佐助は言う。そして笑った。
だいじょうぶだ、と笑う。

「安心して、客席で聞き惚れてなさいな」

ドアが閉まる。
小十郎は舌打ちをした。
やはり佐助は、困ったように笑っていた。
































演奏旅行も残り二週間、という頃に佐助が倒れた。
丁度日本でのコンサートが三日連続であるという時で、小十郎がスタッフと打ち合わせをしていたら病院から電話
があった。佐助はその日検診の為に病院に行っていた。そこで倒れたのだ、と言う。
小十郎が立ち上がり、すぐにでも行こうとすると電話越しに医者が「伝言があります」とそれを留めた。

『今日のコンサートはあんたに任せる、だそうです』
「――――――――は」

それで電話が切れた。
小十郎は死んだ携帯を握りしめ、舌打ちをする。
スタッフに事情を説明すると、小十郎が代役をするなら、と話は案外簡単にまとまった。佐助が体が弱いことは有
名な話で、小十郎はその唯一の弟子でプラティニ国際指揮者コンクールで優勝もしている。ずっとこの演奏旅行に
付いていって、曲の勉強はしてある。しょうがないが、代案としてはこれ以上のものはない。
小十郎以外は納得して、そういうことになった。
時間がないのですぐにリハーサルがおこなわれて、小十郎は結局病院に佐助の容態を詳しく聞くこともできないま
まに本番を迎えることになった。動揺を見せることはない。そんなことをすれば、佐助の評判も自分の評判も同時
に下げることになる。それにチャンスでもある。一流のオケと演奏出来るチャンスを、自分の感情ひとつで台無し
にしてしまうことはない。本番前の控え室で、タイを締めながら小十郎は息をゆっくりと吐き出した。
小十郎の音楽は、佐助のそれとはまったく違う。スポットライトに満員の客席、聳えるようなオーケストラ。それ
らはすべて、小十郎にとっては“ある一点”に到達する為に必要な階段のようなものだ。質が高ければ高いほど、
小十郎の目指す一点に近くなる。佐助のような音楽は、小十郎には奏でられない。種類が違う。だが、それはべつ
にマイナスではない。小十郎には小十郎の音楽がある。

「そろそろです」

舞台の袖から見える客席は、満席だった。
小十郎は頷いて、舞台に出る。拍手が起こる。これは、佐助への拍手だ。
小十郎は涼しい顔で中央に出て、ひとつ礼をして、オーケストラに向き直る。タクトを握り、譜面を開く。目の前
のオーケストラを眺める。これも、佐助の為に用意された面々だ。口角を上げて、くそくらえ、と思った。そんな
ことは関係がない。使えるものは使うだけだ。
佐助の音楽を聴きに来た客なら、自分の物にするだけのことだ。

小十郎はタクトを振り上げ、ゆっくりと下ろした。

体感時間、というものがある。
指揮をしていると、それはいつもの十倍速くなる。
あっという間に演奏は終わる。気付くと拍手が起こっている。コンマスに促されて小十郎はようやっと演奏が終わ
ったことに気付いて、振り返り、礼をした。気圧変化でドアから押し寄せる突風のような拍手が起こった。
花束を受け取って、小十郎は顔を上げた。

「――――――――ッ、」

そして目を見開いた。
拍手は鳴りやまない。礼をまたする。振り返り、オーケストラにも礼をする。決められた儀式のように一連の動き
を進め、舞台の袖に戻った小十郎はそのまま花束をスタッフに押しつけて駆けだした。冬だというのにホールの中
は暖房のせいでひどく暑い。汗がこぼれているが、小十郎は構わずに控え室まで全力疾走してドアを開けた。
だん、と叩きつけるような音が狭い控え室に響いた。

「お疲れさん」

それに間抜けた声が続く。
小十郎は肩で息をしながら、乱暴にタイを緩めた。あんまり必死に走りすぎたので、まだ声が出ない。声の持ち主
はドーナツを食べながらソファにもたれ、コーヒーを飲んでいる。

「な、――――――――に、してる」

荒い息の中、小十郎はようやくそう言った。
ドーナツ食べてる、と言われて狼のような呻き声が上がる。タイを床に叩きつけ、大股でソファまで寄って胸ぐら
を掴み上げた。さるとび、と小十郎は低く唸った。
佐助はドーナツを口に咥えて、目を瞬く。

「怖い顔。ナマハゲみてぇ」

へらりと笑って、ドーナツをテーブルに置く。

「落ち着きなって。つうかこんなとこに居ちゃ駄目でしょ。マスコミすげぇぜ、あんたに取材しにさ」
「俺の質問に、答えやがれ」

佐助は病院に居る筈だ。
控え室でドーナツを食べていて良いわけがない。
佐助はひょいと肩を竦め、簡単でしょ、と目を細めて胃もたれしそうなくらい嫌味たらしい顔でにいと笑って、俺
は倒れてなんかいなかったっていう、それだけのこと、と言う。
佐助は呆然とする小十郎の手をゆっくりと外させた。

「感謝してほしいね。これ以上ないくらいの、デビューだったろ」

額に佐助のてのひらが押し当てられる。
乱れた髪をひとすくい掬って、ゆるりと後ろに撫で上げる。

「髪が下りてンのも俺は嫌いじゃありませんがね、カメラの前に行くならちょっとラフ過ぎるな」
「――――――――おまえ、じゃあ」
「うん」
「嘘か」
「嘘だね」

小十郎はまた佐助のワイシャツを掴み上げた。
佐助は眉ひとつ動かさず、細めた目で小十郎を見下ろす。ふざけるな、と言うと、ふざけてねえ、と返ってきた。
ふざけてねえ。佐助は口角を上げ、反対に小十郎の胸ぐらをぐいと掴んだ。

「あんたは俺様のたったひとりの弟子なんだ。これくらいのデビューしてもらわなけりゃ、俺の名前に傷が付く」

それに、と佐助は鼻で笑った。
それにあんただって、チャンスだと思っただろ。

「それでこそ、片倉小十郎だ。
 それくらい図太くなけりゃ困る。良い演奏だったよ。あんたらしい。押しつけがましくて傲慢で、完璧主義で
 真っ直ぐ過ぎるくらい真っ直ぐだ」
「けなしてんのか」
「最後まで聞けよ。そう、それで、」

聞かないではいられない、と佐助は笑った。
俺は片倉君の音楽がすきだよ、と言う。あんたらしい。あんたそのもの。俺みたいな人間には逆立ちしてもあんな
音は出せやしない。だからすき、と佐助は言う。
小十郎は黙って佐助を見上げた。
佐助はくすぐったそうに笑う。

「まだなんか、ご不満かい」
「隠す」
「お」
「隠す必要は、なかっただろ」
「ああ、それはちょっとしたお茶目ですよ」
「猿飛」
「なに」
「死んで良いぞ」

けらけらと笑い声が上がった。
小十郎はタイを締めて、佐助に言われたように髪を整える。汗を拭いてミネラルウォーターを喉に流し込む。そう
したら大分落ち着いた。自分の怒りが的外れであったとは思わないけれども、そこまで取り乱すことでもなかった。
佐助は倒れていなかったし、自分は認められたのだ。そういうことだ。ミネラルウォーターの蓋を閉める。
佐助がぽんと肩を叩いた。

「安心してよ。片倉君のおかげで俺様すっかり健康優良児なんだから」

そう簡単には倒れないよ。
小十郎は佐助の手を見下ろした。長い指。
そうか、と言う。そうか、なら良い。良い筈だ。倒れない。健康。結構なことだ。
佐助は小十郎を買っている。佐助は今までひとりも弟子を取らなかった。昔惚れた女の頼みであったとしても、気
にいらなければここまで共にいることは無いだろう。そのうえ性欲まで抱くのは良いのか悪いのか良く解らないけ
れども、小十郎にしてみればどうでも良い。あの猿飛佐助がそこまで自分の為にしているというのは、おそらくは
喜ぶべきことなのかもしれない。
そこまで考えて、小十郎は振り向いて佐助を見た。

「猿飛」
「ん、なに」
「やっぱり腹が立つ」
「――――――――は、」

佐助が何か言う前に、小十郎は思い切り佐助の肩を掴んでソファに倒した。
ひゃあ、と間抜けた声を出す佐助を見ても、やはり苛立ちは収まらない。取り乱すことではない。そんなことは知
っている。喜ぶべきことかもしれないが、自分にとっては怒りの対象にしかならない。胃の中身がぐるぐると旋回
して、口から出てきそうなほど気色悪い。小十郎は黙ったままテーブルの上に置いてあったものをひたすら佐助に
投げつけてから、そのまま視線を外してドアに向かった。
腹が立つ。
苛立つ。
ではそれは、

「なに怒ってンのさ」

佐助の言葉と自分の思考が重なった。
小十郎はドアノブを握ったまま一瞬立ち止まって、それから振り返ろうかと思って結局止めた。そのままドアを開
けて、佐助を置き去りにして舞台に向かう。かつかつと足音が鳴るのを聞きながら、小十郎は思った。

腹が立つ。苛立つ――――――――だから、何に。

記者達が砂糖に群がるアリのように小十郎の周りに押し寄せた。小十郎は質問に答えながら、ふと視線を逸らすと
そこに佐助が居て一瞬だけ目を丸める。佐助はひとが悪い笑みを浮かべて、口だけで「馬鹿」と小十郎を罵ってか
らするりと姿を消した。病院に居る筈の人間が元気でここに居るのはさすがにまずいと思ったのかもしれない。
薄い背中だな、と小十郎は思った。舞台に居る時の佐助とまったく違う背中だ。
小十郎はそれで、自分が何に苛立っているのかがすこし解った。
なに怒ってンのさ、と佐助は言う。なに怒ってンのさ。佐助は怒らないと思っている。自分が倒れたと嘘を吐いて
も、実際に倒れてさえいなければ――――――――つまりまだタクトを振れる体であるなら、小十郎は何も思わな
いと思っている。小十郎が佐助を心配するとは思っていないのだ、つまり、音楽抜きでは。

ふざけんじゃねェよと、もう見えない薄い背中に向けて小十郎は胸のうちで怒鳴りつけた。













       
 





小十郎はロジックでいろんなものを作りそうだなぁという妄想。
たまには佐助に振り回される小十郎が書きたい時もあるのです。あと二話くらいです。




空天
2008/04/19

プラウザバックよりお戻りください