付き合いは随分長いのに、佐助の自宅に行くのは初めてだった。 ラストコンサートの後、案の定パーティで飲み過ぎて倒れたクラゲのようなマエストロを肩に背負って、小十郎 はベルリンの郊外にある一軒家の門を潜った。煉瓦作りの壁には蔦が這っていて、建物の年代を窺わせる。レト ロな鉄作りの門を開くと、肩の上の佐助が呻き声を上げて崩れ落ちそうになる。小十郎は舌打ちをしてそれを抱 え直した。 「おい、鍵は」 「ええ、かぎ、って、なあにぃ?」 「よし解った。ドアの前に置いていく」 ずるりと肩から下ろそうとすると、佐助はがしりと小十郎にしがみついて首を振った。 いやだな、と言う。いやだな、ちょっとした冗談じゃないのさ。小十郎は目を細め、しがみついてくるクラゲを 引き離し、手を出した。佐助が口を尖らせてポケットから鍵を取り出す。安っぽいキーホルダーの付いた鍵を握 りしめ、小十郎は佐助を玄関先の床に放って鍵穴に鍵を差し込んだ。 放り出された佐助は歌を歌っている。 「ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る」 日本語だ、と思いながら小十郎はドアを開いて佐助の手を取った。佐助の顔が上がる。とろりと酒で濁った目は 赤く、町に溢れるクリスマスカラーを思い起こさせた。起きろ、と言うと佐助はへらりと笑い、起こして、と首 を傾げて甘ったるく粘着いた声を出した。小十郎は顔をしかめて手を払う。 「阿呆か」 「冗談の通じない弟子」 佐助はひょいと起き上がり、―――起き上がれるんじゃねェかと小十郎は顔をしかめた――― 腹が立つほどしっ かりとした足取りで小十郎の横を通り抜けて家の中へ入っていった。小十郎はその背中を一睨みしてからそれに 続いた。佐助はリビングに入り、グラウンドピアノに備え付けられた椅子に腰掛けてそれからくるりとこちらを 向いた。蓋を外しながらへらりと笑う。 「弾いて」 小十郎はリビングのドアを黙ったまま閉めた。 佐助を無視してリビングを通り抜けてキッチンへ向かい、暖房のブレーカーを上げるとそれからグラスにミネラ ルウォーターを注ぐ。再びリビングに戻ると佐助はまだおんなじ体勢で、今度はしかしすこしふて腐れた様子で 小十郎に視線をやった。なんだよ、と言う。 「無視とか。ひどいな」 「おまえあんまり酔ってねェんじゃねェか」 「片倉君がやさしくないから醒めちまった」 「なによりだ」 小十郎はグラスを佐助に手渡した。 グラウンドピアノに寄りかかりながら佐助はそれを受け取り、一息に喉の奥へと水を注ぎ込んだ。拍子にぽろん と低めの音が鳴った。小十郎はなんとはなしに佐助の肘辺りの鍵盤を押した。やはりぽろんと音が鳴った。 佐助は空になったグラスを窓枠に置いて、小十郎をたのしげに見上げる。 「弾いてよ」 おんなじことをまた言う。今度は腰を上げ、椅子を空けてきた。 小十郎は黙ったまま、けれども一応は椅子に腰掛けた。佐助は浮かれた調子で手を叩き、踊るようにくるんと回 転すると部屋の隅にある本棚へ駆け寄って、楽譜を一つ取り上げて戻ってきた。そしてそれを小十郎へ渡す。 弾いてよ、とまた言う。 「三ヶ月間、頑張った俺様への弟子からのご褒美がまだでしょ」 「なんで弟子が師匠に褒美をやらなけりゃならんのだ。普通、逆じゃねェか」 「細かいことは言いなさんな。ん、でも君が俺からのご褒美が欲しいっていうなら、考えないこともないけど」 「いらねェ」 「なら頂戴」 俺はほしい。 佐助はけらけらと笑って、絨毯の敷かれた床にクッションを抱えて座り込んだ。右手がふいと挙がる。小十郎は 咄嗟に手を鍵盤に当ててしまった。佐助が弾かれたように笑う。職業病だ、と言う。小十郎は舌打ちをした。 ブランクがあって、それとも弾けないとかかいと佐助に揶揄される。小十郎はまた舌打ちをして、それから鍵盤 を強く叩いた。調律はされているらしい。響きの良い高音がとんと天井へ跳ねていった。 楽譜を閉じる。ついでに目も閉じて、最初の一音を強く叩き付けてやった。音響設備がしっかりとされたリビン グの中で、音が自分に跳ね返って耳を騒がせる。佐助を見ると指揮を止めていた。この野郎、と小十郎は鍵盤を 叩きながら思った。佐助は膝を抱えて膝頭にクッションを置いて、うっとりと目を細めてこちらを見上げている。 ほおが赤いのが薄暗い室内でも良く見えた。やはり酔っているらしい。 旋律を奏でながら、ぞくぞくと背筋に震えがいくのがとてもよく解った。 その理由も小十郎には手に取るように知れた。佐助がこちらを見ている。指揮をしていなくても、指揮者の視線 が向いているということは演奏者にとってはおそろしく心地が良い。それに続けて小十郎は思った。なんて癪な んだろう、と胸の内でまで舌打ちをしながら、やはりそう思わずにはいられなかった。 つまるところ、指揮者の視線である以上に、これは猿飛佐助の視線なのだ。 「―――相変わらず、腹立つほど上手いねえ」 佐助が立ち上がり、こちらへ寄ってくる。 小十郎は構わずに演奏を続けた。佐助もおんなじに構わず、グラウンドピアノの脇に寄って小十郎を覗き込んで くる。背後には窓がある。そこからはしろい月のひかりが差し込んで、佐助の髪をしらじらと染めていた。冬の 月明かりのきんと張り詰めたいろが佐助の輪郭を象って、いやに鮮明に目の中に移り込んでくる。 佐助が身を屈めた。 小十郎は鍵盤を叩く手を止めた。 「なんで止めるのさ」 佐助が喋ることで、吐息が鼻先をかすめた。 「こんな体勢でどうやって弾けってェんだ」 「成程」 ごもっとも。 佐助は笑って、それから更に身を屈めて小十郎に軽くキスをした。 すぐさま離れていく。小十郎は佐助を見上げた。佐助はにんまりと笑みを浮かべ―――それが月明かりの下では いつもより更にいやらしく見えた。それから小十郎のタートルネックの襟元をぐいと引き、椅子から立ち上がら せて代わりに自分が椅子に座った。深く腰掛け、そして背を鍵盤にもたれさせる。不協和音がちいさく気怠げに 響いて、そして不揃いに消えていった。小十郎は目を細め、佐助を見下ろした。 佐助は目を閉じて、顎を持ち上げて「ご褒美」と言う。小十郎は息を吐いた。 「さっきの演奏は」 「おいおい、三ヶ月の演奏旅行だぜ。まさかあの程度で全部賄えると思ってたわけ?まるで足りないに決まって ンでしょうが。あれなら精々がまあ、三回分だね。コンサート。あと軽く三十回分は残ってる」 「強突張り」 「なんとでも」 佐助は喉を鳴らして、また顎を持ち上げる。 小十郎はすこし考えてから、身を屈めて閉じられた佐助の瞼に唇を押し当てた。佐助がたのしそうに笑う。さす が俺の弟子だ、解ってるな。そういう声と一緒に、首に手がかけられた。でもこれじゃ一回分だ、と言う。小十 郎は黙ったまま、今度は唇をするりと移動させて額を軽く吸った。二回、と佐助が言う。小十郎は唇を離した。 佐助の目が開く。赤い。 「切りがねェな」 「俺としちゃ無くても構わないけど。うん、まあ、そうだね」 なにごとも、終わるもんだからなあ。 ひとりごとのように佐助はつぶやいて、それから自分の唇を人差し指で指し、ここは五回分にしてあげよう、と 偉そうに言った。小十郎は舌打ちをしてから、指を払ってから佐助の唇に自分のそれを重ねた。男にしては厚い 唇が圧力で形を変えて、すこしだけ開く。舌を入れるべきかどうかを小十郎は考えて、結局重ねるだけですぐに 体を離した。それからまた重ねる。佐助が笑った。ずるいなあ、と言う。 「これで三十回分誤魔化すつもりってわけか」 小十郎は応えないで、三度目のキスをした。 すぐに離す。佐助がまた笑う。中学生みたいなキスだね。小十郎はそれをまた無視して、啄むように二回佐助の 唇を吸った。ますますずるいと佐助は笑った。 でもかわいいから許してあげよう。 「アマービレ。モーツァルトの練習曲みたい」 「そりゃ、どうも」 「次で最後か。まあしょうがない。ちょっと長いのがいいな。なにせ、こんなのはもうこれでおしまなんだから」 あんたを独り占めするのも、今日が最後。 佐助はけらけらと笑ってまた目を閉じる。小十郎は黙ったままその顔を眺めた。 「ひとりじめ」 つぶやくと、佐助が目を開けた。 「どうしたの」 「なんだそりゃ」 「はあ」 「独り占めってなァ、何が。誰の話だ」 佐助は目を瞬かせて、それからのろのろと手を持ち上げて自分の顎先に人差し指を乗せた。小十郎はすこし考えて 「誰と」と付け加えた。佐助の赤い目がまんまるく見開かれる。 夜の中に、はあ、と調律しそこねたピアノのような間抜けた音が響いた。 「何言ってンの?」 「それを聞いたのは俺だ」 「いやいやいや、ここで誰と、とか聞くか普通。あんたしか居ないでしょうが」 「あんた」 「君だよ」 「俺か」 「当たり前だろ。馬鹿ですか、あんた」 「俺が?」 「ちがう」 佐助は「俺が」と言った。 「あんたを、だよ」 小十郎は黙った。それから考えてみた。佐助「が」小十郎「を」。 独り占め。 「何故」 首を傾げると、佐助の顔が歪んだ。 「あんたの質問の意図が読めない」 「何故おまえが俺を独り占めするなんていう事が、いや、意味があるんだ」 「意味とかそういう問題じゃあないでしょ。腹立つな。馬鹿なんだろ、やっぱり。片倉君馬鹿なんだ。そうなんだ」 「おまえにだけは言われたくねェ」 「俺だってあんたにだけは言われたくないね。ほんとうに苛々すんなあ。だからさあ、」 佐助はすこし間を置いた。意図して、という間ではなく、何かをためらった末に空いた間のようだった。 だからなんだ、と小十郎は佐助を睨んだ。佐助は口を歪めて眉をひそめ、小十郎のことを何か不快な異性物である かのような、そういう目でこちらを見上げている。小十郎は顔をしかめた。なんでそんな顔をされなければならな いのか、理由がまったく解らない。 だからさあ、と佐助は繰り返した。 「そりゃあさあ、―――好きな、子、は独り占めしたいでしょうが、男としては」 「好きな子」 小十郎は目を細めた。 佐助はふて腐れたような顔をしている。かすかにほおが赤い。これはもう酔いのせいではないだろう。小十郎は佐 助の言葉を頭の中でもう一度繰り返してみた。 好きな子。 独り占め。 「が」と「を」。 日本語はとても難しい。 「あんたには解らないだろうけどね」 佐助はふんと鼻を鳴らして吐き捨てた。 片倉君には解らないだろうけどね、俺はねえ、年甲斐もなくあんたがすきなんだよ。惚れてんだよ。 「ほらその顔」 佐助は不愉快げに顔を歪めた。俺がそう思ってたことも気付いてなかったんだろ図星だろ。小十郎は黙ったまます こし視線を逸らした。佐助は自棄気味に笑った。いいですよ、いいですよ。解ってたことですよ。 あんたはどうせ俺の音楽しか見ちゃいねえんだからさ。 「まあ、当然だ。それ以上を望むのは俺様のわがままだ。だから最後に一回長めのキスで、ちゃんと元通りになっ てやろうって言ってンだろ。だから言いたくなかったんだよ。まったく、片思いなんて馬鹿馬鹿しくッてやって らんねえ。相手があんたなんて尚更だ。馬鹿弟子。木偶の坊。とっととキスしやがれってんですよ、馬鹿」 むくれた顔のまま目を閉じて、ひん曲った唇をこちらへ向ける。 小十郎はじいと佐助のそういう顔を見下ろした。十以上年上の、天才的な指揮をする絶望的に生活力のない男の顔 をまじまじと眺めた。 そのうちにようやく、佐助の言葉が小十郎の脳に浸透してきた。 そうしたらまた、例の訳が解らない怒りが沸いてきた。 小十郎は佐助を閉じ込めるように腕を左右の鍵盤に置いた。大きく不協和音が鳴る。佐助がそれで目を開いた。そ の目を覗き込み、自分は目を開いたままで小十郎は佐助の唇に噛み付いた。 誰が馬鹿だ、 キスを深めながら、小十郎はそう思った。馬鹿はおまえだこの馬鹿。 舌を絡め取って、歯をなぞる。戸惑うように佐助が身動ぐのが腹立たしかったので、呼吸をしようと顔を逸らした その動きも封じて、自分まで苦しくなるような無意味なキスを続けた。訳の解らない怒りが体を支配している。け れども、その訳の解らない怒りの訳が、小十郎にはなんとなく解ってしまった。 唇を離すと、掠れたひゅうという佐助の吐息が空中に吐き出された。 「解ってねェのはおまえだ阿呆」 小十郎は濡れた唇を拭って、そう吐き捨ててやった。 「てめェだけ被害者面するんじゃねェ、胸糞悪ィ。音楽だけでここまでおまえみてェな面倒な野郎の世話ァすると 思ってんのか、付け上がるのも体外にしやがれ。俺が、」 佐助はぼうと目を丸めている。 小十郎はぐいと佐助の襟を捻り上げた。 「俺にだって、独占欲くらいある」 「は、―――」 「俺以外には面倒を看させねェと言っただろう。どこまで阿呆なんだおまえは。最初に、おまえが相手だからだっ つっただろう。勝手にひとりで自己完結してんじゃねェよ。阿呆か。勝手に、」 小十郎は言葉を止めた。 なんだか何を言いたかったのか良く解らなくなってきてしまった。 佐助を突き放し、グラウンドピアノから離れてふたり掛けのソファまで寄って深く腰掛ける。佐助は椅子に腰掛け たままぼうと小十郎の動きを追っていた。そしてソファまで目を動かすと、ゆっくりと首を傾げて何が言いたいの 結局、と言った。小十郎は応えないで手を組んで床の絨毯を睨んだ。そして考えた。 何が言いたいんだ、結局。 答えを出す前に、佐助が口を開いた。 「片倉、く、」 「だから」 それを遮り、小十郎は取り敢えず立ち上がった。 まったく何も考えていなかったけれども、取り敢えずはそうしなくてはまた佐助の言葉のせいで考える材料が増え る。結論が後回しになる。小十郎は取り敢えず立ち上がり、そして取り敢えず佐助の傍に寄り、取り敢えず顎を持 ち上げて佐助を見下した。できるだけ不貞不貞しく、傲慢に。佐助が呆気に取られたまま、しかしやや怯え気味に こちらを見上げる。それですこしだけ間ができた。 その間にまた小十郎は考えた。 つまり、何が、 つまり、 「おまえだけだと思うな」 つまり、と小十郎は思った。 つまりそれが不愉快で、つまりそれが気に入らない。 佐助が自分だけなんとなく解ったような顔をして、まあ君はしょうがないよねえそういう子だもんねえというよう な大人ぶった顔をして、それでそれに耐えるかわいそうな被害者のような態度を取る理不尽さに耐えられない。ま るで小十郎に振り回されているとでも言いたいような佐助が心底から腹立たしい。 出会ってからこの方、振り回されているのはずっと小十郎であるはずだ。 佐助が勝手に小十郎の生活に飛び込んできて、勝手に連れ回して、勝手に不機嫌になって有頂天になって、それに 小十郎はなんだかよく解らないままくるくると付き合わされて、つまり、 つまり、それで出会ってから今の今まで小十郎は佐助を追ってばかりいる。 あんまり不条理だ。 「阿呆が」 小十郎は吐き捨てた。 そして佐助のだらりと垂れた腕を取って、引き上げて立ち上がらせる。そしてぐいと佐助を引いたまま、リビング を出た。振り返って一睨みしてやってから、寝室は何処だ、と聞く。 佐助はしばらく黙ってから、階段を指さした。 「でも、なんでさ」 「行くからだ、寝室に。当たり前だろうが」 「だからなんで」 「おまえだけじゃねェ」 「は、」 佐助が手を引いた。 小十郎はすかさずそれを留め、目を細める。そして阿呆、とまた佐助を罵った。 「性欲くれェ俺にだってある。抱かせろと言ってるんだ、阿呆中年」 佐助が息を飲んで、それからすこし震えた。 吐き出した言葉が正確であったか、事態の改善に寄与するものであるか、それは小十郎にはまったく未知であった けれども、―――取り敢えず。 取り敢えず、小十郎はその佐助の様子に満足した。 それから、つまりこれでいいんだろう、と思った。 次 |