片倉小十郎は今までもそれなりに、新しい同居相手である猿飛佐助のことをよく知っているつもりだった。
ふたりはそれまでも極一般的な―――同性同士という根本的なことはともかくとして―――恋人同士であっ
たので、もちろんお互いに好意を持ち、その好意がそれなりの水準に達したからこそ、同意のもとに恋人と
いう関係になったのだ。そこには当然のように、相応の相手に対する知識があった。
けれども同じ家で暮らし始めて、小十郎はその認識を大幅に改める必要にかられていた。
つまり小十郎は佐助のことを知ってはいたが、それはまるでぜんぶではなかったのだ。
同じ家で暮らすことは、小十郎に今までとは比べものにならないほどの「猿飛佐助」という人間に関する情
報を供給した。それはときどき、―――より正確に言えばほとんどの場合において、需要に対して明らかに
過剰な供給だった。
世話焼きで年齢の割にしっかりしているように見える佐助が、実はふたりきりのときにはひどく甘えたがる
ことも、几帳面に見えて案外だらしのないことも、同じベッドに寝ていると何かに抱きつく癖があることも、
一緒に暮らすまで小十郎が想像してみたことすらない、新しい発見だった。
そういうものは毎日毎日、律儀に小十郎の中に降り積もっていった。
そして小十郎は佐助と暮らし始めてからちょうど一月後の日曜日の朝、共用の寝室からスーツケースと一緒
に佐助の前に姿を現わし、

「俺はこの家を出て行こうと思う」

と、世界の終わりを告げるような深刻な声で告げたのだった。

















                  や が て 死 に 至 る 幸 福


















日曜日の午前八時、佐助はソファに寝転がって、新聞を見ていた。
読んでいたのではなく、見ていた。佐助は安っぽい薄い紙に不必要に大量の字が散乱している様子を、ほん
とうに何の感慨もなく視界に収めていた。新聞には昨夜起きた殺人事件の記事が一面に取り上げられていた
が、佐助はそれとはほぼ百八十度ちがうことを考えながら、「殺」という字を確かに目に入れつつ、満足げ
な薄い笑みを浮かべていた。
傍から見れば不気味な光景であったけれども、幸いなことにリビングには佐助ひとりしか居ない。
リビングのドアの先からときどき物音がする。今日は珍しく寝坊をした小十郎が身支度でもしているんだろ
う、と佐助は思い、一層笑みを深くした。ころりとソファの上で寝返りをうつ。ソファのすぐそばにあるダ
イニングテーブルの椅子には、小十郎のスーツが無造作に投げ出されていた。
それは昨夜、小十郎が帰るなり佐助が彼のスーツを脱がしたからだ。
佐助はくふふと喉の奥に声をこもらせる。

―――ああ、昨夜も片倉の旦那はほんとうにかわいかった!

スーツを脱がしてからベッドに辿り着くまでの行程を思い出して、佐助は新聞紙を抱き締めた。
小十郎は佐助よりも二つ年上で、泣いている子供が彼を見たらそのまま気を失ってしまうような強面の、た
ぶん一般的な「かわいい」という形容詞からは山二つ分ほど遠い場所に居る男だ。でも佐助には世界の誰よ
りもかわいらしく見える。佐助がそう言うと、小十郎はいつもほんとうにいやそうな顔をして「目が腐って
んじゃねェか」、と佐助の目を覗き込んでくる。
そうやって顔が近付くと、佐助はいつも彼の薄い唇にキスをしたくなる。
佐助はだから、腐ってるなら腐ってるでまあいいんじゃないかなと思う。
仮に腐っていない新鮮な目と、自分の今の腐った目を取り替えることができるとしても、佐助はべつにこの
ままでいっこうに構わないと思う。たとえ腐っているにせよ、恋人を世界で一番かわいく見せてくれる二つ
の赤い目を、佐助はとても気に入っていた。
つまり佐助は小十郎に恋をしている。
そして小十郎は佐助の恋人なのだ。こんな幸福なことはない。
それだけでも十二分に幸福なのに、一月前、更なる幸福が佐助の元を訪れた。それまで佐助は親代わりであ
る武田信玄の元に、友人の真田幸村と一緒に居候をしていた。小十郎は親戚である伊達政宗と二人暮らしを
していた。佐助はずっとそれがいやでしかたがなかった。小十郎は佐助の恋人なのに、彼の朝一番最初の
「おはよう」も、夜一番最後の「おやすみ」も、佐助のものではないのだ。
そんなのってない。
小十郎が政宗のことを何より大事にしているのは佐助もよく知っている。
それに嫉妬しようとは思わない。たぶんそこに嫉妬し始めたら、片倉小十郎という生き物と付き合うことは
できないだろう。政宗はあまりにも小十郎の存在そのものに関わり過ぎていて、あとから来た佐助がそれを
崩すことなんて、もともとできるわけがないのだ。
だから佐助は、慎重にタイミングを見計らい、あるとき小十郎に言ってみた。

「ふたり一緒に暮せたらいいなって思うンだけど、それって俺様だけ?」

できるだけさり気なく、冗談みたいに聞こえるよう、言ったつもりだった。
でも実際に出した声は大分上擦っていて、どう聞いても本気にしか聞こえないようなものだった。だいたい
笑顔で言うつもりだったのに途中で顔はひきつってしまうし、ああもうこれは絶対に断られるなと佐助は口
に出したすぐ傍から後悔してしまった。
小十郎は、しばらく硬直していた。
佐助の言葉を理解するのに、彼はほぼ五分間必要とした。その五分は佐助にとって、アメーバが哺乳類に進
化する過程をまるまるなぞってもまだすこし時間が余るほどの、とてもとても長い時間に感じられた。
五分後、小十郎はゆっくりと口を開いた。
そして短く、

「思わないでもねェ」

とつぶやいた。
あんまり短かったので、佐助は始めそれが自分の問いに対する答えだとは思わなかった。
だいたい小十郎の顔がぜんぜんそんなことを言う顔ではなかった。いつものような仏頂面で、むしろいつも
より眉間のしわは深いくらいで、何か訃報でも告げるような顔で小十郎は佐助の問いに答えたのだ。だから
佐助は始め、言葉の内容よりも声の調子や小十郎の顔のほうが先に頭に入ってきてしまって、とても悲しい
気持ちになってしまったくらいだった。
でもその直後、佐助は小十郎のことを幸せのあまりぎゅっと抱き締めた。
それはいつもデートの最後に別れる駅の改札でのことだったので、公衆の面前で男に抱き締められた小十郎
は、当然のように佐助を殴り飛ばしたあとに地面に倒れた佐助の腹を蹴りつけて、駅の構内へと消えていっ
た。照れ隠しというにはあまりにも本気の拳だったけれども、佐助は幸せだったのであまり気にならなかった。
それからふたりで住むマンションを見つけて、引っ越してくるまでは二月もかからなかった。
思っていた通り、小十郎の「おはよう」と「おやすみ」は素晴らしかった。そしてこちらは想像し忘れてい
たのだけれども、一緒に暮らしているということは「いってらっしゃい」と「おかえり」もそこに付随して
くるのだ。佐助としてはそこにキスがついてくるともっと最高だったけれど、照れ屋の恋人にそこまで望む
のは急過ぎると思って、今のところは我慢している。もちろん、そのうちにぜひ取り入れたいとは思う。
ともあれ、佐助は幸せだった。
手を伸ばせばいつでも、小十郎に触れる。
名前を呼べば来てくれる。笑いかければすこし困ったように笑い返してくれる。お互いに忙しいからずっと
一緒に居られるわけではないけれども、たとえば今みたいに、彼が生活する音や気配がそこにあるだけで佐
助はミルクをたっぷり飲んだ後の赤ん坊みたいに満たされてしまう。
かちゃりと、ドアの開く音がした。
佐助は振り返った。そこには予期した通り、小十郎が立っていた。

「おはよう」

佐助はへらりと恋人に笑いかけ、ぴょんとソファから飛び上がって、小十郎のもとへ駆け寄った。小十郎は
朝から仏頂面をして、佐助を黙って見下ろしている。
佐助は小十郎の手を取って、しわの寄った眉間にキスをした。
くすぐったげに小十郎が首を竦める。佐助はくふふ、と笑いながら、小十郎の腰に手を回す。

「朝ご飯もう出来てるよ。食べる?」

小十郎は黙って首を振った。
佐助は不思議そうに首を傾げた。

「どうしたの。お腹空いてない?」
「猿飛」
「うん」
「話があるんだが」
「え、なあに。いいけど、―――ところで」

佐助は、小十郎が部屋に入ってきたときからずっと気になっていたものに目をやった。

「どうしたの。どっか行くの」

小十郎の左手には、巨大なスーツケースが握られている。
小十郎は佐助の言葉に、自分の左手を見下ろし、うん、とあいまいな声をもらした。佐助はすこし眉をひそ
める。口ごもる恋人、大きなスーツケース、長い沈黙。
どれも、あまりいい予感のするものではない。
佐助はおそるおそる、話ってなに、と問いかけた。

「あァ」

小十郎も、意を決したように頷く。
そして、

「俺はこの家を出て行こうと思う」

と言ったのだった。






























「はあ」

佐助はおかしな声を出して、目を丸めた。

「えっと、それ―――」

冗談?
首を傾げると、小十郎が首を振る。
途端、さあ、と急激に体温が下がるのを、佐助は自覚した。

「いやだ。絶対にいやだね」
「そう言われても困る。俺はもう決めた」
「ふざけンなよ。何言ってンの―――急過ぎるでしょう」

佐助は小十郎をきつく睨み付けた。
小十郎は困ったように眉をひそめ、さるとび、と言い聞かせるような声音で佐助の名前を呼んだ。佐助は
首を振って、髪を掻き上げ、小十郎から慌てて体を離す。
窓からは相変わらず日曜の馬鹿げてあざやかなひかりが差し込んでいたが、もうさっきまでの幸福感など
漂白剤に浸けたあとの染みみたいにすべて消え去ってしまった。佐助は乱暴にソファに腰を下ろすと、は
あ、と息を吐いて膝に肘を突いた。
小十郎はまだスーツケースを持ったまま突っ立っている。
佐助はちらりとそちらを見ると、苦く笑って、正面のソファへ手を差し伸べた。

「座って。まさかこのまま出て行くつもりでもないでしょう?説明くらいしてくれる?」

小十郎はすこしだけ躊躇したようだったけれども、促されるままに正面のソファに腰掛けた。
佐助はのろのろと顔を持ち上げた。真っ直ぐに背筋を伸ばして座っている小十郎をじっと見詰める。する
と、ああやっぱりすきだなあ、と何の脈絡もなく、染み入るように思う。
どこがというのではない。もうそこに居るだけで、とてもすきだ、と思う。
相手もそう思っているんだと、今の今まで疑ってもいなかった。
佐助は改めて大きな息を吐き、首を傾げた。

「―――俺の、どのあたりが駄目だったわけ?」

そう言うと、なぜか小十郎は驚いたように背筋を反らせた。
そして困ったように、「そういうんじゃねェ」と言う。佐助は不快げに唇の端を歪めた。

「そういうんじゃない?そういうんじゃなけりゃ、一体どういうのなんだよ」
「べつにおまえに不満があるだとか、そういう話じゃあねェんだ。猿飛」
「なに」
「落ち着け」
「ふん」

佐助は自分も背を伸ばし、ソファに寄りかかると足を組んだ。

「俺様は端から落ち着いてますよ。言っておくけどね、片倉の旦那。相手が俺でなけりゃ、あんたとっく
 に身ぐるみ剥がされて、もう一二回犯されてたッて不思議でもなんでもねえほど、酷いこと言ってるの
 自覚してる?よかったね、恋人がやさしくて。朝から別れ話なんて切り出されても、冷静に話を聞いて
 くれる恋人なんて、なかなか居るもんじゃないよ。もっとも、―――俺様だってそういう衝動を今必死
 に抑えてるところなんですがね」

ソファの背もたれをきつく握り締め、思い切り小十郎を睨み付けてやる。
小十郎は相変わらず何か困ったような顔をしてこちらを見ている。佐助はますます腹が立ってきた。そん
な顔をするなと怒鳴ってやろうかと思った。それとも、いっそほんとうに彼の着ているグレイのニットの
セーターを引き千切って床に押し倒してやろうか。ああでも、アレは誕生日に俺が買ってあげたやつだな
―――どうせ引き千切るなら、伊達の旦那からのプレゼントを引き千切りたい。
佐助は怒りで若干混濁した思考回路を掻き混ぜながら、首を振った。
小十郎が、さるとび、と佐助の名前を呼ぶ。

「何か勘違いしてねェか」

俺は別れるなんて言っちゃあいねェぞ。
佐助はしばらく黙り込んだあとに、「はあ」と呆けた声を出した。

「なに?」
「だから、べつに別れるとは言ってねェ」
「はあ、―――え、はあ?なにそれ、どういう意味?」
「だから」

小十郎はこどもに言い聞かせるような口調で、ゆっくりと言った。

「家を出て行く、とは言ったが」
「うん」
「別れるとは言ってねェ」
「―――うん?」

佐助はまた首を傾げた。
小十郎は言う。
家を出る。
でも別れない。
佐助は顔をぐにゃりと歪めた。

「それどういう意味?」
「どういうもこういうも、そういう意味だ。俺は政宗様の家に戻る。だが、おまえはここに住んでいれ
 ばいい。そのうち俺も―――戻るかもしれん」
「なんだそりゃあ!」

佐助は思わず身を乗り出して、素っ頓狂な声をあげた。

「そのうちってなんだよ、そのうちって。それどれくらいのことよ」
「そのうちはそのうちだ。解らん」
「はあ。そんな不確かなことで、俺に延々この部屋でひとりきりで暮らせってあんたは言うわけ?」

いくらなんでも勝手過ぎる!
佐助は仏頂面のまま舌打ちをした。小十郎は難しい顔をして黙り込んでいる。佐助は赤毛を掻き毟って
呻き声をあげながら、再びソファに沈み込んだ。














 







空天
2010/11/22

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