抱き締めて、抱き締め返してくれればいいのにと思う。

だらりと垂れ下がった腕を見下ろしたら泣きたくなったので、困った。




(こんなのが恋なものか愛なものか)









(でもひとりぼっちのあんたが痛くて仕様がないんだ)





















     透 明 な  蜘蛛の巣 6





















袷を解かれたところで、目の前の男の顔が歪んだ。
小十郎はそれを見上げて首を傾げる。どうした、と問うと体の上から猿飛佐助は退いた。

「あんた」

それは、と指さされた部分を見下ろす。
先の戦で負った真新しい傷が左の脇腹にざっくりと刻まれている。もちろん晒しで巻いてあるけれど、押し倒された拍子に緩んだのだ ろう、患部があらわになっていた。それを佐助はひどく痛々しげな――まるでおのれが負った傷だと言うような――顔で、黙ったまま 眺めている。
ぐい、と袷が強引に正された。

「・・・興が」

のらないな、と佐助は笑う。
小十郎は後ろにてのひらをついて、そうか、と頷いた。乱れた髪を掻き上げて、立ち上がる。男の興が乗らぬのなら仕様がない。戦の あとではあったが、それまでは呆れるほど頻繁に通ってきていた佐助が一月も訪れなかったからだろうか。
顔を見たら、軋む体とは裏腹に両の手は男を拒まなかった。
口づけられて目を閉じた。次に目を開いたら佐助はひどく複雑な顔をして、目を伏せていた。

(詰まらんなら来なけりゃァいい)

そう思う。
佐助はひどく詰まらなそうに小十郎を抱く。
それでも手練れた男の手は巧みで、小十郎の体はきちんと高められる。時によってはほとんどうんざりしているかのような顔をする佐 助に組み敷かれながら、小十郎は首を傾げながらもそれを受け入れる。佐助がどういう顔をしていようと、与えられる悦になんら変わ るものはなく目を閉じれば相手の顔などあっても無くとも。

なにも、変わらぬ。

短くはない生のなかでおそらくは人が得るよりは随分遅くに得ることになったその行為は、小十郎にとってその程度のものだった。 身支度をする小十郎を見上げながら、佐助ははあ、と息を吐いた。それに振り返ると、苦く笑いかけられる。

「帰るの」
「帰る」
「ちょっと、話していこうよ。どうせ朝まで帰らずともいいんだろう?」
「話す」
「そう」

頷く佐助に小十郎は首を傾げた。
なにを、と問うと佐助は困ったように首を振る。

「べつに、なにも」
「解らん奴だな」
「なにかなくッちゃ話しちゃいけないってこともないさ」

いっそ話さなくてもいいんだ。
佐助はそう言って小十郎の袴の裾を引いた。小十郎は赤毛のしのびの顔を見下ろす。しのびの顔はおさない。おのれよりはいくつか年 下だとは思うけれど、それでもそれほど離れてはいないであろう年かさの男とは思えぬ顔をしている。目は丸くて、唇は男にしては厚 い。笑いにそれが歪められると、小十郎にはその先にあるものが霞のように見えなくなる。
このしのびが、どうしておのれに拘るのか小十郎には欠片も理解できぬ。
抱かぬのなら、と思う。

(理由がない)

小十郎と佐助は、所詮他国の者同士である。
表だって敵同士ではないにせよ、何時そうなるか。すくなくともそれを決めるのは佐助ではなく、無論小十郎でもない。
明日戦場で殺し合っていても如何ほどの不思議もない。そういう相手である。体を重ねる。それには意味があるかどうかはわからぬが すくなくとも理由がある。おのれのような薹の立った、やわらかさも滑らかさも存在せぬ体を求める男の真意など知らぬ。が、それで もまだ、抱きに来たと言うのなら理解はできる。
話したい、と言われて小十郎は戸惑った。
話さずともいいと言われれば眉をひそめて黙るしかない。

「朝まで」

話すことなど何処にあると言うのか。
体も重ねず、この男と共に居ることに小十郎は理由を見つけることを躊躇った。
帯を締めて、胡座をかいた。佐助の顔はうっすらと笑みが張り付いている。

「なにを、するってんだ」
「なにもしなくたって、時なんぞ簡単に流れるよ」
「夜は寝るもんだぜ」
「じゃあ、寝るんでもいいよ」

すい、と手が伸びてきて、小十郎の右手に重なった。

「交ぐあわなくても一緒に寝ることはできるでしょう」

おのれの手に重なってきた男の手に小十郎は視線を落とす。
落としたまま、してどうする、と問う。視線を上げたが、佐助はやはり変わらぬ笑みを貼り付けていた。

「あんたにとっちゃ、それは意味がないことなんだろうけどねぇ」

困ったように言う。
おまえにとっては意味があるのか、と小十郎は言った。佐助は赤い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜながら、首を傾げる。阿呆くさいこと に、と言ってから佐助は首をかくんと落とした。
そして、そうみたいなんだよね、と言う。



「だから、俺もう此処に来んのやめるわ」



そう言う。
小十郎はそれを表情一つ変えず聞いた。
だから、という言葉の意味がよく掴めなかったけれど、それでも佐助の言いたいことはあまりにも明確でそれ以上小十郎がなにか言う べきことがあるとも思えなかった。そうか、としばらく黙りこくったあとに小十郎は頷く。
そうか、と言いながら小十郎は佐助がもう此処に来ないのだということをもう一度頭の中で繰り返し、

(そうだろう)

と、思った。
むしろ今まで来ていたことのほうが不可解で、

「気紛れは収まったか」

長い気紛れであったと思う。
佐助のような男にとって――否、他の誰にとってみても――小十郎はひどく滑稽であろう。
男の形をして、男の言葉を使い、男の世界で生きて、体を預ける相手すら得ずに此処まで来た。それを悔やもうと思ったことなど一度 だってないが、ひとから見ればきっと狂言芝居かなにかのように見えるのであろうと、それくらいの想像はつく。
それでいい、と思う。

ひとから見れば狂言であろうと、小十郎にとってはたったひとつの生き方だ。

佐助のような、世慣れた男にしてみればそれが滑稽で仕様がなかったのだろうと思う。楽しかったのだろう。三十路も間近にして男の ひとりも知らぬ女の体を意のままにするのが、武田のしのびの余暇のひとつとして丁度良かったのであろう、と。
そう思うのがいっとう小十郎の胸に、すとんと心地よく理由を投げかけてくる。
が、佐助はきまぐれ、という言葉を聞いて、すうと表情を退かせた。

「そんなんじゃねーよ」

最初はそうだったけど、と言う。
俺は、と身を乗り出して小十郎の肩を引き寄せる。小十郎は引き寄せられるに任せた。ひどく近くで、佐助の声が響いてくる。
ほんとはもうちょっと我慢するつもりだったんだけどな、と笑う男の肩越しに、外の風景が見えた。雪が降っている。弥生になっても 雪深い奥州では十日に一度は雪が降り、根雪は溶けることなく、新雪はそのうえにさらさらと白い衣を重ねていく。
奥州に桜が咲くのはいつになる、と佐助がささやいた。
卯月も半ばだろう。そう答えると佐助はそっか、と頷く。

「甲斐に」

一本だけ、弥生にもう花を付ける桜があるんだ。

「弥生に?」
「そう」
「嘘だろう」
「嘘なんてついてどうすんのさ」
「・・・弥生にか」
「しつこいおひとだ」

笑いながら佐助は小十郎を抱き締める腕の力を強めた。
息が止まりそうなほどに抱き締められながら、小十郎は黙ってそれを受け入れた。もうこの腕に抱き締められることもないのだと思う と、息苦しさが不思議とあまり気にならなかった。はあ、と息をひとつ吐く。

「それをあんたに見せたかったんだ」

弥生は半ばである。
まだなのか、と問うとそうだね、と佐助は言う。

「あと十日もすりゃあ、きっと花をつけるよ」

まだ他は蕾も堅い木々の中で、一本だけ花をつける桜。
なんだか滑稽だな、と小十郎は言った。ひとり急いて先走ってしまったような印象を受ける。佐助はくつくつと笑いながら、嗚呼あん たっておひとは本当にかなしいひとだねえ、としみじみと言った。一本だけ咲いてる桜はそりゃあ美しいんだよ。
すこし、あんたに似ているかもしれないな、と佐助は続けた。

「でも」
「ん」
「・・・もう、お別れだからねえ」

見れないね、と言う。
小十郎は肺が締め付けられる感触に耐えながら、そうだな、と言った。



目を閉じると、一本だけ咲き乱れる桜が瞼の裏に浮かんできた。
滑稽だ。やはり小十郎はそう思った。ふい、と体を締め付けていた腕が離れていく。

目を開けると、佐助はもう何処にも居なかった。






















甲斐はもう春である。
所々には冬がまだ居座っているけれど、風はなまぬるくて空の青が刷毛で塗りつぶしたように濃い。
佐助が武田信玄からの任務を終えて、上田城に戻ると主の真田幸村が城壁をよじ登って抜け出そうとしていた。佐助は首根っこを捕ま えてずるずるとそれを城内へと引きずっていく。
油断も隙もねえ、と佐助が息を吐くと、幸村が唇を尖らせて視線を落とした。

「何処行くつもりだったの」
「・・・裏の山でござる」
「なーんでまた」
「あの桜にもう花がついたと、女房が噂しておったのだ」

行ってはならぬか、と問われて佐助は困ったように笑った。

「なら堂々と護衛つけて行きなさいよ」
「護衛が居てはつまらん!」
「我が儘な若様だなあ」

じゃあ俺がついてくけどいい、と問う。
幸村は顔をぱあと輝かせて、何度か頷く。佐助はそれを苦々しく笑いながら眺めた。
山の天辺に、一本だけ桜がぽつねんと立っている。登り切ってそこに辿り着くと、幸村はそれに上りだした。気をつけなよと声をかけ て、佐助もその桜へと歩を進める。触ると、表皮のかさかさとした感触とほのかな温度がてのひらに残った。

「なんだか滑稽だな」

と、あの女は言ったなあと佐助は眼を細める。
佐助はこの桜がすきだ。一本だけで咲き誇って、群れもせずにとっとと散る。潔くっていい。佐助はこの世のいろんなものを、棄てる つもりで一向になにも棄てることができぬ男だから、ああいう姿が眩しくって仕様がない。
滑稽といえば、この桜もたしかに滑稽なのだろう。

「・・・俺は、すきだけどね」

木の上から、幸村がなにか言ったかと声を張り上げる。
佐助はそれを見上げて、なにも、と笑った。

器を抱くのは、空虚だった。

もう御免だと思った。それに間違いはない。後悔もない。
ひっそりと一本だけ根を張っている桜の木に寄りかかりながら佐助は地面を凝視した。木漏れ日がきらきらと零れて、大地の色がとこ ろどころ剥げ落ちた壁の塗料のように白く薄まっている。春なのだ、と思う。
見上げると薄桃色の花弁が枝の隅々まで溢れるように引っかかっていて、眩暈がする。

(奥州は)

佐助は目を閉じた。 きっとまだ、彼の地は雪に覆われているであろう。

ふい、と小十郎が瞼の裏に浮かんできて思わず佐助は目をきつく瞑った。

奥州の雪は、甲斐の雪とはまるでちがう。
硬くていつまでも残って、溶けることをまるで忘れてしまったような雪だ。まるであの女だ、と佐助は呟く。もう二度と奥州には行か ないと決めてまだ一月も経たない。あと半年もすれば忘れ得るのであろうか、と佐助は自嘲気味に眼を細めた。
気紛れで近づいて、気付いたら捕らわれて、捕らえたと思ったら手の中になにもないことが解って、それがあんまり苦しくて逃げ出し た。情けないことこの上ない。でもあれが限界だった、と思う。
今ならば認めることができる。目の前にあの女が居ない今ならば。





(おれは、あんたをだいじにしたいんだよ)





すきだ、というのはあんまり純粋なようでちがう気がする。
愛してる、と能動的に言うのもちがうような気がした。
欲しいのではない。手に入れるのは決して無理な女だ。だからこそこんなにも捕らわれているのだと佐助は知っている。伊達政宗にす べて献げている片倉小十郎が痛々しい。見ているだけで苦しいほどに、あれは滑稽で哀れでいとおしい生き物だ。だから捕らわれた。 愛して愛されて庇護されている生き物だったら、こんなに執着はしなかった。
佐助はずるずると木に寄りかかりながら、ひっそりとつぶやく。

「かたくら、こじゅうろう」

以前はちがう名であったのだろう。
女の名。佐助はそれを知らぬ。これからも知らぬままだろう。興味もない。
佐助にとって片倉小十郎は、男の形をして女の体をまるで塵のように投げ捨てる馬鹿な人間だ。男だ女だとそういう枠を小十郎に当 て嵌めようと思うのがそもそもの誤りで、きっとあれはそういう生き物なのだ、と思う。
おのれを与えることにばかり達者で、愛される対象としての自己を一欠片も理解しようとしない馬鹿な生き物だ。主を抱き締めるため にしかあの腕は存在せず、背中は主を守る為にのみそこにあり、声は主を救うために発せられ、その目は真っ直ぐに主だけを見つめる。 佐助はそういう小十郎がいとおしくって仕様がない。
大事にしたい、と思った。
慈しんで抱き締めて、やさしくしてやりたかった。

滑稽だ、と思う。

他人をそんなふうに思ったことはない。
女は悦を得るためにしか使ったことがない。
だからこの感情にどういう名を付ければいいのか佐助には解らぬ。ただ、小十郎が平気な顔で投げ捨てるもの全部を受け止めて、後生 大事に抱えてやりたいと思った。これだってあんたの一部なんだよ、と見せてやりたいと思った。腕は抱き締められたときに抱き締め 返すために、背中は誰かに預けるために、声は救いを求めるために、目はなにかに縋るために在ったっていいのだ、と。

「あーあ、ばっかみて」

終わったことだ。
抱き締め返してくる腕が無くとも、背中が重みを預けてこなくとも、唇が閉じたまま開かなくとも、目がおのれを向いていなくとも、 それでも佐助が小十郎をあいせればよかったのかもしれない。佐助は笑った。そんな聖人君子にはおのれはなれそうもない。せめて、 片倉小十郎をいとおしんでいるというその事実くらいは認めて欲しかったけれど、小十郎はそれすら見ようともしない。それではもう 無理だ。
誰か、とつぶやいた。

誰かあのあわれな生き物を救ってやってくれ、と佐助は呻いた。

佐助には出来なかった。
誰でもいい。佐助はあの生き物がいとおしい。いとおしいから他の誰かがあれに触れれば苦しいだろう。それでもおのれではできなか ったなにか、無償の愛とかそんなものを与える誰かが居るならもうそれでいい。伊達政宗の話を聞いた。あの男にどんな過去があろう とも、佐助には一切関心など起こらぬ。小十郎がたとえ望んでいなくとも、政宗にとってそれが禁忌でも、それでも体を重ねていれば 小十郎はあんなにかなしい生き物にはならなかった筈だ。
あんまり小十郎はひとりぼっちで、考えるだけで泣きたくなる。

もう一度だけ木を見上げた。




薄桃色の洪水に、佐助はあわれなあの生き物にも春が来るように、と。






















祈るように、ただ願った。










 




なんかだらだらと進まない話だなあ(書いてるのは誰だ)。
自分の書く佐助が弱くてなんかきらいです・・・もっとしのびはかっけーよとぎりぎりします。
あと旧暦だと二月くらい今の暦とは実質的な差が出るんですが、そこはスルー。
次でおしまいです。

空天

2007/04/08
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