恋 よ り 痛 い 愛 よ り 苦 し い 「もう仕舞いにせんか」 それは唐突な一言だった。すくなくとも、猿飛佐助にとっては。 佐助は目を瞬かせ、目の前で煙をくゆらせている男を凝視した。男はひどく詰まらなそうな顔をして いる。もっともそれは常とそんなに変わらぬことでもあった。佐助と対峙しているときの男の顔は、 仏頂面かそうでなければ怒りか呆れか、大抵は三つくらいにしか分類できない。 男の名は片倉小十郎という。 世に名高い、独眼龍の右目である。 「仕舞いってなあ、はあ―――何をだろう」 「これをだ」 「はあ、これ」 まるで解らない。 佐助はぱたぱたと団扇で自分に風を送りながら、困った顔でへらりと笑った。 奥州にも蝉はいる。もっとも今は随分おとなしく風流にかすかな声を響かせるのみである。辺りはま ったく夜に染まっていて、縁側に座った佐助と小十郎の間には蚊取り線香がじりじりと煙をあげては すこしずつその姿を窄めていっている。夏だなあ、と佐助はぼんやりと思った。 かん、と小十郎が煙管の灰を盆に落として、佐助はふと覚醒する。見ると小十郎は大層不機嫌な顔で こちらを睨み付けていた。 佐助は慌てて小十郎へ団扇を向けて風を送ってやった。 「ああ、ごめん。些っとぼうっとしてたわ」 「おまえは本当に、心底から腹の立つ野郎だ」 「そんなつれないことをお言いなさんな。遠路遙々来たンじゃない、あんたに会いにさ」 「おい」 「はあ、なんでしょう」 「先刻までのひとの話を聞いてなかったのか」 小十郎はうんざりと首を振った。 「聞いてたよ」 「それでどうしてそういう態度になるんだ」 「はあ、だってさ、よく解ンないんですけど」 仕舞いにせんか、と小十郎は言った。 でもそこには主語がない。目的語もない。おかげで何を「仕舞い」にするのか佐助にはまるでよく解 らない。そう言うと小十郎はますます顔をうんざりと歪めた。その顔はまず間違いなく、根っから佐 助を軽蔑しきっている顔でしかなかった。 佐助は思わずその顔に、うっとりと息を吐く。 嗚呼、相変わらずこのおひとの顔はまったく俺様の好みそのものだ。 「寄るな」 急に小十郎がぴしゃりと怒鳴った。 佐助が身を乗り出した分だけ、すっと横に移動する。 「なんだよ」 「顔がとんでもなく気色悪い」 「なんだよ、ひッでえな。俺様のこの愛らしい顔のどこが?」 「その悦に入った緩んだ顔が気色悪ィんだよ、阿呆が」 小十郎は心底から嫌悪を滲ませ、立ち上がり佐助を睨み付ける。佐助はそれで、ますます顔をゆるめ た。小十郎の顔が更に歪む。だって仕様がないじゃないと佐助は小十郎の着流しに指をつっかけて首 を傾げた。だって仕様がないじゃない、俺様あんたにまったく参ッちまってんだもの。 「好いたおひとと一緒に居りゃあ、閻魔様の顔も緩もうってもんだろう」 ねえ、と小十郎を見上げてへらりと笑う。 小十郎は黙ったまま佐助を見下ろしている。佐助はその沈黙に一旦笑いを引っ込めた。沈黙は大分長 い間続いた。それはあんまり長いので、途中で蚊取り線香はまるきりの灰になってしまった。体の回 りを飛び回るうっとうしい蚊の羽音を聞きながら、佐助はようやくすこし不安になってきた。 小十郎はまだ黙って、ただ佐助を睨んでいる。 佐助は怖ず怖ずと口を開いた。 「もっとも」 あんたは俺の事、お嫌いでしょうから、と笑ってやる。 小十郎の眉がちらりと寄った。まあ仕様がない、と佐助は首を竦める。彼は自分のことが嫌いなのだ。 そんなことは解り切っている。 小十郎はいつも佐助と居ると嫌な顔をするのだ。 「あんまり迷惑なようだったら、今日のところは帰りましょうか」 あんまりしつこくして、傍に居ることまで厭われてはいけない。 佐助は笑みを浮かべたまま立ち上がり、御免ね、と言って小十郎の肩に手を置いた。すぐに離そうと すると、そこをぐっと小十郎の手に引き留められた。 佐助は顔を上げた。 小十郎は忌々しげに唇を噛んでいる。 「今日のところは、じゃねェよ」 二度と来るな、この阿呆。 「そういう話を、先刻してたんだがな」 佐助はぼうと突っ立ったまま小十郎の顔を眺めた。 小十郎は佐助の手首を掴んだまま、ぐっと力を込める。鈍い痛みが手首に染み入り、痺れるようにて のひらが熱を持ち始める。佐助は今度はそちらに視線を落とした。小十郎の大きな手の甲には血管が 浮き出ていて、随分力を込めていることがよく見て取れた。 すっと背筋にあまやかな痺れが行く。 佐助は慌てて背筋を伸ばした。 ぜんぜんそんな場合じゃねえって、今は。 「―――何考えてやがる」 地を這うような声に、佐助は目を瞑った。 おんなじに思い切り腕を振り払われた。目を見開くと、小十郎はがしがしと乱暴に頭皮を掻き毟って いた。思わず手を伸ばそうとしたが、その前に小十郎が腰に据えていた小刀を引き抜いたのでその手 はとても中途半端な位置で止まることになってしまった。 小十郎はなんだか荒んだ目をして、佐助の鼻先に切っ先を突きつけている。 「出ていけ。二度と来るな」 繰り返して、深く息を吐く。 佐助はまったく事態が把握できないので、困ったように眉を下げて小十郎を見た。何か自分は彼を怒 らせるようなことをしただろうか、という困惑と、そんな場合ではないのに、という戸惑いが、二種 混ざってぐるぐる胸の下辺りで粘着いている。 小十郎が舌打ちをした。 佐助は髪を掻いて、首を傾げる。 「そんなに嫌われてたとは、思ってなかったな」 つぶやくと、小十郎がまた舌打ちをした。 「嫌ってねェよ」 と吐き捨てる。 佐助は目を瞬かせた。 「へ」 「嫌ってねェよ、阿呆か」 「へ、はあ―――え?」 「どうしようもねェ阿呆で呆けで間抜けで馬鹿だとは思っているが―――嫌っちゃいねェ」 「え、じゃあ」 「だから」 佐助の言葉を途中で断ち切って、小十郎は小刀を鞘に収める。 「だからもう仕舞いにしようってェんだ。おまえさんにはどうも、俺は付いていけねェ」 他を当たれ。 そう言って、小十郎は佐助を置いてぴしゃりと障子を閉めた。 残された佐助はしばらく突っ立っていたけれども、そのうちに脱力して縁側にへたりと座り込んだ。 月明かりにしらじらと自分の姿が照らし出されている。ふと視線を落とすと先刻まで小十郎に握られ ていた手首が目に入った。赤く鬱血している。随分強く握られたのだ。無理もない。 佐助はその鬱血の痕を眺めながら、またもや背筋におかしな震えがいくことを自覚しないわけにはい かなかった。慌てて首を振る。そして首を反らし、髪を掻く。 どうも今、自分は振られたようだ。 佐助は息を吐いた。 それは実際、なかなかの痛手だった。 「困ッちまうね、こいつは」 振られたこともだけれども、この状態が。 なんだか下腹の辺りがぐるぐると熱い。先刻刀を突きつけてきたときの小十郎の顔が瞼の裏から離れ ていかない。なんて顔をするおひとだろう。小十郎は凄い。殺気に他の何の感情も込めないで、ただ 純粋な殺気として成立させることができる希有な存在である。 思い出すだけで、と佐助は顔をゆるめて空を見上げた。 あの顔、あの声、あの殺気! 「嗚呼、なんだか俺様いっちゃいそう」 声を張り上げてみると、障子の向こうから槍が飛んできた。 そもそも佐助が小十郎と初めて会ったのは、戦場で、しかも敵同士としてだった。 主同士が一目互いを見ただけで互いを生涯の好敵手として認識するという、馬鹿げてはた迷惑で運命 的な成り行きによって、その後ろに居たふたりも幸か不幸か―――つまり佐助にとっては幸福で、小 十郎にとってはまったくの不幸である―――出会うことになった。 佐助は基本的には、主である真田幸村の意志を尊重することにしている。もっともその選択の大部分 には、どうせ止められっこないという諦めも含んでいるのだけれども、それにしても佐助は主が好き 勝手に戦場で駆けている姿を見るのはまったく嫌いではなかった。 小十郎はちがうようだった。 季節は春先で、雪解けの直後で、土が随分ぬかるんでいた。 おかげで戦場を駆けていた小十郎は泥塗れだった。その泥塗れの顔で、主同士の戦を見ている小十郎 はまるで阿修羅のようですらあった。佐助はなんだかあんまり真剣なその男があわれに思えた。結局 のところ舞台の中央に立てぬような者が、そんな飢えた目でそこを見つめるのは、滑稽でもあるし不 毛でもあるし、それになによりもの悲しい。 佐助はそのようなことを小十郎に伝えた。 「もう些っと、気ぃ抜いても罰は当たンねえでしょ」 へらりと笑うと、小十郎の視線が此方に向いた。 佐助はその視線に、瞬間的に背筋が凍り付くのを自覚した。小十郎はひどく静かな顔で佐助を睨んだ。 それは静かなだけ、底の見えないつめたさを此方へと寄越した。話しかけるな、とだけ小十郎は言っ てまた視線を主たちに向けた。佐助もまた主たちへと視線を戻した。 そして佐助は、小十郎に恋をしてしまった。 理屈なんてものはそこには一欠片も存在しない。 小十郎のその瞬間のつめたい顔が佐助は忘れられなくなった。これは恋だと自分で認めるまでに幾日 も時はいらなかった。だってこれは恋だ。明白過ぎるほどに恋でしかないじゃないか。そう考えると 矢も楯もいられず、佐助は奥州まで行って小十郎にそれを伝えないわけにはいかなかった。 ちょうどその頃は奥州では桜が咲いていた。 佐助は何とも詩的なことに、桜の下で小十郎に想いを告げたのである。 「ねえ、右目の旦那。俺様あんたに惚れちまったみたいなんだけど」 そう言うと小十郎はしばらく固まった後、唐突に左の拳で佐助のほおを殴りつけてきた。 それはもちろん避けようと思えばまったく難のない物であったけれども、佐助は敢えてそれを避けな かった。ふたりの間をひらひらと散っている花弁をぼんやりと眺めていた。かくしてめり込んだ小十 郎の拳と、それが寄越すどう鍛えても痛くないわけがない痛みに、佐助はそれでもうっとりと目を細 めたのである。 小十郎は殴られて恍惚としている佐助を、とんでもないものを見てしまったという後悔の混じった驚 愕の視線で見下ろした。 佐助はその視線にへらりと笑って返す。 「なんなんだ、おまえは」 「え、だからあんたに惚れちゃった」 「―――何故」 「ううん」 何故だろう。 理屈はないのだ。恋なのだから。ああでも、と佐助は殴られたほおを撫でながらまたへらりと笑った。 「俺様、どうもあんたにそういう目で見られるのが凄くすきみたい」 ひとをひととも思わないような、ひどい軽蔑と嫌悪の視線。 ぞくぞくする。殴る拳の容赦のなさもとんでもなく素敵だ。ひりつく痛みはどことなく性的な悦に通 じるものさえ感じられる。あんたのことがすき、と佐助はうっとりと小十郎の手を握って立ち上がっ た。小十郎は呆然としてただ突っ立って佐助を凝視していた。 後で聞いた話だけれども、小十郎は殴った拍子に佐助が変になったと思ったらしい。 でも佐助は幸か不幸か―――これもまた佐助にとっては前者であり小十郎にとっては後者である―― ―まったくの素面だった。あるいは誤作動は起こっていたかも知れない。でもそれは小十郎に視線を 向けられた瞬間からのものであり、佐助からしてみればその誤作動はまったく恋以外のなにものでも ありえなかった。嗚呼、なんて恋だ、と佐助はまた小十郎から手を振り払われたついでに殴られなが ら思った。さすが春だ。恋の季節だ。どこかの風来坊のようなことを考えながら、さすがに三発目は 頭がほんとうにおかしくなるので木の上に登って避けた。 小十郎は佐助を、害虫を見るような目で睨み上げた。 「いいねえ、それ。凄くそそる」 「死ね」 「たまンない」 佐助は薄紅色の花弁に囲まれながら、けらけらと笑い声をあげた。 「今後ともよろしく、右目の旦那」 佐助は笑いながら言い捨てて、その場を去った。 上田に向かう道すがらも、小十郎の苦虫を噛み潰したような顔がどうにも頭から離れないで、路上に 咲き誇る春の花々とも相まって、佐助の頭のなかは春一色に染まりきっていた。 次 |