「今日は、右目の旦那。お加減いかが?」 ひょいと天井からぶら下がって笑いかけると、思い切り顔に帯が叩き付けられた。 佐助はそれを片手で受け止め、蓑虫のようにぶらんと体を左に揺らし、今日は、と改めて告げる。舌打 ちと一緒に小十郎は佐助の手から帯を引ったくった。黒と灰の格子柄の帯がするりと手から落ちる。佐 助は頭の後ろに手を回して、相変わらずぶらぶらと左右に揺れながら着替え中であったらしい小十郎の 背中をじいと眺めた。藍染めの着流しに先程の帯が憎らしいほど映えている。 「よく似合うね、それ」 素直に褒めてみたのに何故かまた睨み付けられる。 何故朝からおまえの顔を見なけりゃならねェんだ胸くそ悪ィ。小十郎はそう言う。佐助は揺れながら視 線を表へやった。まだ日は昇りきっていない。それはそうだ。先刻までまるで夜だった。 上杉への偵察の帰りに、馴染みのくのいちと顔を会わせて、散々罵倒されたらどうしても小十郎に会い たくなったのでその足で奥州まで上ったのだ。 彼女は彼とよく似ている。 「頭だけじゃなくて目もいかれてんのか、おまえは」 着替え終えた小十郎が平らな声で佐助を罵った。 「そうかな。似てると思うンだけどね。あ、でも安心しておくれよ。かすがのこともすきだけどさ、俺 様今はあんた一筋だから」 「どけ。そして死ね」 「折角来たのに。なんでしたら、畑仕事のお手伝いでもしますか?」 「いらねェ」 小十郎は佐助を一瞥もせずに寝所を出て行った。 佐助は閉じられた障子を見て、けらけらと笑った。 当然と言えば余りにも当然の帰着点ではあるけれども、小十郎は佐助を見るとあからさまに嫌悪の感情 を表すようになった。元来感情を隠す質の男ではないようで、鉄仮面かと思った顔は存外ころころとよ く変わる。主と共に居るときなどははっとするような柔い笑みを浮かべることもすくなくない。 もっとも佐助の前では常に嫌悪の面だけが張り付いている。佐助はそれでまったく問題ない。何故なら ば佐助は、ただその面のためだけに小十郎に会いに来ているからである。 小十郎の顔は素敵だ。あんなに怖い顔はなかなか有り得ない。 しかもそれが佐助を前にすると、更にぐにゃりと恐ろしく歪むのだ。堪らない。 元々、すこし噛み付いてくるような面倒な女に惹かれる質があることは自覚していたけれども、まさか ここまで自分に嫌悪を示す相手に参ってしまうとは思わなかった。ましてや相手は男である。万に一つ も、想いは叶うまい―――まあいいや、と佐助は軽く考える。 まあいいや、そんなことはどうでも。 そういうわけで、どれだけ嫌悪を示され、何度手痛い―――文字通りに―――拒絶を受けても佐助は懲 りずに奥州へと通った。その間に小十郎が絆されるというようなことは、びっくりしてしまうくらいに 気配すら感じ取れなかった。 岩のように頑なな男である。 あるいは叩けば「コン」と音がするかもしれない。 佐助は密かにそう期待していた。ほんとうに岩で出来ていたらなんて素敵なんだろうかと、けれどもも ちろんそれは馬鹿げた期待で、小十郎はひとなので「コン」とは鳴らない。ざっくりと、刀であれば肌 が裂かれ槍であれば貫かれ拳であれば痕が残る。 なんとも残念なことだ。 「あらら」 見下ろす戦場では、小十郎が孤軍奮闘して死にそうになっていた。 武田信玄に命じられて伊達家の戦を偵察に来れば、選りに選って最初に小十郎を見つけてしまった。愛 の力かなあと考えながらしばらく木の上から眺めてみれば、どうやら主を逃がす為に囮になったらしい 小十郎が軽く見積もっても百の敵兵に囲まれている。佐助はほおづえを突いてそれを見下ろす。小十郎 は馬鹿げて強いので、そう心配することもなさそうだったけれども、刻一刻と彼の体が削られていくの はさすがに避けようがないことのようだった。 夏の草原での戦である。踏みつぶされた草の汁の匂いと血の臭みで、息苦しいような空気が一面に充満 している。死ぬかな、と佐助は相変わらず小十郎を見ながら思った。死ぬかな、死ぬかもな。だって馬 鹿だもんな、囮とか、何考えてンだって感じだもんな。 小十郎がここを保ち堪えれば伊達も堪えるだろうし、死ねばそれでおしまいだろう。武田としてはど ちらでも構わない。ただ佐助個人としては伊達に勝ってもらいたいと思わないでもなかった。伊達が敗 北して、それだけならともかく独眼龍が死んだとなれば、佐助の主が大層気を落とすことは想像に難く ないのである。死なないといいンだけど、と佐助は小十郎を見ながら思う。 佐助がぶらぶらと足を揺らしている間にも、小十郎は髪を振り乱して刀を振り回している。汗と敵兵の 返り血と泥とでひどい顔をしている。目が据わっている。据わっているとかの段階を超えているくらい だ。怖いとかそういう問題で収る顔じゃない。遠目でもすぐに彼と解る。あんなに恐ろしい顔の男はこ の世にひとりきりしか居ないだろうし、ふたりも居られたら堪ったものではない。 佐助は草と血の匂いに包まれながら、ふと目を細めた。 「―――なんか羨ましくなッてきちゃったなあ」 あの男の真正面に居る相手はどんな心地だろうか。 あの目で、あの顔で、あの殺気で挑まれたら心の臟もその場で止まりそうだ。 さすがに佐助もあそこまでの顔で睨まれたことはない。あれは戦場でなくては見れぬ面構えである。で はあの敵兵らは幸福だ。佐助も見たことのないような小十郎は、今ただ彼らの為にのみそこにある。 嗚呼なんて羨ましいンだろう。 佐助はそこまで考えて、ひょいと木から飛び降りた。 敵味方と混ぜこぜになっている塊に飛び込んで、小十郎の周りに居る敵兵をまとめて足を裂いてその場 に引き倒す。急に風がすっとその空いた空間を通って、小十郎が振り返った。 切れ長の目がぎょっと見開かれるのに、佐助は満足げに頷いた。 自分の背後に立つ敵兵を大振りの手裏剣でまとめて切り裂いてから、にこりと笑って手を振る。 「ご機嫌よう、右目の旦那。まだ生きてる?」 小十郎は目を細めて、荒いだ息を整えるように深く息を吐いた。 すかさず斬りかかってきた兵を鞘で殴りつけると、何しに来た、と掠れた声で此方へ問うてくる。佐助 はまだ生きていたらしい足下の兵に苦無を投げて止めを刺しながら、へらりと笑って首を竦める。 「ん、まあ、見学かな」 「なんだって?」 「あ、お気になさらず。俺様ただの通りすがりだから。ぜんぜん助太刀とかじゃないから」 助太刀と言えばこの堅苦しい男が承知するまい。 佐助は笑いながらひょいと敵の槍を避ける。その槍は当然、佐助の先に居た小十郎へと向けられた。小 十郎が舌打ち混じりでそれをいなし、槍兵を屠ると、佐助は飛び上がったままぱちぱちと手を叩いてや った。小十郎の太刀筋はまるで何かの教本のようだ。正し過ぎて見ていると笑える。 小十郎は佐助が自分のことをまるで気に掛けず槍を避けたことで、佐助を無視することに決めたようだ った。元々佐助も小十郎を助けるつもりは更々なかったので、好き勝手に敵兵を相手にしながら思う存 分おもいびとを見ることに専念した。 横顔がいいよなあ、いや右斜め下からも捨てがたいかなあ。迷うよなあ。どれも怖ぇもんなあ。 そのようなことを考えながら手裏剣を振り回していたら、案外あっさりと小十郎は死地を切り抜けてし まった。周りを見渡すと盛り上がった敵兵の死体で小山が幾つも出来ている。小十郎は返り血で陣羽織 が真っ赤に染まっていた。佐助は返り血を受けるような殺し方をしないので元のままである。 真っ赤な小十郎が、顔を上げて佐助を睨んだ。 佐助は思わず満面に笑みを浮かべる。 「お疲れ様。あんた戦してるときはまた、飛びッ切りに素敵だね」 面に象って、飾ッときたいくらい。 佐助が笑みを浮かべたままそう言うと、小十郎は足下の死体へ視線を落とした。そして目を閉じ、手を 翳す。はてと見てみるとどうやらそれは簡易の合掌である。敵兵の死を悼んでいるらしい。 佐助は血塗れでそんなことをする小十郎を、大層滑稽な男だとまじまじと眺めた。 身を乗り出して小十郎を見ていると、ふと切れ長の目が開かれて佐助に焦点を当てた。頭の上はうんざ りするような晴天で、夏がどこも覆い隠すことなく降りしきっているなかで、その薄く開かれた目だけ は奇妙に夜を刳り抜いたように底抜けな黒さをたたえている。 それに魅入っていたら、小十郎が佐助の髪をぐいと引っ掴んだ。 「え」 目を瞬かせる合間もなく、小十郎に唇を噛み付かれた。 薄い唇の乾いた感触がして、直後に深く重なって繋がった口から血の味がじんわりと広がる。すぐにそ れは引き離された。小十郎は仏頂面のまま地面に血の塊を吐き捨てて、舌打ちと一緒に佐助を死体の上 に放り出す。 「―――鉄臭ェ」 真っ青な空を背負っている小十郎の顔はとても暗く見えた。 佐助は日のひかりに目を細め、そらからぱちぱちと目を瞬かせ、最後にはへらりと顔を崩した。 「え、なになに、どうしたのいきなり。どういう心境の変化ですか?」 飛び上がって小十郎の肩に腕を乗せるとすかさず蹴りつけられた。 けれども先まで死にかけた足にはほとんど力は入っていない。佐助は蹴られた腰についた砂をさっと払 って、ふらふらと覚束ない足取りをしている小十郎の肩を抱いてやった。再び振り払おうとするも矢張 り力が入らないらしい男は、狼かなにかのように低く唸ってようよう為すがままになってくれる。右腕 がいやにどくどくと鳴るので、なにかと思って見てみれば弓か何かで貫かれて血が溢れていた。次いで 顔を見てみれば、褐色の肌が青ざめて土気色になっている。 死人みたいだと佐助は思った。 今はまだ死んでないだけであるように見える。 「なンだいあんた、死にそうだからって最後だけやさしくしてくれたってか?」 茶化しながら腕をきつく晒で括ってやると、阿呆か、と罵られた。 佐助はけらけらと笑って、そうだね確かにそれじゃ死にそうもない、と改めて小十郎を肩に背負う。 だらだらと額から汗と血と泥が混じった液体がこぼれている。何もかもがこの男から出尽くして、最後 には木乃伊になっちまうんじゃないかと佐助は慌てて小十郎を日陰まで運んでやった。そろそろ本軍が 援軍に駆けつけてくる。そうなっても、この場所ならばちゃんと見つけて貰える―――否、何処へ置い ていってもどうせ独眼龍が見つけるだろう。このふたりは、なんだかよく解らないけれどもそういう機 能が互いに備わっているのだ。 佐助は小十郎を大木の根元に座らせ、懐から薬嚢を取り出した。 にんまりと笑って、てのひらの上でそれを転がす。 「手当してあげましょうか?」 間髪入れず、いらねェ、と小十郎が唸った。 佐助は背を仰け反らせて、けらけらと大声で笑う。 「言うと思ったよ。でも死ぬんじゃねえの、あんた。このままだと」 そうなると困る。 死んだら小十郎は、あの目で佐助を見てくれなくなるのだ。 しゃがみ込んで顔を覗き込むと、敵のしのびに借りは作らねェ、と小十郎は更に唸る。佐助は呆れた。 「はあ、今までのは借りじゃないと仰いますか」 「―――そりゃ、」 返しただろうが、と掠れた声で小十郎が答えた。 佐助は目を真ん丸く丸めた。借りを返した―――はて? しばらく半分死体になりかけている小十郎を前にして考えていたら、急に先刻接吻されたことに思い当 たった。佐助は口を半分ほど開けて、小十郎を凝視する。土気色の男の顔は先刻とまるで変わっていな い。多分死なないだろう。打たれ慣れているらしい。 佐助は弾かれたように笑った。 「なんだそりゃあ」 借りを返すつもりだったわけ、あれって? 佐助は眦に浮かんだ涙を拭いながら、薬嚢の蓋を開けた。 「そりゃあ、もう面白過ぎンでしょ。どんだけ俺様の好みなの、右目の旦那ッたら」 陣羽織を脱がせて、肩を露わにして傷口に薬をすり込む。 小十郎はそれでもいらねェと煩い。佐助はくふふ、と口のなかで笑みを転がしながら、これも先刻の接 吻のうちにいれてもいいよ、と手早く晒を巻いて血止めをしてやった。舌打ちが返ってくる。 折角ここまでしてやって返ってくるのが舌打ちと罵倒だ。佐助は堪え切れない笑みを満面に湛えて、水 の入った竹筒を渡してやった。 小十郎はほんとうに嫌そうに顔を歪めて、それでもそれを引ったくる。 小十郎が水を飲むのを眺めながら、佐助はへらりと笑って謡うように言った。 「元気になってね、右目の旦那。傍で見てるのもいいけど、矢っ張り俺様直接睨まれるほうがすき」 思わず敵兵に嫉妬しちまったよと言うと頭の上から水が掛けられた。 ちょうど日のひかりで髪が熱を持っていたところだったので、それはとても心地よかった。ありがとう と言ったら小十郎がとんでもなく歪んだ顔をしたので佐助はまたけらけらと笑った。 次 |