随分長い間佐助は奥州へ行くことが適わなかった。 武田のほうでも幾つかの小競り合いめいた戦があった。大した戦ではなかったけれども、どちらかと いえば後処理のほうに佐助は時を割かれることになった。小競り合いの戦の首謀者を始末し、素知ら ぬ顔をして傍観者の振りをしている内通者を炙り出した。もちろん愉しい仕事ではない。心も躍らな ければ笑みが零れることもない。でもこの上なく心休まる。単調で決められた順序を正確にこなして いくというのは素晴らしいことだ。なんだか自分が巨大な絡繰りの中のひとつの歯車になって、くる くる回っているようでとても素敵だと思う。くるくる。がらがら。 歯車になっている間、佐助は小十郎のことを一度も思い出さなかった。 そんな暇はない。恋だのなんだの言っていられるのは相応の余裕があってこそである。佐助は心ゆく まで「武田」という絡繰りのうちの凡庸だが有能な歯車としてくるくると働いた。何度か刃毀れもし たけれども、そんなものは直ぐに癒えてしまう。佐助は誰よりも有能な歯車であるおのれを、こっそ りと何よりも誇りにしているのである。 ともあれ。 佐助は一年、奥州へ行かなかった。 一年後、それにはたと佐助は気付いた。 ようよう国も落ち着いて、幸村が下らない任務を―――稽古に付き合えだの山に一緒に登れだのどこ ぞの甘味処での限定品を買って来いだの―――言いつけてきた頃である。また冬が来ようとしていた。 紅葉は地面に落ちて堆肥になり、丸裸になった木々は寒々しく枝音を響かせ、稲穂は刈られておそろ しく田地は平らになった。 春は南から来るが冬は北から来る。 冬の訪れを空模様の流れで眺めていた佐助はふと、その北のことを考えた。そうしてようやく小十郎 のことを思い出した。冬によく似た、冬そのものといってもいいような厳めしい男の顔は唐突に瞼の 裏に現われて、途端佐助は居ても立ってもいられないほどその男に会いたくなってしまった。戦場で の、なんとも情緒のない「性欲処理」の夜が彼と会った最後だ。 決まり切ったような小十郎の罵倒が聞きたいと佐助は思った。幸い幸村の命じる些事を除けば暇だっ たので会いに行くことにした。辿り着いた奥州はすでに雪に埋もれていた。 まっしろい雪で飾られた武家屋敷を訪れてみたが、小十郎はそこには居なかった。 城かと米沢城に向かってみたがそこにも姿はない。それどころか伊達政宗の姿すらなかった。はてと 首を傾げつつしばらく城内を探っていたら、どうやら政宗はお忍びで城下の廓へ赴いているらしいと いうことが知れた。なんとも良いご身分だと佐助は呆れた。 しかしならば小十郎もそこに居るだろう。 片倉小十郎が廓。 佐助はその不釣り合いさにすこしだけ笑った。 廓は城下のなかでもいっとう大きく、出ればすぐにその場所は知れた。 灯りの煌々とした出窓に降り立ち、障子越しに中を窺うとひとの気配はひとつしかない。廓の座敷に ひとりきりというのも面妖だと思ったけれども、佐助は忍んで天井から覗いてみた。すると矢張りそ こにはひとりきり、男が無意味に綺羅びやかな座敷の中で手持ち無沙汰に三味線などを弄っている。 男は片倉小十郎だった。 佐助は迷わず天板を外して、彼の前に降り立った。 「お久しぶり、右目の旦那」 へらりと笑って三味線の胴に当てられていた大きな手の甲に、自分のてのひらを重ねる。 小十郎は余り驚かなかったらしい。一年ぶりに見た彼の最初の動作は佐助の手を鬱陶しげに払っただ けだった。そして肩にかかっていた派手な打掛を掛け直し、三味線を壁に立て掛けた。打掛は紅色で、 絹だろう、てらてらと滑らかなひかりを宵闇のなかでもまき散らしている。女物のようだった。遊び 女のもののようだったけれども座敷には小十郎しか居ない。 佐助は辺りに視線をやると、問うより前に小十郎が口を開いた。 「政宗様なら、隣だ」 顎で閉じられた襖を示す。 はあ、と佐助は呆れて息を吐いた。 「お隣で主殿がお楽しみの間に、あんたはこんなところでひとり何してンのさ」 「見張りだ。両方潰れちまうわけにはいくまい」 「の、割には横からはなんも聞こえないけど」 「先刻済んだ。もうお休みになられている」 「はあ」 佐助は益々呆れた。 小十郎は顔色ひとつ変えない。横から主と遊び女のまぐあいを聞いているときもこんな顔をしていた のだろうか。だったらなんて滑稽なんだろう。佐助は思わず声に出して笑ってしまった。 あはははは、あんた矢っ張り、おかしなおひとだねえ。 「そこまですることないと思うンだけど、あんたほどのおひとが」 他にも小者は居るだろうし、なによりそう簡単に死ぬような男ではないのだ、伊達政宗は。 だというのに小十郎はひとり廓で、女も抱かず酒も飲まず、仏頂面で主の情交を横で逐一聞き遂げて いる。佐助は腹を抱えて笑った。小十郎が黙ったまま、三味線の撥で佐助の顎を持ち上げた。そして 一言掠れたちいさな声で、黙れ、と言った。 佐助は笑みを引っ込めた。 「政宗様が起きるだろうが」 「―――こいつはどうも、申し訳ねえ」 佐助は両手を挙げて肩を竦めた。 小十郎は撥を縦に返してすっと手前へ引いた。おかげて佐助の顎の皮膚が切れた。かすかな痛みと、 血の滲む感触が残る。佐助は指で傷をなぞってみた。矢張りそこには赤が滲んでいた。 小十郎は火鉢を自分のほうへ引き寄せ、炭を鉄棒でつまらなそうに掻き混ぜている。 「切れたよ」 と、佐助は血の付いた指の腹を小十郎の鼻先に突きつけた。 小十郎はそれを見もしないで、ああそうかい、とだけ言った。佐助は仕様がないのでぶらんと手を自 分のほうへ戻して、ぺろりと血を舌で舐め取った。 座敷は静かだった。廓全体がしんと静まっている。他に客は居ないようだ。おそらくは貸し切りなの だろうと佐助はなんとなく思った。豪毅なことだ。佐助は貸し切りどころか、こんなに大層な廓その ものすら縁がない。佐助が抱くのは精々夜鷹か、良くても場末の散茶である。そうでなければくのい ちだ。どちらも何もない。裸になって熱を高めて出して抜くだけである。 正しく「性欲処理」そのものだ。 そういえば小十郎はほんとうに、遊び女を抱いていないのだろうか。 佐助は視線を改めて小十郎へやった。 「右目の旦那」 名を呼ぶけれども応えはない。 どうも先刻から、常より更に待遇が悪い。 なんでだろうと佐助は首を傾げた。随分、気易くなっていたつもりだった。それとも一年経って彼は 自分を忘れたのだろうか。成程それはあり得る話だった。小十郎にとっての佐助など、路傍の石にも なお劣るほどの些事でしかないのだろう。佐助は胡座を掻いてゆらゆらと体を前後に揺らしながら、 ねえ俺様のこともう忘れちゃったの、と取り敢えず小十郎に問うた。 小十郎の顔が気怠げに持ち上がる。 久方ぶりに見る夜色の目に、佐助は知らず背筋を伸ばした。 「なんだって?」 小十郎は面倒臭そうに唸った。 佐助は唇を尖らせ、だってあんたぜんぜんこっち見ないじゃないか、と眉を寄せた。 「折角雪掻き分けてここまで来たってのに、甲斐もねえ」 「よく言うぜ」 小十郎は鼻で笑った。 火鉢がぱちりと音を鳴らす。解れた髪を掻き上げながら、小十郎は熱された鉄棒を佐助の鼻先に突き つけた。 「一年音沙汰もなかった野郎が何ほざこうが聞く気は更ッ々ねェんだよ」 死ね。 小十郎は吐き捨てて、乱暴に鉄棒を灰に突っ込んだ。 佐助は目を丸め、ぱちぱちと幾度か瞬かせた。小十郎は口元を歪めて畳の藺草を睨み付けている。藺 草に親を殺されたんじゃないかと思う程の眼突きである。もしそんな過去が彼にあったとしたら凄く 可哀想だなと佐助は思った。例え他の何に殺されたとしても親の敵が藺草というのは、あんまりだ。 まだ薄のほうがいいんじゃないだろうかと佐助は思った。すくなくとも情緒がある。 小十郎はまた打掛を肩に掛け直した。 なんだか寒そうだ。 「え、と」 佐助はほおを掻いた。 「あの、右目の旦那」 「なんだ」 「なんか、ごめんね?」 体を屈めて小十郎の顔を下から覗き込む。 今度は小十郎が目を丸めた。至近距離でのその顔は相当に間が抜けていたので佐助はちらりと笑みを 浮かべてしまった。途端に小十郎が目元を不快に染めた。 なんだって、と低い声が唸る。 「え、だから、一年なんにも言わずに来なくなって、ごめんね」 佐助は反対側に首を傾げて言った。 小十郎は狼みたいに唸っている。折角謝ったのにまだ怒りは解けないようだ。けれども佐助は小十郎 がいつものように自分を睨んでくれたので取り敢えず満足することにした。 相変わらず彼の目は素敵だ。 それに紅色の打掛もとても似合う。 佐助はじんわりと腹の底に熱い物が溜まっていく感触に、うっとりと笑みを浮かべた。 相変わらず唸っている小十郎の胸元に、体を傾がせ額を押しつける。小十郎は鬱陶しそうに髪を引い てどけと言う。佐助はうふふと笑いながら額をそのまま胸もとでぐりぐりと擦り付けた。打掛からす る白粉のにおいと、小十郎の体のにおいが混じり合ってくらりと脳髄が揺さぶられるようだ。 「右目の旦那」 「なんだ、阿呆。どけ。気色悪い」 「右目の旦那、右目の旦那、ねえ、些っと聞いておくれ」 佐助は顔を上げた。 小十郎と目が合ったところで、へらりと笑う。 「会いたかったよ。あんたが此処に居るのが、なんだか夢みたいだ」 怒鳴りかけていたらしい小十郎の口が、かすかに開いた形のまま固まった。 佐助は不思議そうに、半端に開いた薄い唇を眺めた。小十郎はしばらくしてから額にてのひらを押し つけた。舌打ちをして、眉を寄せる。それから再び佐助に目を合わせる。 そして、先刻撥で裂いた顎に指を這わせた。 ちくりと鈍い痛みが走る。どうやら血は喉元に流れていらしく、小十郎がそれをなぞってのど仏まで 指を這わせた。すっと痺れるような感触が背筋に伝う。佐助はなんだかよく解らなくなって、無意識 に体を小十郎から引こうとした。 けれどもそれは適わなかった。 小十郎は佐助の腕を取って強く引き寄せた。 佐助は息を飲んだ。小十郎がおそろしく近い。目は一瞬だけ合ってすぐに逸れた。次いでぬるりとな まぬるい感触がして、佐助は思わず体を震わせた。 小十郎が体を屈め、佐助の顎を舐めている。 「鉄臭ェ」 いつかにも聞いた覚えのある言葉が聞こえて、なまぬるい感触は離れた。 どんと胸を押されて突き飛ばされる。佐助はそこでようよう覚醒した。小十郎はなんとも言い難い目 で佐助を見下ろしている。夜色の目からはどんないろも特に伺えない。 佐助は顎を手の甲で拭った。血は付かない。代わりに唾液で手の甲が濡れた。 佐助は其れを見下ろしてから顔を上げ、眉を寄せた。 「え、なに今の。きもちわるいンだけど」 そしてそう言った。 「帰って頭冷やせ。呆け」 と追い出された。 なんでだろうと佐助は雪の降りしきる空を見上げ、廓の屋根の上で首を傾げる。 もちろん追い出された由は解る。けれども小十郎は佐助を怒鳴らなかったし殴らなかった。外気のつ めたさも相まってなんだかとてもさみしい。矢張り小十郎と会ったなら一度くらい何処かを殴られな ければ会ったという実感が沸かない。 なんで殴らなかったのかな? 佐助は屋根の下に居る小十郎のことを考えた。 先刻の小十郎はなんだか、ひとが変わってしまったようだった。 小十郎は佐助の言葉を聞くと、しばらくほうけたように黙り込んでから、唐突に肩を揺らして笑い出 した。それはとても愉しそうの笑い声だった。自分の今の言葉はそんなに面白かったかなと佐助は不 思議に思いつつ、滅多に見ない小十郎の笑顔にしばし魅入った。低い笑い声は骨を鷲掴みにするよう に体の奥に響いた。それでいてその声は控えめなものだった。隣の主を気遣ってのものだということ は考えなくとも解ることだった。その明白な事実はますます佐助をその声によって高揚させた。この 男は産まれながらの歯車のようだと思った。なんて正確に、「主の為」に回るのだろう。 からからと回る美麗なこの歯車に、巻き込まれることができたらそれは至上の幸福にちがいない。 佐助はふらふらと小十郎に手を伸ばした。 その手は届く前に小十郎によって掴まれた。 「なァ、おい」 愉しげに笑みを浮かべたまま、小十郎は首を傾げた。 「おまえは俺を、舐めてんのか?」 佐助は眉根を寄せた。 小十郎は笑みを浮かべたまま、佐助の腕を掴んでいる。特に力は込められていない。解こうとすれば いつでも解ける程度の力である。それが逆に不気味だった。 佐助はなんだか無性に逃げ出したくなった。 しかしそうもいかないので、反対に笑みを貼り付けて小十郎に笑いかけてやった。 「どうしてそんなことを?」 「うん、どうもそうとしか思えねェからよ」 「そんな馬鹿な。俺様はあんたに惚れてンだよ。何度も言ってンじゃない」 「そうだな」 小十郎は笑みを深くした。 佐助はじりじりと腰を引いた。 「何遍も聞いたが、聞けば聞くほど嘘臭ェ」 「そりゃ、―――ひどい仰り様だ」 佐助は無理矢理に笑った。 俺はあんたのことがすきだよと佐助は言った。なんだか言わないでは済まされないような雰囲気であ る。小十郎の手には相変わらず力は籠っていない。代わりにつめたい皮膚の感触だけが手首にまとわ りついている。佐助はそれがいやに恐ろしかった。いつものように骨が軋む程に握り潰されたいとい うのに小十郎はただ手を添えるだけである。 小十郎は黙って佐助を眺めている。 佐助は居たたまれず、へらりと笑った。 「もしかして信じてくれないの?」 「あァ」 「酷いな、あ」 「そうか」 「なんでだろうね?」 「なんでだろうな?」 小十郎はくつくつと喉を鳴らす。 それから目を細め、なんだかいやに陽気な声音で、なァ、と佐助に呼びかけた。 「おまえさんは、一体俺の何に惚れたとぬかす」 佐助は半ばは体を引きながら、小十郎の言葉に眉を寄せた。 逃げようと思えばいつでも逃げられる程度の拘束が、逆にそこから逃げることを異様に躊躇わせる。 そうだなあと佐助は戯けた声を出して態とらしく首を傾げた。そんなことは実際、考えなくとも佐助 には解り切っている。 佐助は小十郎に媚びるように笑いかけた。 「俺はあんたの、殺気がすきだよ」 「殺気」 「そう」 小十郎の殺気は純粋だ。 喜怒哀楽の何も滲まない。ただ相手を殺す為だけの殺気である。混じり気のないそれは正に理想だ。 そう言うと小十郎は面倒臭そうに顔を歪めた。おまえは俺に殺されたいのかと言う。佐助は迷わずに 首を振った。死ぬのは御免だ。佐助もそこまで変態じゃない。 詰まるところ、と佐助は改めて考えた。 詰まるところ、佐助は小十郎の目がすきなのだ。殺気の滲む、あの平等な目がすきだ。 「あんたに見られてると、なんていうのかな―――他の殺される奴らとまったくおんなじに扱われて る感じがするんだよね。あんたはほら、農民でも、武将でも、誰でもさ。殺すときはとっとと殺す し、でも殺した後にはちゃあんと黙祷してくれるだろう。そこがさ、なんかいいなと思って。あん たの前に居ると、なんだか道端に転がってる虫の死体みたいな気分になれンのよ」 喋っていたらなんだかうっとりしてきてしまった。 佐助はやっと自然に浮かぶようになった笑みを見せて、更に言葉を繋げた。 「それに主殿の為に馬鹿みたいになってるあんたもすきだよ。あんまり一生懸命だから、馬鹿みたい だけど馬鹿にできなくって、端から見てると正直可哀想だけどそのくせあんたはぜんぜん平気そう なのが、なんかすき」 「ふうん」 小十郎は自分で問うたくせに、詰まらなそうに鼻を鳴らした。 詰まらないどころか何処か不機嫌そうにも見える。貶されたような気がすると小十郎はその顔のまま つぶやいた。佐助はびっくりした。もちろん佐助は小十郎を褒めたのだ。佐助は慌てて弁明したけれ ども、あんまり伝わらなかったようで、小十郎は矢張り詰まらなそうな顔で佐助を見ている。 もっとも佐助は小十郎の機嫌のいい顔なんてものは、出会ってからこの方一度も見たことがない。 「まァ、もう、おまえの言う事はどうでもいい」 「聞いといてそりゃねえよ」 「どうでもいい」 「はあ」 「おい」 小十郎はぐいと腕を引いた。 佐助の体はぐらりと傾いで、胡座をかいている小十郎の膝に手を突く形になる。 「虫の死体だったか?」 体を屈めた小十郎が耳に声を注ぐ。 佐助は思わず首を竦めた。小十郎が笑った。笑い声が鼓膜を揺らす。佐助は亀のようになった。いつ も聞いているより数段甘ったるい声が、体の芯を通って足の指先まで浸透する。小十郎はその声のま ま、巫山戯るなよ、と言った。 まるで詠うような調子だった。 「俺は虫の死体と接吻するほど物好きじゃねェ」 佐助は首を曲げて小十郎を見た。 小十郎はもう笑っていなかった。肩を押される。小十郎は立ち上がって、窓まで歩いて障子を開いた。 そして「帰れ」と言った。 帰って頭冷やせ、呆け。 「まだ来るつもりがあるなら、そのつもりで来い」 でなけりゃもう来るな。 開け放たれた障子の先からは雪が座敷へと降り積もる。小十郎は打掛を握っている。寒いのだ。佐助 は仕様がないのでそこから外へ出た。出た途端に障子は閉まった。 そして一刻ほど、屋根の上で佐助は頭を抱えている。 小十郎はどうしたのだろうか、またおかしな物でも食べたのだろうか。調子がひどく狂ってしまった。 ほんとうはもっと、沢山喋るつもりだった。いつものように小気味良い彼の罵倒の文句が聞きたかっ た。怒って目尻を赤くする小十郎が見たかった。小十郎は怒っているように見えた。笑い声は笑って いるくせに、殊更に低かったのだ。あれは確実に怒っていた。 なのに手も足も小十郎は出さない。 ただゆるい拘束で、佐助の腕を握っただけだ。 「なんだったんだ、あれ」 佐助は頭に積もった雪を払って、ほう、と息を吐く。 考えれば考えるほどよく解らなくなっていく。吐いた息はしろく残ってそのうちに曇天へと消えた。 佐助はそれを眺めながら、のろのろと立ち上がって軽く伸びをした。首の骨を幾度か鳴らし、うん、 と頷いてから廓の屋根から隣の屋根へと飛び移る。鴉を呼んで、もう一度頷く。 まあ、仕様がないよね、とつぶやく。 「解ンねえもんは、解ンねえんだしな」 佐助は取り敢えず、深く考えるのを放棄することにした。 深く考えると先刻耳元で小十郎がつぶやいたときの震えの意味まで考えなくてはいけない。 小十郎は腹でも下していたのだ。もしくは主の情交を横で聞いていて機嫌がいつもより悪かったのだ。 ああもしかしたら興奮していたのかもしれない。それで、佐助を「性欲処理」に使いたかったのかも しれない。だとしたら佐助はそれを察するべきだったのだ。それは佐助が悪かったのだ。つまり。 つまり、と佐助は甲斐へ戻りながら考えた。 つまり次に会ったとき、きっと小十郎は以前通りの小十郎である。 佐助は空を漂いながら、鴉に「次は右目の旦那のおなかが壊れてないといいね」と話しかけた。 次 |